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みなしごと百貨の王15
しおりを挟む「しおん。おい、しおーん」
木々の間に名前を呼ぶ声がこだましている。
うっすらと靄がかかった高原の空気は、夏だというのに肌寒いほどだった。だが同時に、しっとり肌を覆って、都会からまとってきた空気を洗い流すようでもあって、不快ではない。
声の主を無視してずんずん歩く。初めて来る場所だったが、目指す建物はこちらだと聞いているから問題ないだろう。そういう勘は鋭いほうだ。
――と、己を過信した瞬間、なにかに足を取られてつんのめった。
「――ッ」
「しおん!」
靄の中から血相を変えて追いかけて来た龍郷が、不似合いに抱えた大きな鞄を脇へ放り出す。しおんを支え起こすと、小道の脇の岩の上に座らせた。
まるで舶来者の人形の不具合でも確かめるように、しおんの足をじっくりと検分していく。
「下がやわらかい土で幸いしたな。ひねってないか?」
「……大丈夫だよ、大げさだ」
まじまじと見つめられるのが恥ずかしく、ぶっきらぼうに告げる。龍郷はにやっと口の端を歪めた。さっきまでの真剣な眼差しは一瞬で霧散して、見る間に人の悪い色に染め変わる。
「おまえほどじゃないがな」
しおんはリボンのついた麦わら帽子を頭から外し、思い切り投げつけた。当たったところで痛くもないだろうに、大げさに飛び退いた龍郷は、帽子を拾い上げるとまだ愉快そうに薄笑いを浮かべている。
あの日、大階段から転がり落ちたしおんを受け止めた龍郷の傷は、結論から言うとたいしたことはなかった。
「頭の怪我だから、怪我の割に血が沢山出たんだろうって」
と医者の言葉を伝えた野々宮は「ここのところ休養らしい休養もとってなかったし、ほとぼり冷ますのもかねて避暑にいったらどうかな」と強引に休暇をねじ込んだ。そうして汽車の手配まで済ませると、ふたりを龍郷の別荘へと送り出したのだった。
野々宮からか、他の社員からか、しおんが泣き叫んでいた(そんなつもりはないのだが)と聞いたらしく、龍郷は終始にやにやしている。おかげで初めて乗った蒸気機関とやらも素直に楽しめず、駅へ着くなり荷物を押しつけてずんずん歩いてきたところだ。
龍郷のにやにや顔がふと改まる。
「――血が出ているな」
ひねりはしなかったが、すりむいてはいたようだ。「たいしたことねえよ」とさえぎる前に龍郷はしおんの前に跪いた。
「……そんなに吸ったら、いてーよ……」
憎まれ口を叩きながら、身じろぐこともできない。頭上で梢を小鳥が揺らした。
「ここらは明治の頃から避暑地として開発が進んだところで、うちもいくらか出資している。向こうのスーパーマーケットに品物を手配してるのもうちだ」
休めと言われてきたはずなのに、結局はこうして仕事の話になる。別荘の中を案内されながらしおんは密かにげんなりとした。
こんな山の中なのに、大正の初めの頃から電気が通されているという。外国人も多く、そんな土地柄を好む学者や文化人が多く別荘を持つ。
そのせいなのか、龍郷が通いで世話を頼んだ地元の管理人も、しおんの姿を見ても奇異の目を向けてくることはなかった。皇族も訪れる土地で、人の容姿をじろじろながめまわすようでは勤まらないのだろう。
管理人に最低限の世話をさせて返すと、龍郷はベッドの上に大の字に寝転んだ。そんな寛いだ様子は珍しい。
「あのさ、俺はなにをしたらいいの」
「なにもしないをしにきたんだから、好きに。そうだな、少し休んだら散歩にでも行くか。釣りもできるだろう」
なにもしない、と言われると手持ちぶさたになるのは自分もだった。なんとなく身の置き所もなく、ならんだベッドのもうひとつに腰掛けると、さっき龍郷の舌が触れた膝頭が目に入る。それで、言わなければと思っていた言葉を思い出した。
「……ごめん」
龍郷は半身を起こし、肘で頭を支える。
「なぜ謝る?」
「俺のせいで、あんたに怪我させたから」
「ああ、」
「ッ、そーいう顔するから謝りたくなかったんだよ! ばーかばーか死ね!」
しおんがつっかかればつっかかるほど、龍郷は辛抱たまらない、というていでくつくつ笑う。ここまで来たら気の済むまで笑わせてやるさ、としおんは悟りの境地を開いて放置に撤した。それは〈気の済むまで殴らせる〉の他にしおんが最近覚えた対人術だった。
龍郷がやっと笑いをひっこめたところで(けっこうな時間がかかった)もうひとつ、帝都を出てからずっと気がかりだったことを言葉にする。
「けど、良かったのか? 俺、出番に穴開けて……」
他の少年たちは今日もきちんと勤めているはずだ。それも落ち着かない要因のひとつだった。
「おまえがいなくちゃ龍郷デパートに客が来ないって? いつの間にか頼もしくなったな」
「そんなことは言ってねえよ!」
からかわれているのだとわかっていつつ、ついむきになって返してしまう。
「……ただ、俺はそのためにあんたに買われたんだから、借りの分くらいは」
ああ、なんでこんな探りを入れるみたいな言葉が口をついて出るんだろう。自問しながら、一方で、冷静な自分の声もする。
そりゃ、探りを入れたいからだ。
……龍郷は、龍郷百貨店を自分の色に塗り替えたいと思っている。それが母親と自分を物のように扱った父親への復讐だからだ。自分は言うなればその手段のために拾われた駒だった。
あとは、ぬいぐるみ代わりか。
どこまでが本気でどこまでが冗談なのかさっぱりわからないが、初めの日以来龍郷が自分を性的な意味で抱くことはなかった。おそらく忙しすぎるからだろうと思うが〈そういう〉務めもしない、歌いもしないとなると、自分がここにいる意味がわからなくなる。寝る前に頭を撫でろという要求も、龍郷の帰宅時間がばらばらなためうやむやになりがちだ。
朝方うとうとと目覚めると、背中側から龍郷がしおんの体を抱いている。それが妙に温かくて心地よくて、もう一度眠りに落ちる。ちゃんと目覚める頃には龍郷はすでに出かけている。もっぱらそれのくり返し。
もうずいぶん前、それも半ば無理矢理だったのに、龍郷の愛撫を思い出すと、どこか体の奥のほうがじゅっと潤むような気がした。湿った苔を踏んだときのように。
もう一度〈そういう〉支払いを命じられたら、たぶん自分は応じるだろう。
……理由を深く考えるのはやめている。なんで、と思うくせに、はっきりと直視してしまうのは怖い。そんな厄介なものがずっと喉元につかえている。それは、龍郷が自分を庇って怪我をした日を境に、ますます存在を増しているような気がした。
そんなところへ持って来て、二人きりの休暇だ。ひどく落ち着かなくて、身の置き所がない。
寝台に身を投げ出しているうちに眠くなったのか、龍郷は寝返りを打ってしおんに背を向けた。
「おまえは根が真面目だな」
そんなことはない、と思ったが龍郷が「そうだ」となにか思い出したように顔だけこちらに向けるから、否定しそびれた。
「おまえの提案で出すようになったお子様ランチもさっそく好評らしいぞ。その褒美の休暇だとでも思っておけ」
「俺っていうか、あんたのだろ」
少しずつ全部食えたらいいのに。そんなしおんの戯れ言から龍郷は閃いたらしく、クロケット、オムレツライス、海老フライなどをすべて小さくしてひとつの器に盛り付けた「お子様ランチ」を出すよう食堂部に指示しを出していた。手当を受けている病床からだ。翌日からさっそく大食堂のメニューに載ったそれは、一週間もしないうちに大人気だという。
人が怪我の具合はどうなのかとやきもきしている間にもこれだ。龍郷の頭の中は常に店のことだけで占められている。
「残された者が頑張るさ。それだけの練習はしてる」という龍郷の声はあくびに紛れていた。
そもそも本来の目的である休息の邪魔をするのも憚られ、しおんは口を噤んだ。
龍郷の背中越し、すぐに規則正しい寝息が聞こえ始める。
取り残されて手持ち無沙汰なまま、しおんはそっと寝台に近寄って龍郷の頭を撫でた。誰もが羨む百貨店王も、こうしているとまるで幼い子供のようだ。それを自分だけが知っている。
まだ日は高いはずだが、辺りは心地よい静けさに包まれていた。浅草の夜の底に沈んだ、どんよりとしたそれとは違う。
聞こえるのは、小鳥の囀り。それと龍郷の微かな息づかい。
手持ち無沙汰であることは変わりないはずなのに、酷く穏やかで贅沢な時間のような気がした。
「……いつまで続くんだろうな」
こんな、心地いいときが。
気づいたら、そんな言葉がこぼれ落ちていた。幸い龍郷の眠りは深いようで、起こしてしまった様子はない。
――俺も寝るか。
起きていたら、どうしても胸のつかえと向き合ってしまう。龍郷の下に広がる血溜まりを見たとき、どうしてあんなに苦しかったのか。怪我はなかったはずなのに、四肢をもがれたように感じたのか―
自分に割り当てられたベッドに潜り込む。夜一度目覚めて管理人の用意していった軽い夜食を食べると、また眠ってしまった。
翌朝、寝台の中に龍郷の姿はなかった。
用意されていた夏用のセーラー服に着替えて階下に降りる。管理人がこの土地で外国人相手に商売をしているという店から届けさせたベーコンを厚めに切り、卵と共に焼いてくれた。
「あいつは?」
「おでかけになられましたよ。昼過ぎには戻るので、あなた様はそれまで好きにするようにと」
散歩だろうか。それなら自分を起こしてくれても良かったのに。いや、起こさなかったところを見るとまた仕事がらみなのかもしれない。たしか龍郷の競合相手がいくらか出資したホテルがあるとか言っていたから、それを偵察にでも行ったのかもしれない。
ともかく朝食を腹に詰め込んで、しおんも散歩に出てみることにした。
早朝の高原は、昨日より一層爽やかだ。
浅草時代は容姿を隠すため人目につかない時間を選んで外に出ていたし、龍郷に拾われてからは音楽隊の歌い手として見られる立場になってしまったから、そこらを気ままにうろつく訳にはいかなかった。
だがここでは、誰に気兼ねすることもなく堂々と歩ける。ほとんど人とすれ違うこともない。龍郷を探しに出たはずだったのだが、しばらくは無心でぷらぷら歩いてしまった。やがて、通りの向こうから自転車に乗った少女がやってくるのが見えた。
この辺りに別荘を持つ華族の娘だろう。東京ではそれなりの家の娘が供も連れずに外出することはまずないが、避暑地では彼女らにも自由があるのだとは、汽車の中で龍郷に聞いた話だ。人気のないことにすっかり気をよくしていたしおんは思わず体をこわばらせた。せっかくの爽やかな気分に水をさされたくはなく、やりすごそうと道に端に避けた。のに、自転車はわざわざそんなしおんの傍に寄って停まった。
「あなた、しおん? 龍郷デパートの?」
こういうときいつもそうするように、ただ黙って少し笑みを浮かべてやる。
「わたし、何枚もブロマイドを持っていてよ。ばあやに頼んで、少しずつ集めているの」
デパートで取り囲まれたときのように大勢でないのが救いだが、こんなふうに真っ向から好意を向けられると、未だにどこか他人事のような気がしてしまう。会釈だけして去ろうとすると「待って」と籠を探って取り出した桃を、しおんの手に握らせた。
「村の人にいただいたの。おひとつどうぞ」
それだけ言うと、じゃあ、とあっさり去って行く。おそらくは同じ都会の監視から逃れた身の上を気遣ってくれたのだ。
つまりは対等に扱われたのだ。
華族のお嬢様に。
あらためて思う。自分にこんな暮らしをくれたのは龍郷だ。始めは成り行きだったとしても、それはもう動かしがたい事実だった。
俺はあいつに、なにを返せる?
ここのところ自分の中に生まれたそんな感情を、しおんはもう見て見ぬ振りをできずにいた。それは手渡された桃と同じように扱いにくいものだ。しっかりと握ってしまったら、そこから浸食されていく気がする。かといって捨ててしまうこともできない――
扱いがたい感情を胸に抱いたまましばらくあてもなく歩いていると、木造の大きな建物が見えてきた。大きいが、途中見かけたホテルのように豪奢な造りではない。回り込んでみると、建物から見下ろす辺りに林を切り出して拓けた一画があり、そこで何人かが奇妙な形の網を持って、小さなボールを追いかけていた。テニス、とかいうやつだ。
コートサイドに立てられたパラソルの下、ひとりだけテニス用の装いではない男がいる。
龍郷だ。テニスに参加こそしていないが、楽しそうに談笑している。用事とは、ここに顔を出すことだったんだろうか。
一緒にいる連中は年齢も様々で、男女入り交じっている。その中に見覚えのある夫婦の姿があった。
あの日食堂にいた夫婦だ。その隣りには、若い娘―
『小松原様のお嬢様と縁談が進んでいるっていう話よ』
噂好きのご婦人の声が、下世話な口調ごと耳の中で響いた。爽やかだった空気が、一瞬で不快にまとわりつくものに変わる。
白い帆布のパラソルの下にいる龍郷は、男爵や夫人との会話を楽しんでいるように見えた。夫人がことあるごとに娘のほうへ目をやって、話を振っている。娘ははにかみながらもどこか興奮しているようだ。頬の赤みは、テニスをしたばかりだからというわけでもなさそうだった。ほかの傘の下にいる女も男も、そんなやりとりを羨ましそうに眺めている。
中には大胆に傘の下まで龍郷を誘いにきた女もいた。龍郷が自分の出で立ちを指さすようなそぶりをして苦笑すると、女たちは残念そうにコートに戻っていく。まだ八割ほどが着物姿の帝都と違ってみんな洋装だ。中には、膝上までしかないスカートを履いた者もいる。
もちろん体を動かしやすいようになのだろうが――
なんか、これって
龍郷に見せるためじゃないのか、と勘ぐってしまう。そしてそんなことを考える自分に驚いてしまう。
帝都ではけして見ることのない短いスカートがひらひらと翻るさまに気を取られていると、いつのまにか龍郷がパラソルの下から姿を消していた。
帰ったのか。
辺りを見回すと、遊歩道のほうに歩いて行く人影があった。隣りにいるのは小松原の娘だ。
気づいたら、あとをつけていた。
高原の爽やかな空気が、今はどうしてか吸い込むだけで肺に突き刺さる。
ふたりは遊歩道の途中にある四阿(あずまや)へ向かっているようだった。ただ話をするだけならコートの傍でも構わないはず。そんなところにわざわざ移動して、一体なにを話すと言うのだろう。
東京で年頃の男女がこんなふうに並んで歩くことはまずない。もしも人目を避けるようにして歩いていたのならそれはもう、そういう関係ということだ―
土を踏み固めてあるはずの道が、やけにふわふわする。倒れそうになって足を踏ん張ったとき、手の中から桃が滑り落ちた。
とっ、とごく微かな音しかしなかったのに、
「しおん?」
龍郷の声が木立の向こうから聞こえ、なにか娘に早口で告げている。落ちたままにした桃にくっきりとついた指跡が、逃げるように踵を返したしおんの視界をかすめた。
「しおん、どこへ行くんだ。おまえ道はわかるのか?」
わからない、と胸の中だけで答える。もうとっくに戻れない。こんなとこまでくるはずじゃなかった。
構わずに道をはずれて、木立の中へずんずん分け入った。足元をとられて何度も転びそうになる。どこへ向かっているか、もちろんあてはなかった。ただこの自分でもわけのわからない感情を消化するために歩いているのだと思った。
「しおん」
都会育ちとはいえ、向こうの方が体格は大人だ。追いついた龍郷に後ろから腕を掴まれて、向き直らされた。
「なにを……怒ってるんだ?」
自分でもわかんない。幼い子供のように口をついてしまいそうになるのを、かろうじて堪える。
わからない。わからないわからない。むかついているような気もするけれど、なににむかついているのかわからない。
話したくないと思うのに、女を置き去りにして追ってきてくれたのを心のどこかで嬉しいと思っている。
――全部、わかんねえ。あんた、やり手なのにわかんねえの。
腹の中でそう罵ったとき、不意に視界に影がかかった。ああ、十二階の影だ。湿ったにおいが鼻腔をよぎった。
と思ったとき、空がうねり始めた。
影の正体は雨雲だ。まるで呼ばれるのを待っていたかのように、雲はみるみる木立の上を覆った。
「ひと雨来るな。戻ろう、し」
龍郷がさしのべる手を掴むのが遅れた瞬間を見計らったように、強い雨がふたりを容赦なく叩いた。
ただでさえ木立に遮られて悪い視界が、ほとんどなにも見えなくなってしまう。夏用のセーラー服の生地はあっというまに水気を孕んで、肌にぺったりと貼り付いた。それ以上に不快なのは、心臓の内側にぴったりはりついたみたいな感情だった。ひっかいて剥がしてしまいたいのに、どうやったって届かない。
龍郷もびしょ濡れだった。濡れた前髪が額に落ちかかって、さっきまで愛想を振りまいていた色男が台無しだ。
ざまあみろ、と腹の中で罵るしおんの視線に気がついたのか、少しむすっと口を引き結ぶと、煩わしげにかき上げる。
「そうしてると、初めておまえを見つけたときみたいだな」
同じことを考えていた。
あのとき、ずぶ濡れの俺をこいつが見つけてから、俺の世界はすっかり変わってしまった。
「ともかくここは足場が悪い。道に戻ろう」
その提案には大人しく従ったほうが良さそうだった。湿った腐葉土は足を取られやすい。無言で差し出された腕に仕方なく掴まってしばらく行くと、木立の奥にひっそりと佇む建物があった。人が住んでいる気配はない。
しおんの疑問を感じ取ったのか、龍郷が呟く。
「教会だ。もともとは外国人用の別荘地だからな。外国人の人数が増えるに応じて増えた。よし、あそこへ行こう」
教会には個人的にあまりいい思い出がないのだが、そうも言ってはいられない。入り口のドアを押して中に入り、雨から逃れると、いい思い出がないとはいえほっとした。
とはいえ、濡れた体を拭くような気の利いたものも持ってきてはいない。
くそ、と思いながら貼り付く胸の辺りを持ち上げる。思わず「は」と漏れた苦笑を、龍郷が聞き咎める。
「どうした?」
「……これくらいのことをいっちょまえに不快に思うなんてと思ってさ。つい数ヶ月前まではいつ死んでもおかしくなかったのに」
今よりずっと不幸な暮らしだったはずなのに、あの頃のほうが良かったと思うことがある。
あのころはただその日を生きていれば良かった。不満を垂れ流していれば。やりたいことはなにもなく、行きたいところも、行ける場所もなかった。
でもこんなふうに誰かの気持ちがわからなくて、不安になることなんてなかった。
「……あんた、さっきなに話してたの」
どうせわけがわからないついでだ。半ばやけになってしおんは訊ねた。あの娘と縁談が進んでいるのなら、はっきりとそう聞きたい。さっきからずっと心臓にとりついている、もやもやとしたものが、それでなければ取り払えない。
龍郷は「さっき?」と呑気な様子だ。
「華族の娘と話してただろ。楽しそうに」
それでやっと思い当たったのか「ああ」と龍郷は険しい顔をほころばせた。
あの女のことを思い出しただけでそんな顔になるのかと思うと、もう一度頭から雨水をひっかぶった気持ちになる。そんなしおんの気持ちに気づくはずもなく、龍郷は先を続けた。
「あの男の子のことだ」
あの男の子? 誰のことだ――
「内親王が支援している孤児院があって、小松原のお嬢様もその手伝いをしているから、便宜を図ってもらった。なにもかも充分にしてやれるわけじゃないが、以前の施設よりはずいぶんましなはずだ」
――ユウ。
しおんを突き飛ばしたあと、持ち前のすばしこさで逃げおおせたものだと思っていた。
忘れていたわけではない。龍郷の怪我の経過に気を取られていたし、大したことがないとわかってからは、旅の準備に追われていたし、探す手立ても自分にはなかった。
いや、とそんな自分を咎める声がする。
やりようはいくらでもあった。例えば野々宮に頼むとか。彼ならきっと何もかも含んだ上で手配をしてくれただろう。
それをしなかったのは、怖かったからだ。無意識のうちに目をそらしたから。
向き合うのが怖かった。ユウがあんなことをしでかした理由の一端は、確実に自分にあるのだから。
そもそも選考会自体があの夜あそこで行われるはずのないもので、自分が龍郷の目に留まったのがまったくの偶然にすぎないのなら、ユウにもその幸運が訪れる可能性はあった。彼のそんな言い分も、その通りだと思った。
あの日「やめとけ」と彼をひきとめたのは、しおん自身の弱さだ。
どうせ自分たちはここでくすぶって生きるしかないのだと、すべてに倦んでいたのはしおんの勝手だった。
逆恨みと言えばそうだろう。だがしおんの中には、ユウの恨みは当然だという気持ちもあった。もしももう一度会うことがあって、ふたたび罵られても、甘んじて受けようと思った。だがそれは自分とユウの間の問題だ。
――俺がひとりで背負えばいいこと、なのに。
龍郷は自分が特別なことをしたという素振りも見せず、言う。
「今ではすっかり落ちついて、他の子供たちとも仲良くやっているそうだ。帰ったら話そうと思っていた。おまえが気になっているんじゃないかと思って」
気遣われてる。
俺が、うだうだと自分の気持ちと向き合うことから逃げてる間に、こいつは、こんなに。
想像もしなかった世界を、俺に見せてくれるんだ――
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