吼えよ! 権六

林 本丸

文字の大きさ
上 下
16 / 35
第三章 織田筆頭家老権六

青山宗勝ものがたる その4

しおりを挟む
                                      5

 では、落ち着いたところで、この先について話そうかね。
 えーっと、どこまでだったか……。
 あっ、そうそう、手取川で柴田どのが敗れた話だったな。
 では、続き。
 御幸塚城と大聖寺城に柴田どのの兵を入れた、というところだね。
 うん。
 柴田どのが敗れたのは、天正五年だった。
 そのご、二年ほどは北陸では一揆方と柴田どの率いる織田軍との綱引きがあって、一進一退の状態だった。
 この状況が一変するのが、天正八年なのだ。
 たしか閏三月の初旬、四日か、五日だったと思うが、信長公が加賀の一向一揆の殲滅を厳命されて、柴田どのは兵を加賀に向けた。
 加賀の宮腰に陣を進めた柴田どのは、北加賀の各所に火を放ち、勢いに乗って野々市城を陥落させた。さらに勢いを増した柴田軍は、能登まで兵を進め、能登末森城の城主土肥どい親真ちかまさを降伏させた。土肥親真は信長公に仕えることになり、末森城主の地位にとどまった。
 このとき、長連龍をはじめとする能登や越中に逼塞していた親織田方も柴田どのの勢いをみて兵を出したのだよ。
 これにより一向一揆や能登の反織田方は追いつめられて、土肥親真の降服ののちも――これは八月のことだったが――、九月には温井景隆や三宅長盛なども降っている。
 ただし、加賀や能登が鎮圧された十一月。
 ……ええっと、
 ……そうそう十七日。
 十一月十七日、安土城下の松原町西において、加賀の一向一揆の主導者である若林長門ら十九名の首級がさらされたのだ。
 この首斬られた若林と赦された土肥や温井、三宅などのちがいは、ただ、降伏したかどうかのちがいだけだったらしい。一揆に殉ずるか、己が命大事と思うか、それぞれの考え方のちがいよな。
 どうやらこれら首級をさらしたころ、加賀をほぼ制圧し終わったようだ。

 さてさて、すこし年月が前後するが、天正四年のはなしなのだが。
 信長公は、茶の湯を愛されて、その茶の湯の道具も同時に愛されておいでだった。
 そうしたなかで、信長公より、茶道具を下賜されて、茶の湯をひらける許可を得ることは、織田家臣の誉れであったことは、いまの太閤殿下も引き継がれておることはご存じよな。
 天正四年以前より、柴田どのは、信長公より茶の湯道具の下賜を願い出ておいでだったが、この年になって、ようやくそれまでの働きを認められて信長公より下賜されたのは、〝天命釜てんみょうがま〟であった。これは一度下賜を信長公に願った柴田どのが、信長公が手放すのを惜しんで、手柄を立てたらゆずろうと柴田どのの奮起を期待され、そのご、柴田どのは信長公の期待にみごと応えられて、この年にゆずられたものである。
 そのとき、信長公は、
れて かぬ馴染なしみの 姥口うばぐちを 人にのません 口しと思ふ」
 と狂歌を口にされて、信長公おんみずから持ち出されて柴田どのに手渡されたという。

 さて、茶の湯の話はこれまで。
 天正九年における重点は、「御馬揃え」だな、うん。
 これには、それがしも丹羽長秀さまの臣下として参加したので、詳しくお話ししよう。
 天正九年二月二十八日に、織田信長公は、京都におわすみかどのお住まいである禁裏の東の庭に馬場をこしらえ、信長公の自慢の部将と五畿内の諸大名を召し寄せ、日本各地から集めた名馬を揃えて御馬揃えを挙行したのだよ。
 御馬揃えについて、木下どのは聞いたことがあるかな?
 うむ。
 で、あるか。
 渡辺どのはご存知ないかもしれぬな。
 御馬揃えとは、もともとの意味は、駿馬を一堂に展示して、その優劣を鑑賞することであったのだが、これをいくさにのぞむ前におこなうことがあった。
これは士気を高めることを目的としていたのは改めていうまでもないかな。
 それで、こたび話している信長公がおこなわれた「京都御馬揃きょうとおうまそろえ」は馬のみにあらず、馬上の諸大名や諸将も華やかに装って、馬具も美々しく飾り立てたものだ。
 見物には、正親町帝おおぎまちていが招かれ、公家衆はもとより、京の町衆、奈良からは僧侶も見物に来ておったし、さらに南蛮人であるヴァリニャーノの顔もあったな。
 見物には、後で知ったのだが、二十万人はいたと聞いたぞ。
 この京都御馬揃えの発端は、そのまえに安土で開かれた御馬揃えにあるといえる。
 これは同じ天正九年の正月に行われたもので、信長公は居城の安土城に馬場を築き、馬廻衆に対して、爆竹を用意して、それぞれが思う装束で、御馬揃えを開かれておる。
 このときの信長公の出で立ちは、南蛮笠をかぶり、虎皮の行縢むかばき(両すねの覆い)を着用されておいでだった。
 この安土御馬揃えは、正月十五日に開催された。信長公ご自身はもちろんのこと、その小姓衆、公家のなかでは摂関家の近衛このえ前久さきひささまが参加されたのだ。
 御馬揃えの一行は、爆竹に火をつけ、どっとはやし立てながら、馬場を駆け抜けたのち、安土城下街中まで繰り出すということだった。
 これが世の人々の耳目を集めたことはいうまでもないだろう。
 こうした派手なことごとは、足かけ十一年にわたりたたかった大坂本願寺と和睦が成立したことと不可分ではなかったやに思う。つまり、信長公がお喜びの気持ちを表されたということよ。
 先ほど正月十五日におこなったと申したが、それで何か思われないかね?
 おお!
 さすがは木下どの。
 正解よ。
 そう〝左義長さぎちょう〟さね。
 小正月の正月十五日におこなわれる火祭りのことぞ。
 書き初めや正月の遊びに用いた打毬の杖を焼いて、その周囲の者たちが「とうどやとうど」とはやすのが習いの行事さね。
 信長公が、正月十五日にこの安土御馬揃えをおこなわれたのは、この左義長を意識していたであろうことは、容易に想像できると思う。
 この安土での御馬揃えは、京都や奈良にまで評判として伝わったよ。
 これに参加された近衛前久さまが、禁裏やお公家の家々でお話しになられて伝播されたことは、疑いようがないやね。
 これを聞いた朝廷も、勅使を信長公に送られて、京都で御馬揃えをしてくれないかと要請された。
 信長公もこれを快諾され、京都での御馬揃えを開催するにいたった、というわけだ。
 この過程を話していてお分かりいただけると思うが、京都の御馬揃えは信長公の一存で決められたものではなく、帝やその周辺からの要請でおこなわれたということなのよ。
 だから、一部にこの御馬揃えで信長公が帝や朝廷に対して威圧するための催しだったという者もいるやに聞くが、これは全く見当違いであると指摘しておこう。
 すべて、内裏側の意向で行われることになったのだ。
 なぜ帝が京都での御馬揃えをお望みになられたかというと、ちょうどこのころ禁裏で不幸があって喪に服しておいでだったのだが、その喪も明けて、暗い雰囲気を一掃させたいからであろう――と長秀さまはお話しになられておいでだったな。
 信長公もそれを踏まえて、京都での御馬揃えを許諾されたと思う。
 そして、開催された京都御馬揃えに招かれた人びとの様子を語っておこう。
 先ほども申したが、この京都御馬揃えに招かれたのは、正親町帝とそのお子さまの誠仁さねひと親王殿下、摂家、清華家をはじめとする公家衆が主なものであった。帝と親王殿下のためには、禁裏東門の築地ついじの外に、長さ五間(約九メートル)、奥行三間(約五・四メートル)の桟敷席が設けられた。
 そのほか、これも話したが、来日間もないイエズス会のヴァリニャーノも招かれておって、このヴァリニャーノは信長公と面会して、濃い紅色の天鵞絨びろーどの椅子を贈っていた。
 信長公はそれをりょうとされ、この椅子をば御馬揃えの行列の中、家臣たちに高く持ちあげさせながら運ばせ、一度は下馬して座ってみせるなどの恩典をヴァリニャーノにお与えになられた。
 この御馬揃えはひつじの刻(午後二時)ごろに終わったやに記憶しておる。
 この京都御馬揃えを帝はたいへん喜ばれ、「かほどの面白い遊興はない」と非常に満足をおぼえられ、褒美の勅書と品物を信長公に贈られた。
 これには続きがあって、あまりに満足をおぼえた朝廷は、再度御馬揃えを開いて欲しいとその開催を求め、信長公もまた、その要望をお受けになって、三月五日に二回目の御馬揃えを開催されておる。
 基本的に一回目の御馬揃えよりも規模が小さくなっていて、信長公とその馬廻衆の五百余騎でおこなわれ、騎馬の公家衆もいないというものだったが、このときも帝と公家衆や後宮の女房衆が揃うなか、誠仁親王殿下も女房たちにまぎれてお忍びで見物をされ、また、町衆も貴賤を問わず観覧を許可されたという。
 その賑わいは第一回に劣らずで、とくに町衆は、帝を間近に拝見できる栄誉に感じ入り、その機会をお与えになられた信長公の徳を高く持ちあげたとのことじゃ。
 このなかで、あまり柴田どののことは触れなかったが、第一回の京都御馬揃えには、柴田権六どのも参加されておる。
 それでは、ちょっと味気ないか?
 ハハハ、申し訳ない。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

新木下藤吉郎伝『出る杭で悪いか』

宇治山 実
歴史・時代
天正十年六月二日未明、京都本能寺で、織田信長が家臣の明智光秀に殺された。このあと素早く行動したのは羽柴秀吉だけだった。備中高松城で、秀吉が使者から信長が殺されたことを聞いたのが、三日の夜だといわれている。堺見物をしていた徳川家康はその日に知り、急いで逃げ、四日には自分の城、岡崎城に入った。秀吉が、自分の城である姫路城に戻ったのは七日だ。家康が電光石火に行動すれば、天下に挑めたのに、家康は旧武田領をかすめ取ることに重点を置いた。この差はなにかー。それは秀吉が機を逃がさず、いつかくる変化に備えていたから、迅速に行動できたのだ。それは秀吉が、他の者より夢を持ち、将来が描かける人物だったからだ。  この夢に向かって、一直線に進んだ男の若い姿を追った。  木曽川で蜂須賀小六が成敗しょうとした、若い盗人を助けた猿男の藤吉郎は、その盗人早足を家来にした。  どうしても侍になりたい藤吉郎は、蜂須賀小六の助言で生駒屋敷に住み着いた。早足と二人、朝早くから夜遅くまで働きながら、侍になる機会を待っていた。藤吉郎の懸命に働く姿が、生駒屋敷の出戻り娘吉野のもとに通っていた清洲城主織田信長の目に止まり、念願だった信長の家来になった。  藤吉郎は清洲城内のうこぎ長屋で小者を勤めながら、信長の考えることを先回りして考えようとした。一番下っ端の小者が、一番上にいる信長の考えを理解するため、尾張、美濃、三河の地ノ図を作った。その地ノ図を上から眺めることで、大国駿河の今川家と、美濃の斎藤家に挟まれた信長の苦しい立場を知った。  藤吉郎の前向きに取り組む姿勢は出る杭と同じで、でしゃばる度に叩かれるのだが、懲りなかった。その藤吉郎に足軽組頭の養女ねねが興味を抱いて、接近してきた。  信長も、藤吉郎の格式にとらわれない発想に気が付くと、色々な任務を与え、能力を試した。その度に藤吉郎は、早足やねね、新しく家来になった弟の小一郎と、悩み考えながら難しい任務をやり遂げていった。  藤吉郎の打たれたも、蹴られても、失敗を恐れず、常識にとらわれず、とにかく前に進もうとする姿に、木曽川を支配する川並衆の頭領蜂須賀小六と前野小右衛門が協力するようになった。  信長は藤吉郎が期待に応えると、信頼して、より困難な仕事を与えた。  その中でも清洲城の塀普請、西美濃の墨俣築城と、稲葉山城の攻略は命懸けの大仕事だった。早足、ねね、小一郎や、蜂須賀小六が率いる川並衆に助けられながら、戦国時代を明るく前向きに乗り切っていった若い日の木下藤吉郎の姿は、現代の私たちも学ぶところが多くあるのではないだろうか。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

がむしゃら三兄弟  第一部・山路弾正忠種常編

林 本丸
歴史・時代
戦国時代、北伊勢(三重県北部)に実在した山路三兄弟(山路種常、山路正国、長尾一勝)の波乱万丈の生涯を描いてまいります。 非常に長い小説になりましたので、三部形式で発表いたします。 第一部・山路弾正忠種常編では、三兄弟の長兄種常の活躍を中心に描いてまいります。 戦国時代を山路三兄弟が、どう世渡りをしていったのか、どうぞ、お付き合いください。 (タイトルの絵はAIで作成しました)

堤の高さ

戸沢一平
歴史・時代
 葉山藩目付役高橋惣兵衛は妻を亡くしてやもめ暮らしをしている。晩酌が生き甲斐の「のんべえ」だが、そこにヨネという若い新しい下女が来た。  ヨネは言葉が不自由で人見知りも激しい、いわゆる変わった女であるが、物の寸法を即座に正確に言い当てる才能を持っていた。  折しも、藩では大規模な堤の建設を行なっていたが、その検査を担当していた藩士が死亡する事故が起こった。  医者による検死の結果、その藩士は殺された可能性が出て来た。  惣兵衛は目付役として真相を解明して行くが、次第に、この堤建設工事に関わる大規模な不正の疑惑が浮上して来る。

処理中です...