みなしごと百貨の王

あまみや慈雨

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みなしごと百貨の王20

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 日本橋まで向かう道は、酷いありさまだった。建物は倒壊し、道の所々には横転した路面電車がそのまま放置されている。運転手が予想していた通り線路の周りに敷設された木煉瓦にはあっという間に火が回ったらしい。中には丸ごと炎に包まれている車両もあった。
 焼け出された人々がほうぼうで呻き声を上げている。
 ――とにかく、線路沿いに行けば店にはたどりつけるはず。
 本来ならそう遠くないはずの距離も、熱風で舞い上がる火の粉を避け、瓦礫を避けとしていると、遅々として進まない。
 炎によって風が巻き起こることを、しおんは初めて知った。予想外の方向から火の粉が舞い落ちる。
「――!」
 燃え上がりそうになる上着を必死で払った。どうにか火は消えたものの、焦げは出来てしまった。この日のためにと野々宮から渡された物だったが、きっと見立てたのは龍郷だ。しおんの瞳と同じ色の、上品なブルーグレー。寸法も、まるで直接体に這わせたようにぴったりの。
 やっとの思いで日本橋までたどり着く。橋の向こうに佇む百貨店のいつもと変わらぬ姿を見ると、今頃になって膝が震えた。
 無事だった。
 あいつの店――無事だった。
 力のこもらない足を精一杯励まして、日本橋を渡る。その頃には、安堵の中に違和感が混ざり始めていた。
 無事だった建物の前に、人々が詰め寄せている。しかもみな殺気立った様子だ。
「中に入れろ」
「入れなさいよ!」
 どうやら焼け出された市民が、店を避難場所として提供しろと荒れているようだ。矢面に立っているのは龍郷だった。
 仕事で人前に出るとき、龍郷はいつも一分の隙もなく身なりを整えている。さすがに今は乱れた髪が一筋額に落ちかかって、やつれて見えた。
「まだ充分に安全が確認できておりませんので――」
「そんなこと言って、自分たちだけ食料も確保しようっていう魂胆でしょ!」
 むかっ腹が立った。龍郷がどれだけ「顧客を喜ばせること・楽しませること」に心血を注いで来たか、知りもしないくせに。
 でもほんの数ヶ月前までは、自分も向こう側だった。
 異常事態に興奮した人々は、このままでは暴徒化しかねない。せっかくあの揺れにも堪えた店を蹂躙されたくはなかった。龍郷の大切な場所を。
 俺にできることはあるのか?
 俺なんかに、ともうひとりの自分がすぐさま声を上げる。しおんはそれをふるふると頭を振って追い払った。
 考えろ。
 俺はもう、なにも持たない孤児じゃない。

 しおんはここへ来るまでにすっかりぼろぼろになった靴を脱ぎ捨て、百貨店の入り口に鎮座する龍の像のへよじ登った。
「しおん? おまえ――」
 驚く龍郷の声に、市民が一斉にこちらを振り仰いだ。
「しおん」
「しおんだ」
 漣のような囁きが広がっていくのを感じながら、しおんはすう、と息を吸った。幾つも新しい曲を覚えたのに、なぜかこの場に相応しいものは一曲しかない気がする。
 相変わらず意味などわからないまま、なにかに背中を押されるように歌い始めた。
       
 
 Amazing grace,how sweet the sound 


  That saved a wreck like me     
  

  I once was lost but now I'm found  


  Was blind but now I see       


 誰だか知らないけど、これは神様に届けるために作られた歌なんだろう。だったら届いて欲しい。ここにいる人たちの気持ちを鎮めて欲しい。
 今まで一度もあんたの存在を信じたことなんてなくて、虫がいいのはわかってる。
 だけど――

 発声練習もしていない。ここまで荒れ果てた街の中を走り抜けてきて、呼吸だって酷いものだ。それでもどうかなにかが届いてくれと、願いながら精一杯を歌う。

「店内の安全確認できました。食堂で炊き出しの準備もできてます!」
 ちょうど歌い終えたとき、野々宮が店を飛び出してきた。しん、と辺りが静まり返っていることに目をしばたかせ、次いでしおんの姿に気がつく。
「しおんくん? どうして」
「説明はあとで」
 短く応じると、野々宮ははっと我に返ったように有能な秘書の顔に戻った。
「みなさん、ゆっくり入ってください。怪我をしている方や子供、ご婦人から」
 店の者総出で誘導する。中に招き入れられても騒ぎの起きる様子はないところまで見届けると、しおんはやっと人心地ついた。
 ――さて。
 像の上から降りようと下を見れば、思いのほか高さがある。のぼるときは夢中で気に留めなかったが、降りるのは少し勇気がいった。
 すっと形のいい手を差し伸べる者がいる。
 ためらいながらも身を預けた。危なげなくしおんの体を抱き留めて、龍郷は訊ねる。
「――おまえ、英吉利は」
「やめた」
 腰を両手で抱き留められたまま答えれば「やめた?」と驚いたような声が返ってくる。しおんはばつの悪さに顔を背けた。
「厄介払いできなくて残念だったな」
「厄介払いだと?」
 龍郷はしおんの体をそっと下ろし、顔を覗き込んでくる。なにもかも見透かす黒い瞳に見つめられるのが怖くて、再び顔を背けた。
「だって、そうだろ? もう金を払った分の働きはしたから、って」
 口調はついついなじるような響きになった。口元は尖ってしまっていたと思う。
「これから、店のためになる令嬢と結婚するのに俺が邪魔だから、遠い外国なんかに追い払うんだ」
 ――言っちまった。
 ついこの間まではいつ死んでもと思ってたのに。欲しいものなんかないと思っていたのに。俺はここにいたい。こいつの傍に。こいつが欲しい。
 龍郷は虚を突かれたように大きく目を見開いた。
「ちょっと待て、誰が結婚するって?」
「あんただろ。怪しげな新聞記者が、そう言ってた」
 あいつ、と忌々しげに呟いたところを見ると、記者は龍郷にも接触していたようだ。
「確かにそういう話はあったが、丁重にお断りした。男爵家とは単に仕事上の付き合いだ。お嬢さんと会っていたのは孤児院のことがあったらからだと、記者にもちゃんと話した。おまえには接触するなと釘を刺しておいたんだが、まあ、ああいう連中にはなにを言っても無駄か……」
 ため息をつきながら「ところで」と矛先を変える。
「怪しげと言いながら、その怪しい奴の話を鵜呑みにするとはいったいどういう了見だ?」
「う……」
 言われてみればその通りではある。龍郷から面白いネタが引き出せず、しおんのほうにも揺さぶりをかけに来たのだろう。狡い奴のやり口は充分わかっていたつもりだったのに、まんまとはめられてしまった。
 だって、こいつに迷惑がかかるかと思ったから――冷静さを欠いていたのかもしれない。
「……あんたは俺にいろんなものをくれたから」
 初めて素直に言えた。思っていることをそのまま言うというだけのことがひどく心許なくて、シャツの胸を握った。
「俺が、邪魔なら、いなくなってやることくらいしか、お返しにあんたのために出来ることがなかった。でも、やっぱりそれもできなくて」
 戻ってきてしまった。帰りたいと強く思った。
 帰る場所など持ったことはなかったのに。
 龍郷が黙っているところをみると、やっぱり迷惑だったのかとも思う。  
 永遠にも思える沈黙の後、龍郷がやっと呟いた。
「……しおん」
「なんだよ」
「俺は地震で柄にもなく動転してるんだろうか。おまえが俺を好きだと言ってるように聞こえる」
「ち――」
 反射で否定しそうになってから、思い直した。
「……そう聞こえるなら、そうなんじゃねえの」
 不意に体が浮いた。いや、正確には、浮くほど強く抱きしめられていた。
「すまなかった」
 龍郷の囁きと吐息が、耳朶にやさしく触れる。
「おまえの歌は素晴らしい。だからこのまま俺の道具として利用し続けてはいけないと思った。俺の―つまらない意地のために」
 すっかり髪が乱れているからだろうか。呟いた龍郷の顔は幼く見えた。時折垣間見えるそれもまた、龍郷の本当の姿なんだと思う。ぬいぐるみひとつを心の支えにして、百貨の王国を作り上げた。
「おまえと一緒にいると、次から次へとアイデアが沸いてきて、そして気づかされる。俺は親父のことを抜きにしても、この仕事が好きなんだと。それからずっと生きるのが楽なんだ。おまえといると。おまえが俺を楽にしてくれた。だから俺はおまえに自由を返してやりたかった。おまえは元々乗り気じゃなかったし、記者があることないことを書き立てたら、また嫌な思いもするだろう。だったら英吉利に渡った方がいい。俺がおまえにしてやれることはことはそれしかないと、あのときは思った」
 これは、誰の言葉なんだろう。とてもよく似た考えを、ついさっき聞いた気がする。
「……俺も、おかしいのかな、あんたがその……俺を好きって言ってるみたいに……聞こえる」
 龍郷の手が伸びてくる。鼻を摘ままれると思ったら、煤で汚れた鼻の頭をそっと拭う。
「そう聞こえるように言ったからな。――戻ってきたなら、もう放してはやれないぞ。覚悟はしてるんだろうな?」
 返事は、とうに決まっていた。


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