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嫌な奴?(2)
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目覚めると、見知らぬ部屋に寝かされていた。
「目が覚めたか」
「ここは?」
壁に青いタイルや壁紙が贅沢に使われているところをみると、後宮内のどこかなんだろうけど、見覚えのない部屋だった。アスランが自分で自分を閉じ込めるために使っていた部屋よりは広いみたいだ。
「私の隠し部屋だ。私と、ごく一部の信用できる人間しか知らない安全な場所だから、安心していい」
後宮は広いから、そういうこともできるんだろう。
「犯人に心当たりは?」
訊ねられて、おれは寝たまま肩をすくめる。
「たくさん?」
誰かさんが無理に抜擢するから、と付け足すと、アスランは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「すまなかった。早急に特定する」
「いいよ」
おれはため息と一緒にそう言った。
「あんたに見られたってわかってるんだから、しばらくはおとなしいはずだ。いじめをするような奴ってのは、そういうもんなんだよ」
それは現代で思い知ったことだった。
「卑怯な奴らはどこまでも卑怯だ。こっちもその卑怯さを逆手にとってやり過ごせばいい。正面衝突は疲れるだろ」
けれど、アスランは引き下がらない。
「見逃せば、ほとぼりが冷めたころにまたやる。歳の割に達観しているのは素晴らしいが、瀕死の目にあったんだぞ。必ず見つけ出して罰を与える」
「いいって! ……どっちかっていうと、トラウマでパニくっただけだから」
放っておくとアスランが暴走する気がして、おれは渋々嫌な記憶に触れた。そう、あそこが池でなかったら、おれだってもう少し反撃できたのだ。
「……ガキの頃、母ちゃんの恋人に風呂に顔突っ込まれたことがあって。それ、思い出しただけだから」
おれの言葉に、アスランの気配から殺気が消えていった。
おれの母親は、身持ちのゆるいオメガだった。
「頭もゆるいから、しょっちゅう男に騙されては捨てられててさ。その中には、おれが邪魔で暴力振るう奴も何人かいたってだけのこと」
おれの父親が誰なのかもわからない。そんな暮らしだったから、生活が安定したことなんかあるわけもなく、うちはずっと貧乏だった。
自然とおれの生活もすさんだけど、ずるずると落ちていくのだけは避けたくて、あのパティスリーに飛び込んだ。なんでもいいから手に職をつけたかった。まあ、そこでもおれを待ってたのは、オメガバレからのいじめだったわけだけど。
「おまえが、ここへ来てしまって、母上は?」
アスランの声が少し沈んでいるように感じた。おれは東の国から買われてきたってことになってるからだろう。
「こっちに来るちょっと前に死んだ。ま、最近じゃ家に帰ってくるのは男に捨てられたときだけになってたから、ほとんど会ってもなかったけどさ」
なるべく重くならないよう言って、おれは寝返りを打つ。
背中越し、アスランの声がした。
「……つらいことを訊いた。すまない」
「しょうがないって言ってんだろ」
アスランはそれには答えない。なんだかもそもそしているな、と思ったら、寝台の中に入り込んできた。背中から、おれの体を胸の中に包むような格好だ。
アスランは、おれを胸の中に収めたまま、ぽん、ぽん、とあやすように軽く頭を叩いた。子供じゃねえっつうの――と押しのけようとしたとき、アスランが口を開いた。
「私にも母がいない」
それは知ってる。ハレムの食事の準備をするのに、どういう人がいるか親方から聞かされているからだ。今ハレムにはスルタンの母親に当たる〈后母〉はいない。ずっと以前に亡くなったと聞いている。
別に、おれの話を聞いたからって、自分の話をしてくれなくたっていい。そんなおれの言葉は、アスランによってさえぎられた。
「幼い頃、ここには複数の男子がいたから、私に出された毒入りの食事を私の代わりに口にして亡くなったんだ」
「え」
ただ簡単に「亡くなった」とだけ聞いていたおれは、思わず声を漏らす。
おれは厨房で先輩たちから聞いた噂話を思い出していた。
そもそもこの国のスルタンは、正式な結婚をしない。なんでかっていうと、正妻の実家が力を持ってしまうのを防ぐためだそうだ。
だから、たくさんいるハレムの女性はみんな属国から連れられてきた、ただただ美しい娘。国内のなんとか公爵の娘とか、そういうのはいないのだ。血筋を重要視しないっていうのは、日本育ちのおれにはちょっと珍しく思える。
で、スルタンのお手がついたら個室をもらえる。さらに男子を産んだら、また扱いがよくなる。産んだ子がスルタンになれば〈母后〉って呼ばれて、これが女の人の頂点になる。だからみんなそこを目指す。
そこに、結局争いが生れる。
実家があろうがなかろうが、女同士の戦いになるのだ。
基本的には一番年上の男子がスルタンを継承するらしいけど、そうなったら二番目三番目に子供を産んだ愛妾がどういう行動に出るかは、おれにだって想像がついた。歴代〈原因不明で〉死亡した皇子がたくさんいるそうだ。
だから、アスランの場合も、自分の子供をスルタンにしたい愛妾とか、その取り巻きとかが、食事に毒を盛って――ってことだよな?
「そりゃ、また……」
アスランは苦笑して被りを振った。
「しょうがない。ここはそういう場所だ」
「いや、しょうがなくねえだろ。そんなの、毒盛る奴のほうが」
思わず胸の中でぐるんと寝返りを打つと、アスランの顔がすぐ近くにあった。
その目は、やさしく細められている。
やがてその口の端が、いたずらっぽくにっと歪んだ。
さっきおれが「しょうがない」って言ったから、わざとそんな話をしたのだと、ばかなおれにもわかった。
性格わるっ――いや、いい、のか?
アスランは、おれの表情からなにかを感じ取ったのだろう。苦笑して頭をぽん、とやさしく叩くと、髪の中に鼻先を埋めた。そのまま、ぼそりと語り始める。
「命をかけてまで私を守ってくれた母の望み通りスルタンになったのはいいが、少し前からあの〈呪い〉に悩まされるようになっていた。一月のうち数日は政務が滞る。そんな人間がスルタンに相応しいのかと囁く者も現れた。弟のほうが相応しいのではないかと」
今、王家には男子がもう一人いる。アスランの異母弟だ。
王位継承争いがもっと激しかった頃――アスランの親の世代までは、王が決まるとその他の男子は全員幽閉されていたらしい。アスランが人に害を与えないよう自分で自分を閉じ込めていた部屋は、元々はそのための部屋だ。
現職のスルタンが急死でもすれば、くり上げで就任することもあるけど、そんなの、いつになるかわからない。わからないのに、何十年と後宮のごく一部のエリアから、外に出ることも許されないのだ。そんなの、まさに生殺し。
アスランはその制度を撤廃して弟を生かし、領地をひとつ任せている。そっちを呼び戻して、アスランを失脚させようって動きもあるとか、ないとか。
それって、命が危ないってこと、だよな?
全員幽閉なんて酷い慣習を撤廃してやったせいで、かえって危険な目に遭うなんて。
現代日本だって、おれにとってはたいがいクソだった。貧富の差はなくならないし、おまけにオメガだって診断されて、未来に希望はなにもなかった。
でも、こいつみたいに、すぐ隣に命の危険があるわけじゃない。
毎回都合のいいときに呼び出されるから、おれはこいつのことを「なんて勝手な奴!」と決めつけていた。日本でも、こっちの世界でも、結局偉い奴は嫌な奴なんだと。でも。
おれが黙り込んだ理由をどう思ったのか、アスランは顔をのぞき込んだ。
「――だが、おまえが現れた。おかげで仕事が捗るし、なにより、自分が異常者でないとわかったのが嬉しい。おまえには感謝している」
誰かにそんなふうに礼を言われるなんて、いつぶりだろう。
『なにより、自分が異常者でないとわかったのが嬉しい』
王様だってのに、そんなふうに悩んだりしてたのか。
でも、ちょっとわかる。
発情期の、自分でもどうにもならない感じは、ひどく嫌なものだったから。
それも、こいつは命の危険を感じながらそれと闘ってたわけだ。
国のため、責任ある仕事もしながら。
わかる、と口に出すのはなにか違う気がした。おれなんかより、よっぽど大変な毎日だったんじゃないかと思うから。
黙り込んだおれを包み込むアスランの胸は、温かい。やさしい声が告げた。
「ここは安全だから、もう少し眠りなさい」
「目が覚めたか」
「ここは?」
壁に青いタイルや壁紙が贅沢に使われているところをみると、後宮内のどこかなんだろうけど、見覚えのない部屋だった。アスランが自分で自分を閉じ込めるために使っていた部屋よりは広いみたいだ。
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おれはため息と一緒にそう言った。
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「いいって! ……どっちかっていうと、トラウマでパニくっただけだから」
放っておくとアスランが暴走する気がして、おれは渋々嫌な記憶に触れた。そう、あそこが池でなかったら、おれだってもう少し反撃できたのだ。
「……ガキの頃、母ちゃんの恋人に風呂に顔突っ込まれたことがあって。それ、思い出しただけだから」
おれの言葉に、アスランの気配から殺気が消えていった。
おれの母親は、身持ちのゆるいオメガだった。
「頭もゆるいから、しょっちゅう男に騙されては捨てられててさ。その中には、おれが邪魔で暴力振るう奴も何人かいたってだけのこと」
おれの父親が誰なのかもわからない。そんな暮らしだったから、生活が安定したことなんかあるわけもなく、うちはずっと貧乏だった。
自然とおれの生活もすさんだけど、ずるずると落ちていくのだけは避けたくて、あのパティスリーに飛び込んだ。なんでもいいから手に職をつけたかった。まあ、そこでもおれを待ってたのは、オメガバレからのいじめだったわけだけど。
「おまえが、ここへ来てしまって、母上は?」
アスランの声が少し沈んでいるように感じた。おれは東の国から買われてきたってことになってるからだろう。
「こっちに来るちょっと前に死んだ。ま、最近じゃ家に帰ってくるのは男に捨てられたときだけになってたから、ほとんど会ってもなかったけどさ」
なるべく重くならないよう言って、おれは寝返りを打つ。
背中越し、アスランの声がした。
「……つらいことを訊いた。すまない」
「しょうがないって言ってんだろ」
アスランはそれには答えない。なんだかもそもそしているな、と思ったら、寝台の中に入り込んできた。背中から、おれの体を胸の中に包むような格好だ。
アスランは、おれを胸の中に収めたまま、ぽん、ぽん、とあやすように軽く頭を叩いた。子供じゃねえっつうの――と押しのけようとしたとき、アスランが口を開いた。
「私にも母がいない」
それは知ってる。ハレムの食事の準備をするのに、どういう人がいるか親方から聞かされているからだ。今ハレムにはスルタンの母親に当たる〈后母〉はいない。ずっと以前に亡くなったと聞いている。
別に、おれの話を聞いたからって、自分の話をしてくれなくたっていい。そんなおれの言葉は、アスランによってさえぎられた。
「幼い頃、ここには複数の男子がいたから、私に出された毒入りの食事を私の代わりに口にして亡くなったんだ」
「え」
ただ簡単に「亡くなった」とだけ聞いていたおれは、思わず声を漏らす。
おれは厨房で先輩たちから聞いた噂話を思い出していた。
そもそもこの国のスルタンは、正式な結婚をしない。なんでかっていうと、正妻の実家が力を持ってしまうのを防ぐためだそうだ。
だから、たくさんいるハレムの女性はみんな属国から連れられてきた、ただただ美しい娘。国内のなんとか公爵の娘とか、そういうのはいないのだ。血筋を重要視しないっていうのは、日本育ちのおれにはちょっと珍しく思える。
で、スルタンのお手がついたら個室をもらえる。さらに男子を産んだら、また扱いがよくなる。産んだ子がスルタンになれば〈母后〉って呼ばれて、これが女の人の頂点になる。だからみんなそこを目指す。
そこに、結局争いが生れる。
実家があろうがなかろうが、女同士の戦いになるのだ。
基本的には一番年上の男子がスルタンを継承するらしいけど、そうなったら二番目三番目に子供を産んだ愛妾がどういう行動に出るかは、おれにだって想像がついた。歴代〈原因不明で〉死亡した皇子がたくさんいるそうだ。
だから、アスランの場合も、自分の子供をスルタンにしたい愛妾とか、その取り巻きとかが、食事に毒を盛って――ってことだよな?
「そりゃ、また……」
アスランは苦笑して被りを振った。
「しょうがない。ここはそういう場所だ」
「いや、しょうがなくねえだろ。そんなの、毒盛る奴のほうが」
思わず胸の中でぐるんと寝返りを打つと、アスランの顔がすぐ近くにあった。
その目は、やさしく細められている。
やがてその口の端が、いたずらっぽくにっと歪んだ。
さっきおれが「しょうがない」って言ったから、わざとそんな話をしたのだと、ばかなおれにもわかった。
性格わるっ――いや、いい、のか?
アスランは、おれの表情からなにかを感じ取ったのだろう。苦笑して頭をぽん、とやさしく叩くと、髪の中に鼻先を埋めた。そのまま、ぼそりと語り始める。
「命をかけてまで私を守ってくれた母の望み通りスルタンになったのはいいが、少し前からあの〈呪い〉に悩まされるようになっていた。一月のうち数日は政務が滞る。そんな人間がスルタンに相応しいのかと囁く者も現れた。弟のほうが相応しいのではないかと」
今、王家には男子がもう一人いる。アスランの異母弟だ。
王位継承争いがもっと激しかった頃――アスランの親の世代までは、王が決まるとその他の男子は全員幽閉されていたらしい。アスランが人に害を与えないよう自分で自分を閉じ込めていた部屋は、元々はそのための部屋だ。
現職のスルタンが急死でもすれば、くり上げで就任することもあるけど、そんなの、いつになるかわからない。わからないのに、何十年と後宮のごく一部のエリアから、外に出ることも許されないのだ。そんなの、まさに生殺し。
アスランはその制度を撤廃して弟を生かし、領地をひとつ任せている。そっちを呼び戻して、アスランを失脚させようって動きもあるとか、ないとか。
それって、命が危ないってこと、だよな?
全員幽閉なんて酷い慣習を撤廃してやったせいで、かえって危険な目に遭うなんて。
現代日本だって、おれにとってはたいがいクソだった。貧富の差はなくならないし、おまけにオメガだって診断されて、未来に希望はなにもなかった。
でも、こいつみたいに、すぐ隣に命の危険があるわけじゃない。
毎回都合のいいときに呼び出されるから、おれはこいつのことを「なんて勝手な奴!」と決めつけていた。日本でも、こっちの世界でも、結局偉い奴は嫌な奴なんだと。でも。
おれが黙り込んだ理由をどう思ったのか、アスランは顔をのぞき込んだ。
「――だが、おまえが現れた。おかげで仕事が捗るし、なにより、自分が異常者でないとわかったのが嬉しい。おまえには感謝している」
誰かにそんなふうに礼を言われるなんて、いつぶりだろう。
『なにより、自分が異常者でないとわかったのが嬉しい』
王様だってのに、そんなふうに悩んだりしてたのか。
でも、ちょっとわかる。
発情期の、自分でもどうにもならない感じは、ひどく嫌なものだったから。
それも、こいつは命の危険を感じながらそれと闘ってたわけだ。
国のため、責任ある仕事もしながら。
わかる、と口に出すのはなにか違う気がした。おれなんかより、よっぽど大変な毎日だったんじゃないかと思うから。
黙り込んだおれを包み込むアスランの胸は、温かい。やさしい声が告げた。
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