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みなしごと百貨の王14
しおりを挟む野々宮の言葉を反芻しきらないうちに、不快な囁きが耳に入った。
「まあ、ご覧になって。あそこのテーブル、小松原様のご夫妻よ」
「いやだわ。噂は本当だったのかしら」
さりげなく視線を走らせれば、近くのテーブルに年配の婦人三人組が陣取っていた。美しく装って、まさに今日は帝劇、明日は龍郷の典型的な客層だ。いかにも、噂好きそうな。
ただの囁きなら他人の会話など耳には入らなかっただろう。
それが悪意のあるものだったから、そういうことに敏感に生きてきたしおんの耳に留まったのだ。
三人のうち残りの一人が訊ねる。
「噂って?」
「小松原様がお嬢様を龍郷様に嫁がせようと画策なさってるって話」
「え?」
一瞬、その声は自分が上げてしまったのかと思った。
「まさか。だって、―平民よ?」
最後の言葉はさすがに声をひそめて。けれどもうすっかり敏感になっていたしおんの耳には筒抜けだった。
「宗秩寮が許す?」
「こう言ったらなんだけど、小松原様は公家出の男爵。爵位なんて名ばかりなんだから、大身旗本の侯爵様と違って融通は利くんじゃないかしら。龍郷様のほうがお金ならよっぽどある。新華族になられたって不思議じゃないくらいにね。小松原家だけじゃない、今やどこの華族様もただ安穏としていたらいいって時代じゃないんだから、経済に明るい龍郷様とつながりを持つことは双方にとって悪いことじゃないのよ」
「龍郷様だってもうとっくにご結婚されてても不思議じゃないお歳だしね――」
龍郷は婦人たちの視線の先で夫婦に挨拶をしている。野々宮が耳に入れたのも、彼らの来店なのだろう。
龍郷の顧客に華族はたくさんいても、普通店までやってくることはない。こちらが商品見本を持って出向くのだ。時々少年音楽隊に高級な菓子を差し入れてくれる小松原夫妻が特別リベラルな家なのだとは、しおんも聞いていた。
平民から見れば百貨店は夢の店だが、華族の間では未だ娘ひとりで直接訪ねる場所ではない。そんな垣根をなくすため、龍郷が華族の娘を娶ろうとしても不思議ではない気がした。
「……もう行く」
「しおん君?」
オムレツライスの最後の一口がどうしても口に入らず、残したまま席を立った。いったいなにが胃にわだかまってそうさせるのか、自分でもわからないまま賑わう廊下を歩く。
いや。
わかっていることを認めたくない。心が拒否するから、それが苦しいんだ。
ここ数日、自分が龍郷になにを言いたかったのか――訊ねたかったのか、わかってしまった。
最初に邸に連れて行かれたのは、従業員の嫌がらせから始まった、事故のようなものだった。少年たちと揉めて、寮には入れなくなった。それからなりゆきで一緒に寝るようになって、歌を歌ったら人気者になって―
だけど、この先は?
ずっとこのままってことはないだろう。
俺はいつまでここにいていいんだ?
そしてあんたは俺を―なんだと思ってるんだ。
「見て、しおんよ」
追走曲のように沸いてくる考えに囚われて、まったく辺りに注意を払っていなかった。気がつけば「しおん好み」と名付けられた銘仙を着た女性客がこちらめがけて駆け寄ってくるところだ。
こういうとき、適切な距離感と謎めいた雰囲気を保つため極力喋るなと龍郷からは言われている。
――だからって、仏頂面って訳にはいかないよな……?
それは店のために良くない。瞬時に頭を巡らせた末にしおんができたことは、ただ困ったように微笑して見せることだけだった。
それでうまいことかわそうと思ったのに、どういうわけか女たちは「きゃー!」と悲鳴を上げて、ますますしおんの周りを取り囲んでしまった。
「え、ちょ、ちょっと―」
口を開けばどうやらそれが自分の売りらしい「ミステリアスさ」とやらが失われてしまう。女たちの剣幕にたじろいでいると、
「しおん」
どこからか名を呼ぶ声がする。
え?
素早く視線を走らせると、女たちの足元に小さな体を見つけた。
ユウだ。
ユウは悪戯っぽく目配せすると、さっとしおんを取り囲む女たちの着物の裾を次々めくって歩いた。
「きゃ、」
「なに?」
「しおん!」
幼く懐かしい声に促されて、輪の中をすり抜ける。階段を一番上まで駆け上がって、鉢植えの陰に潜んだ。ご婦人たちは人目を気にして撤退してくれたようだ。手すりの透かし彫りの間からよくよく辺りを観察し、しおんは初めて人心地着いた。
「相変わらずすばしこいな。助かった」
「しおんはずいぶん綺麗なかっこになったね」
今日のしおんの出で立ちは、仏蘭西から取り寄せた透けるような生地で仕立てたブラウスだ。首元でたっぷり布地をとったリボンを結んで、真ん中に大きなカメオ。もちろん掘り出されているのは龍郷の、龍の意匠だった。
「これは、着せられてるだけで」
「知ってる。音楽隊の衣装でしょ」
龍郷に拾われて以来、しおんは一度も浅草に戻ったことはない。距離でいったらそう離れていないはずなのに、しおんの中で浅草はもうずいぶんと遠い場所になっていた。その、遠のいた世界にまで自分のことが知られているというのが、どうにもこそばゆい、居心地の悪い気分にさせられる。
「今日はどうしたんだ? 歩いてきたのか?」
歩いて行き来できるといっても、ユウの足なら結構な距離だ。
「簡単だよ。路面電車の後ろにしがみついて、またそこで飛び降りただけ」
「危ないだろ」
いくら自転車より遅いとはいえ、転べばことだ。思わず強い口調になったのは、怪我を案じてのことだったのに、ユウはにわかに声を尖らせた。
「お説教? しおんは少しの間にずいぶん偉くなったんだね」
舌足らずな幼い声に不似合いな棘。違和感を覚えて面を上げる。
ユウは蔑むような目でこちらを見ていた。
「ユ……ウ?」
仲間とまではいかないが、しばらく一緒に過ごした相手の、知らない顔を見てしまった気がして戸惑う。見たことのない―悪意に満ちた顔。
この幼い少年から、そんなものを感じ取ったのは初めてだ。自分でも意図していなかった問いかけが唇を動かしていた。
「……ユウ、おまえ、今日はなにしに来たんだ?」
「しおんに会いに来たんだよ」
ユウは無邪気に言う。無邪気な「はず」と自分が思っていることに気がついたときには、小さな手指で衣装の腕をなぞられていた。
「……綺麗な服。すべすべしてる。しおんの髪も綺麗。そんな色だったんだね」
「って、」
髪を引っ張られ、抗議しようとしたしおんに、ユウは重ねた。かつて聞いたこともないような、暗く、低い声で。
「あの日、しおんはなんて言った?」
あの日。あの日って、龍郷に出会ったあの日か。
「ぼくが音楽隊に入りたいって言ったら、無駄だからよせって言ったんだよ」
「――それは」
あのときは本当にそう思っていたのだ。
龍郷に出会うまで、世界がこんなふうに裏返ることを自分は知らなかった。自分の目に見えるものだけがすべてではないのだと、知らずに生きていた。
それをなんと説明していいのかわからないでいるうちに、ユウの声がまとう棘は、鋭さを増していく。
「歌っていたのがぼくだったら、今頃その綺麗な服を着てるのは、ぼくだったかもしれないのに――」
これはユウなのか?
以前と少しも変わらない「はず」のユウになぜか気圧されて、しおんはじりじりと後ずさった。気がつけばいつの間にか、階段の際が足元に迫っている。
そうなることはわかっていたのに。
「ユ、」
小さな、けれど逃れられない手に、力が込められる。
受け身は取れなかった。最初に感じた痛みは記憶にある。あとはもう何度打ち付けられたのか数えてはいられなかった。自慢の大階段を為す術もなく転がり落ちて、ああ、死ぬんだと思った。
死ぬ。
かつてはそれを望んだこともあったのに、今は恐怖のようなものがせり上がってくる。しおんはきつく目を閉じた。
最後に誰かが自分の名前を呼んだ気がした。
一番下まで転がり落ちたはずなのに、覚悟したほどの衝撃はない。やっぱりあの世はふわふわしているものなのか。訝しみながら目を開き、しおんは気がついた。
誰かが自分を庇って下敷きになっている。
――唇からこぼれ落ちた声は、ひどくかすれていた。
「……おまえ、なんで」
「食堂にいなかっただろう……すぐ戻ると言ったのに」
「そういうことじゃなくて」
なんでおまえが俺の下敷きになってんのかって話を――問い詰めたいのに、それ以上声が出なかった。散々発声練習も重ねて、歌うことに慣れたはずのそれが。
なにも言えないしおんに反し、龍郷は訊ねてくる。
「怪我は」
「けが?」
あちこち打ち付けたのに、気が回らなかった。痛みはあるが、腕も足も問題なく動くようだ。
「俺なら、どこも。――、おまえ!」
答えようとして気がついた。
龍郷の頭の下に広がる血だまりに。
磨き上げられた大理石の床はそれを吸い込むことはなく、ただ広がっていくばかりだ。怪我などないはずの体が、その瞬間、四方に引き裂かれたような気がした。
しおんの答えに安堵したかのように龍郷は目を閉じる。その薄いまぶたがみるみる青ざめていく。
「――だ、」
ばらばらの感覚を取り戻すことも出来ないまま、しおんは龍郷の体にとりすがった。
「やだ、やだ、龍郷――龍郷!」
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