みなしごと百貨の王

あまみや慈雨

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8日目【背中:確認】

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 相談があるんだけど、と切り出すと、忙しくも有能な青年はやけに悲壮な面持ちで美しい眉尻を下げた。 
「いつかそういうこともあると思ってたよ。……しおんくん、僕で良かったらなんでも聞くからね」
 「? あ、りがとう?」
  野々宮が優秀かつ親身になってくれることはもうよく知っている。それにしても――
 「いくら好き合ってるからといって、なんでもあいつの言いなりになることはないし、その、応じたくないときには――普段から別の部屋にしたければ僕からも」
 「なんの話?」
 「んん?」
 「俺は、学校に行くには俺の稼ぎで足りるのか訊きたかったんだけど……」
  龍郷が熱を出した晩、考えた。あいつは仕事を休みたがらない。  
 もちろん仕事が好きな仕事の虫だからだが、圧倒的な求心力のある社長が姿を見せなければ、社員が不安がるとわかっているからだ。震災後の微妙な時期で、何から何まで采配を振るわなければならない今ならばなおさら。
  ――でも、それじゃいつかだめになる。 神様だって世界を作って七日目には休んだんだろう。孤児院にいたときは無理矢理暗誦させられていたそんな一節を、ふと思い出す。
 みんな、龍郷のことを神様のように思っている。でも、不死身じゃない。
 わかっていながら、ただ手をこまねいているのが嫌だった。
 「俺が、勉強して、なにかもっと店の役に立てたら――」
 「……しおんくん」
  野々宮は相変わらず眉尻を下げている。ただし、さっきとはまったく別の意味でだ。
 「――べ、別に、俺なんかが勉強したからって、なにかの役に立つかはわからないけど!」
 「いや、たとえ店の役に立たなくったって、子供は教育を受けるべきなんだよ。誰かのためにじゃなく、自分のためにそうするべきなんだ。しおんくんなら中学へ行ってもきっと――」
  明るい興奮に満ちた声音がかすかに翳る。 
「ああ、たしか中学は尋常小学校を出てないとだめだったかな……でも、商業の道を志すならそういう学校もあるし、ちょっと時間をかけてよく調べてみるよ」 
「いいよ、そこまでは。余計な仕事を増やしたくない」
  そもそもがただの思いつきだったのだ。龍郷が苦しんでいる間、なにも出来ない自分がもどかしい。それだけの、言うなれば私情のために、龍郷に負けず劣らず忙しい野々宮の手を煩わせたくはなかった。
 「優秀な若者に関われるのは大人の喜びなんだから、機会を奪われたくないなあ」
 「優秀とか、……」 
 冗談めかしてまぜ返すのは、野々宮のやさしさだと知っている。否定しようとした言葉は途中で気勢を失って霧散してしまった。 だって、こんな扱い、一年前の自分には想像もつかなかった。 
「ごめん。……ありがとう。お願いします」
  ありがとう。
 お願いします。
 かつては使ったこともなかったそんな言葉を口にする度、自分の中でなにかが変わっていく気がする。なにか、透明なきらきらしたものへと。
 「お礼を言いたいのはこっちだよ。君みたいな子があいつのそばに来てくれて、 本当に良かったと僕は思ってるんだ。……君はあいつの元に神様が遣わしてくれた天使なんだよ」

 その夜、いつものように先に寝台の上に寝そべって待っていると、風呂から出た龍郷がガウンを羽織って戻って来た。
 顔色を見る限り、もうすっかり良さそうだが、それだって本当のところどうかはわからない。
 どうせこいつは誰にも本当の弱音なんて聞かせたことがないんだろう。 だったら、聞かない。こっちが勝手に守ってやれるようになるだけだ。
 「なんだ? なんだか難しい顔して」
  思わず枕を抱く指にぎゅっと力が入ってしまうのを見咎めて、龍郷が面白そうに苦笑する。いつものように、まるで人馴れしない猫が嫌がるのを楽しむかのように顎に手を伸ばして来て触れる。 「別に」
  好きなようにさせておくと、やがて龍郷は「さて、今日の分だな」と紙片をひと摘み上げた。開いてこちらにも見せてくる。 
「背中。どうする? 寝そべったほうがいいか、座ったままにするか」
 「どっちでも、おまえが好きなように」 
 いずれにせよ、顔が見えない位置なのは気が楽だった。昨日のように正面から真っ向勝負を挑むのは、心臓の負担が大きい。
 さっと済ませて、さっさと寝てもらおう。今の自分にとって出来ることはそれくらいなのだから、妙に羞じらって手間を取らせるのは無駄だ。
 「脱げ」
 「……なんだか今日は妙に勇ましいな?」
  龍郷は胡乱げに、それでも次の瞬間にはもう愉快そうに小さく笑みをこぼしながら、風呂上がりにまとっていた絹のガウンをするりと滑らせた。
 無駄な肉のない背中があらわになる。まだ風呂上がりの熱が残っていて、ふわ、とそれが薫った。 考えてみれば、こうして後ろから龍郷の素肌を目にすることはほとんどない。
  ――いつも抱かれるか、上に乗るかだから…… 我ながら身もふたもないことを考えた、と思ってふるふると被りを振る。 そして気がついた。 シミひとつないように見えた背に走る、紅い――
 「き……ずあと?」
  しまったと思ったときにはもう、呟きがこぼれ落ちてしまっていた。
 「ああ、――そうか、風呂上がりだから、まだ見えるか。普段はほとんど消えてるはずだが」
  そう言う龍郷の言葉通り、瑕痕はごく薄く、薄紅の線が走っている程度。だがそれは時を経たからだろう。肩甲骨の谷間から、まるで袈裟懸けにでもされたかのように斜めに走るこの瑕は、負った直後はかなり痛々しいものであるはずだった。
「……ここへ連れて来られたばかりの頃だったかな。母の元へ戻ると泣き止まない俺を、父親は火かき棒で打った。その頃はまだ暖炉が現役で」
  だったかな、なんて。 もう忘れてしまったことのように龍郷は言うけれど、そんなわけはなかった。
 薄くなっているとはいえ、これだけの瑕だ。大人の背中に刻まれていても痛々しいのに、まだ子供だった龍郷に、父親だとかいう男はどんなつもりで。まだ幼かった龍郷は、それを、どんな気持ちで。  

 きっと、泣きはしなかっただろう。 龍郷は子供の頃から賢くて、誰よりも気高くて――美しかっただろう。
  弱い自分など、黒い瞳の奥底にうまく隠して、涙など、けして。

 しおんはそっと薄紅の瑕を撫でた。美しい肩甲骨の峰を指先でなぞり、谷間にそっと口づける。
 それは龍郷が自分を抱くとき好む仕草でもあった。やさしく組み敷いて背後から犯すとき、龍郷はそこを愛撫して囁く。

  ――この骨は翼の名残りなんだそうだ 
  ――つばさ、?
  ――かつて人間が天使だった頃は、ここに翼が生えていた。とんだセンチメンタルだが、おまえを見ていると、それも有り得ると思えてくる……

 そう言って龍郷はなにかたまらない様子でしおんを抱くのが常だった。
 「しおん? ……泣いているのか?」
  訊ねる声に被りを振った。それが精一杯で、言葉はなにも言えなかった。

  天使だったのはあんただ。

  こんな酷いやり方で翼を奪われたのに、俺にくれる。暖かい寝床を。食う物を。野々宮のようなやさしい隣人を。 流れる涙を。人間らしいすべてを。

  天使なのはあんただ。 

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