みなしごと百貨の王

あまみや慈雨

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20日目【足の甲:服従】

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微睡みから浮かび上がると、目の前に男の顔があった。
 「ん……龍郷、おまえ」
 まだいたのか、と寝ぼけ眼で思う。しおんが目覚める頃、龍郷は身支度を整えて仕事に出かけているのが常だ。昨夜だっていつ戻ってきたのか―― 
――ゆうべ。 いつものように寝台の上で龍郷の帰りを待って、それで……どうしたっけ? 
「俺、昨日の分」
「心配ない。寝てる間にちゃんと貰っておいた」 
「寝て……?」
 「よく眠っていて、なにをしても起きなかったぞ」
 龍郷は片手で自分の頭を支え、もう片方の手でしおんの髪に触れてくる。感触を味わうように指の間を滑らすと、耳を撫で、きゅっと耳たぶを摘む。顎にたどり着き、わずかに持ち上げられて覗き込む瞳にあるのは、含み笑い。
 「な、なにをしてもって」 
いったいなにをした。思わず体を確かめようとしたとき、気がつくと、龍郷は笑いをかみ殺していた。 からかわれたのだ。
「……おまえ……っ」 
「こら、叩くな。――蹴るな」
 龍郷は笑いながらしおんの蹴りを器用に避けて、寝台からおりる。着替えのために控えの間に向かいながら「今日は資生堂パーラーでお茶にするか」と言った。
「以前のランチでは邪魔が入ったからな」
 覚えてたのか、そんなこと。
「いいけど、時間あるのか」
「作るさ。お互い出先から落ち合えばちょうどいいだろう」 
「わかった。付き合ってやる」
 しおんはそういうと、のそのそと寝台から這い出た。浮き足立っているのを悟られないように。

 あちこちから普請の音が聞こえてくる。あれだけの大惨事だったのに、早くも新しい店舗が続々と出来、銀座は以前より整然と、より煌びやかになっていくようだった。
 資生堂パーラーも11月にはバラックの仮店舗で営業を始めている。
 バラックと言っても巴里在住の洋画家に依頼した建物は、白壁に淡い紫の窓枠というモダンなデザインで人目を引いた。椅子やテーブル、食器に至るまで白と紫で統一してあり、中でも椅子は背もたれが高く、物語の中から抜け出て来たようだと女性に人気だった。
 以前台無しになった昼の埋め合わせに、という言葉にも嘘はないと思うが、あの災害からわずか二ヶ月でここまでのものを取り揃えた店を、見学したいのに違いない。龍郷は。
 ――まあもう慣れたけど。
 苦笑しながら店に向かう途中で、不意にぞわりと嫌な感覚が肌を撫でていった気がした。

 ――なんだ?

 辺りを見回す。そして、店の様子を伺う男の姿を見つけた。 ――あいつ、 あの、カストリ紙の記者だ。
 あれ以来姿を見ることもなく、震災でそれどころではないのだろう、或いは奴自身被災でもしたのかと思っていたのだが、まったくしぶとい。
 幸いこちらには気がついていないようだが、店にむかえば嫌でも視界に入ってしまうだろう。なにが目的かわからないが、関わらないに越したことはない。 
「龍郷……」
 もう店の中だろうか。だとしたら裏口から回って、店員に今日はなしだと伝言を頼んだり出来るだろうか。
 だめだ。どっから行っても目にとまる。
 「くそ……」
 結局、店には入れなかった。

そのまま今日の派遣先へ向かって歌い、次の派遣先へ――と仕事をこなし、邸に戻ったのはいつもより遅い時間だ。ほどなくして、ばたばたと足音が聞こえてくる。
 「しおん、」
 龍郷はしおんの顔を見るなり大きく大きくため息をつき、椅子のひとつに倒れこむようにして背を預けた。
 「……どうしてこなかった?」
髪をかきあげながら漏らす今度のため息は、安堵よりいらだちの色が濃い。
「ちょっと、予定が変わって」
「仕事先から連絡くらい出来なかったのか?」
 もっともな言い分だが、今日の音楽隊の仕事に野々宮や帯同していなかった。指導者から連絡を入れてもらっても良かったのだが、音楽隊以外の仕事をさせるのも気が引ける。だいたい、龍郷との待ち合わせはただの私用だ。
 それに、連絡したら理由を説明しないわけにはいかなくなるだろう。
 まだあの記者が うろちょろしてるなんて、疲れた龍郷の耳には入れたくなかった。 
「ごめん」
 ただそれだけを告げると、龍郷はこちらがそれ以上語る気はないと悟ったのだろう。
 「まあいい」 と「まったく良くはないが」という気配を隠しもせずに言った。
 「――で、この間野々宮とはなにを話したんだ?」
 「は?」
 思わず強めに声が漏れてしまった。 まだそんなこと覚えてたのか――と、いうか。
 「今日もそれ、聞き出すつもりで……?」
  龍郷の眉間に皺が寄る。それがなにより答え。 いつかだめになった昼の穴埋めなんて口実だったってわけか。
 「ただの仕事の話だって」
 「仕事の不具合なら、俺に言え」
 「だから、いちいち報告するまでもない細かいことだよ。社長様はもっとすることがあるだろ?」
 龍郷は仕事が生き甲斐なのだから、それに専念して欲しい。記者のことも、俺の学校のことも、まだ話す段階じゃないと思う。いたずらに気がかりなことを増やすくらいなら、黙っていたかった。
 しばらくそうして睨み合っていたのだと思う。 先に諦めたように視線を逸らしたのは、龍郷だった。
 「――今日の分を終わらせて、寝るか」
 「あ、ああ」
  色々と納得のいかないことはあるだろうが、折れてくれた。だからしおんも何事もなかったかのように応じて、紙片を広げる龍郷を見守る。
 「――足の甲」
 「わかった」 椅子に腰掛けた龍郷の足元にしゃがみ、しおんは龍郷の靴を脱がせた。 黒い絹の靴下越し唇を寄せようとしたとき、突然「いい」とさえぎられた。
 「龍郷?」
 「悪い。――今日はいい。風呂に入ってくるから、先に寝ていろ」
  目も合わせずに立ち上がると、部屋を出ていてってしまう。
  ひとり取り残されて座り込む床は、ひどく冷たかった。
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