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激しい雨(1)

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 七月に入ると、すぐに期末テストが始まった。
 勉強は自分でも意外なほど順調だった。目を逸らしたいことがあればあるほど勉強に身が入ってしまう自分にすばるは苦笑した。

 テストの間の休み時間も、早々に次の教科の勉強を始めてしまえば、誰も声をかけてこない。志村は元々が人の感情に敏感な奴だから、今回もなにかあった気配は察しているように見えた。察していながら、触れては来ないのが有難かった。

 テスト最終日、最後の科目終了のチャイムが鳴る。
 クラスメイトたちは口々になんとも言えないうめき声をあげた。伸びをしたり、腰骨を鳴らしたりしている。

 すばるはそんな解放感に飲み込まれないよう、手早く荷物をまとめて誰よりも早く教室を出た。なんとか流星に捕まらないうちに帰りたい。
「おう夏目。ちょっと進路指導室いいか」
 教室を出たところで、担任にそう声をかけられた。進路指導と言われれば応じないわけにはいかない。
 焦っているのを悟られないようついていくと、教師は「職員室は採点してるから、こっちまで呼んでごめんな。ほらこれ」と言い置いたあと、A4サイズの封筒を手渡してきた。
 奨学金申請の書類だ。頼んでおいたものを、揃えておいてくれたらしい。
「ありがとうございます」
「礼言われるようなことじゃないけどな」と担任は苦笑するが、すばるは嬉しかった。少しだけ未来が近くなった気がして。
 これが通れば、できるだけ人に迷惑をかけずに生きていける。
 教師が窓の外を見上げた。
「急に曇ってきたな。またゲリラ雷雨来るんじゃないか」


 教師と別れ、昇降口に向かうと、途中の渡り廊下で、生徒たちが何人かたむろしているのが目に入った。
 真ん中にいるのは流星だ。
 一発で見つけてしまうことに、軽いいらだちを覚える。頭一つ飛びぬけた身長と金色の髪は、どうしたって目立つ。
「なんか喰ってかね?」
 どうやら帰りにどこかへ寄っていこうと誘われているようだ。
「いや、俺は……」
「いいじゃん。久し振りにさあ」
 囲んでいるのは、同じクラスの生徒ではない。おそらく二年時に仲良くしていたグループだろう。
 そうだ、元々あいつは友だちがいた。自分と親しくしていたのは、同情心からで。
 渡り廊下の脇には、カンナが植えられていた。大きな緑の葉。さらにそこから力強く伸びて咲く花の朱色は、日に日に鮮やかになっているように思えた。いよいよ息苦しいほどの夏がやってくる。

 期末テストの結果が出れば、否が応でも生徒は受験に向けて本気モードになる。
 ――そうなったら、勉強を理由に流星と距離を取り易くなる。
 そのまま夏休みになれば、流星だって予備校に通うだろう。
 一ヶ月半顔を合わせなければ、きっとそのまま疎遠になれる。

 そんなことを考えながらそっと踵を返そうとすると、ちょうど階段を下りてきた体育教師と鉢合わせた。
「おお、夏目。雷鳴ってるぞ、早く帰れ。そっちのおまえらもな!」
 生徒のために良かれと思ってのことなのだろうが、すばるは内心舌打ちした。
 詰め寄られて困っている様子だった流星が、顔を上げる。
 その瞳がすばるの姿を捉えた。
 余計なことを……!
 教師におざなりに会釈して、足早に移動する。
 下足箱から慌ただしく靴を取り出して、足を突っ込んだ。

 間の悪いことに、大粒の雨が地表を叩き始める。鞄の底に折りたたみがあるはずだったが、もたもたしていると流星に追いつかれてしまいそうで、取り出さずに校舎の外に出る。

 まるでそれを見計らったように、雨は強く打ちつけ始めた。

 ――くそ。

 すばるは胸の中で小さく毒づいて、校門まで速足で移動する。バス停があるのは道路のこちら側だったが、咄嗟の判断で歩道橋の階段を駆け上がった。
 行く宛てなどもちろんなかった。とにかく逃げられればなんでも。

 階段を上り切り、デッキの半ばまで走ったところで、一層強く打ち付ける雨の音よりも力のこもった声が響いた。

「すばる!」
 射抜くような響きに、足が止まる。

 ――しまった。 
 止まるつもりなんかなかったのに。あんまりにも切実な響きだったからーー
 再び駆け出そうとしたところで、前に回り込まれてしまう。

 雨脚はどんどん強くなるのに、流星も傘をさしてはいなかった。緩くウェーブのかかった金髪はしっとり濡れ、水滴を滴らせている。その下から覗く瞳は、怒りのような熱を孕んでいた。

「おまえ、なんで俺のこと避けてんだ?」

 訊かれてしまった。一番言われたいことも、言われたくないことも、すばるに言ってくるのはいつも流星だ。

「テストだったから」
 動揺を隠しながら、用意していた言葉を淡々と口にする。
「嘘つけ!」
 気色ばんだ流星に肩を掴まれそうになって、避けた。
 こんな態度、余計怒らせると思った。
 当たり前だ。流星は庇ってくれたのに、自分は理由も口にせず不当に避けている。

 けれど流星は、情けなく眉尻を下げ――傷ついた顔をしていた。

 いつも自信満々で、飄々としている流星。最初はその態度に戸惑うことも多かった。けれど途中からは、そんな態度にこそ救われてきた。

 なのに、おれは、その流星に、こんな顔させてる――

 曇天を稲光が裂いて、さらに激しい雨が降り注ぐ。すばるはその場を動けなかった。
 自分が動かない限り、流星も立ち去らないであろうことは、わかっていた。うなじを隠すために伸ばした髪の先まで雨がしみ渡り、水滴が滴り落ちるのを感じる。

「……おれ、どうしてあのとき噛まれちゃったんだろう」

 流星が息を呑んだのが気配で伝わってくる。さっきまでまとっていた張り詰めた空気が、一転気遣わしげなものに変わる。
「親になんか言われたのか? 前にも言ったけど、おまえはなにも悪くない」

「違う」
 
 稲妻が再び光って、すばるの濡れたシャツを青く染めた。

「噛まれるなら、流星が良かった」

 ――言ってしまった。

 十二のとき、自分はもう誰も好きになってはいけないのだと決められた。

 それがアルファを誘惑した罰なのだ。

 そうはっきり言葉にされたことはないけれど、父や母の態度はすばるにそう思わせるのに充分なものだった。

 みんなを傷つけて、みんなの〈普通〉を奪ったんだから、その咎を負うのは当たり前だ。

 とにかく勉強して、生きていけるだけの力をつけて、早く完全にひとりにならないと。消え去ることができないのなら、せめて。

 そう思ってきたのに、どうして。

 頬を冷たく濡らしていくものが、雨なのか涙なのかわからない。ぼんやり滲んだ視界の向こうで、流星がどんな顔をしているのかも。

 わからなくて良かった、と思ったとき、不意に視界が歪んで、強く腰を抱き寄せられていた。
「――」

 唇に、何かが触れる。

 冷たく、ぎこちないその感触は――流星の唇。
 すばるは大きく目を見開いた。

 気持ち悪――くならない。

 どうして?
 流星が自分に恋愛感情を持っていないことはわかっている。だけど自分は――

 戸惑っているうちに、痛いほどだった抱擁が解かれる。
「――悪い。抑えられなかった」
 流星の頬は微かに上気していた。いつもより幼く見えるその表情に、すばるの胸のざわめきは強くなる。
 膝の力が抜け、水の溜まるデッキに頽れてしまった。
「――おい! 悪い、体調」
 狼狽える流星に、すばるは呆然としたまま被りを振る。
「大丈夫。……吐きそうにならないんだ。なんでかわからないけど」

 どうしてだ?

 毎年春になる度、好意を持って近寄られるだけであんなに体調を崩していたのに。

 ただ触れただけじゃなく、唇まで重ねたのに。

「――っ」
 今更ながら流星とキスをしたのだということに思い至って、頬が灼けるほど熱を持った。
「すばる? 顔が真っ赤だぞ。やっぱりどこか具合が――」
「ば……、これ、は」
 誰のせいだ、と言い返そうとしたときだった。

 どくん、と予期せぬ強さで心臓が波打って、すばるは息を詰まらせた。

 脈動の大きさに、全身が震えてしまう。血流がふつふつと沸いて、熱を伴ったまま全身を駆け巡る。
 雨に打たれて冷え切っていた体に、じんわり汗が滲み出す。

 いつもの体調不良とは、何かが違う。

 やがて流星も、異変に気がついたようだった。雨の中鼻をひくつかせる。
「……甘い匂い?」
 自分でそう口にして、はっと何かに気がついたように目を見開いた。すばるの中でも、戸惑いがひとつの答えにたどり着く。


「「発情、してる……?」」


「ど、して。おれ、もう、発情、しないはず、なのに」
 そう絞り出すのさえ、もう苦しい。体はまるで、どろりと溶解した金属を流し込まれているほど内側から熱を発していた。
 
 そのとき、階段のほうが騒がしくなった。 
まだ学校に残っていた生徒たちが帰るところなのだろう。
 流星は眉根を寄せてそちらとすばるを交互に見、やがてすばるに背中を向けてしゃがみこんだ。
「とにかく、外にいるのはまずい。負ぶされ」
 
 固辞する余裕はもうなかった。言われるまま流星に負ぶわれる。流星はすばるを背にまったく危なげない足取りで歩道橋の階段を下りきった。

 向かった先は祖母の家だ。
 体は相変わらず激しい熱に囚われていても、懐かしい家の様子を見ると、すばるの中にはほっと安堵が広がっていった。
「玄関脇の、蘭の、鉢の下に、予備の、鍵、あるはず」
 切れ切れの吐息の下からなんとかそう絞り出すと、流星はすばるを背中から下ろして鉢を持ち上げ、玄関を開ける。
 すばるの手にその鍵を握らせると、乱暴とも思える仕草で三和土に押し込んだ。

「中から鍵かけろ」
「え……」

 つい今まで、気遣いながら運んで来てくれていたのに。
 急な態度の変化に狼狽えていると、さらに強い語気で「いいからかけろ!」と半ば怒鳴られた。

 濡れ髪から水滴を滴らせながらなんとか跪き、引き戸の玄関のストッパーを下げた。かちりという音が聞こえたのだろう。流星が磨りガラスに背を預け、大きく息を吐く気配がした。
 いったいどうしたっていうんだ……
 どうしようもない体の熱を感じながら、すばるは磨りガラス越しに流星の背中に触れた。
 それがわかったわけでもないだろうが、流星はぼそぼそと語り始める。

「――俺、この間病院に行ってきたんだ。先生に、すばるのこと無理矢理聞いた。ストレイシープ症候群って、治らないのかって」

 同じバース性に苦しむ者同士としても、担当医と勝手に話をするなんて、褒められた行為ではない。流星もそれは重々わかっているはずだった。声には苦悶が滲んでいる。
 
 どうしてそんなことを、と問う前に、流星はさらに言った。
「運命のつがいなら上書きできるかもって説はあるけど、実例は知らないって」
「そうだよ。そんなのほとんど都市伝説で……」
 夢見るだけ無駄だ。だからすばるは、そんな存在のことを考えたこともない。
 
 どうして流星がそんな話を? 

「花火の日、すばるは俺に訊いただろ。オメガが憎くないのかって」
 突然話が変わる。今日の流星はどこかが変だ。
「……うん。憎くないって、言った」
 あのとき、あらためて流星は強いと思った。その強さが眩しいと。
「かっこいいこと言ったけど、やっぱり親父に対する憎しみはあったよ。なんだよ運命のつがいって、そんなのほんとにいるのかよって。婿養子だったからさ。ほんとは俺たちのこと鬱陶しくなって、嘘ついて適当な相手と逃げたんじゃねえのって思ってた」
「でもそれは間違ってた」と流星は呟いた。


「――俺、今、すばるに発情してる」


「え、あ、……それは、おれが発情しちゃったから、それに誘発されて――ごめん、発情なんかしないはずなのに」
「そうじゃない」と流星が苦笑するのが聞こえた。「治療で疑似フェロモン嗅いでも、なんともなかった」と。


「すばるだからだ。すばるが、俺の運命だから」


 
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