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第三章 織田筆頭家老権六
青山宗勝ものがたる その3
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実は気がはやって、加賀は天正八年には一揆が鎮圧されたとは話したが、越前の一揆を平定したのちも、加賀が一揆の国であったことは言わずもがなと思う。
実は、この加賀は越中を支配していた上杉謙信の隣の国で、この上杉謙信が加賀の織田軍の活動を邪魔していたのだ。
……たしか……それが天正四年のころ……だったな、うん。
記憶がもうひとつはっきりしておらぬが、まちがいあるまい。
越後の主である上杉謙信は能登国を支配下に置くべく、二万の兵でもって侵攻した。この能登七尾城の攻防は、翌年の天正五年につづいた。
能登は領主の畠山氏の国だったが、当主の春王丸が幼年であったため、家老の長続連・長綱連父子が国政をみていた。
七尾城は堅城だったため、すぐには落ちず、そうこうしているうち、関東の北条氏政が関東での動きを活発化させると、関東の諸大名や諸豪族は、関東管領である謙信に助け船を出して欲しいと願い、それを受けて謙信も能登から兵を退き、春日山城に一時撤兵した。
これを契機として、長続連は能登の城々を回復していったため、謙信は関東ではなく能登に兵を集中することを決め、兵をすすめたため、長続連は七尾城に撤退した。
長続連は上杉軍への対抗として、侍のみならず百姓や町人を城内に収容して、たたかっていたが、し尿処理に困り、城内各所で糞尿が放置された。ために、疫病が城内で蔓延してな、当主の春王丸までもが疫病のために病死するに至り、七尾城は内から崩壊するやにみられた。
これに対して、長続連はかねてより誼を通じていた織田信長公に援軍を求めるべく、長連龍を使者として安土城に派遣すると、(信長)公とて謙信の伸張はのぞむところではなかったので、即座に援軍の派遣を決められたのだ。
この援軍は、越前国主の柴田権六どのとその与力の府中三人衆(前田・佐々・不破)、滝川一益、関白殿下(羽柴秀吉)、丹羽長秀さまをはじめ、若狭衆による四万におよぶ大軍勢で、八月八日に能登に向け出陣した。
ところが、織田軍到着前の九月十五日、長続連が実権を握っていることに不満をつのらせていた遊佐続光、温井景隆ら親上杉派の畠山家臣が、上杉方に内応して謀叛をおこし、長続連をはじめとする長一族を鏖殺(皆殺し)し、七尾城は陥落した。
上杉方は、九月十七日、加賀と能登の間に立地している末森城を攻略し、山浦国清と斎藤朝信を配置した。
柴田どのを大将とする織田軍は、七尾城の落城を知らぬまま兵をすすめ、梯川を渡河し、小松村、本折村、阿多賀、富樫を焼き討ちにした。
ところが、この行軍の途中、常日ごろ柴田どのとそりの合わなかった関白殿下(羽柴秀吉)は、勝手に離陣して信長公の逆鱗に触れられるなど、悲喜こもごもの様相があった。
ちなみに関白殿下がどう信長公に赦されたかというと、なんと長浜城に帰って、毎日どんちゃん騒ぎの宴を開かれたという。
関白殿下がおっしゃるに、内に籠もって蟄居などしていると、かえって信長公に叛逆を疑われる。むしろ、あけすけに宴など開いて、なんも考えておりませぬ、といった態度を見せるべきじゃ。さすれば上様(信長)にも赤心(まごころ)を認められよう、と。
まこと関白殿下は、なんとも図抜けたご器量をお持ちよな。
で、また、このような法外な手段が成功するから、「ひとたらし」などと言われておる関白殿下の面目躍如といえような。
木下どのはどうおもわれるか?
ふふふ、なかなか言いづらいものもあるわな。
さて、柴田どのの話しに戻るかね。
織田軍の接近を知った謙信は、すぐさま七尾城を出撃し、手取川付近の松任城に入城した。
一方、柴田どのは、全軍が手取川の渡河を終えた時点で、はじめて七尾城の落城と謙信軍の松任城入城を知り、あわてて軍を返すよう命令されたのだが、その反転の途中、謙信の攻撃に遭い、千人ほどの戦死傷者を出し、さらに増水していた川を渡っていた不幸から、多数の溺死者を出す大敗だった。
これにより、能登への織田軍の影響力は失われ、上杉軍が能登を治めることになった。
さらに柴田どのは加賀からも兵を退き、越前に籠もった。
このとき、柴田どのは加賀と越前の境界付近にある大聖寺城と、その支城である御幸塚城の普請をおこない、その配下の軍勢が入っている。
ちなみに大聖寺城は、権六どのの甥の佐久間盛政が城主となっておるよ。
ああ、喉が乾いた。
喋りづめなのでね。
ちょっと酒でのどを潤させてもらおう。
お二方も、酒をすすまれよ。
おっ、いい呑みっぷりだね、渡辺どの。
木下どのは呑まないのかね?
えっ?
酔うと文字がゆがむ?
ははっ、さもあらん。
それではもうちょっと休んで、つづけるかね。
実は気がはやって、加賀は天正八年には一揆が鎮圧されたとは話したが、越前の一揆を平定したのちも、加賀が一揆の国であったことは言わずもがなと思う。
実は、この加賀は越中を支配していた上杉謙信の隣の国で、この上杉謙信が加賀の織田軍の活動を邪魔していたのだ。
……たしか……それが天正四年のころ……だったな、うん。
記憶がもうひとつはっきりしておらぬが、まちがいあるまい。
越後の主である上杉謙信は能登国を支配下に置くべく、二万の兵でもって侵攻した。この能登七尾城の攻防は、翌年の天正五年につづいた。
能登は領主の畠山氏の国だったが、当主の春王丸が幼年であったため、家老の長続連・長綱連父子が国政をみていた。
七尾城は堅城だったため、すぐには落ちず、そうこうしているうち、関東の北条氏政が関東での動きを活発化させると、関東の諸大名や諸豪族は、関東管領である謙信に助け船を出して欲しいと願い、それを受けて謙信も能登から兵を退き、春日山城に一時撤兵した。
これを契機として、長続連は能登の城々を回復していったため、謙信は関東ではなく能登に兵を集中することを決め、兵をすすめたため、長続連は七尾城に撤退した。
長続連は上杉軍への対抗として、侍のみならず百姓や町人を城内に収容して、たたかっていたが、し尿処理に困り、城内各所で糞尿が放置された。ために、疫病が城内で蔓延してな、当主の春王丸までもが疫病のために病死するに至り、七尾城は内から崩壊するやにみられた。
これに対して、長続連はかねてより誼を通じていた織田信長公に援軍を求めるべく、長連龍を使者として安土城に派遣すると、(信長)公とて謙信の伸張はのぞむところではなかったので、即座に援軍の派遣を決められたのだ。
この援軍は、越前国主の柴田権六どのとその与力の府中三人衆(前田・佐々・不破)、滝川一益、関白殿下(羽柴秀吉)、丹羽長秀さまをはじめ、若狭衆による四万におよぶ大軍勢で、八月八日に能登に向け出陣した。
ところが、織田軍到着前の九月十五日、長続連が実権を握っていることに不満をつのらせていた遊佐続光、温井景隆ら親上杉派の畠山家臣が、上杉方に内応して謀叛をおこし、長続連をはじめとする長一族を鏖殺(皆殺し)し、七尾城は陥落した。
上杉方は、九月十七日、加賀と能登の間に立地している末森城を攻略し、山浦国清と斎藤朝信を配置した。
柴田どのを大将とする織田軍は、七尾城の落城を知らぬまま兵をすすめ、梯川を渡河し、小松村、本折村、阿多賀、富樫を焼き討ちにした。
ところが、この行軍の途中、常日ごろ柴田どのとそりの合わなかった関白殿下(羽柴秀吉)は、勝手に離陣して信長公の逆鱗に触れられるなど、悲喜こもごもの様相があった。
ちなみに関白殿下がどう信長公に赦されたかというと、なんと長浜城に帰って、毎日どんちゃん騒ぎの宴を開かれたという。
関白殿下がおっしゃるに、内に籠もって蟄居などしていると、かえって信長公に叛逆を疑われる。むしろ、あけすけに宴など開いて、なんも考えておりませぬ、といった態度を見せるべきじゃ。さすれば上様(信長)にも赤心(まごころ)を認められよう、と。
まこと関白殿下は、なんとも図抜けたご器量をお持ちよな。
で、また、このような法外な手段が成功するから、「ひとたらし」などと言われておる関白殿下の面目躍如といえような。
木下どのはどうおもわれるか?
ふふふ、なかなか言いづらいものもあるわな。
さて、柴田どのの話しに戻るかね。
織田軍の接近を知った謙信は、すぐさま七尾城を出撃し、手取川付近の松任城に入城した。
一方、柴田どのは、全軍が手取川の渡河を終えた時点で、はじめて七尾城の落城と謙信軍の松任城入城を知り、あわてて軍を返すよう命令されたのだが、その反転の途中、謙信の攻撃に遭い、千人ほどの戦死傷者を出し、さらに増水していた川を渡っていた不幸から、多数の溺死者を出す大敗だった。
これにより、能登への織田軍の影響力は失われ、上杉軍が能登を治めることになった。
さらに柴田どのは加賀からも兵を退き、越前に籠もった。
このとき、柴田どのは加賀と越前の境界付近にある大聖寺城と、その支城である御幸塚城の普請をおこない、その配下の軍勢が入っている。
ちなみに大聖寺城は、権六どのの甥の佐久間盛政が城主となっておるよ。
ああ、喉が乾いた。
喋りづめなのでね。
ちょっと酒でのどを潤させてもらおう。
お二方も、酒をすすまれよ。
おっ、いい呑みっぷりだね、渡辺どの。
木下どのは呑まないのかね?
えっ?
酔うと文字がゆがむ?
ははっ、さもあらん。
それではもうちょっと休んで、つづけるかね。
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