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第三章 織田筆頭家老権六
青山宗勝ものがたる その6
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--さて、柴田どのに注目するならば、少々時間をさかのぼらねばならぬ。
天正十年三月にもういちどお気持ちをもどしていただく。
よろしいか?
武田攻めが甲斐や信濃でおこなわれていたころと時を同じくして、柴田どのは北陸の地にあった。
で、越中で上杉景勝方の小島職鎮らが一揆をおこしたのだ。
きゃつらは越中の富山城主で親織田方の神保長住を捕らえて同城を占拠した。
越中はなかなか信長公の支配下にならなかった。
柴田どのは、越中に佐々内蔵助(成政)を置いて、慰撫につとめていたが、なかなかなかなか、そう一朝一夕におさまるものではないよ。
そこで、柴田どのや能登をおさめる前田犬千代(利家)どのが越中へ出陣され、佐々内蔵助と合流して一揆を攻めた。
月末--三月の二十四、五日頃だったか、柴田どのは与力とともに富山城を包囲し、まもなくして、富山城は落ちた。
柴田どのは余勢を駆って魚津城を囲んだ。
とうぜん魚津城から越後へ救援をもとめるべく使者がとんだ。
上杉景勝は、じしん兵をひきいて、魚津城のちかくの天神山城によって魚津城の救援を模索した。
むろん柴田どのは魚津城の囲みを厳重にし、上杉景勝につけいる隙をみせなかった。
そこで、もういちど確認しておきたいのは、このとき、すでに上野や甲斐や信濃は織田信長公の支配下にあったということよ。
たしかこのとき、信濃の海津城には森長可どのが配置されており、上野の厩橋城には滝川一益どのがあり、双方越後への侵入の気配をみせた。
これにおどろいた景勝は、魚津城の救援をあきらめて越後へひきかえしてしまった。
そして後巻き(後詰)をうしなった魚津城は六月三日に落城したとのことだ。
六月三日とさらりと申したが、信長公がお討たれになられたのが、六月二日ということをあらためて思い起こしていただきたい。そう、魚津城が落ちたとき、信長公はもうこの世の人ではなかったというわけよ。
報せがとどくには時がかかる。信長公がまだ御存命であるという前提で、柴田どのは越中をほぼ治め、上杉景勝を追い詰めつつあったのだが、本能寺の政変ですべて白紙になった。
北陸にも「信長公討たる」の報が届き、柴田どのの兵卒は、ほとんどが逃げだしてしまったと聞く。
しかし、残存兵をまとめて柴田どのは六月九日に北庄城に戻ったらしい。
大坂でも三七信孝さまの兵が四散したと聞くし、織田軍は兵の維持に汲々としておった。
しかし、中国とやや遠方にあった関白殿下の兵だけは、逃げだすこともせず、殿下について行った。しかし、やはり畿内に近づくにつれて、「信長公討たる」の報は関白殿下の軍勢にもとどいたと思う。それでも羽柴勢は、崩壊することもなく、粛々と行軍していた。
そう、このときの関白殿下の兵の士気を維持しつづける力量をおもうと、それがしは寒気すらおぼえるね。
ともあれ惟任日向は、まもなく関白殿下に敗れ、日向自身も落武者狩りの農民に討たれたと聞く。
早々に信長公の仇討ちが達せられた。
いっぽうで、信長公が治められていた国の闕所(治める者が決まっていない空白地のこと)と、織田家の家督を継がれていた信忠公も日向に討たれてお亡くなりになっていたので、その後継者を決めねばならなくなった。
それが清須でおこなわれた会議のことだ。
六月九日に北庄城に帰られた柴田どのは、織田家の宿老に声をかけ、清須で話し合いをもちたいとされた。
むろん、それらは喫緊の案件だったため、否やを唱えるものはいなかった。
ここで確認しておきたいのが、なぜ「清須」なのか、ということなのだが、じつは、この清須城、信忠公の遺児である「三法師君」がおわした城なのよ。つまりあらためて思いなおすと、はじめから織田家の家督は三法師君が継がれ、三法師君が「成人」されるまで、その後見をだれに任すかという話だったやに記憶しておる。
ただし、この後見人の選出はそれなりに難儀した。
このとき、三法師君の後見になれる織田家の成人は、二男の信雄君と三男の信孝君ということになるが、正室の子であれる信雄君は、惟任日向討伐という功績がなく、いっぽうで日向討伐の功績がありながらも、庶出(母親が側室)の信孝君が後見人でよいのかという問題があり、話しあいは紛糾したや聞く。
結果、信雄君と信孝君の双方に後見役を担っていただき、傅役として堀久太郎(秀政)どのが就かれ、関白殿下、柴田どの、わが旧主の丹羽長秀さま、信長公の乳兄弟の池田恒興どのの四名が執権として、三法師君をお支えする仕組みができた。
以上、それがしが話したことを整理すると、最初にのべた言葉を訂正せねばならぬな。
曰く、「清須会議は織田家家督の後継者を決める」と申したが、そうではなく、信忠公の世継ぎであられる三法師君がおられた清須城に集まって「三法師君をお支えする体制を決める」会議であったといようかな。
このなかで、織田家の宿老でありながら会議に参加していなかった方に、滝川一益どのがおられるが、滝川どのは、関東で北条方に敗れ、失地したため、その責任を問われて参加できなかったようだ。
このあと、甲斐信濃には徳川家康どのが兵をいれられ、おのが領地とされてしまったため、滝川どのは伊勢にすこしの領地をもっておいでだったものの、関東での領地をうしない、失地回復を家康殿にもとめたものの、実現せず、不満をおおいに募らせたやにきく。
自業自得と申せなくもないが、いささか可哀想な気もしないではないがね。
領地配分の話になったので、つづきをば。
北畠を継いでいた二男の信雄さまは、織田の後継者であることを鮮明にするため、北畠の苗字を捨てて織田に復られた。
また、北伊勢の神戸を継いでおられた信孝どのも、信雄さま同様、織田の後継者であることを示すため、神戸の苗字を捨てられて織田に復った。
それぞれ、織田信雄さま、織田信孝どのは、三法師君の後見人という立場になり、信雄さまには清須城を本拠とされ、尾張国があたえられ、信孝どのには岐阜城を本拠とされ、美濃国を御相続になられた。
そのごに四人の宿老と三法師君の傅役を仰せつかった堀久太郞に土地があたえられた。
さて、柴田どののことよ。
正直申して、こたびの惟任日向の仇討ち合戦では出遅れ、何ひとつ手柄をお立てになられていなかった柴田どのに、新たに領地があたえられるかは、疑問だった。
しかし、佐久間信盛どの失脚ののち、織田家の筆頭家老となって、織田家を支えておいでだった柴田どのに関白殿下が配慮され、越前国の安堵はとうぜんとしても、新恩として、関白殿下のおさめておいでだった長浜城と北近江三郡十二万石があたえられた。
この結果に柴田どのは満足されたのか、どうか。
たぶん、たぶんだよ。柴田どのは「致し方なし」とおもったのではないかな。
なんら手柄を立てられなかったご自身をふりかえり、それでも新恩がえられるという結果を甘んじてお受けになったのではないかと思う。
そして、柴田どのはご自身の御養子の勝豊どのに長浜城をお任せになられた。
わが旧主丹羽長秀さまは、若狭国を安堵されたうえ、近江の二郡をあたえられた。
こたびの会議では、もともと宿老でもなかった池田恒興どのなのだが、宿老格として参加され、なおかつ、摂津国三郡をえることになったのは、恒興どのにとっても望外の喜びであったろうよ。
そして関白殿下は、河内国と山城国をえられ、養子であられる秀勝さまの所領された丹波国をあわせ、二十八万石の加増となった。
具体的にはこうなった。
紙に書いてきたので、お渡ししよう。
そういって青山宗勝は、懐から墨書された美濃紙を木下半介に渡した。
半介は、
「ありがたく」
といって、渡辺力にも用紙を示しつつ、目を落とした。
『
織田信雄公 尾張全域獲得。
織田信孝公 美濃全域獲得。
柴田勝家様 近江北三郡獲得。
関白殿下 山城全域、丹波全域(養子秀勝様所領)、河内の一部獲得。
近江北三郡削除(柴田勝家様へ譲渡)。
丹羽長秀様 近江高島・志賀郡獲得。
池田恒興殿 摂津大坂・尼崎・兵庫獲得。
堀 秀政殿 近江中郡獲得。
』
「これはわかりやすくまとまっておりますね」
力が感心すると、青山もまんざらではなく、
「ふむ、これをまとめるに、ちょっと時間をかけたわいな」
と、自画自賛した。
「これについては、まあ、京に帰られて、茶々さまにお目通しになり、いろいろ話し合われよ。とりあえず、話をつづけるぞ?」
--さて、柴田どのに注目するならば、少々時間をさかのぼらねばならぬ。
天正十年三月にもういちどお気持ちをもどしていただく。
よろしいか?
武田攻めが甲斐や信濃でおこなわれていたころと時を同じくして、柴田どのは北陸の地にあった。
で、越中で上杉景勝方の小島職鎮らが一揆をおこしたのだ。
きゃつらは越中の富山城主で親織田方の神保長住を捕らえて同城を占拠した。
越中はなかなか信長公の支配下にならなかった。
柴田どのは、越中に佐々内蔵助(成政)を置いて、慰撫につとめていたが、なかなかなかなか、そう一朝一夕におさまるものではないよ。
そこで、柴田どのや能登をおさめる前田犬千代(利家)どのが越中へ出陣され、佐々内蔵助と合流して一揆を攻めた。
月末--三月の二十四、五日頃だったか、柴田どのは与力とともに富山城を包囲し、まもなくして、富山城は落ちた。
柴田どのは余勢を駆って魚津城を囲んだ。
とうぜん魚津城から越後へ救援をもとめるべく使者がとんだ。
上杉景勝は、じしん兵をひきいて、魚津城のちかくの天神山城によって魚津城の救援を模索した。
むろん柴田どのは魚津城の囲みを厳重にし、上杉景勝につけいる隙をみせなかった。
そこで、もういちど確認しておきたいのは、このとき、すでに上野や甲斐や信濃は織田信長公の支配下にあったということよ。
たしかこのとき、信濃の海津城には森長可どのが配置されており、上野の厩橋城には滝川一益どのがあり、双方越後への侵入の気配をみせた。
これにおどろいた景勝は、魚津城の救援をあきらめて越後へひきかえしてしまった。
そして後巻き(後詰)をうしなった魚津城は六月三日に落城したとのことだ。
六月三日とさらりと申したが、信長公がお討たれになられたのが、六月二日ということをあらためて思い起こしていただきたい。そう、魚津城が落ちたとき、信長公はもうこの世の人ではなかったというわけよ。
報せがとどくには時がかかる。信長公がまだ御存命であるという前提で、柴田どのは越中をほぼ治め、上杉景勝を追い詰めつつあったのだが、本能寺の政変ですべて白紙になった。
北陸にも「信長公討たる」の報が届き、柴田どのの兵卒は、ほとんどが逃げだしてしまったと聞く。
しかし、残存兵をまとめて柴田どのは六月九日に北庄城に戻ったらしい。
大坂でも三七信孝さまの兵が四散したと聞くし、織田軍は兵の維持に汲々としておった。
しかし、中国とやや遠方にあった関白殿下の兵だけは、逃げだすこともせず、殿下について行った。しかし、やはり畿内に近づくにつれて、「信長公討たる」の報は関白殿下の軍勢にもとどいたと思う。それでも羽柴勢は、崩壊することもなく、粛々と行軍していた。
そう、このときの関白殿下の兵の士気を維持しつづける力量をおもうと、それがしは寒気すらおぼえるね。
ともあれ惟任日向は、まもなく関白殿下に敗れ、日向自身も落武者狩りの農民に討たれたと聞く。
早々に信長公の仇討ちが達せられた。
いっぽうで、信長公が治められていた国の闕所(治める者が決まっていない空白地のこと)と、織田家の家督を継がれていた信忠公も日向に討たれてお亡くなりになっていたので、その後継者を決めねばならなくなった。
それが清須でおこなわれた会議のことだ。
六月九日に北庄城に帰られた柴田どのは、織田家の宿老に声をかけ、清須で話し合いをもちたいとされた。
むろん、それらは喫緊の案件だったため、否やを唱えるものはいなかった。
ここで確認しておきたいのが、なぜ「清須」なのか、ということなのだが、じつは、この清須城、信忠公の遺児である「三法師君」がおわした城なのよ。つまりあらためて思いなおすと、はじめから織田家の家督は三法師君が継がれ、三法師君が「成人」されるまで、その後見をだれに任すかという話だったやに記憶しておる。
ただし、この後見人の選出はそれなりに難儀した。
このとき、三法師君の後見になれる織田家の成人は、二男の信雄君と三男の信孝君ということになるが、正室の子であれる信雄君は、惟任日向討伐という功績がなく、いっぽうで日向討伐の功績がありながらも、庶出(母親が側室)の信孝君が後見人でよいのかという問題があり、話しあいは紛糾したや聞く。
結果、信雄君と信孝君の双方に後見役を担っていただき、傅役として堀久太郎(秀政)どのが就かれ、関白殿下、柴田どの、わが旧主の丹羽長秀さま、信長公の乳兄弟の池田恒興どのの四名が執権として、三法師君をお支えする仕組みができた。
以上、それがしが話したことを整理すると、最初にのべた言葉を訂正せねばならぬな。
曰く、「清須会議は織田家家督の後継者を決める」と申したが、そうではなく、信忠公の世継ぎであられる三法師君がおられた清須城に集まって「三法師君をお支えする体制を決める」会議であったといようかな。
このなかで、織田家の宿老でありながら会議に参加していなかった方に、滝川一益どのがおられるが、滝川どのは、関東で北条方に敗れ、失地したため、その責任を問われて参加できなかったようだ。
このあと、甲斐信濃には徳川家康どのが兵をいれられ、おのが領地とされてしまったため、滝川どのは伊勢にすこしの領地をもっておいでだったものの、関東での領地をうしない、失地回復を家康殿にもとめたものの、実現せず、不満をおおいに募らせたやにきく。
自業自得と申せなくもないが、いささか可哀想な気もしないではないがね。
領地配分の話になったので、つづきをば。
北畠を継いでいた二男の信雄さまは、織田の後継者であることを鮮明にするため、北畠の苗字を捨てて織田に復られた。
また、北伊勢の神戸を継いでおられた信孝どのも、信雄さま同様、織田の後継者であることを示すため、神戸の苗字を捨てられて織田に復った。
それぞれ、織田信雄さま、織田信孝どのは、三法師君の後見人という立場になり、信雄さまには清須城を本拠とされ、尾張国があたえられ、信孝どのには岐阜城を本拠とされ、美濃国を御相続になられた。
そのごに四人の宿老と三法師君の傅役を仰せつかった堀久太郞に土地があたえられた。
さて、柴田どののことよ。
正直申して、こたびの惟任日向の仇討ち合戦では出遅れ、何ひとつ手柄をお立てになられていなかった柴田どのに、新たに領地があたえられるかは、疑問だった。
しかし、佐久間信盛どの失脚ののち、織田家の筆頭家老となって、織田家を支えておいでだった柴田どのに関白殿下が配慮され、越前国の安堵はとうぜんとしても、新恩として、関白殿下のおさめておいでだった長浜城と北近江三郡十二万石があたえられた。
この結果に柴田どのは満足されたのか、どうか。
たぶん、たぶんだよ。柴田どのは「致し方なし」とおもったのではないかな。
なんら手柄を立てられなかったご自身をふりかえり、それでも新恩がえられるという結果を甘んじてお受けになったのではないかと思う。
そして、柴田どのはご自身の御養子の勝豊どのに長浜城をお任せになられた。
わが旧主丹羽長秀さまは、若狭国を安堵されたうえ、近江の二郡をあたえられた。
こたびの会議では、もともと宿老でもなかった池田恒興どのなのだが、宿老格として参加され、なおかつ、摂津国三郡をえることになったのは、恒興どのにとっても望外の喜びであったろうよ。
そして関白殿下は、河内国と山城国をえられ、養子であられる秀勝さまの所領された丹波国をあわせ、二十八万石の加増となった。
具体的にはこうなった。
紙に書いてきたので、お渡ししよう。
そういって青山宗勝は、懐から墨書された美濃紙を木下半介に渡した。
半介は、
「ありがたく」
といって、渡辺力にも用紙を示しつつ、目を落とした。
『
織田信雄公 尾張全域獲得。
織田信孝公 美濃全域獲得。
柴田勝家様 近江北三郡獲得。
関白殿下 山城全域、丹波全域(養子秀勝様所領)、河内の一部獲得。
近江北三郡削除(柴田勝家様へ譲渡)。
丹羽長秀様 近江高島・志賀郡獲得。
池田恒興殿 摂津大坂・尼崎・兵庫獲得。
堀 秀政殿 近江中郡獲得。
』
「これはわかりやすくまとまっておりますね」
力が感心すると、青山もまんざらではなく、
「ふむ、これをまとめるに、ちょっと時間をかけたわいな」
と、自画自賛した。
「これについては、まあ、京に帰られて、茶々さまにお目通しになり、いろいろ話し合われよ。とりあえず、話をつづけるぞ?」
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