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22日目【手の甲:敬愛】03
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なんだか外が騒がしい。なすすべもなく寝台に横になっていたしおんは、声のする窓辺から外を見おろした。
龍郷の部屋は車寄せの上に位置していて、そこから見える庭木は確か馬酔木だ。春になると白い花が咲くと聞いた気がする。
馬酔木にしては大木のそれは今の季節ただ丈夫な緑色の葉をつけているだけのはずだが、ぽつ、と灯りが灯るように黄色の花がひとつ、咲いていた。
――いや、 花に見えたのは鳥だ。小さなカナリア。
鮮やかな色は返ってこの寒空に痛々しい。凍えているのか、怯えているのか、カナリアはじっと固まってしまったかのように動かなかった。
なんであんなところに。どこからか逃げてきたのか? そんなことを考えているうちに、再び階下で人の声が騒がしくなった。
「旦那様、すぐに庭師を呼んで参りますから」
「心配するな。英吉利では退屈な授業をさぼるとき、木登りして隠れたもんだ。梯子は抑えておいてくれよ」
まったく威張れもしないことを堂々と告げている。辺りが一転静かになったのは、制止を振り切って登り始めてしまったのだろう。しばらくして、龍郷の形の良い後ろ頭が見え、しおんは思わず窓を開けた。どうやらあのカナリアを捕まえようとしているようだ。
なんでそんなことになってんだ? 使用人がいくらでもいるだろ。 気をつけろ、と声をかけようとして我に返る。
くそ、声が。
無念さを噛みしめることしか出来ず、ただはらはらと見守る。
あいつといると、いつもこうだ。
いつでも俺はしてやれることが少なくて、ただ狼狽えたり悔しがったりしているだけなんだ。
他に類を見ないほど大きくなったといっても、所詮は馬酔木だ。太い枝などない。梯子を支えているのは女中なのか、ときどきぐらぐらと揺れているのが気になる。
龍郷は梯子の先端ギリギリまで登り、カナリアに腕を伸ばした。 「おいで」
手招きしているようだが、普段世話をしているわけでもない小鳥は簡単に寄ってこない。
本人もそれに気がついたのだろう。ぐっと身を乗り出す。
片手の指先が触れそうになったとき、カナリアは避けるように羽ばたいた。
「ま、――」
あとひと息。そんな思いが判断力を鈍らせたのか。龍郷の体が大きく傾ぐ。 きゃあ、という悲鳴が聞こえると同時、龍郷の姿はしおんの視界から消えた。
大階段を駆け下りて、裸足のまま外に飛び出す。
りゅうごう、 龍郷、龍郷――
何度も呼ぶ名前はしかし、一向に音にならない。ただ発散されることもなく、骨まで軋ませるかのように、体の中を震わせる。
夏、まだ焼け落ちる前の大階段で奴に庇われた日の光景が脳裏にちかちかとよみがえった。
みるみる床に広がっていった、あの赤い色。 考えまいと思えば思うほどその光景はしおんを苛んだ。
「…………!」
立ち尽くす使用人たちを掻き分けて、馬酔木の木の根元にまろび出る。
「しおん?」
声にならない叫びは内側からしおんの未だ華奢な体を裂きそうなほどだったのに、龍郷は呆気に取られたような顔で言う。
――え、
見れば、龍郷の体は小山ほどに積み上げられた枯葉に埋もれていた。
寝室の窓と龍郷の顔とに視線を走らせると、龍郷は事の次第に気がついたらしい。
「見てたのか。昨日の暴風雨で落ちた葉を庭師がここに集めてあって……おかげで命拾いした」
「――、!」
何事もなかったかのように、けろりとした表情で。
しおんは起き上がろうとする龍郷を乱暴に押し返すと、馬乗りになってその胸板をどんどんと叩いた。
「旦那様!」
集まっていた使用人たちが色めき立つ。構わずにしおんは龍郷を小さな拳で殴り続けた。
――ばかか。
――なんでこんなこと。
一度ならず二度までも、俺の心臓を潰そうとする。
「……、……!」
「いて、痛い、やめないか、しおん。――しおん? ……泣いているのか?」
諌めていた龍郷の声音が、不意に戸惑いの色に染まる。しおんはそのとき初めて自分の頬を濡らすものに気がついた。
「泣くな、しおん。……おまえに泣かれると俺は、どうしたらいいのかわからなくなる」
俺だって、どうしたらいいかなんてわかんねえ――そんな言葉さえ声にはならず、拭っても拭ってもあふれ出る。
きりがないそれを諦めて流れるままにしていると、龍郷の両手が伸びてきて、親指の腹が目の下をそっと拭った。
「心配させて悪かった。逃したくなかったんだ。……おまえに似たあの鳥を、逃したくなかった」
――おれ?
またたくと、まつ毛にたまった涙が頬を伝う。龍郷はそれを丁寧に拭った。
「我ながらばかげていると思うが、ついおまえに重ねた。俺の元を離れて行こうとするおまえに」
そう口にして、龍郷は当初の目的を思い出したようだった。しおんごし樹上を見上げ「結局逃げられた」と肩をすくめる。
「……初めてなんだ。去って行こうとする誰かを繋ぎとめたいなんて思うのは。だから勝手がわからない」
そう呟く龍郷の瞳の中に映る自分は、酷く戸惑った顔をしていた。
「だからつい頭に血が上って、昨夜は乱暴にして悪かった。……出て行くのなら、野々宮でなくまず俺に言ってくれ。おまえがここ以外でも生きていけるよう、精一杯のことを」
淡々と紡ぐ言葉の語尾が、柄にもなく早口になる。紡げば紡ぐほど表情は険しく苦しげになっていく。
「――ちがう!」
だから思わずさえぎるように叫んでいた。
「違う。俺だって出て行きたくなんかない。でもあの日、記者がまだうろついてて。俺がここにいる限りまたつきまとわれるのかって思ったから」
「……しおん」
「でもそんなこといちいちあんたに報告して煩わせたくなかったし、そもそも――」
「しおん」
両腕を掴んで揺すぶられる。龍郷が人の話を聞かないのはいつものことだ。だが今は大事な話を―― 話を。
「あ……れ……?」
声が出せる。微かに違和感はあるものの、もう、どうやって自分が声を出していたのかと悩むことはない。むしろなぜ出せずにいたのかわからないくらいだ。
「俺、声が、――」
あらためて呟いたとき、今度は別の衝撃で言葉を失う。龍郷が起き上がり、きつく体を抱きしめてきたからだ。
「りゅ、りゅうご」
妙なところで冷静になって、辺りを見回すと、いつのまにか使用人たちの姿は消えていた。きっと女中頭の仕事だ。
「しおん」
しおん。
まるで龍郷のほうがそれ以外の言葉を失ったかのようにくり返し、抱きしめてくる。
しおんもまた、他になにも持たない少年のような男の体を、ぎゅっと抱きしめた。
龍郷の部屋は車寄せの上に位置していて、そこから見える庭木は確か馬酔木だ。春になると白い花が咲くと聞いた気がする。
馬酔木にしては大木のそれは今の季節ただ丈夫な緑色の葉をつけているだけのはずだが、ぽつ、と灯りが灯るように黄色の花がひとつ、咲いていた。
――いや、 花に見えたのは鳥だ。小さなカナリア。
鮮やかな色は返ってこの寒空に痛々しい。凍えているのか、怯えているのか、カナリアはじっと固まってしまったかのように動かなかった。
なんであんなところに。どこからか逃げてきたのか? そんなことを考えているうちに、再び階下で人の声が騒がしくなった。
「旦那様、すぐに庭師を呼んで参りますから」
「心配するな。英吉利では退屈な授業をさぼるとき、木登りして隠れたもんだ。梯子は抑えておいてくれよ」
まったく威張れもしないことを堂々と告げている。辺りが一転静かになったのは、制止を振り切って登り始めてしまったのだろう。しばらくして、龍郷の形の良い後ろ頭が見え、しおんは思わず窓を開けた。どうやらあのカナリアを捕まえようとしているようだ。
なんでそんなことになってんだ? 使用人がいくらでもいるだろ。 気をつけろ、と声をかけようとして我に返る。
くそ、声が。
無念さを噛みしめることしか出来ず、ただはらはらと見守る。
あいつといると、いつもこうだ。
いつでも俺はしてやれることが少なくて、ただ狼狽えたり悔しがったりしているだけなんだ。
他に類を見ないほど大きくなったといっても、所詮は馬酔木だ。太い枝などない。梯子を支えているのは女中なのか、ときどきぐらぐらと揺れているのが気になる。
龍郷は梯子の先端ギリギリまで登り、カナリアに腕を伸ばした。 「おいで」
手招きしているようだが、普段世話をしているわけでもない小鳥は簡単に寄ってこない。
本人もそれに気がついたのだろう。ぐっと身を乗り出す。
片手の指先が触れそうになったとき、カナリアは避けるように羽ばたいた。
「ま、――」
あとひと息。そんな思いが判断力を鈍らせたのか。龍郷の体が大きく傾ぐ。 きゃあ、という悲鳴が聞こえると同時、龍郷の姿はしおんの視界から消えた。
大階段を駆け下りて、裸足のまま外に飛び出す。
りゅうごう、 龍郷、龍郷――
何度も呼ぶ名前はしかし、一向に音にならない。ただ発散されることもなく、骨まで軋ませるかのように、体の中を震わせる。
夏、まだ焼け落ちる前の大階段で奴に庇われた日の光景が脳裏にちかちかとよみがえった。
みるみる床に広がっていった、あの赤い色。 考えまいと思えば思うほどその光景はしおんを苛んだ。
「…………!」
立ち尽くす使用人たちを掻き分けて、馬酔木の木の根元にまろび出る。
「しおん?」
声にならない叫びは内側からしおんの未だ華奢な体を裂きそうなほどだったのに、龍郷は呆気に取られたような顔で言う。
――え、
見れば、龍郷の体は小山ほどに積み上げられた枯葉に埋もれていた。
寝室の窓と龍郷の顔とに視線を走らせると、龍郷は事の次第に気がついたらしい。
「見てたのか。昨日の暴風雨で落ちた葉を庭師がここに集めてあって……おかげで命拾いした」
「――、!」
何事もなかったかのように、けろりとした表情で。
しおんは起き上がろうとする龍郷を乱暴に押し返すと、馬乗りになってその胸板をどんどんと叩いた。
「旦那様!」
集まっていた使用人たちが色めき立つ。構わずにしおんは龍郷を小さな拳で殴り続けた。
――ばかか。
――なんでこんなこと。
一度ならず二度までも、俺の心臓を潰そうとする。
「……、……!」
「いて、痛い、やめないか、しおん。――しおん? ……泣いているのか?」
諌めていた龍郷の声音が、不意に戸惑いの色に染まる。しおんはそのとき初めて自分の頬を濡らすものに気がついた。
「泣くな、しおん。……おまえに泣かれると俺は、どうしたらいいのかわからなくなる」
俺だって、どうしたらいいかなんてわかんねえ――そんな言葉さえ声にはならず、拭っても拭ってもあふれ出る。
きりがないそれを諦めて流れるままにしていると、龍郷の両手が伸びてきて、親指の腹が目の下をそっと拭った。
「心配させて悪かった。逃したくなかったんだ。……おまえに似たあの鳥を、逃したくなかった」
――おれ?
またたくと、まつ毛にたまった涙が頬を伝う。龍郷はそれを丁寧に拭った。
「我ながらばかげていると思うが、ついおまえに重ねた。俺の元を離れて行こうとするおまえに」
そう口にして、龍郷は当初の目的を思い出したようだった。しおんごし樹上を見上げ「結局逃げられた」と肩をすくめる。
「……初めてなんだ。去って行こうとする誰かを繋ぎとめたいなんて思うのは。だから勝手がわからない」
そう呟く龍郷の瞳の中に映る自分は、酷く戸惑った顔をしていた。
「だからつい頭に血が上って、昨夜は乱暴にして悪かった。……出て行くのなら、野々宮でなくまず俺に言ってくれ。おまえがここ以外でも生きていけるよう、精一杯のことを」
淡々と紡ぐ言葉の語尾が、柄にもなく早口になる。紡げば紡ぐほど表情は険しく苦しげになっていく。
「――ちがう!」
だから思わずさえぎるように叫んでいた。
「違う。俺だって出て行きたくなんかない。でもあの日、記者がまだうろついてて。俺がここにいる限りまたつきまとわれるのかって思ったから」
「……しおん」
「でもそんなこといちいちあんたに報告して煩わせたくなかったし、そもそも――」
「しおん」
両腕を掴んで揺すぶられる。龍郷が人の話を聞かないのはいつものことだ。だが今は大事な話を―― 話を。
「あ……れ……?」
声が出せる。微かに違和感はあるものの、もう、どうやって自分が声を出していたのかと悩むことはない。むしろなぜ出せずにいたのかわからないくらいだ。
「俺、声が、――」
あらためて呟いたとき、今度は別の衝撃で言葉を失う。龍郷が起き上がり、きつく体を抱きしめてきたからだ。
「りゅ、りゅうご」
妙なところで冷静になって、辺りを見回すと、いつのまにか使用人たちの姿は消えていた。きっと女中頭の仕事だ。
「しおん」
しおん。
まるで龍郷のほうがそれ以外の言葉を失ったかのようにくり返し、抱きしめてくる。
しおんもまた、他になにも持たない少年のような男の体を、ぎゅっと抱きしめた。
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