雨さえやさしく

あまみや慈雨

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 ちゃぷ、

 体の下で水が微かに揺らぐ。

 体の下? 雨なら上から降るはずだ。瞬くと「起きました?」と声がする。

「――!」

「ああ、急に起き上がっちゃだめですって。お水飲みます?」

 声のする距離が思いのほか近いことに驚いて飛び起きると、薄玻璃の器に冷たい水を注いで、晴臣が差し出してくる。椿がちゃんと器を持てるまで手を添えると、そっと離れていった。

 口をつけながら部屋の中をうかがう。泊まることになっていた部屋よりも随分こじんまりとしている。椿に気を遣ったからなのだろうか、灯りは和紙で覆われたルームライトのみだ。それでも障子を透かしてどこからか灯りが届き、室内は、薄青い光に満たされていた。

「ここは?」

「池の上の部屋。ちょうど女将さんが通りかかって、空きがあるから動かすよりここ使っていいって。椿さん、倒れたんですよ。まだ飲んでないですよね? 湯あたり?」

 湯あたり。なぜそうなったのかに思い至る。

「……みんなは」

 微妙に核心をずらして訊ねると、晴臣は器を片しながら応じる。

「大丈夫。女将さんに伝言頼みましたから。今頃楽しく飲んでますよ。課長さんなんか俺が着いたときすでにべろべろだったし」

 それは俺が着いたときからだけど――結局龍介がどうしているのかはっきりとしたこともわからない。顔を合わせるのは気まずかったから、ある意味では倒れて良かったのだろう。寝かされたのが元の部屋でなかったのも幸いだった。

「……俺はもう少し休んだらタクシー呼んでもらって帰るから、早坂さんも宴会行ってください」

「帰るなら一緒に行きますよ。心配じゃないですか」

 ごく当たり前のことのように晴臣が言う。こんなとき、一点の曇りもないようなそのまっすぐさが腹立たしくて、感情を押さえつける術を忘れた。

「――誰かと一緒にいたくないんだよ! わかれよ!」

「椿さん、落ち着いて」

「俺はそうしようと思ってる! いつでも! それをごちゃごちゃかき乱すのは、おまえらだろうが!」

「椿さん、急に立ったら――」

 晴臣が言い終わらないうち、くらっと眩暈に襲われて、羽根布団ごときに足を取られる。転ぶ、と思った瞬間、なにか固いものに抱き留められていた。

「……ってえ」

 気がつけば晴臣を下敷きにしてしまっている。悪い、と告げてすぐに飛びのこうとすると、背中に逞しい腕を回された。

「悪いと思うならちょっとだけこのままでいて」

「な……!」

「いいから、じっとして」

 穏やかだが有無を言わさぬ調子。そもそも拘束する腕は、痛くもなく、それでいて少しばかり足掻いたところで逃れられそうにもない絶妙な力加減で、椿から無駄な抵抗を奪う。「はい、いい子いい子」

 ぽん、ぽんと背中をやさしく叩かれる。まるで本当に子供をあやすようなそのリズムが続くうち、気がついた。

 これ、俺を落ち着かせるため……か?

「…………」

 年下のくせに。

 じわっと涙が浮かんできて、椿は晴臣の胸に頭を押し当てた。気がついているだろう。 けれど晴臣はなにも言わず、しばらくの間、ただただ背中を叩き続けた。





 やがて晴臣が、寝転んだまま手探りで竹で編まれたティッシュの箱を引き寄せ、無言で差し出してくる。椿も無言で引き抜いて――ことさら大きな音を立て、鼻をかんでやった。

「ちょ、椿さん……もー」

 ムードとか……とぶつくさ言いながら、晴臣は愉快そうに笑っている。やっと抱きしめてくる腕から解放されて、椿はティッシュで鼻を拭いながら正座した。

「ムードなんて、そう簡単に醸してたまるか」ばっさり斬ってやったのに、晴臣は心底嬉

しそうにほほ笑む。

「良かった。素の椿さんだ。――で、あれ、誰ですか」

 さらりと流したかと思えば、鋭く斬りこまれる。不覚にもどくんと鼓動が波打って、椿は自分でもわざとらしいと思うほど顔を背けてしまった。

「関係ない」

「えっ、胸貸してあげた相手に対してあんまりなのでは」

 今それを言うか。

「これただの俺の勘なんですけど――みんないっぺんに遊べばいいって言ったの、あの人ですか?」

 椿は観念してまぶたを伏せた。

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