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5日目【耳:誘惑】
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昼過ぎに降り出した雪はあっという間に積もり、帝都を白く染め上げた。
不思議なもので、積もる日の寒さは静けさに満ちている。凩のような前兆があるわけでもなく、ただ、曇天が世界を隙間なく覆っているなと思ううちに、空が綻びて溢れ落ちる。白い羽毛のように舞い降り、地表を覆う。
適温に暖められた龍郷の部屋で、しおんは電話を取っていた。夜は更けているが、月明かりを反射する雪のせいで、窓の外はいつもよりぼんやりと明るい。 電話の相手は龍郷だった。
この雪で邸に帰って来られず、ホテルに泊まることにした龍郷がわざわざそれを知らせてきたのだ。
『ひとりでもちゃんと暖かくして寝ろよ』
「大丈夫だよ……」
子供か。
しおんが電話などというものに触れたのは、もちろん龍郷の邸に来てからのことだ。この喇叭みたいな口のついた箱から、遠く離れた場所にいる人間の声がするというのに未だに慣れない。
それまで交換手がいちいち手動で繋いでいたものが、震災を機に自動式に切り替わっている最中で、普及率はまだまだ少なかった。
公衆電話は一通話五分以内五銭。ただ話すだけのことに金がかかるのだから、いちいちかけてこなくともいいのにと思ってしまう。
『そうか? いつも臍が出てるぞ』
「えっ」
『嘘だよ』
「――」
『悪かった。切るな』
電話越しでも気配というものは伝わるらしい。さえぎる龍郷に感心していると、もう一度『……切るなよ』と声が空気を震わせた。 機械越しの声。いつもとは少し違う声。けれど妙に耳元に響く声。
「ひとり寝が淋しいのか?」
意趣返しのつもりでそう言ってやれば『そうだな』と返ってくる。
『予定外に離れて眠るのは、初めてだろう』
そう告げる響きが、酷く切実に聞こえるのは、ときどき混ざる雑音のせいだろうか。ただでさえあまりいいとはいえない音質が、雪のせいで一層乱れているのかもしれなかった。離れても連絡が取り合えるというのは画期的な発明には違いないが、やはり顔が見えないのは厄介でもある。
――こいつがどこまで本気なのか、わかんなくなる。
しおんの気遣いを知ってか知らずか、龍郷はさらにぼやいた。 『今日はアドベントカレンダーも開けられないしな』
あらかじめ予定がわかっていた華族会館の日とは違い、今日はまったくの予定外だったろう。龍郷にとってそうならしおんにとってももちろんそういうことで。
――そうか。
初めてだ。まったく想定外にひとりで夜を過ごすのは。
気づいてしまったら、それはしんしんと沁みてくる。いつのまにか降り積もってしまう、雪のように。
『そうだ』
受話器の向こうから、なにか思いついたように紡がれた声は思いのほか明るくて、しおんを静かな夜の底から掬い上げた。
『今日の分を今おまえが開けてくれないか。明日ふたつ貰えるのを楽しみに寝るから』
気障なことを、と思うが、きいてやれない願いでもない。
――ていうか、会えない日の分はなしにはならないのか。
狡いような、龍郷らしいようなと思いながらしおんは、寝台の上を移動した。
「わかったよ。――じゃあひとつずつ出すから、おまえがいいと思ったところで合図しろ」
キャンディポットの紙片の山に手を入れて、ひとつずつサイドテールに出していく。
『それだ』
大真面目に合図する 龍郷に苦笑しながらひとつを取り分けて開くと、そこにはこう記されていた。
【唇】
『どうした?』
「なんでもない」
動揺を悟られないように、ことさらなんでもないことのように制して、しおんは一度開いた紙片を注意深く折り畳んだ。
代わりに、テーブルの上に出したものの中からもうひとつ摘み上げて開く。
「耳、だってさ」
『いいな。楽しみにしておこう』
龍郷の声に疑う響きはない。気づかれようもないはずなのに、しおんは受話器のコードを握り締めていた。
唇なんて。
そんなの、明日までひとりで抱えていられない。どうやったって今夜はもう、一緒に眠れないのに。
それにしても龍郷も龍郷だ。よりによってこんな日に、際どいところを引き当てる。百貨を統べる王様は、やはりなにか特別なものを〈持って〉いるのかもしれなかった。
静かな夜に響いてしまう、とくとく波打つ心臓の音を打ち消すように、しおんは「なあ!」と声を上げた。
『なんだ? 大きな声を出して』
「耳ならーー今日でも出来る」
『しおん? ――』
怪訝そうに訊ねる声に続いた空白に、意味が生じてしまうのを恐れるように、しおんは受話器に唇を寄せた。
「……………、」
――微かな微かなその音は、けれど、龍郷にだけは聞こえたはずだ。
『……しお、』
「じゃーな! おまえこそ臍出して寝るなよ!」
まくし立てて乱暴に受話器を置いた。頭から布団を引っ被る。やっぱり電話は厄介だ。 顔が見えないから、嘘もつける。恥ずかしいことも出来てしまう。
雪の夜は酷く静かだ。
なのにまったく眠れる気はしなかった。
不思議なもので、積もる日の寒さは静けさに満ちている。凩のような前兆があるわけでもなく、ただ、曇天が世界を隙間なく覆っているなと思ううちに、空が綻びて溢れ落ちる。白い羽毛のように舞い降り、地表を覆う。
適温に暖められた龍郷の部屋で、しおんは電話を取っていた。夜は更けているが、月明かりを反射する雪のせいで、窓の外はいつもよりぼんやりと明るい。 電話の相手は龍郷だった。
この雪で邸に帰って来られず、ホテルに泊まることにした龍郷がわざわざそれを知らせてきたのだ。
『ひとりでもちゃんと暖かくして寝ろよ』
「大丈夫だよ……」
子供か。
しおんが電話などというものに触れたのは、もちろん龍郷の邸に来てからのことだ。この喇叭みたいな口のついた箱から、遠く離れた場所にいる人間の声がするというのに未だに慣れない。
それまで交換手がいちいち手動で繋いでいたものが、震災を機に自動式に切り替わっている最中で、普及率はまだまだ少なかった。
公衆電話は一通話五分以内五銭。ただ話すだけのことに金がかかるのだから、いちいちかけてこなくともいいのにと思ってしまう。
『そうか? いつも臍が出てるぞ』
「えっ」
『嘘だよ』
「――」
『悪かった。切るな』
電話越しでも気配というものは伝わるらしい。さえぎる龍郷に感心していると、もう一度『……切るなよ』と声が空気を震わせた。 機械越しの声。いつもとは少し違う声。けれど妙に耳元に響く声。
「ひとり寝が淋しいのか?」
意趣返しのつもりでそう言ってやれば『そうだな』と返ってくる。
『予定外に離れて眠るのは、初めてだろう』
そう告げる響きが、酷く切実に聞こえるのは、ときどき混ざる雑音のせいだろうか。ただでさえあまりいいとはいえない音質が、雪のせいで一層乱れているのかもしれなかった。離れても連絡が取り合えるというのは画期的な発明には違いないが、やはり顔が見えないのは厄介でもある。
――こいつがどこまで本気なのか、わかんなくなる。
しおんの気遣いを知ってか知らずか、龍郷はさらにぼやいた。 『今日はアドベントカレンダーも開けられないしな』
あらかじめ予定がわかっていた華族会館の日とは違い、今日はまったくの予定外だったろう。龍郷にとってそうならしおんにとってももちろんそういうことで。
――そうか。
初めてだ。まったく想定外にひとりで夜を過ごすのは。
気づいてしまったら、それはしんしんと沁みてくる。いつのまにか降り積もってしまう、雪のように。
『そうだ』
受話器の向こうから、なにか思いついたように紡がれた声は思いのほか明るくて、しおんを静かな夜の底から掬い上げた。
『今日の分を今おまえが開けてくれないか。明日ふたつ貰えるのを楽しみに寝るから』
気障なことを、と思うが、きいてやれない願いでもない。
――ていうか、会えない日の分はなしにはならないのか。
狡いような、龍郷らしいようなと思いながらしおんは、寝台の上を移動した。
「わかったよ。――じゃあひとつずつ出すから、おまえがいいと思ったところで合図しろ」
キャンディポットの紙片の山に手を入れて、ひとつずつサイドテールに出していく。
『それだ』
大真面目に合図する 龍郷に苦笑しながらひとつを取り分けて開くと、そこにはこう記されていた。
【唇】
『どうした?』
「なんでもない」
動揺を悟られないように、ことさらなんでもないことのように制して、しおんは一度開いた紙片を注意深く折り畳んだ。
代わりに、テーブルの上に出したものの中からもうひとつ摘み上げて開く。
「耳、だってさ」
『いいな。楽しみにしておこう』
龍郷の声に疑う響きはない。気づかれようもないはずなのに、しおんは受話器のコードを握り締めていた。
唇なんて。
そんなの、明日までひとりで抱えていられない。どうやったって今夜はもう、一緒に眠れないのに。
それにしても龍郷も龍郷だ。よりによってこんな日に、際どいところを引き当てる。百貨を統べる王様は、やはりなにか特別なものを〈持って〉いるのかもしれなかった。
静かな夜に響いてしまう、とくとく波打つ心臓の音を打ち消すように、しおんは「なあ!」と声を上げた。
『なんだ? 大きな声を出して』
「耳ならーー今日でも出来る」
『しおん? ――』
怪訝そうに訊ねる声に続いた空白に、意味が生じてしまうのを恐れるように、しおんは受話器に唇を寄せた。
「……………、」
――微かな微かなその音は、けれど、龍郷にだけは聞こえたはずだ。
『……しお、』
「じゃーな! おまえこそ臍出して寝るなよ!」
まくし立てて乱暴に受話器を置いた。頭から布団を引っ被る。やっぱり電話は厄介だ。 顔が見えないから、嘘もつける。恥ずかしいことも出来てしまう。
雪の夜は酷く静かだ。
なのにまったく眠れる気はしなかった。
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