みなしごと百貨の王

あまみや慈雨

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3日目【指:賞賛】

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「今夜は遅くなりそうだ。起きていなくていいぞ」
  龍郷は言った。華族会館へ向かう車の中でだ。今日は揃ってチャリティーコンサートへ出席する、その道中でのことだった。
 「コンサートのあと、小松原様に呼ばれてる」
 「……あ、そ」 
娘との婚約を袖にされた小松原男爵は、幸い、商売相手としては龍郷のことをいたく気に入っていて、なにかと目をかけてくれている。その感謝の気持ちと令嬢に対する後ろめたさ、ふたつ重なれば誘いを断るのは困難だろう。
 寝てていいってことは、今日は〈あれ〉はなしってことなのか。 昨日龍郷が引いたアドベントカレンダーは「掌」だった。 頬、掌と、比較的抵抗の少ない場所が続いてほっとしたのと同時に、残りになにが入っているのか気になる。 そんなことを口にしたら、龍郷はきっとこう言うだろう。 『もっと際どいところを期待してたのか?』 その声音、不敵に歪む口元の角度まで、ありありと脳裏に浮かぶようで悔しい。 
だいたい、龍郷はこの遊びをどう思っているんだろう。
気がつけばまんまと奴の術中にはまって、一日中考えている。もちろん歌っている最中は忘れていられるのだが、ふと我に返ると、まだたった二日、ささやかな児戯にも等しい口づけのことを、くり返し考えてしまう。 
 昨日は少しでも報いてやろうと試みた。 
 龍郷はきっと自分が戸惑っているばかりだと高をくくっているだろう。だからこっちから、ぐっと踏み込んで仕掛けてやったのだ。  なのに朝になったら龍郷はもう仕事でいなかったし、店で落ち合って車に乗り込んでからも、涼しい顔をして、野々宮と仕事の打ち合わせばかりしている。 そして「起きていなくていいぞ」だ。
 ――別にがっかりなんかしてねえけど。してねえけど。断じてしてねえけど。
 それでも今夜はあの広い寝台にひとりで寝るのだと思うと、もう今から少し淋しい。 浅草をうろついていた頃には、固い橋脚に背中を預けて寝てたのにな。
 そんなことを考えている間に車は華族会館へたどり着いた。一足先に降りて控え室などの確認をしてきた野々宮が戻り、改めて龍郷としおんは車から降りる。
 明治の頃に建てられた、かつての鹿鳴館は、神田にある教会と設計者が同じだという。そのドームのような屋根を頂いた佇まい。大きく取られた窓からは煌々と灯された灯りが漏れ、そこだけ別世界のように周囲から浮かび上がっている。足を一歩踏み入れれば、天井には朝露だけを集めたようなシャンデリアが一際煌めいていた。 
灯りだけでなく、着飾った人々の囁きまでもを乱反射させているかのようで、流石のしおんも一瞬鬱屈を忘れてさざめく空気に息を呑んだ。 
 とん、とその肩に誰かが触れる。 龍郷だ。 華やかな席に合わせて前髪を上げ、いつもよりしっかりと撫で付けている気障な装いは、この場の豪奢な雰囲気にも負けていない。 続々と招待客が訪れて、押し流されるように足を進めながら、龍郷はコートの胸ポケットから小さな紙片を取り出して見せた。
  ――持って来てたのか。
  いつのまに。思わず上げてしまいそうになった声を、周りを憚って飲み込む。龍郷は涼しい顔で紙片を開いて見せた。
 ……ゆ、び……? 
 しおんの目が読み取ったのを確認すると、龍郷はまた何事もなかったかのように紙片をしまう。その目が面白そうに語っている。   
――しろって? ここで?
  無理だ。いくら際どい箇所ではないとはいえ、人目がある。 「出演者の方はこちらへ」
 人波の向こうで、今回の主催の小松原嬢と婦人が自ら案内をしていた。あそこまでたどり着いたら、龍郷は観客席へ、自分は控え室へと別れて、再び会えるのは明日になってしまうだろう。
  龍郷を見上げれば、顔見知りに軽く手を上げて応じたりしている。その口元の笑みは、愛想笑いでなく、こっちの戸惑いを楽しんでいるのだと、しおんにはわかった。
――あく、しゅみ……ッ 
 ここまで煽られておいて腹立たしいことこの上ないが、今日はどうしようもない。踏み倒すか、明日二日分するか――自身もまた微笑みかけるご婦人たちに愛想笑いを返しながら目まぐるしく考える。 
 不意に、龍郷がしおんの手指に触れた。 反射で見上げると、龍郷は素知らぬ顔で顔見知りと挨拶を交わしている。
 ――指先は、捉えたしおんの指の背をなぞりながら。
 誰かに見られたら、 とっさに過ぎった不安は、取り越し苦労で済んだ。それぞれ己の社交に忙しく、他人の手元を見ている者はさしあたっていないようだった。 
 龍郷は、触れるか触れないかの距離で、しおんの指をなぞる。――誘う。
 明らかに〈そういう〉意図を持って。
今日はこれがキスの代わりということなのだ。
 そうとわかれば、おとなしくされるがままになっていることはない。 しおんは何食わぬ顔で人混みを進みながら、龍郷の指に指を絡めた。         
         
しっかりと繋いでしまえば流石に人に気づかれる。
だから、そっと、まるでついばむ口づけのように触れるのをくり返す。
指の腱をなぞる。 
 龍郷の体はそんなところひとつとっても自分より逞しく、雄を感じさせた。 
 険峻な雪山の峰のような長い指の背をたどり、指先を指先で挟む。
  指の腹を指の腹で撫でる――執拗に。
  顔を見なくとも、龍郷がその意図に気がついていることはわかっていた。 
 指の腹をたどって、股の薄い皮膚を引っ掻くと、かすかに息を呑む。喧噪に紛れてしまいそうなそれを、自分だけは聞き逃さない。書斎で。寝台で。浴室で――耳元で奏でられる淫らで微かなその気配を、けして。
 龍郷は報復のように指を絡め、敏感になったしおんの白い指を掻く。
ごくごく短い爪が肌を掻く、その感覚は酷くもどかしい。  ――こいつはいつも爪を綺麗に整えているから。 もちろん、今をときめく百貨店の若き王が身なりを整えるのは当たり前のことだろう。
――だけど。

 もうひとつの意味を、自分だけが知っている。

 ただ指先を触れ合わせていただけなのに、喉の奥が物欲しげに鳴ってしまう。 余韻は淫らな糸を引くようなのに、龍郷は観客席へと顔見知りと連れ立って去って行った。振り返ることもなく。  

 悔しいけれど、認めるしかない。今日はあいつが一枚上手だ。
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