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第二章 若き権六の肖像
林一吉ものがたる その1
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いやね、柴田権六どののことをお話しするのはやぶさかではないですよ。ただし、関白殿下に睨まれるのは、わたしとて御免です。そこのところはどうなっていますか?
え?
茶々さまが関白様をやり込めるから、大船に乗った気で話してほしいですって?
あなた、たしか、渡辺力さまでしたかな? ずいぶんと自信がおありみたいだが、本当にわたしの将来を請け負ってもらいますよ?
こほん。
まあ、よろしい。
お話ししましょう。
まず、人払いをしますかな。
鬼頭、下がれ。うむ。あとはわたしが引き受ける。
さて、鬼頭も所払いさせたところで、これでこの場におるのは、我ら三名だけですな。
では、改めて。
なにからお話ししましょうかな。
うーん、なにから話そうか。
そうだ。
まず、あらためて名乗りからいたすかな。
わたしの名前は、林伊賀守一吉と申す。
もう御挨拶済みでござったな。
実はな、一吉の「かつ」の字は、もともと勝ち戦などの「勝」の字を使っておったのですよ。それがもともとのわたしの諱だったのです。
そう、字で書くと『勝吉』です。
まあ、話の行方でいずれは触れると思いますが、いまわたしは、山内一豊さまに仕えておりましてな、一豊様から「一」の字を偏諱いただいて、『一吉』となったわけです。もちろん読みは同じ『かつよし』なんですよ。
関白殿下の甥御さまの羽柴秀次公が、大幅な加増を受けられて、その大屋台を支えるため、田中吉政さま、堀尾吉晴さま、中村一氏さま、一柳直末さまとともに、山内一豊さまも、関白殿下からの命を受けられて、宿老として秀次公におつきになったのでございますよ。
わたしの記憶が確かなら、天正十三年(一五八五)に若狭国の高浜城主に秀次公がなられ、そしてほどなく近江八幡に転封されると、わが主、山内一豊さまも近江へ転属となって長浜城を預けられ、二万石を領されたというわけでした。
そして、このわたしは山内一豊さまに仕え、この長浜で二百五十石の扶持を受けております。
まあ、贅沢をいえばきりが無いですが、毎日を暮らす生活については苦労をおぼえたことはございません。もっとも、本能寺の政変で、多くの侍が職を失って浪人となったことを考えあわせると、わたしは幸運だったやに思います。はい。
わたしのこのあたりの話は、柴田どのの話をすすめるにつれて、関連して出てまいりますので、とりあえず、ここらで止めておくとしますかな。
まあ、話は長くなりますよ。
お二方も足をくずされてくつろがれませ。
そうそう、かたくなられますな。
では、本題といきましょうか。
話し始めは、信長公のお父上、織田信秀公の話からはじめるとしましょう。
え? 聞きたいのは柴田勝家どのの話ですって?
そんなことはわかっておりますよ。
なんでも物事には順序というものがございますよ。信秀公の話をすることは、柴田権六どのの話をすることにもつながります。「急がば廻れ」という諺もござりましょう?
では、こほん。
そもそも織田氏の祖先はというと、越前にその祖を求めることができるのですよ。
具体的には、越前国の織田荘を苗字の土地とする一族なのです。
足利将軍家の一族に斯波氏がおりましてな、その斯波氏は公儀(室町幕府)の三管領家のひとつで、越前、尾張、遠江の守護を務めておりました。
そして守護の斯波氏の守護代の家のひとつが織田家というわけです。その織田家は斯波氏にしたがって尾張に下向してきた家のひとつなんです。さらに誤解のないようにお願いしたいのは、織田家は尾張の上四郡を支配する岩倉織田家と、下四郡を支配する清須織田家に分かれていて、信秀公はその清須織田家の三奉行の一人というお立場だったということ。これをおさえておいていただきたい。
え? 思っていたよりずいぶんと立場が低い?
そうそう、信秀公ご自身のお立場は、わたしたちが考えるよりずっと低かった。
しかし、信秀公は、金銀をもっておいでだった。
その源泉は、津島湊からあがるもろもろの運上(税金)なんですな。
信秀公のお父上の信貞公の時代に、三宅川などの河川交通の要衝である勝幡城を拠点に海西郡へ勢力をお伸ばしになって、伊勢湾の水上交通の重要な港町の津島をご掌握された。そして今申し上げたように、その運上の金銀が膨大な多寡となったというわけ。
関白殿下(秀吉)が、その地位にお昇りになられるのに、やはり湯水のように金銀をばらまかれたが、こうした金銀回りの良さが、自身の地位の向上につながるとはじめて見抜かれたのが、信秀公なんですな。
意外ですか?
でもこれは自明のことだったのです。
たとえば、天文の初め、都の公家の山科言継卿が尾張にご下向なされたとき、勝幡城内の信秀公のお館や、重臣の平手政秀の屋敷の造りの豪勢さに、目をお驚かしになられたとおっしゃっておられたのを思いだしましたよ。
贅沢な暮らしをしていたお公家さまですら、織田家の家臣にいたるまで、豪勢な家作りをしているとおどろかれるほど、その金銀回りの良さが垣間見られましょう。
信秀公はその金銀をもって、国中に頼み勢(援軍・傭兵)をなされ、近隣に威を揮ったのですよ。
近隣とは、北は美濃斎藤、東は三河松平、さらに東の駿河遠江の今川、あたりがよく干戈を交えた相手だったですな。
さて、いよいよ信長公の話をしましょうかね。
信長公はたしか、天文三年(一五三四)の生まれと聞き及んでおります。
尾張国の海東郡勝幡城で、織田信秀公のご嫡男としてお生まれあそばした。
御母堂は土田御前、幼名は吉法師を名乗られておられました。
実は信長公には信広どのというお兄上がおられたのですが、このお方は脇腹の子(庶出子)であり、土田御前がご正室であられたことから、信長公がご嫡男とされたと聞き及んでおります。
信長公がお生まれになった翌年、つまり天文四年に尾張の守山に、三河の松平清康――これは徳川家康どのの祖父にあたられる方ですが、この松平清康どのが尾張の守山に攻め込んできたのです。ところがここで清康どのはあろうことか、陣中でご自身のご家臣に殺されてしまわれた。多くの人びとはこれを「守山崩れ」などと呼んでおりますが、この暗殺話の裏に、信秀公がけしかけたやに言われる向きもございます。これについてはわたしの私見を申し述べさせていただくならば、首肯できると思います。
なぜなら、この守山崩れを奇貨として、信秀公は岡崎近くまで反攻されて、東方進出の足がかりをつくられておられます。
信秀公は、この守山崩れの機会を十全に働かせたいと思われたようです。
それで、天文七年ごろだとおぼえておりますが、那古野城の城主だった今川氏豊を騙し討ちにして城を奪い、吉法師を名乗っておられた信長公にお与えになったのです。
もちろん幼少の吉法師君が、国政をみることは不可能。それを補佐する者として、平手政秀とわたしの父である林佐渡守秀貞が家老として付属されたのです。
その立地場所から、東へ進出する橋頭堡として那古野城は位置していました。
さらに信秀公は、古渡に城を築いて、そこに住まわれ、本拠を東にお移しになった。これはもちろん、対松平、対今川への対処にまちがいないと父から聞いております。
さて、ちょっとここで休息をはさませてもらいたいですな。
実は、詳しい年月を失念してしまいましてな。
え? 年月などそれほど重要じゃない?
いやいや、わたしはそういうことはゆるがせにしたくないのですよ。
鬼頭、鬼頭、わしが昨晩まとめた書付をもってきてもらいたい。
「うむ。治部左衛門、ご苦労」
おー、おー、そうだ、そうだった。
うむ、うむ。思い出しました。
では、続きをば。
いやね、柴田権六どののことをお話しするのはやぶさかではないですよ。ただし、関白殿下に睨まれるのは、わたしとて御免です。そこのところはどうなっていますか?
え?
茶々さまが関白様をやり込めるから、大船に乗った気で話してほしいですって?
あなた、たしか、渡辺力さまでしたかな? ずいぶんと自信がおありみたいだが、本当にわたしの将来を請け負ってもらいますよ?
こほん。
まあ、よろしい。
お話ししましょう。
まず、人払いをしますかな。
鬼頭、下がれ。うむ。あとはわたしが引き受ける。
さて、鬼頭も所払いさせたところで、これでこの場におるのは、我ら三名だけですな。
では、改めて。
なにからお話ししましょうかな。
うーん、なにから話そうか。
そうだ。
まず、あらためて名乗りからいたすかな。
わたしの名前は、林伊賀守一吉と申す。
もう御挨拶済みでござったな。
実はな、一吉の「かつ」の字は、もともと勝ち戦などの「勝」の字を使っておったのですよ。それがもともとのわたしの諱だったのです。
そう、字で書くと『勝吉』です。
まあ、話の行方でいずれは触れると思いますが、いまわたしは、山内一豊さまに仕えておりましてな、一豊様から「一」の字を偏諱いただいて、『一吉』となったわけです。もちろん読みは同じ『かつよし』なんですよ。
関白殿下の甥御さまの羽柴秀次公が、大幅な加増を受けられて、その大屋台を支えるため、田中吉政さま、堀尾吉晴さま、中村一氏さま、一柳直末さまとともに、山内一豊さまも、関白殿下からの命を受けられて、宿老として秀次公におつきになったのでございますよ。
わたしの記憶が確かなら、天正十三年(一五八五)に若狭国の高浜城主に秀次公がなられ、そしてほどなく近江八幡に転封されると、わが主、山内一豊さまも近江へ転属となって長浜城を預けられ、二万石を領されたというわけでした。
そして、このわたしは山内一豊さまに仕え、この長浜で二百五十石の扶持を受けております。
まあ、贅沢をいえばきりが無いですが、毎日を暮らす生活については苦労をおぼえたことはございません。もっとも、本能寺の政変で、多くの侍が職を失って浪人となったことを考えあわせると、わたしは幸運だったやに思います。はい。
わたしのこのあたりの話は、柴田どのの話をすすめるにつれて、関連して出てまいりますので、とりあえず、ここらで止めておくとしますかな。
まあ、話は長くなりますよ。
お二方も足をくずされてくつろがれませ。
そうそう、かたくなられますな。
では、本題といきましょうか。
話し始めは、信長公のお父上、織田信秀公の話からはじめるとしましょう。
え? 聞きたいのは柴田勝家どのの話ですって?
そんなことはわかっておりますよ。
なんでも物事には順序というものがございますよ。信秀公の話をすることは、柴田権六どのの話をすることにもつながります。「急がば廻れ」という諺もござりましょう?
では、こほん。
そもそも織田氏の祖先はというと、越前にその祖を求めることができるのですよ。
具体的には、越前国の織田荘を苗字の土地とする一族なのです。
足利将軍家の一族に斯波氏がおりましてな、その斯波氏は公儀(室町幕府)の三管領家のひとつで、越前、尾張、遠江の守護を務めておりました。
そして守護の斯波氏の守護代の家のひとつが織田家というわけです。その織田家は斯波氏にしたがって尾張に下向してきた家のひとつなんです。さらに誤解のないようにお願いしたいのは、織田家は尾張の上四郡を支配する岩倉織田家と、下四郡を支配する清須織田家に分かれていて、信秀公はその清須織田家の三奉行の一人というお立場だったということ。これをおさえておいていただきたい。
え? 思っていたよりずいぶんと立場が低い?
そうそう、信秀公ご自身のお立場は、わたしたちが考えるよりずっと低かった。
しかし、信秀公は、金銀をもっておいでだった。
その源泉は、津島湊からあがるもろもろの運上(税金)なんですな。
信秀公のお父上の信貞公の時代に、三宅川などの河川交通の要衝である勝幡城を拠点に海西郡へ勢力をお伸ばしになって、伊勢湾の水上交通の重要な港町の津島をご掌握された。そして今申し上げたように、その運上の金銀が膨大な多寡となったというわけ。
関白殿下(秀吉)が、その地位にお昇りになられるのに、やはり湯水のように金銀をばらまかれたが、こうした金銀回りの良さが、自身の地位の向上につながるとはじめて見抜かれたのが、信秀公なんですな。
意外ですか?
でもこれは自明のことだったのです。
たとえば、天文の初め、都の公家の山科言継卿が尾張にご下向なされたとき、勝幡城内の信秀公のお館や、重臣の平手政秀の屋敷の造りの豪勢さに、目をお驚かしになられたとおっしゃっておられたのを思いだしましたよ。
贅沢な暮らしをしていたお公家さまですら、織田家の家臣にいたるまで、豪勢な家作りをしているとおどろかれるほど、その金銀回りの良さが垣間見られましょう。
信秀公はその金銀をもって、国中に頼み勢(援軍・傭兵)をなされ、近隣に威を揮ったのですよ。
近隣とは、北は美濃斎藤、東は三河松平、さらに東の駿河遠江の今川、あたりがよく干戈を交えた相手だったですな。
さて、いよいよ信長公の話をしましょうかね。
信長公はたしか、天文三年(一五三四)の生まれと聞き及んでおります。
尾張国の海東郡勝幡城で、織田信秀公のご嫡男としてお生まれあそばした。
御母堂は土田御前、幼名は吉法師を名乗られておられました。
実は信長公には信広どのというお兄上がおられたのですが、このお方は脇腹の子(庶出子)であり、土田御前がご正室であられたことから、信長公がご嫡男とされたと聞き及んでおります。
信長公がお生まれになった翌年、つまり天文四年に尾張の守山に、三河の松平清康――これは徳川家康どのの祖父にあたられる方ですが、この松平清康どのが尾張の守山に攻め込んできたのです。ところがここで清康どのはあろうことか、陣中でご自身のご家臣に殺されてしまわれた。多くの人びとはこれを「守山崩れ」などと呼んでおりますが、この暗殺話の裏に、信秀公がけしかけたやに言われる向きもございます。これについてはわたしの私見を申し述べさせていただくならば、首肯できると思います。
なぜなら、この守山崩れを奇貨として、信秀公は岡崎近くまで反攻されて、東方進出の足がかりをつくられておられます。
信秀公は、この守山崩れの機会を十全に働かせたいと思われたようです。
それで、天文七年ごろだとおぼえておりますが、那古野城の城主だった今川氏豊を騙し討ちにして城を奪い、吉法師を名乗っておられた信長公にお与えになったのです。
もちろん幼少の吉法師君が、国政をみることは不可能。それを補佐する者として、平手政秀とわたしの父である林佐渡守秀貞が家老として付属されたのです。
その立地場所から、東へ進出する橋頭堡として那古野城は位置していました。
さらに信秀公は、古渡に城を築いて、そこに住まわれ、本拠を東にお移しになった。これはもちろん、対松平、対今川への対処にまちがいないと父から聞いております。
さて、ちょっとここで休息をはさませてもらいたいですな。
実は、詳しい年月を失念してしまいましてな。
え? 年月などそれほど重要じゃない?
いやいや、わたしはそういうことはゆるがせにしたくないのですよ。
鬼頭、鬼頭、わしが昨晩まとめた書付をもってきてもらいたい。
「うむ。治部左衛門、ご苦労」
おー、おー、そうだ、そうだった。
うむ、うむ。思い出しました。
では、続きをば。
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