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まよいごは百貨の王2
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自分が彼から目を離せないのがそれだけの理由ではないと悟ったのは、しおんが階段で突き飛ばされたあの日のことだ。
小松原夫妻の相手を終えて戻ったテーブルにしおんの姿がなかったとき、自分でも予想外のいらだちに襲われた。
―すぐ戻ると言ったのに。
探しに出て、しおんが階段の上から突き飛ばされるのを見たとき、なにかを考えるよりも先に体が動いていた。
名を呼ばれて目蓋を押し上げると、それだけで痛みが走った。けれどそんなものも、しおんが無傷だとわかったらどこかへ霧散していった。
ユウの世話を小松原嬢に頼んだのは、しおんが気にかけているだろうと思ったからだ。
その気持ちに嘘はない。だが、ふと自問が首をもたげてくる。
―喜ばせることで、しおんを自分の手元に縛りつけたいだけじゃないのか?
誰よりも人の思惑で振り回されることを嫌っていたはずの自分が、しおんには同じことをしている。
これでは父と一緒だ。
―しおんを解放してやるべきじゃないのか?
ふたりで濡れ鼠になって教会に駆け込んだとき、しおんが惜しげもなく晒した肢体。初めて抱いたときよりもずいぶん血色が良くなって、離れて見ていてもその弾力が訴えかけてくるようだった。内側から輝く光を。
突然のことに内心面食らったが、すぐに思い至った。
―礼のつもりか。
しおん自身自覚がないようだが、しおんは存外根が真面目だ。してもらったことには礼をする、ということなのだろう。
―そんなことはしなくていい。
そう言うべきだった。でもできなかった。
―いつか手放すことになるのなら、今だけ。
味わい尽くすように、無茶苦茶に抱いた。
しおんの真面目さにつけ込んでいるとわかっていながら、湧き上がる激情を止める術はない。
神の御前であられもなくまぐわいながら、龍郷は思っていた。
神様は相当ひねくれている。
罪悪感が快感を増すよう、人間をお造りになったのだから。
よからぬ新聞記者に声をかけられたのは、東京に戻って経済界の会合に出た帰りのことだ。 運転手が車を回してくるわずかな時間の隙間に、ああいう輩はうまいこと近寄ってくる。始めは小松原家の令嬢のことに触れられた。店にまで夫婦揃って出向かれたら、そんな噂が立つことは想定の範囲内だ。あらかじめ用意した言葉で否定すると、記者は突然話の矛先を変えた。
『しおんは大人気ですなあ』
にやにやとしながら、直接的なことはなにも言わない。こちらがいらだってうっかりぼろを出すのを待つのがこいつらのやり口だ。そう思って無視を決め込んでいると、記者は言った。
『あなたがたがただならぬ仲だという噂はご存じで?』
『上流階級のご婦人というのは、そういう噂が存外好きだ。君たちには知りようもないだろうがね』
車がそのタイミングでやってきたのは幸いだった。後部座席に乗り込むと、頭の中を迷いが駆け巡る。
―今の対応で正しかった、か?
仕事の上でくだす決断は、こんなに心許ないことはなかった。いつでも最善だったし、人の望む半歩先を見越してことを運ぶことも得意だと思って生きてきた。そうしなければやってこれなかった。
そんな折りかかってきたのが英吉利人音楽家の電話だ。
しおんの父親を知っている。彼に引き合わせた上で、きちんとした教育を受けさせたい。
高原で出会ったときから彼はしおんの才能を褒め称えていた。その申し出は、最善の策であるように思えた。敵はカストリ紙の記者だ。日本を離れてしまえばまさか国外まで深追いはしないだろう。
しおんはなんでも飲み込みが早い。本来頭がいいのだ。しかるべき場所で、しかるべき教育を受ける。それがあいつのために一番いい。
そもそも好奇心で始まった関係だ。支払った金の代償というのなら、しおんの集客力は充分それを贖った。解放するのが当たり前の道理だ―
連日仕事で帝都を駆け回って戻ると、あいつが寝台で眠っている。
以前は眠っている間でさえときおり眉間に皺を刻んでいることもあったのに、今は安らかなものだ。直前まで龍郷の帰りを待っていたのだろう。寝椅子で眠ってしまっていることもあって、それを起こさないよう寝台に移すのもいつしか楽しみになっていた。
しおんを英吉利に送り出したなら、あんな戯れももうなくなるのだろう。
あの邸の灯りも消えたようになる。全館でストーブを焚いてもどこか冷え冷えとして。
なんのことはない。しおんが来る前に戻るだけのことだ。
―それだけのことなのに。
初めて、変わることを畏れる従業員の気持ちがわかった。
出来ることならいつまでも、寝入るしおんの顔を眺めながら自分も眠りに落ちていく、あの感覚を味わっていたかった。いつまでも。
高原で呟かれたしおんの言葉は、思いのほか深く胸に刺さったままだ。
『……いつまで続くんだ?』
やさしく彩りに満ちた日々だなんてことは、俺のエゴでしかなかった。俺の、勝手な――
『……いつまで続くんだ?』
なにかが引っかかった。魚の小骨のように微かだが、ひどくちくちくするそれ。
いつまで続くんだ?
―続けられるんだ? こんな、満たされた日々が。
「……」
もう書類の文字は目に入ってこなかった。
想像の話だ。ばかげた話だ。それは、あまりにも自分に都合のいい解釈。
あのとき、しおんも同じ気持ちだったとしたら?
「のの―」
秘書の名前を呼びながら立ち上がる。駆け出そうとして、机の角に足をしたたか打ち付けた。
「―ッ!」
自分でもわからないうちに相当慌てていたのだろう。革靴の上からでも小指に激痛が走って、思わずしゃがみこむ。なんて間抜けな。
「くそ……」
苦々しく呟いたとき、世界が、ぐらっと大きく揺れた。
小松原夫妻の相手を終えて戻ったテーブルにしおんの姿がなかったとき、自分でも予想外のいらだちに襲われた。
―すぐ戻ると言ったのに。
探しに出て、しおんが階段の上から突き飛ばされるのを見たとき、なにかを考えるよりも先に体が動いていた。
名を呼ばれて目蓋を押し上げると、それだけで痛みが走った。けれどそんなものも、しおんが無傷だとわかったらどこかへ霧散していった。
ユウの世話を小松原嬢に頼んだのは、しおんが気にかけているだろうと思ったからだ。
その気持ちに嘘はない。だが、ふと自問が首をもたげてくる。
―喜ばせることで、しおんを自分の手元に縛りつけたいだけじゃないのか?
誰よりも人の思惑で振り回されることを嫌っていたはずの自分が、しおんには同じことをしている。
これでは父と一緒だ。
―しおんを解放してやるべきじゃないのか?
ふたりで濡れ鼠になって教会に駆け込んだとき、しおんが惜しげもなく晒した肢体。初めて抱いたときよりもずいぶん血色が良くなって、離れて見ていてもその弾力が訴えかけてくるようだった。内側から輝く光を。
突然のことに内心面食らったが、すぐに思い至った。
―礼のつもりか。
しおん自身自覚がないようだが、しおんは存外根が真面目だ。してもらったことには礼をする、ということなのだろう。
―そんなことはしなくていい。
そう言うべきだった。でもできなかった。
―いつか手放すことになるのなら、今だけ。
味わい尽くすように、無茶苦茶に抱いた。
しおんの真面目さにつけ込んでいるとわかっていながら、湧き上がる激情を止める術はない。
神の御前であられもなくまぐわいながら、龍郷は思っていた。
神様は相当ひねくれている。
罪悪感が快感を増すよう、人間をお造りになったのだから。
よからぬ新聞記者に声をかけられたのは、東京に戻って経済界の会合に出た帰りのことだ。 運転手が車を回してくるわずかな時間の隙間に、ああいう輩はうまいこと近寄ってくる。始めは小松原家の令嬢のことに触れられた。店にまで夫婦揃って出向かれたら、そんな噂が立つことは想定の範囲内だ。あらかじめ用意した言葉で否定すると、記者は突然話の矛先を変えた。
『しおんは大人気ですなあ』
にやにやとしながら、直接的なことはなにも言わない。こちらがいらだってうっかりぼろを出すのを待つのがこいつらのやり口だ。そう思って無視を決め込んでいると、記者は言った。
『あなたがたがただならぬ仲だという噂はご存じで?』
『上流階級のご婦人というのは、そういう噂が存外好きだ。君たちには知りようもないだろうがね』
車がそのタイミングでやってきたのは幸いだった。後部座席に乗り込むと、頭の中を迷いが駆け巡る。
―今の対応で正しかった、か?
仕事の上でくだす決断は、こんなに心許ないことはなかった。いつでも最善だったし、人の望む半歩先を見越してことを運ぶことも得意だと思って生きてきた。そうしなければやってこれなかった。
そんな折りかかってきたのが英吉利人音楽家の電話だ。
しおんの父親を知っている。彼に引き合わせた上で、きちんとした教育を受けさせたい。
高原で出会ったときから彼はしおんの才能を褒め称えていた。その申し出は、最善の策であるように思えた。敵はカストリ紙の記者だ。日本を離れてしまえばまさか国外まで深追いはしないだろう。
しおんはなんでも飲み込みが早い。本来頭がいいのだ。しかるべき場所で、しかるべき教育を受ける。それがあいつのために一番いい。
そもそも好奇心で始まった関係だ。支払った金の代償というのなら、しおんの集客力は充分それを贖った。解放するのが当たり前の道理だ―
連日仕事で帝都を駆け回って戻ると、あいつが寝台で眠っている。
以前は眠っている間でさえときおり眉間に皺を刻んでいることもあったのに、今は安らかなものだ。直前まで龍郷の帰りを待っていたのだろう。寝椅子で眠ってしまっていることもあって、それを起こさないよう寝台に移すのもいつしか楽しみになっていた。
しおんを英吉利に送り出したなら、あんな戯れももうなくなるのだろう。
あの邸の灯りも消えたようになる。全館でストーブを焚いてもどこか冷え冷えとして。
なんのことはない。しおんが来る前に戻るだけのことだ。
―それだけのことなのに。
初めて、変わることを畏れる従業員の気持ちがわかった。
出来ることならいつまでも、寝入るしおんの顔を眺めながら自分も眠りに落ちていく、あの感覚を味わっていたかった。いつまでも。
高原で呟かれたしおんの言葉は、思いのほか深く胸に刺さったままだ。
『……いつまで続くんだ?』
やさしく彩りに満ちた日々だなんてことは、俺のエゴでしかなかった。俺の、勝手な――
『……いつまで続くんだ?』
なにかが引っかかった。魚の小骨のように微かだが、ひどくちくちくするそれ。
いつまで続くんだ?
―続けられるんだ? こんな、満たされた日々が。
「……」
もう書類の文字は目に入ってこなかった。
想像の話だ。ばかげた話だ。それは、あまりにも自分に都合のいい解釈。
あのとき、しおんも同じ気持ちだったとしたら?
「のの―」
秘書の名前を呼びながら立ち上がる。駆け出そうとして、机の角に足をしたたか打ち付けた。
「―ッ!」
自分でもわからないうちに相当慌てていたのだろう。革靴の上からでも小指に激痛が走って、思わずしゃがみこむ。なんて間抜けな。
「くそ……」
苦々しく呟いたとき、世界が、ぐらっと大きく揺れた。
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