43 / 49
後日談
雨間ーあまあいー
しおりを挟む
初めて独身寮の椿の部屋で一日過ごしたあと、晴臣はひとつ上の階の自分の部屋へと帰っていった。朝食を食べたあとは、なにをするというわけでもなくうとうとしたり、TVを観たりしていただけなのに、一日はあっという間に過ぎ、もう太陽は湖の向こう、遠い山の端に隠れている。
こんなに自堕落な休日を過ごしたのは初めてだ。
食器が出しっぱなしだったり、クッションが定位置から微妙にずれていたり。もうここにはいないのに、晴臣の気配、一緒に過ごした感触がまだ部屋の中に満ちている。それをまだ味わっていたいような、すぐにでも消してしまいたいような落ち着かなさ。
取り敢えず一度窓を開けて。シーツを取り替えて……
なにしろ一日だらだらしていたから、眠くはないのだが、無理にでも片付けて早く寝ないと明日に差し支えるだろう。
いつもなら休日の朝一番にやるルーティンにとりかかろうとし、椿はベッドに向かった。シーツは常に洗ったものがストックしてあるから、替えるだけですむ話なのに、波を描くそれを剥ぎ取ってしまうのがなんだか惜しくなる。
――ちょっとだけ、
言い訳するように胸の内で呟いて、ころんと横たわった。ただでさえ至る所に残る晴臣の気配がいっそう濃く体を包む。
いつもと違うリズムで一日を過ごしたせいか、まだ夢の中にいるような気がした。
この田舎で、男である自分を好いてくれる男が現れて、あんなふうに――愛されて、甘やかされて。
はしたない声を上げても、求めても、食べこぼしても、昼も夜もわからないくらいごろごろして過ごしても、許してくれる相手がいるなんて。
目を閉じる。このまま寝てしまってもいいかとも思ったが、胸のうちは風に撫でられた湖面のようにわずかに漣立っていて、眠れそうになかった。
眠れないのには理由がある。
帰り際、晴臣は『じゃあ、また』と微笑んだ。『今度は俺の部屋にも来てください』と。
――とっさに返事できなかった。
未来の話はまだ少し怖い。
心のどこかで、こんなのは夢だと思っている。許されないと思っている。だから、ひたすらに明るい方だけを目指してはいけない。
長い間、自分を偽って生きてきた。祖父が生きている間は、月森の人間として恥ずかしくないように。東京から逃げ帰ってからは、ゲイだとばれないように。自分はそうやって、こそこそ生きなければいけない人間だ。
知らず知らずのうちに積み重なった自分への呪いは、今たしかにここにあるはずの幸福を曇らせる。どんより、一年の大半がそうである梓の空みたいに。
結局曖昧に微笑むことしか出来ないうちに、晴臣は帰って行ったけれど、あのとき椿の中にあった逡巡に、気がついたのかどうか。愛情を受け取りながら、完全には信じ切れていない自分の弱さ。
……あんなに甘えさせてもらってるのに、まだ、俺はなにかもやもやしてる。
そのとき、ベッドの上に投げ出したままだった携帯が、ぶるぶる震えた。晴臣だ。
なんてタイミングだ。まるで神様が自分の心の弱さを責めているようにも感じながら、椿は応答ボタンをタップする。
『寝てました?』
やさしく、うっすら笑みを孕んだ声が耳朶をくすぐる。
寝てたと言うのがいいのか、眠れないと素直に言うのがいいのか。それさえわからずに口ごもっていると、晴臣は一方的に話し始めた。
『俺の部屋、椿さんの部屋の真上じゃないですか。それで気がついたんですけど』
「うん?」
『ベッドの位置一緒だなって』
たいして広くもない、役所からあてがわれた単身者用宿舎だ。独自のインテリアセンスを発揮する余地はない。あたりまえといえばあたりまえ、なのだが。
『それだけなんですけど、俺、今までも椿さんと一緒に寝てたみたいなもんだなって思ったら、わーってなって』
横たえたままだった体に、妙な緊張が走った。見えはしないのに感じる。たぶん今、晴臣も自分と同じようにベッドに寝ている。数メートルしか離れていない、真上で。
「……日本語でお願いします」
かっと体が火照ったのを知られたくはなく、かろうじてそう告げる。幸い、聞こえてくる晴臣の声には邪気がない。素直に首をひねっているようだ。
『うーん……くすぐったい? あと、ちょっと照れる。それからこう、なんかもやもやっと不思議な感じ……』
そうして一呼吸置いたあと、晴臣は閃いたように告げる。
『あー、これ、やっぱり、〈嬉しい〉かなあ』
電話越しでも、はっきりと、その顔がぱっと明るくなったのがわかるような声だった。仕事をしているとき、LGBT関係で取材を受けるとき、奴はいつも年上の自分よりよっぽど大人の顔をしているのに、こんなときは少年のように無防備なのだ。
ひとつひとつ丁寧に、胸をふさぐ雲を取り除いて、その向こうの晴れ間を見せてくる。
もやもやするのは、怖いから。未来の約束に即答できないのは差し出される光があんまり眩しくて、受け取っていいのか戸惑うから。
手に入れたらまた失うような気がして、だったら、自分の心が喜んでるなんてこと、無視したほうが都合がいいから。
だけど。
「……も」
『ん?』
「俺も、おなじこと、考えてた」
思い切って心のままに吐き出すと、顔を合せているわけでもないのに死ぬほど恥ずかしかった。けれど、伝わってくる笑みの気配が嬉しくて、それはびっくりするくらいあっさりと不安な気持ちを凌駕していく。一度雨が止んだら、何事もなく広がっていく青空みたいに。
電話越し、お互いの寝息を聞きながら、いつしかやさしい眠りに落ちた。
200703〈了〉
こんなに自堕落な休日を過ごしたのは初めてだ。
食器が出しっぱなしだったり、クッションが定位置から微妙にずれていたり。もうここにはいないのに、晴臣の気配、一緒に過ごした感触がまだ部屋の中に満ちている。それをまだ味わっていたいような、すぐにでも消してしまいたいような落ち着かなさ。
取り敢えず一度窓を開けて。シーツを取り替えて……
なにしろ一日だらだらしていたから、眠くはないのだが、無理にでも片付けて早く寝ないと明日に差し支えるだろう。
いつもなら休日の朝一番にやるルーティンにとりかかろうとし、椿はベッドに向かった。シーツは常に洗ったものがストックしてあるから、替えるだけですむ話なのに、波を描くそれを剥ぎ取ってしまうのがなんだか惜しくなる。
――ちょっとだけ、
言い訳するように胸の内で呟いて、ころんと横たわった。ただでさえ至る所に残る晴臣の気配がいっそう濃く体を包む。
いつもと違うリズムで一日を過ごしたせいか、まだ夢の中にいるような気がした。
この田舎で、男である自分を好いてくれる男が現れて、あんなふうに――愛されて、甘やかされて。
はしたない声を上げても、求めても、食べこぼしても、昼も夜もわからないくらいごろごろして過ごしても、許してくれる相手がいるなんて。
目を閉じる。このまま寝てしまってもいいかとも思ったが、胸のうちは風に撫でられた湖面のようにわずかに漣立っていて、眠れそうになかった。
眠れないのには理由がある。
帰り際、晴臣は『じゃあ、また』と微笑んだ。『今度は俺の部屋にも来てください』と。
――とっさに返事できなかった。
未来の話はまだ少し怖い。
心のどこかで、こんなのは夢だと思っている。許されないと思っている。だから、ひたすらに明るい方だけを目指してはいけない。
長い間、自分を偽って生きてきた。祖父が生きている間は、月森の人間として恥ずかしくないように。東京から逃げ帰ってからは、ゲイだとばれないように。自分はそうやって、こそこそ生きなければいけない人間だ。
知らず知らずのうちに積み重なった自分への呪いは、今たしかにここにあるはずの幸福を曇らせる。どんより、一年の大半がそうである梓の空みたいに。
結局曖昧に微笑むことしか出来ないうちに、晴臣は帰って行ったけれど、あのとき椿の中にあった逡巡に、気がついたのかどうか。愛情を受け取りながら、完全には信じ切れていない自分の弱さ。
……あんなに甘えさせてもらってるのに、まだ、俺はなにかもやもやしてる。
そのとき、ベッドの上に投げ出したままだった携帯が、ぶるぶる震えた。晴臣だ。
なんてタイミングだ。まるで神様が自分の心の弱さを責めているようにも感じながら、椿は応答ボタンをタップする。
『寝てました?』
やさしく、うっすら笑みを孕んだ声が耳朶をくすぐる。
寝てたと言うのがいいのか、眠れないと素直に言うのがいいのか。それさえわからずに口ごもっていると、晴臣は一方的に話し始めた。
『俺の部屋、椿さんの部屋の真上じゃないですか。それで気がついたんですけど』
「うん?」
『ベッドの位置一緒だなって』
たいして広くもない、役所からあてがわれた単身者用宿舎だ。独自のインテリアセンスを発揮する余地はない。あたりまえといえばあたりまえ、なのだが。
『それだけなんですけど、俺、今までも椿さんと一緒に寝てたみたいなもんだなって思ったら、わーってなって』
横たえたままだった体に、妙な緊張が走った。見えはしないのに感じる。たぶん今、晴臣も自分と同じようにベッドに寝ている。数メートルしか離れていない、真上で。
「……日本語でお願いします」
かっと体が火照ったのを知られたくはなく、かろうじてそう告げる。幸い、聞こえてくる晴臣の声には邪気がない。素直に首をひねっているようだ。
『うーん……くすぐったい? あと、ちょっと照れる。それからこう、なんかもやもやっと不思議な感じ……』
そうして一呼吸置いたあと、晴臣は閃いたように告げる。
『あー、これ、やっぱり、〈嬉しい〉かなあ』
電話越しでも、はっきりと、その顔がぱっと明るくなったのがわかるような声だった。仕事をしているとき、LGBT関係で取材を受けるとき、奴はいつも年上の自分よりよっぽど大人の顔をしているのに、こんなときは少年のように無防備なのだ。
ひとつひとつ丁寧に、胸をふさぐ雲を取り除いて、その向こうの晴れ間を見せてくる。
もやもやするのは、怖いから。未来の約束に即答できないのは差し出される光があんまり眩しくて、受け取っていいのか戸惑うから。
手に入れたらまた失うような気がして、だったら、自分の心が喜んでるなんてこと、無視したほうが都合がいいから。
だけど。
「……も」
『ん?』
「俺も、おなじこと、考えてた」
思い切って心のままに吐き出すと、顔を合せているわけでもないのに死ぬほど恥ずかしかった。けれど、伝わってくる笑みの気配が嬉しくて、それはびっくりするくらいあっさりと不安な気持ちを凌駕していく。一度雨が止んだら、何事もなく広がっていく青空みたいに。
電話越し、お互いの寝息を聞きながら、いつしかやさしい眠りに落ちた。
200703〈了〉
0
お気に入りに追加
183
あなたにおすすめの小説
桜吹雪と泡沫の君
叶けい
BL
4月から新社会人として働き始めた名木透人は、高校時代から付き合っている年上の高校教師、宮城慶一と同棲して5年目。すっかりお互いが空気の様な存在で、恋人同士としてのときめきはなくなっていた。
慣れない会社勤めでてんてこ舞いになっている透人に、会社の先輩・渡辺裕斗が合コン参加を持ちかける。断り切れず合コンに出席した透人。そこで知り合った、桜色の髪の青年・桃瀬朔也と運命的な恋に落ちる。
だが朔也は、心臓に重い病気を抱えていた。
【完結】くつろぎ君はコーヒーがキライじゃない!
はいじ@11/28 書籍発売!
BL
「失敗する大人が見て~~」というノリで、潰れかけた喫茶店にバイトに来たインテリチャラ男大学生(ゲイ)と、何かあるとすぐに「ぶわっ!」と泣いてしまう喫茶店のマスターの、喫茶店立て直しの半年間の話。
斜に構えたツンデレ大学生(21)が、要領の悪い泣き虫な喫茶店のマスター(27)に、ドップリ落っこちるまで。
≪注意!≫
※【本編】に肉体的接触は、ぼぼありません。
※恋愛関係では一切絡んでこないももの、女の子が一人めちゃくちゃ絡んできます。私は、女の子キャラが……好きです!
【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】
紫紺(紗子)
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。
相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。
超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。
失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。
彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。
※番外編を公開しました(10/21)
生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
※4月18日、完結しました。ありがとうございました。
【完結】遍く、歪んだ花たちに。
古都まとい
BL
職場の部下 和泉周(いずみしゅう)は、はっきり言って根暗でオタクっぽい。目にかかる長い前髪に、覇気のない視線を隠す黒縁眼鏡。仕事ぶりは可もなく不可もなく。そう、凡人の中の凡人である。
和泉の直属の上司である村谷(むらや)はある日、ひょんなことから繁華街のホストクラブへと連れて行かれてしまう。そこで出会ったNo.1ホスト天音(あまね)には、どこか和泉の面影があって――。
「先輩、僕のこと何も知っちゃいないくせに」
No.1ホスト部下×堅物上司の現代BL。
しのぶ想いは夏夜にさざめく
叶けい
BL
看護師の片倉瑠維は、心臓外科医の世良貴之に片想い中。
玉砕覚悟で告白し、見事に振られてから一ヶ月。約束したつもりだった花火大会をすっぽかされ内心へこんでいた瑠維の元に、驚きの噂が聞こえてきた。
世良先生が、アメリカ研修に行ってしまう?
その後、ショックを受ける瑠維にまで異動の辞令が。
『……一回しか言わないから、よく聞けよ』
世良先生の哀しい過去と、瑠維への本当の想い。
【完結】私立秀麗学園高校ホスト科⭐︎
亜沙美多郎
BL
本編完結!番外編も無事完結しました♡
「私立秀麗学園高校ホスト科」とは、通常の必須科目に加え、顔面偏差値やスタイルまでもが受験合格の要因となる。芸能界を目指す(もしくは既に芸能活動をしている)人が多く在籍している男子校。
そんな煌びやかな高校に、中学生まで虐められっ子だった僕が何故か合格!
更にいきなり生徒会に入るわ、両思いになるわ……一体何が起こってるんでしょう……。
これまでとは真逆の生活を送る事に戸惑いながらも、好きな人の為、自分の為に強くなろうと奮闘する毎日。
友達や恋人に守られながらも、無自覚に周りをキュンキュンさせる二階堂椿に周りもどんどん魅力されていき……
椿の恋と友情の1年間を追ったストーリーです。
.₊̣̇.ෆ˟̑*̑˚̑*̑˟̑ෆ.₊̣̇.ෆ˟̑*̑˚̑*̑˟̑ෆ.₊̣̇.ෆ˟̑*̑˚̑*̑˟̑ෆ.₊̣̇.ෆ˟̑*̑˚̑*̑˟̑ෆ.₊̣̇
※R-18バージョンはムーンライトノベルズさんに投稿しています。アルファポリスは全年齢対象となっております。
※お気に入り登録、しおり、ありがとうございます!投稿の励みになります。
楽しんで頂けると幸いです(^^)
今後ともどうぞ宜しくお願いします♪
※誤字脱字、見つけ次第コッソリ直しております。すみません(T ^ T)
キンモクセイは夏の記憶とともに
広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。
小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。
田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。
そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。
純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。
しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。
「俺になんてもったいない!」
素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。
性描写のある話は【※】をつけていきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる