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11日目【首:執着】
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カップに注がれた黒い汁をじっと見つめる。そんな自分を龍郷が面白そうに眺めていることはわかっている。
「無理をしなくてもいいぞ」
「無理なんか」
強がって応じるものの、そんな姿を「風呂を覗きに来たのに指先をちょっとつけてぶるっと震え、それを何事もなかったかのように澄ましている猫のよう」とまで龍郷が考えていることには、まったく気づけないしおんだった。
初めて純然たる平日にふたりして取った休暇だ。どうせならキネマを観る前にカフェへ行ってみようということになった。
聞いていた通り新宿は銀座や浅草辺りに比べれば格段に被害が少なかったらしい。倒壊した建物の残骸はほぼ見かけず、店はどこも通常通りに営業している。それを求めて帝都中から人が集まるのだから、大した賑わいだった。 そんな店のひとつに入り、初めて頼んでみたのがこの黒い汁。珈琲、というやつだ。
もちろん存在は知っている。日本橋にも銀座にもカフェはあって、文化人などに人気だ。
龍郷の家で日常的に供される、紅茶にはすぐ慣れた。これだって、と思うのだが、黒い。あまりにも。そして独特の香りのことは、どう表現したらいいのかしおんにはわからなかった。いい香りと言えばそんな気もするし、ただ焦げたような香りな気もする。
「ミルクホールにすれば良かったかな」
「大丈夫だって言ってるだろう」
「先に毒味をしてやろう」
自分の手元に同じものがあるのに、龍郷は手を伸ばしてしおんのカップを引き寄せた。鼻先で香りを楽しむように瞼を伏せる。長い脚を組んだまま、優雅に指を絡めたカップに口をつける。日頃重々わかっていることだが、気障な仕草が本当に様になる男だ。 「……ん、美味い。ほら、別に死なないぞ」
口をつけたカップをこともなげに戻してくる。ほんとか? 嘘ついたら酷いぞ? という気持ちが拭い難く、ちらちらとその整った顔を見上げながら意を決して唇を近づけたとき、龍郷がふっと口元を綻ばせた。
「なんだよ」
「いや、これがランデブーというやつかと思って」
「ラ……ッ! あっつ、」
ランデブー。それは近頃流行りの言葉だ。
男女の逢引を横文字でそう言う。始まりは舞台だったかキネマだったか、ともかく恋人たちの為の新しい言葉だった。
出会った頃から一緒に寝起きしているというのに、あらためて恋人たちのようなことをしていると思うと気恥ずかしくて、しおんは予想外に流れ込んで来た珈琲の苦さにそのままこほこほと噎せた。
「あらあら。坊ちゃん、どうぞこちらを」
女給が持ってきてくれた水を流し込み、やっと人心地つく。女給はそこに留まって「そのままが難しければ、どうぞお砂糖をお使いくださいまし」 とテーブルの上に置かれた小さな銀の器の蓋を開けてくれた。
そういえば龍郷の家での紅茶も、自分のものには砂糖とミルクがたっぷりはいっていて、なにも入れないものに慣れたのは最近のことだ。
予め砂糖が置かれているなら教えてくれればいいのに――密かに龍郷を睨みつけると、奴はあからさまに目を逸らした。 知ってて黙ってたな、こいつ。 まったく趣味が悪い。今や笑いをかみ殺す龍郷をいよいよきつく睨みつけて、気づいた。
女給がまだそこにいる。
銀色の盆を胸に抱いたまま、龍郷の顔をじっとみて。単衣の銘仙の上にエプロン姿という出で立ちは、いつもの洋食屋の娘と変わらないはずなのに、どこか婀娜っぽい。襟が大きめに開いているからかも、と思い至ったとき、彼女は突然きっと険しい顔をした。
「――なんやの。失礼な」
小さく呟いて去っていく。龍郷百貨店での接客にすっかり慣れてしまったしおんは、思わず龍郷の顔を見た。龍郷も驚いたように目を見張り――やがて、なにかに思い至ったように額を抑えた。 抑えた額の下から店内に視線を走らせて囁く。
「……失敗したな。ここはカフェーだ」
「知ってるよ」
「いや、そうじゃなく」
震災で帝都のカフェは壊滅的な打撃を受けた。その間隙を縫うように関西から進出して来たのが「カフェー」。表向き珈琲を出すそれまでのカフェと変わりなく見えるが、酒も出し、女給は基本的に無給で、客からのチップで生計を立てる。だから、客に気に入られるか否かは死活問題で、中には――
「……あー」
これ以降、そのようなカフェと区別するために珈琲だけを出す店を「純喫茶」と呼ぶようになるのだが、この日のふたりはまだそんなことも知らず、ランデブーには最も向かない店に入ってしまったことになる。
女給は身なりのいい龍郷に目をつけて、しおんに親切にしたのだろう。いくばくかのチップを、あわよくばその後の――
単なる連れの子供扱いされたってわけか。
もやもやした気持ちで 珈琲の大半を残したまま店を出る。 映画館に向かうと、そこは大変に賑わっていた。
七百席もあるという劇場に圧倒されながら、しおんは気がついた。
「あれは?」
連れ立って来た男女が、入り口で左右に分かれている。
「ああ、映画館は男女で席が分かれているからな」
「え?」
「条例で決まっている。暗がりで男女が寄り添うのはけしからん、というわけだ」
「へえ……」
そんなこと言ったって、帝劇だって浅草の芝居小屋だって、男女は並んで座るのに。暗がりというのがいけないのだろうか。 そんなことをするくらいなら、カフェを装って〈そういうこと〉までする店を取り締まったらどうだ――さっきの店での子供扱いを思い出してむかむかしていると、こちらを見る視線に気がついた。 あの女給だ。
客とでも連れ立って来たのだろうか、男に肩を叩かれた彼女は我に返ると、女性席のほうへと向かう。
中へ入って席についてもまだ視線を感じる。どうやら女給の連れの男がしおんの前に座っていて、こちらを見ると自然と目に入ってしまうようだ。
ふと、意地悪な思いつきが芽生えたのはそのときだった。
「龍郷、」
囁けば、ん、とすぐに身を寄せてくる。男同士だから。
しおんも龍郷の胸にしなだれかかると、そのまま首筋に唇を這わせた。
「どうした? まだ今日の分は開けてないぞ」
「あとで抜いたらいいだろ。……今、したい」
囁けば、呆れたような、愛しさに満ちたようなため息があり、あとはもう好きにさせてくれる。
冬の空気で冷えた龍郷の首筋を自分の唾液で温めるのは、心地よい行為だった。 劇場の灯りが落ちる瞬間、女給の口惜しげな顔が見えた気がして我に返る。
俺、今、なにした? 見せつけるとか、性悪だ――
こんなことを自分がするなんて、思ってもみなかった。
こいつが好きで、楽しいことがいっぱいあって、でもときどき、こんな酷い奴に俺はなる。
「始まるぞ」
龍郷がやさしく囁いてくる。しおんは珈琲の苦さを思い出していた。
「無理をしなくてもいいぞ」
「無理なんか」
強がって応じるものの、そんな姿を「風呂を覗きに来たのに指先をちょっとつけてぶるっと震え、それを何事もなかったかのように澄ましている猫のよう」とまで龍郷が考えていることには、まったく気づけないしおんだった。
初めて純然たる平日にふたりして取った休暇だ。どうせならキネマを観る前にカフェへ行ってみようということになった。
聞いていた通り新宿は銀座や浅草辺りに比べれば格段に被害が少なかったらしい。倒壊した建物の残骸はほぼ見かけず、店はどこも通常通りに営業している。それを求めて帝都中から人が集まるのだから、大した賑わいだった。 そんな店のひとつに入り、初めて頼んでみたのがこの黒い汁。珈琲、というやつだ。
もちろん存在は知っている。日本橋にも銀座にもカフェはあって、文化人などに人気だ。
龍郷の家で日常的に供される、紅茶にはすぐ慣れた。これだって、と思うのだが、黒い。あまりにも。そして独特の香りのことは、どう表現したらいいのかしおんにはわからなかった。いい香りと言えばそんな気もするし、ただ焦げたような香りな気もする。
「ミルクホールにすれば良かったかな」
「大丈夫だって言ってるだろう」
「先に毒味をしてやろう」
自分の手元に同じものがあるのに、龍郷は手を伸ばしてしおんのカップを引き寄せた。鼻先で香りを楽しむように瞼を伏せる。長い脚を組んだまま、優雅に指を絡めたカップに口をつける。日頃重々わかっていることだが、気障な仕草が本当に様になる男だ。 「……ん、美味い。ほら、別に死なないぞ」
口をつけたカップをこともなげに戻してくる。ほんとか? 嘘ついたら酷いぞ? という気持ちが拭い難く、ちらちらとその整った顔を見上げながら意を決して唇を近づけたとき、龍郷がふっと口元を綻ばせた。
「なんだよ」
「いや、これがランデブーというやつかと思って」
「ラ……ッ! あっつ、」
ランデブー。それは近頃流行りの言葉だ。
男女の逢引を横文字でそう言う。始まりは舞台だったかキネマだったか、ともかく恋人たちの為の新しい言葉だった。
出会った頃から一緒に寝起きしているというのに、あらためて恋人たちのようなことをしていると思うと気恥ずかしくて、しおんは予想外に流れ込んで来た珈琲の苦さにそのままこほこほと噎せた。
「あらあら。坊ちゃん、どうぞこちらを」
女給が持ってきてくれた水を流し込み、やっと人心地つく。女給はそこに留まって「そのままが難しければ、どうぞお砂糖をお使いくださいまし」 とテーブルの上に置かれた小さな銀の器の蓋を開けてくれた。
そういえば龍郷の家での紅茶も、自分のものには砂糖とミルクがたっぷりはいっていて、なにも入れないものに慣れたのは最近のことだ。
予め砂糖が置かれているなら教えてくれればいいのに――密かに龍郷を睨みつけると、奴はあからさまに目を逸らした。 知ってて黙ってたな、こいつ。 まったく趣味が悪い。今や笑いをかみ殺す龍郷をいよいよきつく睨みつけて、気づいた。
女給がまだそこにいる。
銀色の盆を胸に抱いたまま、龍郷の顔をじっとみて。単衣の銘仙の上にエプロン姿という出で立ちは、いつもの洋食屋の娘と変わらないはずなのに、どこか婀娜っぽい。襟が大きめに開いているからかも、と思い至ったとき、彼女は突然きっと険しい顔をした。
「――なんやの。失礼な」
小さく呟いて去っていく。龍郷百貨店での接客にすっかり慣れてしまったしおんは、思わず龍郷の顔を見た。龍郷も驚いたように目を見張り――やがて、なにかに思い至ったように額を抑えた。 抑えた額の下から店内に視線を走らせて囁く。
「……失敗したな。ここはカフェーだ」
「知ってるよ」
「いや、そうじゃなく」
震災で帝都のカフェは壊滅的な打撃を受けた。その間隙を縫うように関西から進出して来たのが「カフェー」。表向き珈琲を出すそれまでのカフェと変わりなく見えるが、酒も出し、女給は基本的に無給で、客からのチップで生計を立てる。だから、客に気に入られるか否かは死活問題で、中には――
「……あー」
これ以降、そのようなカフェと区別するために珈琲だけを出す店を「純喫茶」と呼ぶようになるのだが、この日のふたりはまだそんなことも知らず、ランデブーには最も向かない店に入ってしまったことになる。
女給は身なりのいい龍郷に目をつけて、しおんに親切にしたのだろう。いくばくかのチップを、あわよくばその後の――
単なる連れの子供扱いされたってわけか。
もやもやした気持ちで 珈琲の大半を残したまま店を出る。 映画館に向かうと、そこは大変に賑わっていた。
七百席もあるという劇場に圧倒されながら、しおんは気がついた。
「あれは?」
連れ立って来た男女が、入り口で左右に分かれている。
「ああ、映画館は男女で席が分かれているからな」
「え?」
「条例で決まっている。暗がりで男女が寄り添うのはけしからん、というわけだ」
「へえ……」
そんなこと言ったって、帝劇だって浅草の芝居小屋だって、男女は並んで座るのに。暗がりというのがいけないのだろうか。 そんなことをするくらいなら、カフェを装って〈そういうこと〉までする店を取り締まったらどうだ――さっきの店での子供扱いを思い出してむかむかしていると、こちらを見る視線に気がついた。 あの女給だ。
客とでも連れ立って来たのだろうか、男に肩を叩かれた彼女は我に返ると、女性席のほうへと向かう。
中へ入って席についてもまだ視線を感じる。どうやら女給の連れの男がしおんの前に座っていて、こちらを見ると自然と目に入ってしまうようだ。
ふと、意地悪な思いつきが芽生えたのはそのときだった。
「龍郷、」
囁けば、ん、とすぐに身を寄せてくる。男同士だから。
しおんも龍郷の胸にしなだれかかると、そのまま首筋に唇を這わせた。
「どうした? まだ今日の分は開けてないぞ」
「あとで抜いたらいいだろ。……今、したい」
囁けば、呆れたような、愛しさに満ちたようなため息があり、あとはもう好きにさせてくれる。
冬の空気で冷えた龍郷の首筋を自分の唾液で温めるのは、心地よい行為だった。 劇場の灯りが落ちる瞬間、女給の口惜しげな顔が見えた気がして我に返る。
俺、今、なにした? 見せつけるとか、性悪だ――
こんなことを自分がするなんて、思ってもみなかった。
こいつが好きで、楽しいことがいっぱいあって、でもときどき、こんな酷い奴に俺はなる。
「始まるぞ」
龍郷がやさしく囁いてくる。しおんは珈琲の苦さを思い出していた。
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