みなしごと百貨の王

あまみや慈雨

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9日目【髪:思慕】

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「……しおんを泣かせてしまった」
  日課の予定の読み上げが終わったとき、上司は言った。昨日はそのしおんのほうから相談を受けていた身としては、そのままにもしておけない。
 「それはまた、どうして」
  しおんが進学を希望して、龍郷がそれを渋るとも思えないのだが――どういうわけで? と眼差しで問うと、龍郷はテーブルの上で指を組んだ。
 「昨夜、ベッドの上で……」
 「あ、うーん、その話、僕はあんまり聞きたくないかな」
  慌ててさえぎる。いくら仕事上最も頼りにしているパートナー、そして親友だとしても守らなければならない一線というものはある。仮にここまで含めた趣向なのだとしても。
 「おまえが良くても、しおんくんが」 
 話していいと思っているかどうか。匂わせると、龍郷はやっとそれに思い当たった様子で口を閉ざした。 英吉利時代、不用意に子供が出来たりしない火遊びを、龍郷が好んでいたことは知っている。この、なにもかも持っているように見えてその実どこへ羽ばたくことも許されなかった男が、そういう道を選ぶのはむしろ自然な流れで、咎めようとは思わない。
  ――だけど今は違うんだから。 あんなふうに思ってくれるただ一人と巡り合ったなら、それは大切にしなければ。睦言の内容を軽々しく人に話すような付き合いは終わりに。
 手帳を繰ると、運良く、当事者の片割れも予定の調整が付きそうだ。 
「なにかあるなら、ふたりでちゃんと話し合ったほうがいい。昼食を一緒にとれるよう、手配するから」 


 龍郷に初めて連れてこられたあの洋食屋は、震災で被害を受けながら営業を再開していた。愛嬌のある女給も無事だったことにしおんは内心胸を撫で下ろしていた。
 「路面電車なんか、一週間で再開したんですからね。うちも負けちゃいられません」
  龍郷百貨店自慢の大食堂は未だ再開出来ていない。野々宮が「適当なところで僕は引き上げるから、あとはふたりでね」となにやら意味ありげに耳打ちして来たのが気にはなるのだが。
 ともかく、一晩ぶりに龍郷の顔をまじまじと見た。昨夜は「なんか目にゴミが」と誤魔化して早々に布団をひっ被ってしまったから、どうして泣いたのか触れられてはいない。気にさせてしまっただろうか、とも思うが、本当のことをどう話したらいいのかもわからなかった。
  同情を龍郷はよしとしないだろうし、自分程度には、上流社会の本当の苦しみもまたわからない。
 「もうメニュウも元に戻ってる。まだまだ品物が足りないところもあるのに、凄いね」
  気まずい空気を察したのか、野々宮が弾んだ声を――無理に弾ませた声を上げて、龍郷と自分の間に品書きを広げて見せたときだった。 傍を通り過ぎようとしていた客の足が止まる。

 「――りゅうごう?」

  見上げると、そこに立っていたのは外国人の青年だった。それとわかったのは、ゆるく癖のかかった髪が金色だったからだ。背広の着こなしも、龍郷を除けば客の中で一番様になっている。その龍郷にしても背広は戦闘服という趣だったが、青年には、日常的に身につけているという、自然さがあった。
  西洋人の歳はしおんにはわかりにくいが、龍郷より歳下のように思えた。成人しているのだろうが、背広姿であるにも関わらず、日本の勤め人より幼く見える。 さっきまで気まずそうにじっと自分を見つめていた龍郷の視線が彷徨って、やがて彼の姿を捉える。滅多にない驚きがその瞳に広がるのをしおんは見た。
 「……テディ?」
 「カズマ!」 
 青年――どこか少年と言ってもいいような幼さを持つその外国人は、呆気に取られたように座ったままの龍郷に抱きつくと――頬に何度もキスをした。
 「カズマ、 I've missed you……!!」
 なんだこれ。なにを見せつけられてんだこれ。
 いつか勉強しようと思ってはいるものの、未だしおんが理解出来る外国語はわずかだ。
 なのにわかってしまった。この青年が、なんと言ったのか。――心の底から叫んだのか。

 『会いたかった』

 「しおんくん、海外の人はこれが挨拶だから」
  野々宮が耳打ちしてくる。その様子に気が付いたのか、テディと呼ばれた青年はこちらに向き直った。 
「カズマの仕事仲間? セオドア=フォーサイスです。カズマには学生の頃お世話になって」 
 今度はずいぶん流暢に日本語を操っている。
  お世話って、どういうお世話だよ。それに。
 「さっきそいつが呼んでたの、そんな名前じゃなかった気がするけど」
 「ソイツ? ――ああ、カズマが僕のこと? テディは僕のニックネーム。日本語だと……愛称?」 
 愛称。あだ名。そんなもので呼び合うような間柄の相手が龍郷にいたなんて――
 「しおんくん、欧米人の名前は日本ほど種類が豊富じゃなくて、愛称もだいたい最初から決まってるし、みんなそれで呼ぶものなんだよ。別に、そんな特別な意味とか」
「パブリックスクールの寮で一緒だったというだけだ。学年が離れてるからほんの一年か二年だったし」
  龍郷が青年としおん、双方に聞こえるように言って、話を終わらせようとすると、青年はあからさまに拗ねてみせた。
 「ひどいな、僕はいつも本気だったのに。まあカズマの部屋を訪ねる生徒は途切れたことがなかったからね」
 「ミスターフォーサイス、なぜ日本に? お仕事ですか」
  相変わらずの気遣いで割って入る野々宮の言葉を気に留める様子もなく、セオドアはしおんたちのテーブルに留まった。それどころか、龍郷の隣にそのまま腰を下ろす。
 その瞬間、緑色の瞳が確かにちらりとこちらを一瞥した。一瞬だが、確かに感じた。値踏みするような意地の悪さを。
 ――なんだ、こいつ。
 明らかに悪意が混ざっていたと思うのに、セオドアはしれっと語り始めた。
 「んー、仕事というよりは、慈善事業かなあ」
  なんでも彼の叔父は横浜の外国人居留地に暮らして長く貿易の仕事をしていたらしい。地元の日本人の信頼も厚い彼は、この度の震災で壊滅的な被害を受けた山手・元町界隈の再開発を市から依頼された。
 なぜ外国人である彼に白羽の矢が立ったのか。それは安全な街づくりに適した区画整理の為には、各国の商人や領事館に散らばった土地の権利を纏める必要があったからだ。
 「なにしろ借地権者が世界中に散らばってしまったから、話を取りつけるだけでもひと苦労ってわけ。そこで日本語と、他にも数ヶ国わかる僕がお手伝いに。まあ、恩を売っておいて悪い相手ではないから――カズマは今は日本一有名なデパートメントストアの社長なんだって?」
  今日会ったのは偶然なのだろうが、日本、それも東京に近い横浜で仕事をしていれば、龍郷の仕事ぶりは自ずと耳に入るのだろう。 「ああ、そこにいるしおんのおかげでな」
 「シオン?」
 「彼は我々の店の音楽隊のメンバーで、大変な人気なんですよ。彼のおかげで店の名が知ってもらえるようになったようなものです」 
「俺のおかげじゃなくて、野々宮や、店のみんなのおかげだろ」 
 褒め称えられるのは居心地が良くない。思わず口を開くと、セオドアは大きく目を見開いていた。そんな顔をすると、仕事ではるばる海を渡ってきたビジネスマンにはとても見えない、少年のような面影がある。
 「随分日本語が上手だね」
 「俺は日本語しか出来ない。日本から出たこともない」
 何ヶ国語も操れる、龍郷と対等なセオドアに言われたのがなんとなく気に障り、声はぶっきらぼうになった。セオドアはまたしても目を見張る。
 「驚いた。じゃあ君は一体何人なの?」
  悪気はないのだろう。自分が黙っていれば欧米人にしか見えない容姿であることもよくわかっている。
 「わからない。俺は親がどんな奴かも知らない」 
 龍郷と野々宮が顔色を変えた。そんな顔をする必要なんかない。俺の中でとっくに答えは出てる。

 「何人でもない。俺は、ただの俺だ」

 「――」
  三人が三人何故だか黙りこんだちょうどそのとき、店のドアが勢い良く開いた。
 ドアベルがけたたましく鳴り、店中の注目を浴びながら駆け寄ってくるのは、龍郷百貨店の事務方の従業員だ。
 「ああ、良かったここにいらした。すみませんが社長、本店の方で職人がすぐ確認したいことがあるってきかなくて。わからないことには午後の作業が進まないっていうもんですから」
 「なんだって?」
  職人たちには日割りで給金を払っているのだ。午後を丸々さぼられてはかなわない。次の予定を考えたら、今戻らないと間に合わないのだろう。龍郷と野々宮の反応から、一瞬でそう悟ってしまったしおんは「いいよ。ひとりで適当に喰っとく」と告げるしかなかった。
 久しぶりに龍郷と一緒に過ごせる昼の時間を手放すのが惜しくなかったわけはないが、そもそも店のことが片付かなければゆったり過ごす時間など永遠にやって来ない。
 それに――元々今日は、変な邪魔が入ってたし。
  案の定セオドアは名残惜しげに龍郷を見上げている。龍郷はそれには気づかない様子で、しおんの頭を撫でた。
 そのまま髪を退けて耳朶をきゅっと指で挟む。 解いた指で顎を撫でる。龍郷の好む愛撫だ。 
「すまないな。――セオドアも、叔父上に宜しく」
  慌ただしく店を後にするふたりを見送って、テーブルに向き直る。龍郷がいなくなり、当然立ち去るものと思っていたセオドアは、仏頂面でまだ陣取っていた。
 「この店はなにが美味しいの」
 「……なんでも美味いけど」
  まさかこの場で食べるつもりなんだろうか。一緒に? 戸惑いながらも思わず反射で応じると、セオドアは曖昧な答えが気に入らない様子で眉根を寄せた。
 「あんたのおすすめは?」
 「オムレツライスとコロッケだけど……」
  ていうか今「あんた」って言ったな。 本当に大した語学力だ。訳もわからず関心してる間にセオドアは女給を呼び、しおんも慌てて同じものを注文した。  
 ほどなくして運ばれてきた品に口をつけ、セオドアは仏頂面のまま「……美味しい」と呟いた。とても美味しいと思っているようには見えない不服げな顔で。
 「日本のものって、なんでもそう。奇妙だけど、どれもひどく美味しいんだ。クロケットなんて、完全に原形を留めてないのに」 
 悔しそうにそんなことを吐き出すと、セオドアはコロッケをもりもりと口に運んだ。あまりの食べっぷりにしおんが「ウスターソースかけると、また美味いんだけど」と思わず差し出すと、ひったくるように奪ってじゃぶじゃぶとかけ、目を輝かせた。
 ひと通り食べ終えると、セオドアは大きなため息をつく。
 「……感じ悪くしてごめんね」 
 唐突な言葉だが、驚きはなかった。むしろやっぱりな、という気持ちがある。 こいつ、一目見た瞬間から俺のことを敵対視してた。 理由はおそらく――
 「カズマはさ、僕ら下級生みんなの憧れだったんだ」
  学校中でただ一人の東洋人。初めてそう耳にしたときは、嫌だな、と思った――そうセオドアは言った。
  彼らの通う学校は伝統があり、上流階級の子供のみが集う。その中に、地図上で見つけるのが難しいほど小国の変り種が一人いる。しかも一緒に寝起きするのだ。なにか野蛮なことをされたらどうしよう――そんなふうに思ったと。 
「でも、入学して彼を見たら、なんて美しい人なんだろうって思った。お母様が特別なときにつける、南洋の黒真珠みたいに」
  しかも勉強もスポーツも龍郷は一番だった。上流階級の子弟が集まるということは、自然と家柄で力関係が決まってしまうということでもある。フォーサイス家は歴史ある名家だが実業家としては中堅で、どんなにセオドア自身が努力しようとその評価はついて回る。そんな狭い世界で、アジアの野蛮人というイメージを覆す龍郷は、孤高の存在だったのだ。 
「表向き夜に部屋を訊ねるのは禁止されてたけど、彼と寝た生徒は沢山いるって噂されていた。だから僕にもその幸運が訪れないかと思って、出来る限りついて回ったりしてね。でも彼はお互い遊びの相手しか抱かないって決めているみたいで、見境なくのめり込んでしまいそうな僕ら下級生に手を出すことはなかった」
  そのうちに、きっと遠い日本に大事に思う人がいるんだ、と誰かが言い出した。 だから遊びでしか抱かない。誰と寝ようと、彼の心は本当は誰のものでもない。そう思うことが、幸運に選ばれなかった自分たちを慰める唯一の術だった。
 「黒い髪に黒い瞳の美しい人がいるんだから仕方がないって当時の僕たちは諦めたのに、久し振りに日本で再会したら、金髪の君を連れてたもんだから――つい」
 ごめんね、とセオドアはくり返す。
 「黒い髪と黒い瞳だったら彼に愛してもらえたのかなって当時の僕たちはずっと思ってた。……でも、本当は君みたいに言えれば良かったのかもしれないね。僕は僕だって」


 帰宅した龍郷は、彼には珍しく歯切れが悪かった。
 「あれから……セオドアとなにか話したのか?」
 「あんたが向こうにいた頃、いろんな奴と寝てたとか?」 
「しおん、それは」
 「別に。あんたがこの世にいるってことも知らない頃のことだし」   
 それはおおむね本心だった。そもそも本人の口から聞いていたことでもある。 腹が立つというより、どこか哀しい気持ちになるのは、龍郷が本気にならない相手ばかりを抱いていた理由を知ってしまっているからだった。 
 横暴な父親の都合で人生をねじ曲げられた母と自身を顧みれば、なにかを本気で欲することなど出来ない。――いつまた奪われるともしれないものを。 傷つきやすい少年の頃の龍郷が、体だけの交合を重ねていたと思い浮かべるとき、胸を占めるのは嫉妬ではなく、どうしようもない切なさだった。
  しおんが黙り込む訳をどう受け止めたものか、龍郷は重ねて告げてくる。
 「今はおまえだけだ、しおん。誓って」 
「知ってる」
  はぐらかさずに受け止めると、龍郷は瞬いた。人はこんなにも厄介だ。信じて欲しいのに、信じられても驚く。
 「今日の分」
 「あ、ああ」
  促すと、龍郷はキャンディポットから紙片を引いて広げて見せた。 記されていた文字に、しおんはつくづく神様の皮肉を感じて龍郷の頭を抱き寄せた。
 【髪】
  黒真珠のような艶を持つそれに、そっと唇を寄せる。
  自分も始めは妬ましかった。この黒い髪が、そして瞳が。
  でも今は違う。

  愛してる。どんな髪の色でも。瞳の色でも。
  おまえが何者でも。
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