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4日目【手首:欲望】
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「どうかしたのか?」
野々宮は訊ねた。上司であり友人である龍郷に。
どちらかと言えば後者の関係性での言葉になったのは、この出来る上司がどこか上の空だったからだ。
場所は龍郷家のサンルーム。仮店舗での営業は、以前のようなゆったりとした執務室を置く余裕がなく、毎朝の予定の確認はここでしてから出かけるようになっていた。
温室のような硝子張りの空間に、大理石で出来た小さな噴水。龍郷にとっては苦い思いもあるだろう邸だが、随所に施された意匠は趣味がよく、眼を見張るものがある。 それはさておき。
「ん?」
怪訝そうにそう返ってくるということは、龍郷自身には自覚がないということなのだろう。
「さっきから腕時計を気にしてらっしゃるので」
部下の距離感に戻ったのは、予定に不備でもあったかと思ったからだ。
それとも、時計に?
今日龍郷がしている腕時計は、初の国産品、セイコー社の「ローレル」だ。十年ほど前に発売されたそれは、未だ軍人や一部の新しもの好きが知る存在でしかない。デザイン的には実に簡素で、海外のものには遠く及ばない。しかし、震災を受けて、腕時計はそれまでの装飾品から実用品へとその役割を変えようとしていた。 龍郷は実に多くの人間と商談で会う。その龍郷が身につけていれば、自ずと目に留まる。しおんがその可憐な容姿と歌声で広告塔を務めるように、龍郷もまた同じような働きを日々しているのだった。
日本製の腕時計の品質は、海外にも劣らない。なにより価格を抑えられる、修理がすぐ出来るなどの利点がある。これから伸びる部門だと常々口にしているのは龍郷なのだが。
「いや、なんでもない。行こう」
龍郷は野々宮の杞憂を振り払うようにあっさりと告げ、上着を取る。
――気のせい、か?
それはそれで、完璧な秘書を目指す野々宮としては気がかりではある。
「行くぞ!」
上機嫌な上司は、上着を羽織りながら、やはり、腕時計をちらりと見たような気がした。
……………
昨夜。
「手首」
――それが今回引いたカレンダーに記されていた文字だった。 書いたのは自分だが、なかなかもどかしいものはある。
とはいえその前の「指」に比べたら、こうして向き合って触れ合えるだけマシなのか、とも思う。
――昨夜も悪くはなかったな。
風呂上がり、龍郷は寝台に横たわってまだわずかに湿った髪をかきあげ、あの感覚を反芻する。
喧騒の中にいながら交わした秘め事。言葉にしなくとも、お互いが欲情していることはわかっていた。そうと知りながら、まるで、性交の代わりのように指を絡ませた――
しばらくの間〈そういうこと〉はなしだとしおんは言った。
歌えなくなるから、とかなんとか言い訳をしていたようだが、それがこちらの体を気遣ってのことなのはわかっている。
見くびられたな、とは思うが、実際帰国以来恋人のいなかった
龍郷だ。 ただでさえ震災後の復興で様々な仕事がある中、思う様味わってしまったら――という危惧は、うっすらとだがある。 それも当の恋人本人からの申し出なら、しばらく付き合ってやるのが大人の余裕というものだろう。
だが正直、昨日は揺らいだな。
――まだ三日目か。
この先の仕事に大事な日でなかったら、あのまま腕をひっつかんで、適当な空き部屋を探していたかもしれないなどと思う。
そこまでだったというのに、今日も今日とて神様はなかなかに手強い。
「手首ね。――ん」
この遊びも四日目だ。いちいち躊躇うのはやめたのだろうか、しおんが無造作に手を差し伸べて来る。
「随分慣れたものだな」
それが少し物足りなく、ぼやきながら手を預ける。――思いのほか強い力で抱き寄せられた。
手首の内側が、ぬるりと濡れた感触で包まれる。しおんは寝台の上に両膝をつき、両手で龍郷の腕をおしいただくように抱いて、その行為をくり返していた。
腱の作る峰を、窪みを舌先で擽ぐる。 そこを通る太い血管が、どくっと波打つのがわかり、思わず目をやると、し
おんは透ける金色の前髪下から、上目遣いに龍郷を捉えた。
紅い舌先を見せつけて、手首をつう……っと舐め上げる。
あふれる唾液を嚥下するのか、白い喉が上下する様が、妙に艶かしい。
出会った頃は、痩せた見窄らしい子供でしかなかったのに。
いつの間にそんな顔をするようになったんだ――?
「――ッ!」
突然、チッと火花でも散ったような、微かなけれど鋭い痛みがあって、龍郷は我に返った。
見れば、いつの間にか手首の内側に、紅く徴が刻まれている。 しおんの唇がたしかにそこに触れていた、その証のように印された鬱血。
「――おやすみ」
それだけ告げてしおんは寝台に潜り込む。濡れた口元を拭いながらちらりと一瞥した、その眼差しに縛りつけられたように、龍郷は身動ぐことも出来なかった。
………
――余裕、ね。
上着を羽織りながら、龍郷は時計を見る。
――先にもたなくなるのは俺かもな。
時計のベルトの下に隠した秘め事の痕をそっと撫で、なにやら気を揉んでいる様子の秘書が追って来るのを待った。
野々宮は訊ねた。上司であり友人である龍郷に。
どちらかと言えば後者の関係性での言葉になったのは、この出来る上司がどこか上の空だったからだ。
場所は龍郷家のサンルーム。仮店舗での営業は、以前のようなゆったりとした執務室を置く余裕がなく、毎朝の予定の確認はここでしてから出かけるようになっていた。
温室のような硝子張りの空間に、大理石で出来た小さな噴水。龍郷にとっては苦い思いもあるだろう邸だが、随所に施された意匠は趣味がよく、眼を見張るものがある。 それはさておき。
「ん?」
怪訝そうにそう返ってくるということは、龍郷自身には自覚がないということなのだろう。
「さっきから腕時計を気にしてらっしゃるので」
部下の距離感に戻ったのは、予定に不備でもあったかと思ったからだ。
それとも、時計に?
今日龍郷がしている腕時計は、初の国産品、セイコー社の「ローレル」だ。十年ほど前に発売されたそれは、未だ軍人や一部の新しもの好きが知る存在でしかない。デザイン的には実に簡素で、海外のものには遠く及ばない。しかし、震災を受けて、腕時計はそれまでの装飾品から実用品へとその役割を変えようとしていた。 龍郷は実に多くの人間と商談で会う。その龍郷が身につけていれば、自ずと目に留まる。しおんがその可憐な容姿と歌声で広告塔を務めるように、龍郷もまた同じような働きを日々しているのだった。
日本製の腕時計の品質は、海外にも劣らない。なにより価格を抑えられる、修理がすぐ出来るなどの利点がある。これから伸びる部門だと常々口にしているのは龍郷なのだが。
「いや、なんでもない。行こう」
龍郷は野々宮の杞憂を振り払うようにあっさりと告げ、上着を取る。
――気のせい、か?
それはそれで、完璧な秘書を目指す野々宮としては気がかりではある。
「行くぞ!」
上機嫌な上司は、上着を羽織りながら、やはり、腕時計をちらりと見たような気がした。
……………
昨夜。
「手首」
――それが今回引いたカレンダーに記されていた文字だった。 書いたのは自分だが、なかなかもどかしいものはある。
とはいえその前の「指」に比べたら、こうして向き合って触れ合えるだけマシなのか、とも思う。
――昨夜も悪くはなかったな。
風呂上がり、龍郷は寝台に横たわってまだわずかに湿った髪をかきあげ、あの感覚を反芻する。
喧騒の中にいながら交わした秘め事。言葉にしなくとも、お互いが欲情していることはわかっていた。そうと知りながら、まるで、性交の代わりのように指を絡ませた――
しばらくの間〈そういうこと〉はなしだとしおんは言った。
歌えなくなるから、とかなんとか言い訳をしていたようだが、それがこちらの体を気遣ってのことなのはわかっている。
見くびられたな、とは思うが、実際帰国以来恋人のいなかった
龍郷だ。 ただでさえ震災後の復興で様々な仕事がある中、思う様味わってしまったら――という危惧は、うっすらとだがある。 それも当の恋人本人からの申し出なら、しばらく付き合ってやるのが大人の余裕というものだろう。
だが正直、昨日は揺らいだな。
――まだ三日目か。
この先の仕事に大事な日でなかったら、あのまま腕をひっつかんで、適当な空き部屋を探していたかもしれないなどと思う。
そこまでだったというのに、今日も今日とて神様はなかなかに手強い。
「手首ね。――ん」
この遊びも四日目だ。いちいち躊躇うのはやめたのだろうか、しおんが無造作に手を差し伸べて来る。
「随分慣れたものだな」
それが少し物足りなく、ぼやきながら手を預ける。――思いのほか強い力で抱き寄せられた。
手首の内側が、ぬるりと濡れた感触で包まれる。しおんは寝台の上に両膝をつき、両手で龍郷の腕をおしいただくように抱いて、その行為をくり返していた。
腱の作る峰を、窪みを舌先で擽ぐる。 そこを通る太い血管が、どくっと波打つのがわかり、思わず目をやると、し
おんは透ける金色の前髪下から、上目遣いに龍郷を捉えた。
紅い舌先を見せつけて、手首をつう……っと舐め上げる。
あふれる唾液を嚥下するのか、白い喉が上下する様が、妙に艶かしい。
出会った頃は、痩せた見窄らしい子供でしかなかったのに。
いつの間にそんな顔をするようになったんだ――?
「――ッ!」
突然、チッと火花でも散ったような、微かなけれど鋭い痛みがあって、龍郷は我に返った。
見れば、いつの間にか手首の内側に、紅く徴が刻まれている。 しおんの唇がたしかにそこに触れていた、その証のように印された鬱血。
「――おやすみ」
それだけ告げてしおんは寝台に潜り込む。濡れた口元を拭いながらちらりと一瞥した、その眼差しに縛りつけられたように、龍郷は身動ぐことも出来なかった。
………
――余裕、ね。
上着を羽織りながら、龍郷は時計を見る。
――先にもたなくなるのは俺かもな。
時計のベルトの下に隠した秘め事の痕をそっと撫で、なにやら気を揉んでいる様子の秘書が追って来るのを待った。
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