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10日目【瞼:憧憬】
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「明日はふたりとも休みを取れ、だそうだ」
帰宅するなり龍郷が告げた言葉に、しおんはひとつ瞬いた。 「急だな。俺はともかく、あんたは大丈夫なのか」
「忙中閑あり。休むのも仕事のうち、だそうだ」
難しい言葉はよくわからないが、休むのも仕事のうちというのはなんとなくわかる。
――っていうか、こいつ見てるとそう思う。
龍郷百貨店はそれまで住み込みが主だった従業員の形態を通いに変えた。休みもそれまで盆と正月のいわゆる藪入りしかなかったものを、定休日を設けている。だが肝心の社長はいつも忙しく立ち働いている。数日のまとまった休みは、そんな状況でなかったということもあるが、夏以来とっていなかった。
「キネマでも観に行くか」
寝台のヘッドボードに背を預け、伸びをしながら龍郷が告げる。 「キネマ? 京橋や浅草辺りは全部」
燃えてしまったはずだ。蒲田の撮影所も被害を受け、映画産業の中心地そのものが京都へ移る動きがあると聞いた気がする。
「それが新宿辺りは被害が少なく済んで、連日大入りだそうだ」
へえ、と素直に相槌を打ちそうになり、はたと気がついた。
――要はそれの偵察ってことだろ。
震災は人口の移動を促した。
家を失った者が被害の少なかった地域に引っ越すのは当然の道理で、人が動けば当然消費の流れも変わる。
龍郷のことだから、目の前の復興のことだけを考えているわけはなかった。人の動きが変わった帝都で、支店の計画を立てていてもおかしくはない。
結局仕事仕事じゃねえかよ。
じとっと睨め付けていると、龍郷は取り繕うように訊ねて来る。最近、空気を読む、ということが人並みに出来るようになってきたらしい。
「しおんは、キネマは好きか? 」
「観たことねえよ」
――ただし、多分に空振りではあるが。
「あんたは、たくさん観たんだろうな」
しおんは気をとりなおし、訊ね返した。人にはそれぞれ向き不向きがあって、出来ないものをいつまでとねちねちあげへつらうのは時間の無駄だ。
「ああ、英吉利ではヒッチコックという男が――」
意外にも龍郷はキネマを沢山観ているようで、しばらくいつもの口調より熱っぽく語った。産業としてうまみがあると考えているのかも知れないが、それだけでもないだろう。
キネマは空想の世界だ。美しい夢を描く世界だろう。暮らし向きはけして楽ではないだろうに、震災後の疲れた人々が押し寄せるのもわかる気がした。
そしてつらい時代の龍郷の心の支えでもあったんだろう。
そういうものが龍郷にもあったなら、それは喜ばしいことだった。 「俺も、観たかったな」
もっと早くそういうものの力を知っていれば、見える世界も随分違っただろう。そんな気持ちでため息とともに呟くと、龍郷が言った。
「俺はおまえが羨ましいが」
「は?」
嫌味だろうか。最先端のものをなにもかも手にしてきた男の。流石に臍を曲げそうになったとき、龍郷は心底そう思っている、という様子で告げた。
「あの作品もこの作品も、今から味わえるんだろう。新鮮な気持ちで」
それが羨ましい、と男は告げる。しおんは小さく吹き出した。 そうだな。
見方を変えれば世界は変わる。気がつくか、気がつかないか。それだけの話だ。
龍郷が「今夜の分」と紙片を広げる。 記された文字は【瞼】 しおんは龍郷の腰を跨ぎ、頬を手のひらで両側から包むと、大理石を削り出したような美しい男とまぶたにそっと口づけを落とした。
雪の下に隠された宝石を探るように舌を這わせ、瞳の丸さを味わう。
この目が見てきたものを、いつか俺も見たい。きっと見る。
それが出来るって、おまえが教えてくれたから。
帰宅するなり龍郷が告げた言葉に、しおんはひとつ瞬いた。 「急だな。俺はともかく、あんたは大丈夫なのか」
「忙中閑あり。休むのも仕事のうち、だそうだ」
難しい言葉はよくわからないが、休むのも仕事のうちというのはなんとなくわかる。
――っていうか、こいつ見てるとそう思う。
龍郷百貨店はそれまで住み込みが主だった従業員の形態を通いに変えた。休みもそれまで盆と正月のいわゆる藪入りしかなかったものを、定休日を設けている。だが肝心の社長はいつも忙しく立ち働いている。数日のまとまった休みは、そんな状況でなかったということもあるが、夏以来とっていなかった。
「キネマでも観に行くか」
寝台のヘッドボードに背を預け、伸びをしながら龍郷が告げる。 「キネマ? 京橋や浅草辺りは全部」
燃えてしまったはずだ。蒲田の撮影所も被害を受け、映画産業の中心地そのものが京都へ移る動きがあると聞いた気がする。
「それが新宿辺りは被害が少なく済んで、連日大入りだそうだ」
へえ、と素直に相槌を打ちそうになり、はたと気がついた。
――要はそれの偵察ってことだろ。
震災は人口の移動を促した。
家を失った者が被害の少なかった地域に引っ越すのは当然の道理で、人が動けば当然消費の流れも変わる。
龍郷のことだから、目の前の復興のことだけを考えているわけはなかった。人の動きが変わった帝都で、支店の計画を立てていてもおかしくはない。
結局仕事仕事じゃねえかよ。
じとっと睨め付けていると、龍郷は取り繕うように訊ねて来る。最近、空気を読む、ということが人並みに出来るようになってきたらしい。
「しおんは、キネマは好きか? 」
「観たことねえよ」
――ただし、多分に空振りではあるが。
「あんたは、たくさん観たんだろうな」
しおんは気をとりなおし、訊ね返した。人にはそれぞれ向き不向きがあって、出来ないものをいつまでとねちねちあげへつらうのは時間の無駄だ。
「ああ、英吉利ではヒッチコックという男が――」
意外にも龍郷はキネマを沢山観ているようで、しばらくいつもの口調より熱っぽく語った。産業としてうまみがあると考えているのかも知れないが、それだけでもないだろう。
キネマは空想の世界だ。美しい夢を描く世界だろう。暮らし向きはけして楽ではないだろうに、震災後の疲れた人々が押し寄せるのもわかる気がした。
そしてつらい時代の龍郷の心の支えでもあったんだろう。
そういうものが龍郷にもあったなら、それは喜ばしいことだった。 「俺も、観たかったな」
もっと早くそういうものの力を知っていれば、見える世界も随分違っただろう。そんな気持ちでため息とともに呟くと、龍郷が言った。
「俺はおまえが羨ましいが」
「は?」
嫌味だろうか。最先端のものをなにもかも手にしてきた男の。流石に臍を曲げそうになったとき、龍郷は心底そう思っている、という様子で告げた。
「あの作品もこの作品も、今から味わえるんだろう。新鮮な気持ちで」
それが羨ましい、と男は告げる。しおんは小さく吹き出した。 そうだな。
見方を変えれば世界は変わる。気がつくか、気がつかないか。それだけの話だ。
龍郷が「今夜の分」と紙片を広げる。 記された文字は【瞼】 しおんは龍郷の腰を跨ぎ、頬を手のひらで両側から包むと、大理石を削り出したような美しい男とまぶたにそっと口づけを落とした。
雪の下に隠された宝石を探るように舌を這わせ、瞳の丸さを味わう。
この目が見てきたものを、いつか俺も見たい。きっと見る。
それが出来るって、おまえが教えてくれたから。
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