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第三章 織田筆頭家老権六
青山宗勝ものがたる その2
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木下どのは越前の一揆のできごとはご存じかな?
ご存知ない?
左様さね、ちょっと詳しくお話しよう。
越前の一向一揆は、大きく分けてふたつの期間に分けられる。
天正二年の土一揆と天正三年の信長公と一向一揆との戦いとである。
では、天正二年の土一揆について語ろう。
そもそもの発端は、天正元年に信長公が越前の国主だった朝倉義景を討ったことに端緒がある。
ここで信長公は、朝倉の旧臣たちを許し、それぞれ城を与えて安堵した。
そのなかで、信長公がどこを気に入ったのか判らぬが、前波吉継という小人に越前の「守護代」を務めるよう指示された。前波吉継はこのとき、桂田長俊と名前を変えた。長俊の長は信長公の長の字の偏諱であることはつけ加えておこう。これだけの厚遇をみせた信長公のお考えが、ほんにわたしにはよく判らない。
なぜかって?
それは前波吉継改め桂田長俊という人物が、とるに足らない小人であったからよ。
前波吉継は、もともと朝倉家中で重臣であったわけでも無かったので、朝倉旧臣の妬みもあって、――で、特に富田長繁は前波と朝倉家臣であったころからの犬猿の仲であったため、前波吉継を敵視するようになった。
さらに悪いことに、前波吉継は信長公の厚遇にあぐらをかき、もと同格であった者たちに対して、尊大で無礼な態度をとり、結果、天正二年になると、富田長繁は吉継を滅ぼすべく、越前中の村々の有力者をかたり、反前波の土一揆をおこしたのだ。
一揆の総数は三万以上にのぼり、それだけの兵力に囲まれた一乗谷はすぐさま落ち、前波吉継は討ち取られた。
これで一揆はおさまるやに思われたが、富田は策謀をめぐらして前波成敗の宴を開くと称して、魚住景固を手始めに謀略を尽くして魚住一族を滅亡させてしまった。
しかしながら、富田はもちろん、一揆方とも敵対していなかった魚住一族を富田が先導して討ったことで、一揆衆が富田に対して疑心を持ったのである。
結果、富田長繁は一向一揆側と手切れし、反撃を企てたが、一揆衆の逆襲にあって、討死したのさ。
そのご、一揆衆に通じた安居景健、朝倉景胤などの一部の将を除いて、朝倉旧家臣団はことごとく一揆衆にほろぼされ、「百姓のもちたる国」となったのだ。
これにより、信長公は、越前への影響力を失った。しかし、当時の織田家は武田氏や長島の一向一揆、大坂本願寺など、多方面の敵対勢力に対処しており、越前に兵を割くまでの余裕がなかった。
百姓のもちたる国になったのだが、一揆衆の指導者である、七里頼周や大坂の石山本願寺から派遣された下間頼照ら坊官の政治は、みずからの私利私欲を満たすためにおこなわれた。一例を挙げれば、織田氏との臨戦下にあるとして、前波吉継以上の重税や賦役を一揆衆に課したのだ。ために七里や下間は一揆衆から見放され、急速に指導力を失い、一揆内一揆が発生するという泥沼となった。
越前一揆は内部から崩壊していったのだ――。
どうかな、これが越前一揆の前期の物語よ。
なぜ、こう、長々と越前一揆の話をしたかというと、このあと、これの鎮圧に柴田権六どのが尽力されたからにほかならないからさ。
それに、この一揆勢の討伐には、長秀さまも担当されておって、実はそれがしもこれには参陣しておる。だから、こう詳しくお話しできるというわけなのよ。
お二方、お分かりよな?
このように混沌と化した越前を乱麻を断つように解決に向けて尽力されたのが、柴田どのをはじめとする織田家中の面々なのだ。
しかもつけ加えると、この越前一揆を鎮めると、信長公は越前八郡を柴田どのに委ねられる。つまり、柴田権六どのの織田家中における北陸支配の黎明がここにあるのだ。
よって、ここを詳しく語っておる。
よろしいか?
すでにお話したが、七里頼周や下間頼照など、本願寺の息のかかった坊官どもは、自身の私利私欲のために、重税や賦役を、容赦なく越前の民百姓にかけた。
これに天台宗や真言宗が激怒した。この怒りに呼応して、国人衆や民衆はおろか、ついには越前の一向門徒までが反発をして、天正三年の声を聞くと、一揆の一揆が起きるという混沌を示した。
一方、いわゆる信長包囲網を破りつつあった信長公は、天正三年五月に武田勝頼率いる武田騎馬軍団を長篠で破り、背後の憂いを断つと、越前の一向一揆の分裂状態を奇貨として、越前への侵攻を決められた。
八月十二日に岐阜を発たれた信長公は、翌十三日には、羽柴秀吉を名乗っておられた関白殿下の守る小谷城に入られ、この小谷城から兵糧を持ちだして、全軍に配られた。
そして公は、十四日には若狭の敦賀城に入った。
八月十五日はほんに風雨の強い日でな、みな苦吟しながら越前に入ったものよ。むろんそのなかにわしも参加しておってな、ほんに厳しい行軍であったよ。
織田軍は、三万をこえる大兵でな、指揮官も筆頭家老の佐久間信盛さまは当然のこと、次席家老の柴田権六どの、わが旧主丹羽長秀さま、また織田五大将と称された、滝川一益さま、羽柴を名乗っておいでだったころの関白殿下、惟任日向(明智光秀)、またこのあと北陸を柴田さまが管轄されるが、その与力として付けられた前田犬千代(利家)どのや佐々内蔵助成政どのなどなど、一門連枝、尾張衆、美濃衆、近江衆、伊勢衆などなど、信長公の支配下にある領国の兵らがみな動員されて越前に向かった。
軍勢の最前列には、織田方に寝返った越前衆――、つまり越前の国人や浪人、宗徒などなどが配置された。まあ、これはいくさの常套ゆえ、驚くにはあたらぬが。
海からは織田水軍数百艘が、おのおのの将に率いられて、越前の湊や浦から上陸し、放火して回った。
織田軍は二三日のうちに一勢を平らげて、指揮をとっていた将官を次々に討ち取った。
結果、一揆は指導者を失い、完全に崩壊した。一揆に参加していた者どもは、混乱しながら山中に逃げた。
これに対して信長公は、「諸坊主や土一揆の者どもは、加賀国に落ちていくはずだ。加賀を目指さぬ者は、ある者は山林、ある者は渓谷、または藪の影、岩の狭間などに逃れるところを、わが全軍をもって、そこにおしとどめ、追いつめ、探し出し、斬り殺し、刺し殺し、たたき殺し、踏み殺せ」と命ぜられた。
この戦いで、一揆衆は一万二千人以上が討ち取られ、三万から四万にものぼる者たちが奴婢(奴隷)として尾張や美濃に送られたと聞く。
いくさが終わったあと、信長公は、越前八郡七十五万石とその拠点として北庄城を柴田権六どのにお与えになった。
権六どのは、だいたい九月初旬には、越後に入られたやに聞きおよぶ。
そして、越前府中十万石は、前田犬千代(利家)どの、佐々内蔵助どの、不破光治どのに相知にされた。
相知について、木下どのならご存知であろう?
相知とは、同じ土地を三人協力しておさめていくことよ。だから、十万石を三万三千石ずつ均等割したとはわけが違うのだよ。
お分かりか? 渡辺どの。
いわゆる三頭政治というものさ。
よろしい。
ではつづけよう。
この前田、佐々、不破の三名は、おさめておる土地からその名をとって「府中三人衆」と呼ばれた。
府中三人衆は、柴田どのの与力ではあるが、そのおこないを監視する役割ももたされておる。つまり目付の役じゃな。よって柴田どのが暴走した場合、この三名が押さえ役を担うというわけ。
一方で、柴田どのは柴田どので、この三者を与力として使いつつ、監視、指示もおこなうという、相互での見合を信長公は命ぜられた。
まあ、さして驚くべきことでもあるまい。
こうして越前の一向一揆は鎮められたが、隣国加賀も「百姓のもちたる国」であったのだが、この加賀も、天正八年ごろぐらいまでには織田軍に掃討され、越前一向一揆の指導者で唯一難を逃れて加賀へ逃亡していた七里頼周も、このとき捕らえられて処刑されたらしい。
こうして北陸の一向一揆はおさまった。
信長公の強権と強力な指導力の賜物よな。
うむ。
木下どのは越前の一揆のできごとはご存じかな?
ご存知ない?
左様さね、ちょっと詳しくお話しよう。
越前の一向一揆は、大きく分けてふたつの期間に分けられる。
天正二年の土一揆と天正三年の信長公と一向一揆との戦いとである。
では、天正二年の土一揆について語ろう。
そもそもの発端は、天正元年に信長公が越前の国主だった朝倉義景を討ったことに端緒がある。
ここで信長公は、朝倉の旧臣たちを許し、それぞれ城を与えて安堵した。
そのなかで、信長公がどこを気に入ったのか判らぬが、前波吉継という小人に越前の「守護代」を務めるよう指示された。前波吉継はこのとき、桂田長俊と名前を変えた。長俊の長は信長公の長の字の偏諱であることはつけ加えておこう。これだけの厚遇をみせた信長公のお考えが、ほんにわたしにはよく判らない。
なぜかって?
それは前波吉継改め桂田長俊という人物が、とるに足らない小人であったからよ。
前波吉継は、もともと朝倉家中で重臣であったわけでも無かったので、朝倉旧臣の妬みもあって、――で、特に富田長繁は前波と朝倉家臣であったころからの犬猿の仲であったため、前波吉継を敵視するようになった。
さらに悪いことに、前波吉継は信長公の厚遇にあぐらをかき、もと同格であった者たちに対して、尊大で無礼な態度をとり、結果、天正二年になると、富田長繁は吉継を滅ぼすべく、越前中の村々の有力者をかたり、反前波の土一揆をおこしたのだ。
一揆の総数は三万以上にのぼり、それだけの兵力に囲まれた一乗谷はすぐさま落ち、前波吉継は討ち取られた。
これで一揆はおさまるやに思われたが、富田は策謀をめぐらして前波成敗の宴を開くと称して、魚住景固を手始めに謀略を尽くして魚住一族を滅亡させてしまった。
しかしながら、富田はもちろん、一揆方とも敵対していなかった魚住一族を富田が先導して討ったことで、一揆衆が富田に対して疑心を持ったのである。
結果、富田長繁は一向一揆側と手切れし、反撃を企てたが、一揆衆の逆襲にあって、討死したのさ。
そのご、一揆衆に通じた安居景健、朝倉景胤などの一部の将を除いて、朝倉旧家臣団はことごとく一揆衆にほろぼされ、「百姓のもちたる国」となったのだ。
これにより、信長公は、越前への影響力を失った。しかし、当時の織田家は武田氏や長島の一向一揆、大坂本願寺など、多方面の敵対勢力に対処しており、越前に兵を割くまでの余裕がなかった。
百姓のもちたる国になったのだが、一揆衆の指導者である、七里頼周や大坂の石山本願寺から派遣された下間頼照ら坊官の政治は、みずからの私利私欲を満たすためにおこなわれた。一例を挙げれば、織田氏との臨戦下にあるとして、前波吉継以上の重税や賦役を一揆衆に課したのだ。ために七里や下間は一揆衆から見放され、急速に指導力を失い、一揆内一揆が発生するという泥沼となった。
越前一揆は内部から崩壊していったのだ――。
どうかな、これが越前一揆の前期の物語よ。
なぜ、こう、長々と越前一揆の話をしたかというと、このあと、これの鎮圧に柴田権六どのが尽力されたからにほかならないからさ。
それに、この一揆勢の討伐には、長秀さまも担当されておって、実はそれがしもこれには参陣しておる。だから、こう詳しくお話しできるというわけなのよ。
お二方、お分かりよな?
このように混沌と化した越前を乱麻を断つように解決に向けて尽力されたのが、柴田どのをはじめとする織田家中の面々なのだ。
しかもつけ加えると、この越前一揆を鎮めると、信長公は越前八郡を柴田どのに委ねられる。つまり、柴田権六どのの織田家中における北陸支配の黎明がここにあるのだ。
よって、ここを詳しく語っておる。
よろしいか?
すでにお話したが、七里頼周や下間頼照など、本願寺の息のかかった坊官どもは、自身の私利私欲のために、重税や賦役を、容赦なく越前の民百姓にかけた。
これに天台宗や真言宗が激怒した。この怒りに呼応して、国人衆や民衆はおろか、ついには越前の一向門徒までが反発をして、天正三年の声を聞くと、一揆の一揆が起きるという混沌を示した。
一方、いわゆる信長包囲網を破りつつあった信長公は、天正三年五月に武田勝頼率いる武田騎馬軍団を長篠で破り、背後の憂いを断つと、越前の一向一揆の分裂状態を奇貨として、越前への侵攻を決められた。
八月十二日に岐阜を発たれた信長公は、翌十三日には、羽柴秀吉を名乗っておられた関白殿下の守る小谷城に入られ、この小谷城から兵糧を持ちだして、全軍に配られた。
そして公は、十四日には若狭の敦賀城に入った。
八月十五日はほんに風雨の強い日でな、みな苦吟しながら越前に入ったものよ。むろんそのなかにわしも参加しておってな、ほんに厳しい行軍であったよ。
織田軍は、三万をこえる大兵でな、指揮官も筆頭家老の佐久間信盛さまは当然のこと、次席家老の柴田権六どの、わが旧主丹羽長秀さま、また織田五大将と称された、滝川一益さま、羽柴を名乗っておいでだったころの関白殿下、惟任日向(明智光秀)、またこのあと北陸を柴田さまが管轄されるが、その与力として付けられた前田犬千代(利家)どのや佐々内蔵助成政どのなどなど、一門連枝、尾張衆、美濃衆、近江衆、伊勢衆などなど、信長公の支配下にある領国の兵らがみな動員されて越前に向かった。
軍勢の最前列には、織田方に寝返った越前衆――、つまり越前の国人や浪人、宗徒などなどが配置された。まあ、これはいくさの常套ゆえ、驚くにはあたらぬが。
海からは織田水軍数百艘が、おのおのの将に率いられて、越前の湊や浦から上陸し、放火して回った。
織田軍は二三日のうちに一勢を平らげて、指揮をとっていた将官を次々に討ち取った。
結果、一揆は指導者を失い、完全に崩壊した。一揆に参加していた者どもは、混乱しながら山中に逃げた。
これに対して信長公は、「諸坊主や土一揆の者どもは、加賀国に落ちていくはずだ。加賀を目指さぬ者は、ある者は山林、ある者は渓谷、または藪の影、岩の狭間などに逃れるところを、わが全軍をもって、そこにおしとどめ、追いつめ、探し出し、斬り殺し、刺し殺し、たたき殺し、踏み殺せ」と命ぜられた。
この戦いで、一揆衆は一万二千人以上が討ち取られ、三万から四万にものぼる者たちが奴婢(奴隷)として尾張や美濃に送られたと聞く。
いくさが終わったあと、信長公は、越前八郡七十五万石とその拠点として北庄城を柴田権六どのにお与えになった。
権六どのは、だいたい九月初旬には、越後に入られたやに聞きおよぶ。
そして、越前府中十万石は、前田犬千代(利家)どの、佐々内蔵助どの、不破光治どのに相知にされた。
相知について、木下どのならご存知であろう?
相知とは、同じ土地を三人協力しておさめていくことよ。だから、十万石を三万三千石ずつ均等割したとはわけが違うのだよ。
お分かりか? 渡辺どの。
いわゆる三頭政治というものさ。
よろしい。
ではつづけよう。
この前田、佐々、不破の三名は、おさめておる土地からその名をとって「府中三人衆」と呼ばれた。
府中三人衆は、柴田どのの与力ではあるが、そのおこないを監視する役割ももたされておる。つまり目付の役じゃな。よって柴田どのが暴走した場合、この三名が押さえ役を担うというわけ。
一方で、柴田どのは柴田どので、この三者を与力として使いつつ、監視、指示もおこなうという、相互での見合を信長公は命ぜられた。
まあ、さして驚くべきことでもあるまい。
こうして越前の一向一揆は鎮められたが、隣国加賀も「百姓のもちたる国」であったのだが、この加賀も、天正八年ごろぐらいまでには織田軍に掃討され、越前一向一揆の指導者で唯一難を逃れて加賀へ逃亡していた七里頼周も、このとき捕らえられて処刑されたらしい。
こうして北陸の一向一揆はおさまった。
信長公の強権と強力な指導力の賜物よな。
うむ。
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