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16日目【額:祝福】
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「高等小学校からやり直すより、高等商業学校に行く手もあるかなと思って、両方調べておいたから、あとで資料を届けさせるね
毎朝の日課で、龍郷を迎えに来た野々宮に「やっぱり俺、早く学校に行きたい」と告げるとそう返された。
「学校に行きたい」そうひとこと相談しただけなのに、それをその場限りの話にせず、きちんと仕事をしておいてくれるところが野々宮らしい。
「高等商業学校?」
「官立の商学に関することを専門的に学ぶ学校のこと」
早く龍郷の助けをしたいと思うしおんには、願ったりかなったりだ。でも。
「そんなの、俺が行けるのか……?」
「もちろん、試験に受かれば。優秀な人材を確保するのが目的だから、十七歳までであれば独学の者の受験も認めてる」
富裕層の中には、欧州式にすべて家庭教師に任せる家もまだまだある。厳密に学制で区切ってはいないから、そこにしおんが滑り込める可能性はある、と野々宮は言った。
「本気だと思ってはいたけど、随分やる気だね」
「え、ああ、うん」
まさか、昨日のような目に遭うのはもうごめんだから、早く商談の場について行けるようになりたいと思った――とは言えず、しおんは曖昧にお茶を濁した。
「君が社交と商談を兼ねた場に行けるようになってくれたら、ほんとうにいいなあ」
――のに、まるで野々宮が心の中を読んだようなことを口にするから、焦ってしまう。だが、よく見ればその顔が、いつもより物憂げな気がする。
「なにか……あったのか?」
「いや、――龍郷には、僕が言ったと内緒だよ?」
昨夜、龍郷はやはり会合に出席していた。その席に例の伯父が怒鳴り込んで来たらしい。
『おまえ――叙爵の話を断ったというのは本当か』
「叙爵って……華族になれるってこと?」
爵位は最下位の男爵のみになるが、主に軍事や経済への功績が認められて、あとから華族に名を連ねることがある。
たしか伯父は養子に出ているはずで、それなりに苦労もしたのだろう。自分を蔑ろにした(と、彼は思っている)龍郷があっさり爵位を手にすると聞き及んで鬱屈を抱えていたところ、今度はそれを突っぱねたと聞いて、感情が爆発してしまったらしい。
「沢山の人の前であんなふうに罵倒されて……」
あんなふうがどんなふうなのかは、訊かなくてもわかる。
社長に就任してから知り合った者の中には、龍郷の出自を知らない者もいるだろう。しおんにしてみれば、今店のために日夜駆け回っている龍郷だけが龍郷一真という人間全てだ。過去になにがあろうと価値が変わるわけではないのに、そうでない者も世の中には沢山いる。
「もちろんあいつのことだから、伯父上を丸め込んで追い返したあともいつものように振舞ってはいたけどね」
気分がいいわけはないだろう。あの深酒は、そんな出来事のせいだったのかもしれない。
「――おれ、やっぱり学校に行きたい。勉強して、早く」
あいつの力になりたい。 野々宮が眩しげに細めていた目をはっと瞬いて、目配せしてくる。龍郷だ。
「しおん? どうした。なにか用か」
いつもなら、仕事の邪魔をしないよう、朝の打ち合わせには同席しない。しおんは「ちょっと練習のことで」とだけ答えて、その場をあとにした。
「朝、本当はなにを話してた?」
問われたのは、その夜の寝台の上。 もちろん、完全に誤魔化せたとは思ってなかったけど――しおんは胸の内で野々宮に詫びながら、伯父の一件を聞いたことを白状した。
「身内の恥ずかしい話だから、おまえには聞かせたくなかったんだが……」
「俺、あいつに会ったことあるし、いまさらだ。それより、華族様にしてくれるって話、断ったのか?」
「ああ」
「な……んで?」
華族の肩書きがあれば、なにかと役に立つんじゃないのか。少なくとも小松原嬢との噂が立ったときは、そんな話だった。
考えられるのは、自分のこと。
華族様ともなれば「家」の存続は最重要事項になってくる。でも自分がいたら――
「なにかよからぬことを考えているな」
龍郷の手が伸びて来て、髪を、耳を、顎の下を撫でる。猫にするような仕草が、昔はただただ鬱陶しいだけだった。
「あんなものを有難がっているのは明治の世で脳味噌が止まっている年寄りだけだ」
「そう……なのか?」
「なにをするにもいちいち宮内庁へ報告しなければならないし、戦争が始まったら従軍も義務付けられている。俺にはメリットよりデメリットのほうが大きいな」
「メ……?」
「簡単に言うと損得だな。まあ、伯父上をきりきりさせてやったのは面白かったが。気分が良くてつい飲み過ぎた。久し振りにあまり記憶がないな」
「――ああ、そうかよ」
心配してやって損した。
「しおん?」
「早く今日の分引け。さっさと終わらせて寝るぞ!」
いらだちまぎれに急かせば「情緒は……」とぼやきながら龍郷は今日の分の紙片をキャンディポットから摘みあげ、開く。記されていたのは「額」の文字。
「まだこんな可愛いところが……失敗したな。もっとどぎついところを混ぜておけば良かった」
「ごちゃごちゃ言ってないで終わらすぞ、変態」
罵られているのに、龍郷は愉快そうに肩を震わせて、詰め寄ったしおんの腿の上に頭を乗せた。
「な――」
「せめてもの演出」
嘯く龍郷の言葉に、しおんの記憶が呼び覚まされた。 そう、あれは伯父が突然邸にやってきた日。
龍郷の大事なぬいぐるみが、瑕を負った日。
あのときも龍郷は平気な顔をして、こうして頭を撫でろとねだってきた。
「早く」
澄ました顔で急かす龍郷の、本当の気持ちは見えない。けれど一分も傷つかなかったといえば、それは嘘だろう。
「どっちが情緒がないんだよ」
だから嘘に乗っかって、ぶっきらぼうにそう言った。 落ちかかる髪を耳にかけ、龍郷の額に口づける。
どうかこんなことが、少しでもこいつの癒しになりますように。
どうかもうこいつが、傷つくことがありませんように。
毎朝の日課で、龍郷を迎えに来た野々宮に「やっぱり俺、早く学校に行きたい」と告げるとそう返された。
「学校に行きたい」そうひとこと相談しただけなのに、それをその場限りの話にせず、きちんと仕事をしておいてくれるところが野々宮らしい。
「高等商業学校?」
「官立の商学に関することを専門的に学ぶ学校のこと」
早く龍郷の助けをしたいと思うしおんには、願ったりかなったりだ。でも。
「そんなの、俺が行けるのか……?」
「もちろん、試験に受かれば。優秀な人材を確保するのが目的だから、十七歳までであれば独学の者の受験も認めてる」
富裕層の中には、欧州式にすべて家庭教師に任せる家もまだまだある。厳密に学制で区切ってはいないから、そこにしおんが滑り込める可能性はある、と野々宮は言った。
「本気だと思ってはいたけど、随分やる気だね」
「え、ああ、うん」
まさか、昨日のような目に遭うのはもうごめんだから、早く商談の場について行けるようになりたいと思った――とは言えず、しおんは曖昧にお茶を濁した。
「君が社交と商談を兼ねた場に行けるようになってくれたら、ほんとうにいいなあ」
――のに、まるで野々宮が心の中を読んだようなことを口にするから、焦ってしまう。だが、よく見ればその顔が、いつもより物憂げな気がする。
「なにか……あったのか?」
「いや、――龍郷には、僕が言ったと内緒だよ?」
昨夜、龍郷はやはり会合に出席していた。その席に例の伯父が怒鳴り込んで来たらしい。
『おまえ――叙爵の話を断ったというのは本当か』
「叙爵って……華族になれるってこと?」
爵位は最下位の男爵のみになるが、主に軍事や経済への功績が認められて、あとから華族に名を連ねることがある。
たしか伯父は養子に出ているはずで、それなりに苦労もしたのだろう。自分を蔑ろにした(と、彼は思っている)龍郷があっさり爵位を手にすると聞き及んで鬱屈を抱えていたところ、今度はそれを突っぱねたと聞いて、感情が爆発してしまったらしい。
「沢山の人の前であんなふうに罵倒されて……」
あんなふうがどんなふうなのかは、訊かなくてもわかる。
社長に就任してから知り合った者の中には、龍郷の出自を知らない者もいるだろう。しおんにしてみれば、今店のために日夜駆け回っている龍郷だけが龍郷一真という人間全てだ。過去になにがあろうと価値が変わるわけではないのに、そうでない者も世の中には沢山いる。
「もちろんあいつのことだから、伯父上を丸め込んで追い返したあともいつものように振舞ってはいたけどね」
気分がいいわけはないだろう。あの深酒は、そんな出来事のせいだったのかもしれない。
「――おれ、やっぱり学校に行きたい。勉強して、早く」
あいつの力になりたい。 野々宮が眩しげに細めていた目をはっと瞬いて、目配せしてくる。龍郷だ。
「しおん? どうした。なにか用か」
いつもなら、仕事の邪魔をしないよう、朝の打ち合わせには同席しない。しおんは「ちょっと練習のことで」とだけ答えて、その場をあとにした。
「朝、本当はなにを話してた?」
問われたのは、その夜の寝台の上。 もちろん、完全に誤魔化せたとは思ってなかったけど――しおんは胸の内で野々宮に詫びながら、伯父の一件を聞いたことを白状した。
「身内の恥ずかしい話だから、おまえには聞かせたくなかったんだが……」
「俺、あいつに会ったことあるし、いまさらだ。それより、華族様にしてくれるって話、断ったのか?」
「ああ」
「な……んで?」
華族の肩書きがあれば、なにかと役に立つんじゃないのか。少なくとも小松原嬢との噂が立ったときは、そんな話だった。
考えられるのは、自分のこと。
華族様ともなれば「家」の存続は最重要事項になってくる。でも自分がいたら――
「なにかよからぬことを考えているな」
龍郷の手が伸びて来て、髪を、耳を、顎の下を撫でる。猫にするような仕草が、昔はただただ鬱陶しいだけだった。
「あんなものを有難がっているのは明治の世で脳味噌が止まっている年寄りだけだ」
「そう……なのか?」
「なにをするにもいちいち宮内庁へ報告しなければならないし、戦争が始まったら従軍も義務付けられている。俺にはメリットよりデメリットのほうが大きいな」
「メ……?」
「簡単に言うと損得だな。まあ、伯父上をきりきりさせてやったのは面白かったが。気分が良くてつい飲み過ぎた。久し振りにあまり記憶がないな」
「――ああ、そうかよ」
心配してやって損した。
「しおん?」
「早く今日の分引け。さっさと終わらせて寝るぞ!」
いらだちまぎれに急かせば「情緒は……」とぼやきながら龍郷は今日の分の紙片をキャンディポットから摘みあげ、開く。記されていたのは「額」の文字。
「まだこんな可愛いところが……失敗したな。もっとどぎついところを混ぜておけば良かった」
「ごちゃごちゃ言ってないで終わらすぞ、変態」
罵られているのに、龍郷は愉快そうに肩を震わせて、詰め寄ったしおんの腿の上に頭を乗せた。
「な――」
「せめてもの演出」
嘯く龍郷の言葉に、しおんの記憶が呼び覚まされた。 そう、あれは伯父が突然邸にやってきた日。
龍郷の大事なぬいぐるみが、瑕を負った日。
あのときも龍郷は平気な顔をして、こうして頭を撫でろとねだってきた。
「早く」
澄ました顔で急かす龍郷の、本当の気持ちは見えない。けれど一分も傷つかなかったといえば、それは嘘だろう。
「どっちが情緒がないんだよ」
だから嘘に乗っかって、ぶっきらぼうにそう言った。 落ちかかる髪を耳にかけ、龍郷の額に口づける。
どうかこんなことが、少しでもこいつの癒しになりますように。
どうかもうこいつが、傷つくことがありませんように。
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