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2日目【掌:懇願】
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「旦那様、今日はなんだかとても楽しそうなご様子ですね」
制服姿の運転手が、ミラー越しそう語りかけてくる。師走の夜はとうに暮れて、明治屋のクリスマス飾りの前を通り過ぎると、あとはもうしんしんと暗い夜更け。
「そうかな?」
「はい。お勤めに上がった頃は今時分にはいつもこう、帽子で顔を覆いになられて、眠っておられるのが常でしたが、最近はいつも起きてらっしゃいますし……」
突然英吉利から呼び戻されてみれば、問題だらけの店を継ぐことになった。問題だらけの店の実情を知ってか知らずか、旧来の使用人や親類たちはなにかと当てこすってくる。そんな日々を過ごしていれば、いくら龍郷でも一日の終わりになれば疲弊する。帽子で顔を覆っていたのは、万が一にでも苦悶の顔など見られないようにだ。
――不景気な顔は伝染するからな。
就任したばかりで、舐められるのもよくないと思っていた。あの頃は経営の実務の他にそんなことにも気を遣わなければならない毎日にうんざりしていたものだ。
「……そうだな。最近は楽しいんだ」
「それはようございました。お仕事が楽しいのは一番です」
寝室に入ると、楽しいの元が寝台に腰掛けていた。ただしこちらに背を向けて、やたらと足元のほうにだ。 手製のアドベントカレンダー を入れたキャンディポットは枕元のサイドテーブルに朝と変わらず置かれている。
――いや?
よく見れば、より端のほうに追いやられているような。 なるほど、と胸のうちで呟く。自分が帰るまで、何が書いてあるか見てしまいたくて、けれどそれはずるいような気がして、結果がこの不自然な距離なのだろう。
自分が帰ってくるまで、ひとりでそんなふうに懊悩してたかと思うと、体がふたつないことがとても惜しい気がした。是非とも右往左往する姿を物陰から覗いてみたかったものだ。
「ただいま」
上着を脱いで寝台に上がる。肩に触れようとした手を、可愛い恋人はためらいがちに払った。
――ん?
どうやら少しご機嫌斜めのようだ。
「……なあ、おれ、考えたんだけど」 振り返りもしないまま呟く。 「毎日一回、クリスマスまでっていうのを贈りもの一個に数えるのは、なんだかずるくないか」
おっと、と思う。荒んだ育ちの割に――だからこそ正しさにこだわるのかもしれないが――まっとうなしおんの公正さは、自身だけでなく、こちらにも向かうものらしい。
龍郷とて自分の提案が若干狡いと思わなかったわけではないが、交渉の末に手に入れた条件をいまさら手放すつもりもなかった。 「そうかもしれないな」
一度は相手の言い分を聞き入れる。これもまた交渉の基本。
「だが、昨日は結局ちゃんとしてもらってないだろう? おまえから」
返す刀で切り込むと、しおんは「う」と言葉に詰まった。
「そりゃ、そうだけど……」
「だったら、取り敢えず、今日の分を引かせてもらうぞ」
寝台上を移動して、キャンディポットの繊細な硝子の蓋を開ける。紙片を開くと、そこに書かれているのは「掌」の文字だった。
かたわらのしおんがあからさまに安堵したのがわかって、思わず揶揄いたくなる。
「もっと際どいところを期待してたら申し訳ないな」
「期待なんかしてねえ!」
こちらの期待通りにそう声を上げるから、内心楽しくてたまらない。
「だいたい、なんで、俺からとか……」
寝巻きの裾をきゅっと握って、唇を尖らせる様が愛しくて、龍郷は寝台の上に寝転ぶと、その顔を下から覗き込んだ。
「まだおまえから言ってもらってないからな。……大事なことを」 「だいじな……?」
怪訝そうに鼻の付け根に刻まれる皺。その顔がすぐ、なにかを察して上気するのが見てとれた。
「そ……、それを言ったらおまえだって……!」
「俺はもう言ったも同然だと思うが?」
あの震災の日。再び出会って、離れたくないと思い知った。
『そう聞こえるように言ったからな』
と告げた自分に対してしおんの言葉はこうだ。
『そう聞こえるなら、そうなんじゃねえの』
――もちろん、それが彼の精一杯であることはわかっているし、気持ちを疑ったことはない。もっと言うなら、たとえば心変わりがあったとして、それを許す気も毛頭なかった。 離さない。もう二度と。
それはそれとして、しおんのほうからもっと明確な感情の発露が欲しいと願ったのは、単なる悪戯心だが、真面目に応えようとする様はやはり可愛いものだった。手を伸ばせばそこにある、華奢な顎に指先で触れ、ブルーグレイの瞳を覗き込む。
「望むなら、今ここで言ってもいいぞ。俺はおまえが――」
「い、いい!!」
しおんはみじろぐと、顔を背けてしまう。
「そ、それじゃ俺ばっかり貰いすぎだから――いい」
もちろん半分以上が照れであることはわかっている。それでも、その公正さと不器用さが愛しい。
くつくつと笑っていると「とにかく、今日の分! ちゃっちゃっとやって寝るぞ!」としおんは言う。
「本当に、もう少し風情というものが――」
言いつつ、龍郷は片手で頭を支えて横臥したまま、しおんがやりやすいようもう片方の手を差し伸べた。しおんはそれを取り、まぶたを伏せる。 色素の薄いまつげが、可憐な紫苑の花弁のようだ。 そんなことを考えているうちに、しおんの唇の熱がてのひらに近づき――やがて離れる。
「――終わり! 寝る!」
一転勢いよく告げると、寝台に潜り込み、頑なに背を向けた。 龍郷は――龍郷は、残されたてのひらの感触に瞬いていた。 てのひらへの口づけ、それは、ほんのささやかなもののはずだった。けれどもあの小さな唇が押し当てられた瞬間、たしかに動いた。刻まれた。
『 、 、 、』
三文字、気持ちを告げる、その言葉を。
「まいったな……」
声にはしなくとも、てのひらから、体中に染み入っていく。くすぐったくくり返し、隅々まで響いていく。
この言葉が欲しかったと、心が震える。
揶揄うつもりが、まんまと翻弄されているのは、どっちだ?
明日からはまた、帰りの車で顔を覆わなければ、と龍郷は思った。
にやついた顔を、見られないように。
制服姿の運転手が、ミラー越しそう語りかけてくる。師走の夜はとうに暮れて、明治屋のクリスマス飾りの前を通り過ぎると、あとはもうしんしんと暗い夜更け。
「そうかな?」
「はい。お勤めに上がった頃は今時分にはいつもこう、帽子で顔を覆いになられて、眠っておられるのが常でしたが、最近はいつも起きてらっしゃいますし……」
突然英吉利から呼び戻されてみれば、問題だらけの店を継ぐことになった。問題だらけの店の実情を知ってか知らずか、旧来の使用人や親類たちはなにかと当てこすってくる。そんな日々を過ごしていれば、いくら龍郷でも一日の終わりになれば疲弊する。帽子で顔を覆っていたのは、万が一にでも苦悶の顔など見られないようにだ。
――不景気な顔は伝染するからな。
就任したばかりで、舐められるのもよくないと思っていた。あの頃は経営の実務の他にそんなことにも気を遣わなければならない毎日にうんざりしていたものだ。
「……そうだな。最近は楽しいんだ」
「それはようございました。お仕事が楽しいのは一番です」
寝室に入ると、楽しいの元が寝台に腰掛けていた。ただしこちらに背を向けて、やたらと足元のほうにだ。 手製のアドベントカレンダー を入れたキャンディポットは枕元のサイドテーブルに朝と変わらず置かれている。
――いや?
よく見れば、より端のほうに追いやられているような。 なるほど、と胸のうちで呟く。自分が帰るまで、何が書いてあるか見てしまいたくて、けれどそれはずるいような気がして、結果がこの不自然な距離なのだろう。
自分が帰ってくるまで、ひとりでそんなふうに懊悩してたかと思うと、体がふたつないことがとても惜しい気がした。是非とも右往左往する姿を物陰から覗いてみたかったものだ。
「ただいま」
上着を脱いで寝台に上がる。肩に触れようとした手を、可愛い恋人はためらいがちに払った。
――ん?
どうやら少しご機嫌斜めのようだ。
「……なあ、おれ、考えたんだけど」 振り返りもしないまま呟く。 「毎日一回、クリスマスまでっていうのを贈りもの一個に数えるのは、なんだかずるくないか」
おっと、と思う。荒んだ育ちの割に――だからこそ正しさにこだわるのかもしれないが――まっとうなしおんの公正さは、自身だけでなく、こちらにも向かうものらしい。
龍郷とて自分の提案が若干狡いと思わなかったわけではないが、交渉の末に手に入れた条件をいまさら手放すつもりもなかった。 「そうかもしれないな」
一度は相手の言い分を聞き入れる。これもまた交渉の基本。
「だが、昨日は結局ちゃんとしてもらってないだろう? おまえから」
返す刀で切り込むと、しおんは「う」と言葉に詰まった。
「そりゃ、そうだけど……」
「だったら、取り敢えず、今日の分を引かせてもらうぞ」
寝台上を移動して、キャンディポットの繊細な硝子の蓋を開ける。紙片を開くと、そこに書かれているのは「掌」の文字だった。
かたわらのしおんがあからさまに安堵したのがわかって、思わず揶揄いたくなる。
「もっと際どいところを期待してたら申し訳ないな」
「期待なんかしてねえ!」
こちらの期待通りにそう声を上げるから、内心楽しくてたまらない。
「だいたい、なんで、俺からとか……」
寝巻きの裾をきゅっと握って、唇を尖らせる様が愛しくて、龍郷は寝台の上に寝転ぶと、その顔を下から覗き込んだ。
「まだおまえから言ってもらってないからな。……大事なことを」 「だいじな……?」
怪訝そうに鼻の付け根に刻まれる皺。その顔がすぐ、なにかを察して上気するのが見てとれた。
「そ……、それを言ったらおまえだって……!」
「俺はもう言ったも同然だと思うが?」
あの震災の日。再び出会って、離れたくないと思い知った。
『そう聞こえるように言ったからな』
と告げた自分に対してしおんの言葉はこうだ。
『そう聞こえるなら、そうなんじゃねえの』
――もちろん、それが彼の精一杯であることはわかっているし、気持ちを疑ったことはない。もっと言うなら、たとえば心変わりがあったとして、それを許す気も毛頭なかった。 離さない。もう二度と。
それはそれとして、しおんのほうからもっと明確な感情の発露が欲しいと願ったのは、単なる悪戯心だが、真面目に応えようとする様はやはり可愛いものだった。手を伸ばせばそこにある、華奢な顎に指先で触れ、ブルーグレイの瞳を覗き込む。
「望むなら、今ここで言ってもいいぞ。俺はおまえが――」
「い、いい!!」
しおんはみじろぐと、顔を背けてしまう。
「そ、それじゃ俺ばっかり貰いすぎだから――いい」
もちろん半分以上が照れであることはわかっている。それでも、その公正さと不器用さが愛しい。
くつくつと笑っていると「とにかく、今日の分! ちゃっちゃっとやって寝るぞ!」としおんは言う。
「本当に、もう少し風情というものが――」
言いつつ、龍郷は片手で頭を支えて横臥したまま、しおんがやりやすいようもう片方の手を差し伸べた。しおんはそれを取り、まぶたを伏せる。 色素の薄いまつげが、可憐な紫苑の花弁のようだ。 そんなことを考えているうちに、しおんの唇の熱がてのひらに近づき――やがて離れる。
「――終わり! 寝る!」
一転勢いよく告げると、寝台に潜り込み、頑なに背を向けた。 龍郷は――龍郷は、残されたてのひらの感触に瞬いていた。 てのひらへの口づけ、それは、ほんのささやかなもののはずだった。けれどもあの小さな唇が押し当てられた瞬間、たしかに動いた。刻まれた。
『 、 、 、』
三文字、気持ちを告げる、その言葉を。
「まいったな……」
声にはしなくとも、てのひらから、体中に染み入っていく。くすぐったくくり返し、隅々まで響いていく。
この言葉が欲しかったと、心が震える。
揶揄うつもりが、まんまと翻弄されているのは、どっちだ?
明日からはまた、帰りの車で顔を覆わなければ、と龍郷は思った。
にやついた顔を、見られないように。
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