みなしごと百貨の王

あまみや慈雨

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14日目【胸:所有】

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「またすぐ出る。遅くなるから、待っていなくていいぞ」
 仕事から一旦帰宅した龍郷は、しおんに告げながら慌ただしく着替え始めた。
 なにやらいつもより上等な装いに着替えているから、上流回級の集まりかもしれない。
 以前のしおんなら「こんな、家を失った者も沢山いる時期に」とか「金持ちめ」と苦々しく思っただろう。でも今は少し世の中というものが見えてきて、こんなときだからこそ金を回す層がいないと経済は冷え込んで、それが結局自分たち庶民に影響するのだ、ということがなんとなくわかっている。
 だいたい龍郷が出かけて行くのは経済界の集まりで、そこで話し合われるのはこれからの商売のこと、日本という国の経済のこと。 ――着飾って浮かれてるように見えたって、仕事みたいなもんなんだ。 いつかもっと勉強したら、俺もそういう場所に行けるだろうか。龍郷の負担を、せめて半分に。
 自分のような出自の者が出入りすること自体を好ましく思わないお偉方もいるだろう。それを思うと道のりは厳しい気もしたが、希望は持っていたい。 希望、なんて面映ゆい言葉、絶対口にしないけど。     
しおんが黙り込んでいるのを、へそを曲げているとでも思ったのか、龍郷は言った。 
「カレンダーは開けていく。明日の楽しみにな」
 そうして開いた紙片に記された文字を見るなり
「……昨日だったらな」とぼやく。なんだ? と覗き込めば、そこには【胸】の文字。
 ――胸。 胸って、胸に口づけって、どういう――? どうしたって、他のところより想像するのが寝台の中での行為に近くなる。室内は瓦斯ストーブで快適に保たれているはずなのに、どうしてか急に汗ばむような気がした。
 こんな気持ちを一晩抱えて明日の晩まで待てって? ひどい話だ。 
「失礼します。旦那様、やはり今日のポケットチーフはお色で少し変化をつけたほうが。女性の方が沢山いらっしゃいますから」   
女中頭がそう言いながら入ってきて、汗はすうっと引いていった。子供の頃から洋装に慣れた龍郷は着替えを基本一人でするが、今日はなにか相談してあったらしい。
 ――女受け、てか。 
「……今日は小松原嬢の取り計らいで、女性の参加者が多いから」
 別に求めていないのに、言い訳のように言われるのがよりひっかかる。
小松原の娘は本当に慈善事業に熱心で、自分も何度も催しに呼ばれている。そうして、その公平さゆえに小松原嬢は、龍郷百貨店以外の音楽隊、ことに最近増えてきたずばり孤児院の少年たちで結成される音楽隊を呼ぶことも多かった。今日はそういう日ということなのだろう。
 もてなしつつ出資者を募るのだ。その場に若き百貨店王龍郷がいれば話は弾むし金は引き出せるし、のちのち龍郷百貨店の顧客になってくれるかもしれないしで、誰も損をしない。
 広義の意味ではこれも仕事に違いはない。その上孤児院に金が回るなら、悪いことはひとつもない。
 とはいえなにかもやもやするのはもやもやするのだった。
 龍郷はしおんに気遣わしげにしながらも、女中頭にポケットチーフを合わせてもらっている。
 ――そうだ。
 しおんは胡座をかいていた寝台の上から飛び降りた。 龍郷家は、広い敷地に温室の設備を持っている。父の代、まだまだ流通の少なかった洋花を育てるためだ。盛んに海外からの客を招いていた時代に邸を飾った。龍郷ひとりになり使用人の整理もした際に、せっかく積み上げたノウハウをなかったことにするのは惜しいと、庭師と温室は残したらしい。たまには店で売ったりもする。 だから龍郷家には真冬にもかかわらず花が飾られていた。 しおんは部屋の中央、いつも女中頭が花を生けている小ぶりの花瓶から、薔薇を一本引き抜いた。
 「龍郷」
振り向いた男の眼前で、しおんは赤い薔薇の花びらに、ひとつ、口づけを落とした。
 「……今日の分」 チーフがわりに胸にさしてやる。寝室用に短く整えられた薔薇は、ちょうどよくそこに収まった。
 まるでたった今、そこに花開いたかのように。
 よし、これでいい。
 すっかり気をとり直して、 「行ってこい。もりもり金引き出して来いよ!」 と励ますと、龍郷は呆気に取られていたような顔を、苦笑の形に歪めた。やがてそれも、心からの笑みに変わる。 「まったく、おまえという奴は……」
 行ってくる、とよそ行きの顔になり、龍郷は愛おしげに胸の薔薇を撫でた。
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