雨さえやさしく

あまみや慈雨

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 さあさあと雨のように降り続けるシャワーに打たれながら、どれほどそうしていただろう。

 ようやくゆっくりと離れていった晴臣の唇から、はあ、と安堵のため息が漏れた。濡れた前髪が額にすっかり落ちかかり、見せる表情は、幼さを感じさせる。

「……俺、ほんとはこっち来てすぐはちょっと後悔っていうか、迷いもあったんですよ。同性同士に強いコンサルがいつか必要だからなんて、それ言い訳にして俺は逃げて来ただけなんじゃないかって」

 幼い表情のまま、ぼそぼそと。躊躇いがちに紡がれる言葉を、意外な思いで聞く。

だって、勝算あって来たって、あんなに自信ありげに語ってたのに。

でも、と思う。

 曇り空がいつも曇り空ではないように、晴れた空もいつも晴れていられるわけじゃない。

「でも、椿さんみたいに地方で苦しんでる人に実際会って、本当に頑張らなきゃって思えた。俺が頑張れてるの、椿さんのおかげなんです」

 椿さんのおかげ――真摯な声でそんなことを囁かれると、うっかり本気にしそうになる。

 いや、本気にしていい、のか?

 何年も動かさないようにしてきた心は頑なで、まだすんなりとやさしい言葉を受け容れられない。

どうしたら、と思っているうちに晴臣はくしゃっと無防備に表情を崩した。

「もー、まさかあそこでいまさら同性はだめってなると思わなかったから、マジで途方に暮れましたよ~。追い返したがってるの見え見えで、みんな聞こえてるのに見て見ぬふりするから、超怖かった」

 それは、本当にそうだったろうな、と思う。この仕事の少ない田舎で、観光協会は大変ながらも比較的安定した職場だ。そこで上司に逆らってまで新参の晴臣の肩を持つ者はいない。

 そしてあのとき、この太陽のような男もどれだけ傷ついていたのだろうとあらためて思いをはせた。

「椿さんにはもう関わるなとか言われるし」

 拗ねた口調で重ねられる。

「あ、あれは、だから」

 おまえが紛らわしい電話してるから。いや待て。これを認めてしまったら、あの時点で俺は本当にやきもちを?

 相変わらず頑なな自身の心と戦っていると、いつの間にか晴臣が真っ直ぐこちらを見つめていた。

「――好きです。椿さん。椿さんは?」

「…………き」

「聞こえない」

「シャ、シャワーがうるさいから、仕方ない」

「ずるいなあ」

 微かに笑う声に、責める響きはない。

「まあいいや。言いたくなるようにするまでですから」

 瞬間、少年のような瞳にぎらりと光が乗った。不穏なものを感じて逃げようとした体を巧みに捉えられ、胸を壁側に押しつけられる。

 シャワーの水滴ごと耳たぶを口に含まれた。

「あ……っ」

「椿さん、耳弱いですよね。可愛い」

「……うる、さい……っ」

 羞恥が素直でない言葉ばかり紡がせる。晴臣は機嫌を損ねた様子もなく「じゃあ、耳ふさいであげよ」と言った。やけに楽しそうな響きだ――と思う間もなく、ぬるりと舌が入り込んで来る。

「や……っ!」

 旅館でのあの日のように、いや、ためらいがなくなった分、より大胆に、濡れた生き物が椿の穴を犯す。欲望を直接脳に注ぎ込まれるような、愛撫。

 二丁目デビューは失敗に終わり、その後佐久間とつるむようになった。佐久間との関りは、ときどき小指を絡めるだけの可愛らしいものだった。

 だから知らない。耳なんかが、こんなに感じるものなんて。

「ん……っ」

 空気を求める魚のようにあおのいてもがく。

「体、あったかくなってきた。良かったですね」

 しゃあしゃあと囁きながら、晴臣は反った背を指先でつうっとなぞる。ぶるりと腰が震えてしまう。視線が足元に至ったのだろう。晴臣が「誰かの忘れ物かな」と口にした。

 早くも快感の涙と湯気で曇った視界の中、目を凝らすと、小さなシャンプーのセットが置き忘れられていた。スポーツセンターのシャワールームはあくまで汗やプールの塩素を流すためのもので、そういったものは禁じているのに、何度言っても持ち込んでしまう人がいて困る、と担当部署の人間がぼやいていたのを思い出した。

 晴臣は「ちょっと借りちゃおう」とリンスを手に取る。

「人様のだぞ……!」

「ちょっとだけですから、ね」

 ね、と同時にリンスで濡れた指が胸に滑ってきて、椿は息を呑んだ。

「――!」

「ああ……耳だけで乳首も立っちゃってる。椿さんほんと可愛い」

「や……めろ……っ!」

 勿論そんな静止など聞き入れられるわけもない。

 晴臣はぬるぬるとした指先で椿の胸の小さな突起を挟んで弾き始めた。

「あ……っ! く、……んっ!」

 学生時代、そこを自分で触ってみたことはあった。強い衝撃が、気持ちいいというよりはなんだか恐ろしくなってすぐにやめ、以来触ったこともない。

 晴臣の手で施される愛撫は、あのときの何倍も強いものだった。快感と称していいのかさえわからない、強い眩暈。甘い香りも手伝って、噎せ返りそうだ。

 涙が次々あふれ出て、雨の日の硝子越しの景色のように視界がにじむ。晴臣はすっかり屹立した乳首を今度は押し潰すように愛撫した。そうしながら、無防備なうなじに口づけを落とす。

「あ……っ!」

 のけぞった拍子、がつ、と眼鏡がタイルの壁に触れた。顔を少しでも隠したい気持ちからかけ始めたそれはすっかり癖になり、こんなときでもかけたままだった。

 熱い口づけを落としていた唇から、笑みを

含んだ吐息が漏れる。

「それ、はずしたら? 当たって危ないでしょ」

「え……」

 この体勢、この行為をやめるという選択肢はないらしい。

「ほんとは見えてるんでしょ? だったら、ほら。なんにもさえぎるものがない目で、俺を見てください」

 背中から抱きしめていた腕がそっと離れていく。椿はゆっくりと体を起こした。平静を保とうと思ってはいるが、今まで意識したこともないのに体の奥に芯のようなものがあって、そこは熱を持っていた。どくどくと、波打って、椿を内側から突き動かす。

 さえぎるものがない目で俺を見て。

 そんなこと、しらふでよく言える。

 でもわかる。わかる、と思ってしまった。月森の人間だからとか、男だからとか、ゲイだからとか――一度負けて逃げ帰ったら二度と夢を見てはいけないのだとか。

 そんな、重くのしかかる曇り空のような思いをすべて取り払って、そこに残るのは。

「――」

 椿は眼鏡をはずすと、足元に落とした。

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