みなしごと百貨の王

あまみや慈雨

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21日目【喉:欲求】

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以前は店に泊まり込むこともあった。そんなときでも平気で眠れるのは特技の一つだったのに、今朝は冴えない気分だ。
 昨日、しおんは約束をすっぽかした。掏摸だったのは暮らしのためで、その性根は真面目なしおんのことだ。なにか理由があるのだろうとは思っていたが、帰宅してその姿をひと目見るまでは、生きた心地がしなかった。 理由を問うても、頑ななあの態度だ。
 どうも少し前からなにかを隠しているのは明らかなのに。 「足の甲」 の文字に従って、しおんが足跪いたとき、自分の胸のうちに、暗い快感がわきあがるのを感じた。
 まるで忠誠を――もっというなら隷属を誓うようではないか? そう思った。この、生意気で、けれど美しい存在が、自分の前に額ずかんばかりにしている。正直疼いた。心臓の奥が、錐でも突き立てられたようだったのに、同時に悦んでもいた――
 そのまま口づけをしようとする、すんでのところで我に返ったのは、我ながら僥倖だったと思う。
あのまま暗い情動に引き摺られていたら、どうなっていただろう。自分を貶めるなと偉そうに語ったのは、他でもない自分自身だったはずなのに。
 英吉利にいた頃は良かった。
誰も大切ではなかったし、誰も本気ではなかった。
横柄な親の都合で異国に連れて来られた可哀想な少年、と己に酔っていれば許された。
 だが今は違う。 住むところ、充分な食事、温かな寝床。それらがあって、いつも傍にいる。本気で手に入れようと思うと、それだけのことが、どうしてこんなに難しい。
 そんな想いを抱えたまま一日仕事をするのは、存外疲れるものだった。自分という皮の中で、中身はなにか取り違えてしまったような制御出来なさがあって、落ち着かない。

 しおんの姿を見かけたのは、仮店舗に顔を出したときのことだった。咄嗟に物陰に身を寄せてしまったのは、心に後ろ暗いことがあるからだ。 経済界の寵児と言われたこの俺が――情けないとはこういう感情のことを言うんだろうか。
 少年音楽隊の隊員が全員集まっているのは、ここで集合して公演先へ向かうからだろう。
 震災の際、百貨店が所持している十五台の自動車は、幸いなことにすべて無事で、品物や彼らを運ぶのに今も活躍してくれている。車を待つ集団の中で、しおんはいつもと変わらないように見えた。こんなときこそ華やかな衣装をと作らせた、赤いケープ付きの衣装がよく似合っている。 
ふとその瞳がまたたいて、なにかをとらえた。視線の先をやってくるのは野々宮だ。しおんは音楽教師になにか囁いている。その表情と口元から察するに「少しだけ」
 こんな短い時間を惜しんで、野々宮と話したいことが? 気がつくと龍郷は、売り場をそっと移動していた。

 日が暮れると降り出した雨は激しさを増して、邸の窓を容赦なく叩いていた。 今日は珍しく龍郷のほうが帰宅が早かった。音楽隊は今日は銘仙の工場がある秩父まで出向いて慰労の会を行ったはずだから、この雨で足止めをくらっているのだろう。 雨音の中にエンジン音を聞き分けて思わず立ち上がると、程なくしてしおんが現れた。車寄せも無意味なほど降り込んでいたのか、髪が濡れている。 
「ただいま。秩父は遠いな。風呂に入ってくる」
 しおんはいつもの調子で言うが、龍郷の顔を見たほんの一瞬、気まずそうな顔をしたのを龍郷は見逃さなかった。 頭の中には、昼盗み聞いたやり取りがくり返し現れる。
 『 ――家を借りるにはいくらかかるかって? なにか龍郷に酷いことでもされた? 』
『そういうわけじゃないけど……ただ、借りるとしたらいくらくらいなのか、どうしたらいいのか、知りたいと思って……他に、訊ける奴もいないし』 
『そうだね。選択肢を増やしておくのは悪いことじゃない。まあ実際問題としてまずしおんくんの年齢ではひとりでは借りられないから、そこをどうするかなんだけど……』
 しおんが家を借りたがっている、ということの意味が掴めるまで、少しかかった。

 この邸を出て行きたい、のか?

 どうしてだ? 最近やたらと野々宮とこそこそやり取りしていたのは、ずっとそれを相談していたのだろうか。
 初めは無理矢理連れてきた邸だ。嫌な印象もあるのかもしれない。けれど書斎だって風呂だって、気に入っているように見えたのに。 バスルームに向かう。浴槽に浸かっていたしおんは、思い切り渋面になった。 
「なんだよ」
 「今日の分」
 もうすっかりそれだけでなんのことかわかるようになってしまった言葉を口にすると、しおんは気怠げに手を振った。 
「ちゃんとするよ。あとでな」
 「この邸を出ていきたいのか?」
 カレンダーを口実に、搦め手で――バスルームに足を踏み込んだところまでは、たしかにちゃんとそう計算していたはずだったのに、我ながら台無しだ。だが放った言葉はいまさら戻らない。 
浴槽の中からしおんが見上げる。
 「聞いてたのか。別に、今すぐって話じゃなくて、もしも家を借りるなら、どうしたらいいのかなって話をしてただけ」
「なぜ俺に訊かない?」
「あんたは忙しいし、そんなこと、知らないかもって思ったんだよ」 
「野々宮だって借家で暮らしたことはないと思うが」
 「でも仕事で色々手配はしてるだろ。だから」
 「あいつより俺のほうが世間知らずだと?」
 「そんなことは言ってねえだろ!? 俺はただ――」
 しおんの瞳が、興奮したときの常で色を濃くする。それから、すぐにそんな自分を閉じ込めるように口を噤んだ。
 「ただ?」
 「なんでもない」 
頑なに目をそらす。あまつさえそらしたまま「寒ィから閉めろよ、そこ」などと話を打ち切る姿勢を隠しもしない。
 頭にかっと血がのぼった。
 背けたしおんの顎を強引に捉える。いつもなら、どんな繊細な硝子細工に触れるよりやさしく扱うのに、今は加減など出来なかった。湯が揺れて、まるで胸のうちを映し取るかのような波を立てる。しおんの白い肌は湯に濡れて一層透き通り、抵抗さえかつて味わったことのない残酷な快感に火をつけた。
 「なにすんだ、よ……っ!」         
  喚く唇を塞ぎ、胸に色づく小さな果実を摘んだ。
 「……っ!」
 無防備にあおのいた喉元に、噛みつくように口づける。

 出ていくなんて許さない。
 離れるなんて、許すものか。
 おまえは俺のものだ――

 肌を濡らすのはただの湯であるはずなのに、しおんの肌は甘かった。まるで今蜂蜜の中から生まれ出たと言われても信じられるくらいに。 服が濡れるのも構わず抱き寄せる。
 ――このまま、 衝動のまま抱いてしまおうと思ったとき、腕の中のしおんはがむしゃらに暴れ、龍郷を突き飛ばした。
 「――、」
 冷たい床に突き飛ばされ、我に返る。 しおんは浴槽の中に立ち、噎せながら喉元を押さえている。髪から水滴を滴らせ、頬も濡れた姿にいまさらながら罪悪感が込み上げて、龍郷は詫びた。 「すまない、しおん――」
 しおんは黙ったままなにも言わない。言葉もないほど怒らせたのか。 
「しおん、」
 さらに詰め寄って肩を抱こうとしたそのとき、しおんの異変に気がついた。瞳の奥で恐怖と驚愕とが交互に現れて綯い交ぜになっていく。
 「しおん、おまえ……声が出ない、のか?」

  答えようとする唇は、ただ震えるだけだった。
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