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第四章 秀吉、激怒す
返り忠と裏切りと
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5
翌朝、聚楽第――。
秀吉は朝餉を摂っていた。
多数のかしずきの者たちが、せわしなく立ち動き、秀吉の朝餉の助力をする。
そこへ血相を変えて茶々がやってきた。
「藤吉郎! 半介たちを牢に入れたと聞いたわよ。いますぐふたりを出しなさい!」
秀吉は小うるさい蠅が来たぐらいな冷めた視線を茶々に与え、
「茶々どの、その話は誰から聞きやった」
と問うた。
茶々は、鼻息も荒く、
「そんなことはどうでもいいわ! 早く半介たちを自由の身にしなさい!」
秀吉はうっとうしいとばかり頭を振って、
「どうせ、佐吉から聞いたのであろう。あのお喋りが……」
「三成などどうでもいいでしょう! 早くふたりを――」
「茶々どの。本当に半介たちのことを思うならば、もう柴田権六のことを嗅ぎまわることをやめさせよ。いいな?」
「いや、と言ったら?」
「あのふたりに腹を切らせる」
茶々は瞑目した。
「…………」
ややあって、
「判ったわ。もう柴田の義父のことは調べさせないから、牢から出しなさい」
秀吉はそれには返事をせず、湯漬けを掻き込んだ。
茶々は秀吉の態度にいらだって、
「ねぇ、聞いているの? どうなの?」
秀吉はじろりと茶々を見、
「尼崎まで迎えに行かれよ。茶々どのが直々に迎えられるならば、中島靱負も牢を開けよう」
「ちょっとたぶらかさないでよ。あなたの許可が無ければ、中島とて牢から出すもんですか!」
秀吉は、ふっ、と笑って、
「茶々どの、智恵をつけられましたな」
言って、ポンポンと手を叩き、
「この場に筆と紙をもて」
と言うと、もう準備がしてあったか、というほど早く、小姓が筆などの諸道具を秀吉の面前に広げた。
「ここに、半介たちの免状を書いてやる。これをもって大物城に向かわれよ」
茶々とお付きの者たちは、免状を手に駕籠に乗って尼崎に向かった。
その茶々たちが聚楽第を出るのを、城の望楼から眺めて見送る秀吉であった。
「今さら遅いと言うに……」
ひとり秀吉はつぶやいた。
籠が通りを曲がり姿を消すと、秀吉も望楼から立ち去ろうとした。
すると、秀吉は背後に人の気配を感じ、はっとした。
「何奴か?」
「失礼つかまつりまする」
秀吉が誰何すると、かれの背後に女の声がした。
「何奴か、と訊いておる」
言いつつ秀吉は自身の背後をふり返る。
そこには、平伏する忍び装束のおんなが控えていた。
「くノ一か? 名はなんと申すか?」
「風のかすみと申します」
秀吉はようやく合点がいったという表情を作った。
「そうか。そちがうわさのくノ一か。――で、そのかすみがわしに何用じゃ」
「わたしは〝とあるお方〟に飼われておる忍びでございます。しかし、その主人の行動に疑いを持ち、いま、殿下にあるじの不行状を述べに参ったのでございます」
「ふむ……」
秀吉はけわしい表情をしている。口をへの字にまげ、口先をとがらせている。
「おぬしは主人に返り忠するというか」
「この世は殿下の天下にございます。わが主人のわがままで、殿下の世を乱すことを、このかすみ、許せなく思えてまいりました」
秀吉、ちょっと破顔して、
「ふふ……。おぬしの主人とやらも、随分な手下をもったものだ」
秀吉の揶揄にかすみは動じない。
「わたくしのあるじは、わたくしを放って木下晴隆どのの行動を妨害させました。わたしはあるじの命により、そうしてきましたが、心の奥底に忸怩たるものを感じ……」
秀吉はまたけわしい顔つきになり、
「おぬしの気持ちはよう判った。ことばから偽りを申しておらぬと信用しよう。ならば申せ。お前の〝あるじ〟とは誰ぞ?」
かすみはためらいもなく言った。
「石田治部少輔三成様にございます」
今度は秀吉も驚いた。
「な……佐吉がおぬしのあるじとな?」
「御意」
かすみはその場で片膝をついて、礼をした。
「い、いかん!」
急に秀吉はそわそわしだした。
秀吉はその場に平伏するかすみを手でかきわけるようにして、望楼を駆け下った。
「もし、関白殿下、どうなさったのですか?」
訊きつつ、かすみは秀吉の急な変わりようが釈然としなかった。だが、あわてて秀吉の後を追うようなことはしなかった。秀吉がなにを考えているか、かすみを大方は了解していたからである。
一方、秀吉はもう城の厩の方に来ている。
「馬、馬曳け!」
突然関白が「馬を曳け」と厩にやってきたので、厩の責任者はびっくり仰天して、
「か、関白殿下、いかがなされました?」
「ええい、うるさい! お前と問答をしている時間も惜しい。早く馬を曳け!」
関白の命令である。厩から秀吉の愛馬が曳き出された。
あわてて小姓がふたり走ってきた。
小姓も馬に乗って、三名は城を出た。
小姓頭が問う。
「殿下、どちらへ?」
秀吉は、答えず、大手門を越えると武家屋敷街を突っ走り、そのなかでもかなり大きな門構えの家の前で止まった。
それは、「石田三成邸」であった。
秀吉が三成邸についたとき、三成自身は白装束に身をつつみ、今まさに切腹しようとしていた。
「殿下、わが不忠をお許しください……」
ひとりつぶやいて、今まさに腹に刃をたてようとしたとき――。
バッ、とふすまが勢いよく開かれた。
「三成、死ぬことはこの秀吉が許さぬ!」
秀吉、なんとか間に合った。
秀吉と三成は長い主従のつながりがあり、互いの考え方や生き方など、語り合わずとも判っている。
三成と秀吉は、単に主従の関係をこえて、国の運営という大方針を互いに作り上げていく関係である。互いが気持ちを許し合っていなければ、国の運営など任せられないであろう。
そんな秀吉の気持ちを裏切るようなかっこうになったことで三成としては死を選ぶより他ないと思いつめたのである。
そして秀吉は三成がそう考えるであろうことを予想し、それを止めに入ったものである。
三成は手をつき、秀吉に詫びた。
「不肖、治部少輔。死んで詫びんと思い定めておりましたが、思いもかけずあるじよりの下命。一度死んだものと思い定めて、今後は表裏なく、全身全霊をもって殿下にお仕えいたしまする」
秀吉はうなずき、
「うむ。わしもこたびのことはちょっと意地になっていたところがあった。おぬしにもいらぬ負担をかけた。このとおり、許してくれ」
秀吉は三成に頭を下げた。
三成もふたたび深く頭を下げた。
「しかし、茶々どのにそれほどおぬしが目をかけていたとは初めて知ったぞ」
「おなじ近江出身。同郷のよしみは断ちがたく……また、浅井長政さまには石田一族として目をかけていただきました。そのご恩をお返ししたいと……」
うんうんと秀吉は点頭する。
「では、こたびの柴田どのの件、茶々さまをお許しくださいますか?」
「ああ、許そう。もう、柴田自身もこの世におらぬし、昔語りにはちがいない。許そう」
秀吉の許しを得て、三成も安堵した。
「ようございました。茶々どのもお喜びになるでしょう」
ところが――!
秀吉が、あっ、という表情を作った。
それに気付いて三成が問うた。
「いかがなされました殿下?」
秀吉はわなわなと震え、頭を抱えて苦悩している。
「許せよ、三成。じつはもうひとつ仕掛けをしておってな。もうそれは間に合わぬかもしれぬ……」
「その仕掛けとは?」
三成の問いに秀吉は素直に答えた。
三成はすぐさま立ちあがり、
「それがしが対処すれば、まだ間に合うやもしれませぬ。殿下はこのまま城にお戻りになって、普段どおりおすごしくだされ」
「うむ、すまぬ、佐吉。だが、わしとてこのまま傍観しておるわけにはおかぬ。おぬしと連れだって大物城に向かう!」
「かしこまりましてございます!」
三成はあわてて平服に着替え、秀吉とともに馬上の人になった。
※ ※ ※
乗物(駕籠)の足はそれほど速くない。
丸一日かかって尼崎に着いた茶々一行であった。
あらかじめ前触れが走っていたので、大物城前には、城代の中島靱負が茶々の来訪を待ち構えていた。
乗物の引戸が開かれ、茶々が顔を出した。
「中島、大儀」
茶々に声をかけられ、深々と中島靱負は頭を下げた。
「お茶々さまには、ご機嫌うるわしく……」
「うるわしくなんてないわ!」
茶々は中島の言葉尻をとらえて、噛みついた。
「はっ、これは面目なく……」
中島は小声で謝した。
「半介たちは、もう解放されているわね?」
強い口調で茶々は問う。
「そ、それはもう……」
これも小声だ。はっきりとは聞きとれない。
中島は、頭をあげ、少し声を張った。
「茶々さま、お疲れのことでございましょう。ともかく、ひと休みなされては? 木下どのとの面会は、そのあとにでも」
「いえ、すぐに半介と力に会います。会って話を聞いたら、今日中にも都に帰ります」
「そ、それは……」
中島は秀吉から時間稼ぎをせよとの、連絡を受けていた。茶々に時間を作らせたかったのだが、案に反して茶々はそんな中島の都合に合わせてくれなかった。
「ともかく、早く半介たちに会わせなさい」
「はあ……」
中島は泣き出しそうな顔をして返事をした。
茶々はわがままをとおして、すぐに半介たちとの面談をおこなった。
茶々が城の広間に通されると、そこにはすでに牢から出されていた半介と力が平伏して待っていた。
茶々は広間の上座に坐った。
「半介、力、ずいぶんな目に遭ったわね。ご苦労様」
「はっ」
ふたりは声をそろえて返事をした。
「茶々さまにはごきげんよろしく」
茶々は半介の口上に邪険に手をふって、
「あー、そういうのはいいから。頭をお上げなさい」
「はっ」
うながされてふたりは面を上げた。
半介も力も、牢に入れられてちょっと心身に堪えたらしく、やつれた表情をしていた。
半介は、佐々成政から聞かされた話を茶々に披露した。
「なるほど。よく判りました。ご苦労でありました」
半介は話し終わって、ちょっと安堵した。
一方、力は顔色が悪い。
「力、どうかしたの? 顔色がすぐれないようよ」
「う、うう……」
力は身体をふるわせている。気分でも悪いのか?
「御免!」
力は急に叫んで、抜刀し、半介に斬りかかった!
「な……」
泡を喰って、半介は四つん這いになり、広間の隅に逃げ込む。
「ど……どうしやった、力どの?」
半介の言葉も力にはもう聞こえないようだ。叫声をあげて刀を左右に振って半介に迫っていく。尋常一様の姿ではない。
「ちょ、ちょっと力、やめなさい!」
力をなだめる茶々。
その茶々を見て、反転、力は茶々に襲いかかった!
「きゃーっ!!」
力が刀を振り上げる。
茶々を害するか、と思われたとき、広間の襖の一角が開き、現れた人物が、忍器を投げた。
忍器――苦内は、力の右肩に刺さった。
「痛っ!」
痛さで、力は刀を床に落とした。
半介は、忍器を投げた人物を見た。
「晴隆!」
それは半介の子の木下晴隆だった。
晴隆は無言で、力のもとに駆け寄り、力のみぞおちを刀の柄頭で突いた。
意識を失いかけた力が、安堵の表情を作ったのを、晴隆は見逃さなかった。
床に伏した力を、寄ってきた半介が抱きかかえた。
「ち、力どの! しっかりなされたい」
「ぶはっ」
力は吐血した。
気持ちを落ち着けた茶々も力をのぞきこんでいる。
「力、なんでこんな莫迦なことを……」
茶々は泣き顔で問うた。
「あ、ある方から、半介様を亡き者にせよと命ぜられました……」
茶々は、今度は怒り顔になって、
「藤吉郎ね!」
「…………」
力は、是、とも、否、ともいわなかったが、状況から茶々の推測が当たっていることは間違いがなかった。
そのとき、中島靱負が騒動を聞いてやってきた。
「茶々さま! ご無事でございますか?」
茶々は、きっ、と中島をにらみ、
「無事じゃないわよ! 中島、あんた、この事、あらかじめ知っていたわね?」
中島靱負は、ぶんぶんと頭を振って、
「とんでもない! わたしはなにも存じあげませぬ!」
「嘘おっしゃい!」
中島は茶々の詰問にたじたじとなった。
そこへ、また別の家臣がやってきて、
「関白殿下、石田治部少輔様、お着きでございます」
「おお! こうしてはおられぬ……」
秀吉の出迎えをせねばならぬと、中島はふらふらと広間を出た。
中島が消えたのと入れ違いに、秀吉と三成が旅塵も落とさず城の広間にやってきた。
「おお、力、許せよ」
秀吉の謝罪に、茶々はもの凄い形相で、
「藤吉郎! あんた、どの顔してここへやってこられたの?」
茶々の罵倒にも秀吉は耳を貸さず、謝罪をつづける。
「力よ、申し訳ない。わしがおぬしをそそのかし、半介を亡き者にすれば、大名に取り立てるなどと甘言を弄した。そなたは嫌々それを受けてくれた。申し訳ないことをした」
「…………」
力は肩と胸の痛みに呻吟していた。
「すまぬ……すまぬ……」
秀吉の謝罪はつづく。
そこへ、もうひとり大物城の広間に現れた者がいる。
「最悪の状況は免れたようで……」
その場に居合わせた者たちがみな、声の主を見た。
「これは、前田様」
三成が言った。
声の主は、前田又左衛門利家だった。
いちど意識を失った力が意識を取り戻し、やや、あたりが落ち着きをみせると、前田又左衛門が言った。
「わたしは親父様に詫びねばならぬことがある。いままでは関白殿下の背後に隠れて、おのれから逃げておった。贖罪をかねて、この場で、茶々どのにすべてを語ろう」
茶々は利家の顔をみた。
「前田さま……」
第四章 了
翌朝、聚楽第――。
秀吉は朝餉を摂っていた。
多数のかしずきの者たちが、せわしなく立ち動き、秀吉の朝餉の助力をする。
そこへ血相を変えて茶々がやってきた。
「藤吉郎! 半介たちを牢に入れたと聞いたわよ。いますぐふたりを出しなさい!」
秀吉は小うるさい蠅が来たぐらいな冷めた視線を茶々に与え、
「茶々どの、その話は誰から聞きやった」
と問うた。
茶々は、鼻息も荒く、
「そんなことはどうでもいいわ! 早く半介たちを自由の身にしなさい!」
秀吉はうっとうしいとばかり頭を振って、
「どうせ、佐吉から聞いたのであろう。あのお喋りが……」
「三成などどうでもいいでしょう! 早くふたりを――」
「茶々どの。本当に半介たちのことを思うならば、もう柴田権六のことを嗅ぎまわることをやめさせよ。いいな?」
「いや、と言ったら?」
「あのふたりに腹を切らせる」
茶々は瞑目した。
「…………」
ややあって、
「判ったわ。もう柴田の義父のことは調べさせないから、牢から出しなさい」
秀吉はそれには返事をせず、湯漬けを掻き込んだ。
茶々は秀吉の態度にいらだって、
「ねぇ、聞いているの? どうなの?」
秀吉はじろりと茶々を見、
「尼崎まで迎えに行かれよ。茶々どのが直々に迎えられるならば、中島靱負も牢を開けよう」
「ちょっとたぶらかさないでよ。あなたの許可が無ければ、中島とて牢から出すもんですか!」
秀吉は、ふっ、と笑って、
「茶々どの、智恵をつけられましたな」
言って、ポンポンと手を叩き、
「この場に筆と紙をもて」
と言うと、もう準備がしてあったか、というほど早く、小姓が筆などの諸道具を秀吉の面前に広げた。
「ここに、半介たちの免状を書いてやる。これをもって大物城に向かわれよ」
茶々とお付きの者たちは、免状を手に駕籠に乗って尼崎に向かった。
その茶々たちが聚楽第を出るのを、城の望楼から眺めて見送る秀吉であった。
「今さら遅いと言うに……」
ひとり秀吉はつぶやいた。
籠が通りを曲がり姿を消すと、秀吉も望楼から立ち去ろうとした。
すると、秀吉は背後に人の気配を感じ、はっとした。
「何奴か?」
「失礼つかまつりまする」
秀吉が誰何すると、かれの背後に女の声がした。
「何奴か、と訊いておる」
言いつつ秀吉は自身の背後をふり返る。
そこには、平伏する忍び装束のおんなが控えていた。
「くノ一か? 名はなんと申すか?」
「風のかすみと申します」
秀吉はようやく合点がいったという表情を作った。
「そうか。そちがうわさのくノ一か。――で、そのかすみがわしに何用じゃ」
「わたしは〝とあるお方〟に飼われておる忍びでございます。しかし、その主人の行動に疑いを持ち、いま、殿下にあるじの不行状を述べに参ったのでございます」
「ふむ……」
秀吉はけわしい表情をしている。口をへの字にまげ、口先をとがらせている。
「おぬしは主人に返り忠するというか」
「この世は殿下の天下にございます。わが主人のわがままで、殿下の世を乱すことを、このかすみ、許せなく思えてまいりました」
秀吉、ちょっと破顔して、
「ふふ……。おぬしの主人とやらも、随分な手下をもったものだ」
秀吉の揶揄にかすみは動じない。
「わたくしのあるじは、わたくしを放って木下晴隆どのの行動を妨害させました。わたしはあるじの命により、そうしてきましたが、心の奥底に忸怩たるものを感じ……」
秀吉はまたけわしい顔つきになり、
「おぬしの気持ちはよう判った。ことばから偽りを申しておらぬと信用しよう。ならば申せ。お前の〝あるじ〟とは誰ぞ?」
かすみはためらいもなく言った。
「石田治部少輔三成様にございます」
今度は秀吉も驚いた。
「な……佐吉がおぬしのあるじとな?」
「御意」
かすみはその場で片膝をついて、礼をした。
「い、いかん!」
急に秀吉はそわそわしだした。
秀吉はその場に平伏するかすみを手でかきわけるようにして、望楼を駆け下った。
「もし、関白殿下、どうなさったのですか?」
訊きつつ、かすみは秀吉の急な変わりようが釈然としなかった。だが、あわてて秀吉の後を追うようなことはしなかった。秀吉がなにを考えているか、かすみを大方は了解していたからである。
一方、秀吉はもう城の厩の方に来ている。
「馬、馬曳け!」
突然関白が「馬を曳け」と厩にやってきたので、厩の責任者はびっくり仰天して、
「か、関白殿下、いかがなされました?」
「ええい、うるさい! お前と問答をしている時間も惜しい。早く馬を曳け!」
関白の命令である。厩から秀吉の愛馬が曳き出された。
あわてて小姓がふたり走ってきた。
小姓も馬に乗って、三名は城を出た。
小姓頭が問う。
「殿下、どちらへ?」
秀吉は、答えず、大手門を越えると武家屋敷街を突っ走り、そのなかでもかなり大きな門構えの家の前で止まった。
それは、「石田三成邸」であった。
秀吉が三成邸についたとき、三成自身は白装束に身をつつみ、今まさに切腹しようとしていた。
「殿下、わが不忠をお許しください……」
ひとりつぶやいて、今まさに腹に刃をたてようとしたとき――。
バッ、とふすまが勢いよく開かれた。
「三成、死ぬことはこの秀吉が許さぬ!」
秀吉、なんとか間に合った。
秀吉と三成は長い主従のつながりがあり、互いの考え方や生き方など、語り合わずとも判っている。
三成と秀吉は、単に主従の関係をこえて、国の運営という大方針を互いに作り上げていく関係である。互いが気持ちを許し合っていなければ、国の運営など任せられないであろう。
そんな秀吉の気持ちを裏切るようなかっこうになったことで三成としては死を選ぶより他ないと思いつめたのである。
そして秀吉は三成がそう考えるであろうことを予想し、それを止めに入ったものである。
三成は手をつき、秀吉に詫びた。
「不肖、治部少輔。死んで詫びんと思い定めておりましたが、思いもかけずあるじよりの下命。一度死んだものと思い定めて、今後は表裏なく、全身全霊をもって殿下にお仕えいたしまする」
秀吉はうなずき、
「うむ。わしもこたびのことはちょっと意地になっていたところがあった。おぬしにもいらぬ負担をかけた。このとおり、許してくれ」
秀吉は三成に頭を下げた。
三成もふたたび深く頭を下げた。
「しかし、茶々どのにそれほどおぬしが目をかけていたとは初めて知ったぞ」
「おなじ近江出身。同郷のよしみは断ちがたく……また、浅井長政さまには石田一族として目をかけていただきました。そのご恩をお返ししたいと……」
うんうんと秀吉は点頭する。
「では、こたびの柴田どのの件、茶々さまをお許しくださいますか?」
「ああ、許そう。もう、柴田自身もこの世におらぬし、昔語りにはちがいない。許そう」
秀吉の許しを得て、三成も安堵した。
「ようございました。茶々どのもお喜びになるでしょう」
ところが――!
秀吉が、あっ、という表情を作った。
それに気付いて三成が問うた。
「いかがなされました殿下?」
秀吉はわなわなと震え、頭を抱えて苦悩している。
「許せよ、三成。じつはもうひとつ仕掛けをしておってな。もうそれは間に合わぬかもしれぬ……」
「その仕掛けとは?」
三成の問いに秀吉は素直に答えた。
三成はすぐさま立ちあがり、
「それがしが対処すれば、まだ間に合うやもしれませぬ。殿下はこのまま城にお戻りになって、普段どおりおすごしくだされ」
「うむ、すまぬ、佐吉。だが、わしとてこのまま傍観しておるわけにはおかぬ。おぬしと連れだって大物城に向かう!」
「かしこまりましてございます!」
三成はあわてて平服に着替え、秀吉とともに馬上の人になった。
※ ※ ※
乗物(駕籠)の足はそれほど速くない。
丸一日かかって尼崎に着いた茶々一行であった。
あらかじめ前触れが走っていたので、大物城前には、城代の中島靱負が茶々の来訪を待ち構えていた。
乗物の引戸が開かれ、茶々が顔を出した。
「中島、大儀」
茶々に声をかけられ、深々と中島靱負は頭を下げた。
「お茶々さまには、ご機嫌うるわしく……」
「うるわしくなんてないわ!」
茶々は中島の言葉尻をとらえて、噛みついた。
「はっ、これは面目なく……」
中島は小声で謝した。
「半介たちは、もう解放されているわね?」
強い口調で茶々は問う。
「そ、それはもう……」
これも小声だ。はっきりとは聞きとれない。
中島は、頭をあげ、少し声を張った。
「茶々さま、お疲れのことでございましょう。ともかく、ひと休みなされては? 木下どのとの面会は、そのあとにでも」
「いえ、すぐに半介と力に会います。会って話を聞いたら、今日中にも都に帰ります」
「そ、それは……」
中島は秀吉から時間稼ぎをせよとの、連絡を受けていた。茶々に時間を作らせたかったのだが、案に反して茶々はそんな中島の都合に合わせてくれなかった。
「ともかく、早く半介たちに会わせなさい」
「はあ……」
中島は泣き出しそうな顔をして返事をした。
茶々はわがままをとおして、すぐに半介たちとの面談をおこなった。
茶々が城の広間に通されると、そこにはすでに牢から出されていた半介と力が平伏して待っていた。
茶々は広間の上座に坐った。
「半介、力、ずいぶんな目に遭ったわね。ご苦労様」
「はっ」
ふたりは声をそろえて返事をした。
「茶々さまにはごきげんよろしく」
茶々は半介の口上に邪険に手をふって、
「あー、そういうのはいいから。頭をお上げなさい」
「はっ」
うながされてふたりは面を上げた。
半介も力も、牢に入れられてちょっと心身に堪えたらしく、やつれた表情をしていた。
半介は、佐々成政から聞かされた話を茶々に披露した。
「なるほど。よく判りました。ご苦労でありました」
半介は話し終わって、ちょっと安堵した。
一方、力は顔色が悪い。
「力、どうかしたの? 顔色がすぐれないようよ」
「う、うう……」
力は身体をふるわせている。気分でも悪いのか?
「御免!」
力は急に叫んで、抜刀し、半介に斬りかかった!
「な……」
泡を喰って、半介は四つん這いになり、広間の隅に逃げ込む。
「ど……どうしやった、力どの?」
半介の言葉も力にはもう聞こえないようだ。叫声をあげて刀を左右に振って半介に迫っていく。尋常一様の姿ではない。
「ちょ、ちょっと力、やめなさい!」
力をなだめる茶々。
その茶々を見て、反転、力は茶々に襲いかかった!
「きゃーっ!!」
力が刀を振り上げる。
茶々を害するか、と思われたとき、広間の襖の一角が開き、現れた人物が、忍器を投げた。
忍器――苦内は、力の右肩に刺さった。
「痛っ!」
痛さで、力は刀を床に落とした。
半介は、忍器を投げた人物を見た。
「晴隆!」
それは半介の子の木下晴隆だった。
晴隆は無言で、力のもとに駆け寄り、力のみぞおちを刀の柄頭で突いた。
意識を失いかけた力が、安堵の表情を作ったのを、晴隆は見逃さなかった。
床に伏した力を、寄ってきた半介が抱きかかえた。
「ち、力どの! しっかりなされたい」
「ぶはっ」
力は吐血した。
気持ちを落ち着けた茶々も力をのぞきこんでいる。
「力、なんでこんな莫迦なことを……」
茶々は泣き顔で問うた。
「あ、ある方から、半介様を亡き者にせよと命ぜられました……」
茶々は、今度は怒り顔になって、
「藤吉郎ね!」
「…………」
力は、是、とも、否、ともいわなかったが、状況から茶々の推測が当たっていることは間違いがなかった。
そのとき、中島靱負が騒動を聞いてやってきた。
「茶々さま! ご無事でございますか?」
茶々は、きっ、と中島をにらみ、
「無事じゃないわよ! 中島、あんた、この事、あらかじめ知っていたわね?」
中島靱負は、ぶんぶんと頭を振って、
「とんでもない! わたしはなにも存じあげませぬ!」
「嘘おっしゃい!」
中島は茶々の詰問にたじたじとなった。
そこへ、また別の家臣がやってきて、
「関白殿下、石田治部少輔様、お着きでございます」
「おお! こうしてはおられぬ……」
秀吉の出迎えをせねばならぬと、中島はふらふらと広間を出た。
中島が消えたのと入れ違いに、秀吉と三成が旅塵も落とさず城の広間にやってきた。
「おお、力、許せよ」
秀吉の謝罪に、茶々はもの凄い形相で、
「藤吉郎! あんた、どの顔してここへやってこられたの?」
茶々の罵倒にも秀吉は耳を貸さず、謝罪をつづける。
「力よ、申し訳ない。わしがおぬしをそそのかし、半介を亡き者にすれば、大名に取り立てるなどと甘言を弄した。そなたは嫌々それを受けてくれた。申し訳ないことをした」
「…………」
力は肩と胸の痛みに呻吟していた。
「すまぬ……すまぬ……」
秀吉の謝罪はつづく。
そこへ、もうひとり大物城の広間に現れた者がいる。
「最悪の状況は免れたようで……」
その場に居合わせた者たちがみな、声の主を見た。
「これは、前田様」
三成が言った。
声の主は、前田又左衛門利家だった。
いちど意識を失った力が意識を取り戻し、やや、あたりが落ち着きをみせると、前田又左衛門が言った。
「わたしは親父様に詫びねばならぬことがある。いままでは関白殿下の背後に隠れて、おのれから逃げておった。贖罪をかねて、この場で、茶々どのにすべてを語ろう」
茶々は利家の顔をみた。
「前田さま……」
第四章 了
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勇内一人
歴史・時代
第9回歴史・時代小説大賞奨励賞受賞作品に2024年6月1日より新章「材木商桧木屋お七の訴え」を追加しています(続きではなく途中からなので、わかりづらいかもしれません)
南町奉行所吟味方与力の貞永平一郎の一人息子、正太郎はお多福風邪にかかり両耳の聴覚を失ってしまう。父の跡目を継げない彼は吟味方書物役見習いとして南町奉行所に勤めている。ある時から聞こえない正太郎の耳が死者の声を拾うようになる。それは犯人や証言に不服がある場合、殺された本人が異議を唱える声だった。声を頼りに事件を再捜査すると、思わぬ真実が発覚していく。やがて、平一郎が喧嘩の巻き添えで殺され、正太郎の耳に亡き父の声が届く。
表紙はパブリックドメインQ 著作権フリー絵画:小原古邨 「月と蝙蝠」を使用しております。
2024年10月17日〜エブリスタにも公開を始めました。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
悲恋脱却ストーリー 源義高の恋路
和紗かをる
歴史・時代
時は平安時代末期。父木曽義仲の命にて鎌倉に下った清水冠者義高十一歳は、そこで運命の人に出会う。その人は齢六歳の幼女であり、鎌倉殿と呼ばれ始めた源頼朝の長女、大姫だった。義高は人質と言う立場でありながらこの大姫を愛し、大姫もまた義高を愛する。幼いながらも睦まじく暮らしていた二人だったが、都で父木曽義仲が敗死、息子である義高も命を狙われてしまう。大姫とその母である北条政子の協力の元鎌倉を脱出する義高。史実ではここで追手に討ち取られる義高であったが・・・。義高と大姫が源平争乱時代に何をもたらすのか?歴史改変戦記です
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

乾坤一擲~権六伝~
響 恭也
SF
天正11年、燃え盛る北庄城。すでに覚悟を決めた柴田勝家の前に一人の少年が現れる。
「やあ、権六。迎えに来たよ」
少年に導かれ、光る扉を抜けた先は、天文16年の尾張だった。
自身のおかれた立場を理解した勝家は、信長に天下をもたらすべく再び戦うことを誓う。
これは一人の武士の悔恨から生まれた物語である。
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