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みなしごと百貨の王13
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どうしてか突然ケチャップライスが喉につかえたように飲み下せなくなったとき、野々宮が静かに近寄ってきた。
「お食事中すみません」
「まったくだ」
古い付き合いらしい野々宮に甘えているのはわかるが、偉そうな態度に腹が立つ。思わず野々宮に同情心がわいて「あんたは、メシは喰ったの」と訊ねていた。
「まだだけど、あとでちゃんと食べるから大丈夫だよ。有り難う」
次々に新しい取り組みを打ち出すのは龍郷だが、実際実務的なことの差配をするのは野々宮だ。今までの付き合いの中で、野々宮が立場上龍郷を優先させて自分のことを後回しにしているのは察しがついている。
「これ……食いかけだけど」
腹が減ると思うような力が出せないことは、ここにいる誰よりもわかっているしおんだ。今から頼めば給仕されるまでに時間もかかるだろうし、それまでのつなぎにでも……と差し出したオムレツライスの皿を、横から掠め取る奴がいる。
「なにするんだよ」
「これは俺がもらおう。野々宮は新しい物を頼めばいい」
龍郷は、どういうわけかひどく不機嫌な顔をしていた。
「あんたはビフテキがあるだろ? 今から頼んだら来るまで時間がかかるし、仕事が詰まってるんじゃいつ喰えるのか」
「わかった。昼休みにしていい。時間をとっていいから、新しいのを頼め。――なにをにやにやしているんだ?」
「いえ、なんでも」
なんでも、といいながら野々宮はなにやらまだ笑いを堪えている。龍郷は上等な肉で食事中とは思えない、苦い物でも口に含んだような顔でむすっと顔を逸らした。
「それより、なにか用事があってきたんだろう」
「そうでした」
我に返った野々宮が何事か耳打ちする。秘書の顔に戻った野々宮の話を聞き、龍郷もまた社長の顔に戻った。――のはいいが、さっきよりなお酷い渋面だ。
だが諦めたように口元を拭ってナプキンを乱雑に放り出すと、席を立つ。
「すぐ戻る」
別にそんなことは訊いてもいないのだが、そう言い残して。
「すまないね。せっかく一緒に食事だったのに」
代わって席についた野々宮が謝ってくるが、食事の時間を楽しむ、という感覚がつい最近までなかったしおんには、謝られるようなことではない。
「別に、俺は飯が喰えればなんでもいい」
「あいつはそうじゃないみたいだけど」
また親しい間柄の口調に戻っている。この言いぐさではまるで龍郷が自分との食事を楽しみにしていたようにとれるが、そんなことはないだろう。
「音楽隊がうまくいったご褒美に一緒に喰おうとかいって、ほんとは食堂がうまく回ってるか様子見のついでなんだろ」
あいつの頭の中はどうよそを出し抜いて龍郷百貨店を自分色に染め上げるかでいっぱいだ。ついさっきだって、一緒にいながら唐突に考え込んで、自分とは別の世界に行ってしまった。
野々宮が自分の食事を頼み、しおんは無事自分の手元に返ってきたオムレツライスにぐさぐさとスプーンを突き立てた。
「様子見のほうがついでだよ」と野々宮はナプキンを広げながら苦笑する。
「昼はなかなか時間が取れないから……でも最近ここに泊まることはほとんどなくなったから、これでもましなほうかな」
「ここに?」
執務室に、ということか。当然だがあの部屋にあるのは来客用のソファくらいだ。もちろんしおんが今まで座った椅子の中で一番上等な代物だが、横になるには小さい。
「じゃあ、あれでも最近は時間があるほうなのか」
去って行った背中を遠くに見ながら言うと、野々宮はくすりと笑った。他の誰でもないしおんに向けられているのがはっきりとわかるのに、なぜ笑われるのかはわからない。思わず眉間に皺を刻むと、野々宮はさらにやわらかく微笑みながら言った。愉快でたまらない、といった様子だ。
「無理にでも帰ってるんだよ。家で寝たいんだそうだ」
「……なんで?」
「なんででしょう?」
そりゃここで寝たら風呂も入れない。龍郷の仕事はただ机にかじりついて判を押していればいいというものではなく、銀行やら得意先やらと頻繁に会っているようだから、身なりを整えるのは大事だ。
――結局人は見た目で人を判断するからな。
ツラの皮ひとつで商談を左右することもあるだろう。もちろん龍郷はその辺りをよくわかっていて、いつも洒落た服を着ているし、嫌味にならない程度に香水もつけている。
龍郷家のあの風呂はおそらく最新式で、しおんもいつの間にかすっかり気に入ってしまった。龍郷も毎日入っている。
そういった意味のことを口にすると、野々宮は一瞬黙ったあと、堪えかねたように吹き出した。
なにがそんなに面白いのかわからない。放っておいてオムレツライスをさらに咀嚼していると、野々宮はふと表情をあらためた。
「ずっと謝らなければいけないと思っていたんだ」
謝るって、なにを? 顔を見返しただけで、聡い野々宮は無言の問いかけを感じ取る。
「君を音楽隊に入れることに、僕は初め反対してた」
そういえば、龍郷の家で最初に目が覚めたのは、その口論が耳に入ったからだった。あれももう、随分遠い昔の出来事のような気がする。
「それが普通の反応だろ」
野々宮は龍郷の秘書なのだから、素性の知れない奴を近づけないようにするのは、至極まっとうな対応だったと思う。
野々宮は龍郷とはまた趣の異なる、やわらかな美貌を歪めた。
「そもそも本当は音楽学校の生徒で選抜することになっていたんだ。部下に手配を任せたら、場所もあんなことになって」
きっと父親の代の従業員が嫌がらせのつもりでそうしたんだろう、と野々宮は声をひそめた。
失敗することを望まれている。
――あいつがそう言ってたの、まるっきり根拠のないことでもなかったのか。
だが龍郷は、野々宮が止めるのにも耳を貸さず審査を決行した。「面白い」とだけ呟いて。
「半ばは意地になっていたんだと思う。人はもう集まってしまっているし、投げ出して帰るのも評判に良くない。あいつのことだから、そうとっさに計算も働いたんだろう。でも君が出てくるまでずっと酷く険しい顔をしていた。……きっと静かに怒りをためこんでいたんだと思う」
なんのことはない。最初に感じたとおり、あの日の選考は本当に無意味だったのだ。
――それでも俺とあいつは、あの日に出会った。
従業員の嫌がらせがなければそれもなかったのだと思うと、皮肉だ。それを運命などと、冊子の見出しよろしく大仰な言葉で語ろうとは思わないが。
「あいつが呪われた子と呼ばれていたことは?」
肯定の意味で頷く。
「あいつは先代が残した物をすべて作り替えようと躍起になっている。当初はどうしても改革を受け容れられない従業員をクビにもした。でも最近じゃずいぶん当たりがやわらかくなったと言われてるんだ。人間らしい睡眠時間を取るようになったからってのもあると思うけどね。僕はそれが君のおかげだと思ってる。だから本当に入隊がなかったことにならなくて良かった。ごめん。そして有り難う」
面と向かってそんなことを言われると、どうしたらいいかわからない。口に含んだオムレツライスが喉につかえてしまいそうだ。
「俺はそんな、あんたみたいな立派な人に、謝らせるようなあれじゃ……ただの、孤児だし」
もごもごと口ごもりながらどうにか米粒を嚥下する。野々宮は「僕も立派なんかじゃないよ」と苦笑した。
「僕は名ばかりの華族の、しかも三男だから。華族の世界なんて、ご維新の前となにも代わらない。絶対的な家長制度で、他はわずかな家作を与えられるだけなんだよ。僕は龍郷のところとは逆だね。念のため男子を沢山こさえたけれど、上が健やかにお育ちになったものだから、幼年学校で一緒だったよしみで龍郷がここに呼んでくれるまで、居場所はなかった」
いつも穏やかに笑みを刷いている野々宮の瞳が、まるでかつての空虚な日々に怯えるように翳る。所詮は金持ちの生まれのくせになにを、という憤りは、伯父だという男の龍郷への態度も見てしまった今、湧き上がってはこなかった。
知らぬうち、つられるようにして神妙な顔になってしまっていたのだろう。重くなった空気を霧散させるように、野々宮が軽口を叩く。
「秘書を探してる龍郷に再会したとき、あいつ、いきなり〈おまえ、三男か〉って言ったんだよ」
それは、野々宮にとって自分ではどうにもできない枷だった。他人には、触れられたくもない。
けれど龍郷は、その一番繊細なところに無遠慮に踏み込んで来たという。いかにもありそうで、他人事ながら口の中に苦い味が広がった。オムレツライスが台無しだ。
おまえ、本当に無神経だな―ここにいない男のことを腹の中で罵る。
けれど野々宮は言った。なにか大切なものの包みをそっと開けるような顔つきで。
「それでこう言った。〈じゃあ、なんにでもなれるな〉……って」
その、たった一言。
こともなげに告げられた一言で、野々宮の世界は一変した。
「それまでは、自分にはなにもないと思ってた。お家の存続のため母や妾を犠牲にして子供を沢山作って、勝手におまえは三番手だよって序列をつけてくる世界にうんざりして……でも本当は僕には最初からすべて〈あった〉んだ。龍郷はそれに気づかせてくれた」
くるりと世界が反転する。
その瞬間の野々宮の驚きが、しおんには手に取るようにわかる。自分もそうやって龍郷に世界を変えられたから。この髪と肌と目の色は武器になると教えてくれたから。
けれどそれを野々宮のように素直に認めるのは悔しい。かろうじて絞り出した言葉は「あいつ、すぐそういう調子いいこと言う」という、棘を孕んだものになった。野々宮はそれを咎めることはなく、「たしかに、うまく乗せられて仕事始めたら、もう大変」と笑う。
「だけど、あいつも実体験から来てるからね」
「実体験?」
「英吉利の学校にひとりで通ったんだよ。もちろん同じ日本人なんて誰もいない。名前の知れた名門校だけど、所詮は子供の集まりだ。極東の小さな国からやってきた黒い髪と黒い瞳の生徒は目立つ。あまり詳しくは語らないけど、いじめは当然あっただろうね」
しおんは龍郷の羨ましいほどの黒い髪と、夜の水面のように深く黒い瞳を思った。
そう、初めて会ったあの夜に真っ先に反発を感じたのは、龍郷の威圧的な態度の他に、羨ましさがあったからだと思う。人と違う容姿を持って生まれてきてしまった自分とは正反対だ。たとえ孤児に生まれついても、あの髪と目があれば〈普通〉に紛れていられただろうと。外国暮らしの話にしたって、金持ちの自慢話の一つ程度にしか考えていなかった。
でも、そうか。
別の世界に行ったら、あいつのほうがはみ出し者、なのか。だから「おまえは世界を知らないだけ」なんて言えるのか。
「まあもちろんただ大人しくいじめられてはいなかったみたいだけどね。勉強も運動もすぐ一番になったらしい。〈元々相手はこっちを舐めてかかってくれるんだから、楽なものだ〉って。〈普通に普通の成績を収めたところで誰も注目などしてくれないが、劣った存在だと思われてるから、少し頑張れば大げさに驚いてくれる。むしろ得だ〉あいつの手にかかれば、不利であることは有利ってわけ」
金継ぎだ。
欠けたところを、金に変える。
あの頃はまだなにを言われているのかよくわからなかった。でも今ならわかる気がする。
自分の髪の色が、黒かったら? 孤児でなかったら? 人はこんなに熱狂しただろうか。そういえばお抱えデザイナーも、日本画家としては作風が前衛的過ぎてあまり受け容れられなかったところを龍郷に見出されたのではなかったか。龍郷はそういう人間を見つけ出すのに長けている。
――たぶん、自分がそうだったから。
「ごめん、食事中にちょっと面倒な話だったね」
しおんの手が止まっているのを気遣ったのか、野々宮が言う。本当に、世界はくるりと変わってしまった。野々宮のようなちゃんとした大人が、自分に何度も謝ったりする。
「別に、面倒とか……ただ俺は、あんたとか、あいつみたいな家に生まれたら、なんにも不自由なんてしないんだと思ってたから……少し、驚いた」
言ってしまってから、失礼だったかと思ったが、野々宮は微笑むだけだった。普段、どちらかというと険しい顔つきをしていることの多い龍郷の隣でこんなふうにいつも笑みを湛えている野々宮は、いっそう穏やかに見える。でも、その笑みをくるりと裏返した向こうにまだ、誰も知らない野々宮の世界があるのだと、初めて知った。
「それが普通の反応」
しおんが言ったことを混ぜ返すわけでもなく、親しみと寛容のにじむ調子でそう告げたとき、野々宮の頼んだハヤシライスが運ばれてきた。喜色を浮かべてスプーンを手にとって、ぼそりと呟く。
「考えようによっては、僕らは誰でもみんなみなしごなんじゃないかな。……自分の力で自分の望むところにたどり着かない限り、たぶん、永遠に」
「お食事中すみません」
「まったくだ」
古い付き合いらしい野々宮に甘えているのはわかるが、偉そうな態度に腹が立つ。思わず野々宮に同情心がわいて「あんたは、メシは喰ったの」と訊ねていた。
「まだだけど、あとでちゃんと食べるから大丈夫だよ。有り難う」
次々に新しい取り組みを打ち出すのは龍郷だが、実際実務的なことの差配をするのは野々宮だ。今までの付き合いの中で、野々宮が立場上龍郷を優先させて自分のことを後回しにしているのは察しがついている。
「これ……食いかけだけど」
腹が減ると思うような力が出せないことは、ここにいる誰よりもわかっているしおんだ。今から頼めば給仕されるまでに時間もかかるだろうし、それまでのつなぎにでも……と差し出したオムレツライスの皿を、横から掠め取る奴がいる。
「なにするんだよ」
「これは俺がもらおう。野々宮は新しい物を頼めばいい」
龍郷は、どういうわけかひどく不機嫌な顔をしていた。
「あんたはビフテキがあるだろ? 今から頼んだら来るまで時間がかかるし、仕事が詰まってるんじゃいつ喰えるのか」
「わかった。昼休みにしていい。時間をとっていいから、新しいのを頼め。――なにをにやにやしているんだ?」
「いえ、なんでも」
なんでも、といいながら野々宮はなにやらまだ笑いを堪えている。龍郷は上等な肉で食事中とは思えない、苦い物でも口に含んだような顔でむすっと顔を逸らした。
「それより、なにか用事があってきたんだろう」
「そうでした」
我に返った野々宮が何事か耳打ちする。秘書の顔に戻った野々宮の話を聞き、龍郷もまた社長の顔に戻った。――のはいいが、さっきよりなお酷い渋面だ。
だが諦めたように口元を拭ってナプキンを乱雑に放り出すと、席を立つ。
「すぐ戻る」
別にそんなことは訊いてもいないのだが、そう言い残して。
「すまないね。せっかく一緒に食事だったのに」
代わって席についた野々宮が謝ってくるが、食事の時間を楽しむ、という感覚がつい最近までなかったしおんには、謝られるようなことではない。
「別に、俺は飯が喰えればなんでもいい」
「あいつはそうじゃないみたいだけど」
また親しい間柄の口調に戻っている。この言いぐさではまるで龍郷が自分との食事を楽しみにしていたようにとれるが、そんなことはないだろう。
「音楽隊がうまくいったご褒美に一緒に喰おうとかいって、ほんとは食堂がうまく回ってるか様子見のついでなんだろ」
あいつの頭の中はどうよそを出し抜いて龍郷百貨店を自分色に染め上げるかでいっぱいだ。ついさっきだって、一緒にいながら唐突に考え込んで、自分とは別の世界に行ってしまった。
野々宮が自分の食事を頼み、しおんは無事自分の手元に返ってきたオムレツライスにぐさぐさとスプーンを突き立てた。
「様子見のほうがついでだよ」と野々宮はナプキンを広げながら苦笑する。
「昼はなかなか時間が取れないから……でも最近ここに泊まることはほとんどなくなったから、これでもましなほうかな」
「ここに?」
執務室に、ということか。当然だがあの部屋にあるのは来客用のソファくらいだ。もちろんしおんが今まで座った椅子の中で一番上等な代物だが、横になるには小さい。
「じゃあ、あれでも最近は時間があるほうなのか」
去って行った背中を遠くに見ながら言うと、野々宮はくすりと笑った。他の誰でもないしおんに向けられているのがはっきりとわかるのに、なぜ笑われるのかはわからない。思わず眉間に皺を刻むと、野々宮はさらにやわらかく微笑みながら言った。愉快でたまらない、といった様子だ。
「無理にでも帰ってるんだよ。家で寝たいんだそうだ」
「……なんで?」
「なんででしょう?」
そりゃここで寝たら風呂も入れない。龍郷の仕事はただ机にかじりついて判を押していればいいというものではなく、銀行やら得意先やらと頻繁に会っているようだから、身なりを整えるのは大事だ。
――結局人は見た目で人を判断するからな。
ツラの皮ひとつで商談を左右することもあるだろう。もちろん龍郷はその辺りをよくわかっていて、いつも洒落た服を着ているし、嫌味にならない程度に香水もつけている。
龍郷家のあの風呂はおそらく最新式で、しおんもいつの間にかすっかり気に入ってしまった。龍郷も毎日入っている。
そういった意味のことを口にすると、野々宮は一瞬黙ったあと、堪えかねたように吹き出した。
なにがそんなに面白いのかわからない。放っておいてオムレツライスをさらに咀嚼していると、野々宮はふと表情をあらためた。
「ずっと謝らなければいけないと思っていたんだ」
謝るって、なにを? 顔を見返しただけで、聡い野々宮は無言の問いかけを感じ取る。
「君を音楽隊に入れることに、僕は初め反対してた」
そういえば、龍郷の家で最初に目が覚めたのは、その口論が耳に入ったからだった。あれももう、随分遠い昔の出来事のような気がする。
「それが普通の反応だろ」
野々宮は龍郷の秘書なのだから、素性の知れない奴を近づけないようにするのは、至極まっとうな対応だったと思う。
野々宮は龍郷とはまた趣の異なる、やわらかな美貌を歪めた。
「そもそも本当は音楽学校の生徒で選抜することになっていたんだ。部下に手配を任せたら、場所もあんなことになって」
きっと父親の代の従業員が嫌がらせのつもりでそうしたんだろう、と野々宮は声をひそめた。
失敗することを望まれている。
――あいつがそう言ってたの、まるっきり根拠のないことでもなかったのか。
だが龍郷は、野々宮が止めるのにも耳を貸さず審査を決行した。「面白い」とだけ呟いて。
「半ばは意地になっていたんだと思う。人はもう集まってしまっているし、投げ出して帰るのも評判に良くない。あいつのことだから、そうとっさに計算も働いたんだろう。でも君が出てくるまでずっと酷く険しい顔をしていた。……きっと静かに怒りをためこんでいたんだと思う」
なんのことはない。最初に感じたとおり、あの日の選考は本当に無意味だったのだ。
――それでも俺とあいつは、あの日に出会った。
従業員の嫌がらせがなければそれもなかったのだと思うと、皮肉だ。それを運命などと、冊子の見出しよろしく大仰な言葉で語ろうとは思わないが。
「あいつが呪われた子と呼ばれていたことは?」
肯定の意味で頷く。
「あいつは先代が残した物をすべて作り替えようと躍起になっている。当初はどうしても改革を受け容れられない従業員をクビにもした。でも最近じゃずいぶん当たりがやわらかくなったと言われてるんだ。人間らしい睡眠時間を取るようになったからってのもあると思うけどね。僕はそれが君のおかげだと思ってる。だから本当に入隊がなかったことにならなくて良かった。ごめん。そして有り難う」
面と向かってそんなことを言われると、どうしたらいいかわからない。口に含んだオムレツライスが喉につかえてしまいそうだ。
「俺はそんな、あんたみたいな立派な人に、謝らせるようなあれじゃ……ただの、孤児だし」
もごもごと口ごもりながらどうにか米粒を嚥下する。野々宮は「僕も立派なんかじゃないよ」と苦笑した。
「僕は名ばかりの華族の、しかも三男だから。華族の世界なんて、ご維新の前となにも代わらない。絶対的な家長制度で、他はわずかな家作を与えられるだけなんだよ。僕は龍郷のところとは逆だね。念のため男子を沢山こさえたけれど、上が健やかにお育ちになったものだから、幼年学校で一緒だったよしみで龍郷がここに呼んでくれるまで、居場所はなかった」
いつも穏やかに笑みを刷いている野々宮の瞳が、まるでかつての空虚な日々に怯えるように翳る。所詮は金持ちの生まれのくせになにを、という憤りは、伯父だという男の龍郷への態度も見てしまった今、湧き上がってはこなかった。
知らぬうち、つられるようにして神妙な顔になってしまっていたのだろう。重くなった空気を霧散させるように、野々宮が軽口を叩く。
「秘書を探してる龍郷に再会したとき、あいつ、いきなり〈おまえ、三男か〉って言ったんだよ」
それは、野々宮にとって自分ではどうにもできない枷だった。他人には、触れられたくもない。
けれど龍郷は、その一番繊細なところに無遠慮に踏み込んで来たという。いかにもありそうで、他人事ながら口の中に苦い味が広がった。オムレツライスが台無しだ。
おまえ、本当に無神経だな―ここにいない男のことを腹の中で罵る。
けれど野々宮は言った。なにか大切なものの包みをそっと開けるような顔つきで。
「それでこう言った。〈じゃあ、なんにでもなれるな〉……って」
その、たった一言。
こともなげに告げられた一言で、野々宮の世界は一変した。
「それまでは、自分にはなにもないと思ってた。お家の存続のため母や妾を犠牲にして子供を沢山作って、勝手におまえは三番手だよって序列をつけてくる世界にうんざりして……でも本当は僕には最初からすべて〈あった〉んだ。龍郷はそれに気づかせてくれた」
くるりと世界が反転する。
その瞬間の野々宮の驚きが、しおんには手に取るようにわかる。自分もそうやって龍郷に世界を変えられたから。この髪と肌と目の色は武器になると教えてくれたから。
けれどそれを野々宮のように素直に認めるのは悔しい。かろうじて絞り出した言葉は「あいつ、すぐそういう調子いいこと言う」という、棘を孕んだものになった。野々宮はそれを咎めることはなく、「たしかに、うまく乗せられて仕事始めたら、もう大変」と笑う。
「だけど、あいつも実体験から来てるからね」
「実体験?」
「英吉利の学校にひとりで通ったんだよ。もちろん同じ日本人なんて誰もいない。名前の知れた名門校だけど、所詮は子供の集まりだ。極東の小さな国からやってきた黒い髪と黒い瞳の生徒は目立つ。あまり詳しくは語らないけど、いじめは当然あっただろうね」
しおんは龍郷の羨ましいほどの黒い髪と、夜の水面のように深く黒い瞳を思った。
そう、初めて会ったあの夜に真っ先に反発を感じたのは、龍郷の威圧的な態度の他に、羨ましさがあったからだと思う。人と違う容姿を持って生まれてきてしまった自分とは正反対だ。たとえ孤児に生まれついても、あの髪と目があれば〈普通〉に紛れていられただろうと。外国暮らしの話にしたって、金持ちの自慢話の一つ程度にしか考えていなかった。
でも、そうか。
別の世界に行ったら、あいつのほうがはみ出し者、なのか。だから「おまえは世界を知らないだけ」なんて言えるのか。
「まあもちろんただ大人しくいじめられてはいなかったみたいだけどね。勉強も運動もすぐ一番になったらしい。〈元々相手はこっちを舐めてかかってくれるんだから、楽なものだ〉って。〈普通に普通の成績を収めたところで誰も注目などしてくれないが、劣った存在だと思われてるから、少し頑張れば大げさに驚いてくれる。むしろ得だ〉あいつの手にかかれば、不利であることは有利ってわけ」
金継ぎだ。
欠けたところを、金に変える。
あの頃はまだなにを言われているのかよくわからなかった。でも今ならわかる気がする。
自分の髪の色が、黒かったら? 孤児でなかったら? 人はこんなに熱狂しただろうか。そういえばお抱えデザイナーも、日本画家としては作風が前衛的過ぎてあまり受け容れられなかったところを龍郷に見出されたのではなかったか。龍郷はそういう人間を見つけ出すのに長けている。
――たぶん、自分がそうだったから。
「ごめん、食事中にちょっと面倒な話だったね」
しおんの手が止まっているのを気遣ったのか、野々宮が言う。本当に、世界はくるりと変わってしまった。野々宮のようなちゃんとした大人が、自分に何度も謝ったりする。
「別に、面倒とか……ただ俺は、あんたとか、あいつみたいな家に生まれたら、なんにも不自由なんてしないんだと思ってたから……少し、驚いた」
言ってしまってから、失礼だったかと思ったが、野々宮は微笑むだけだった。普段、どちらかというと険しい顔つきをしていることの多い龍郷の隣でこんなふうにいつも笑みを湛えている野々宮は、いっそう穏やかに見える。でも、その笑みをくるりと裏返した向こうにまだ、誰も知らない野々宮の世界があるのだと、初めて知った。
「それが普通の反応」
しおんが言ったことを混ぜ返すわけでもなく、親しみと寛容のにじむ調子でそう告げたとき、野々宮の頼んだハヤシライスが運ばれてきた。喜色を浮かべてスプーンを手にとって、ぼそりと呟く。
「考えようによっては、僕らは誰でもみんなみなしごなんじゃないかな。……自分の力で自分の望むところにたどり着かない限り、たぶん、永遠に」
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