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後日談:ポッピンバブル
しおりを挟む休憩時間、百樹は稽古場の外に出た。ずっとこもっているとわからなくなるが、空は暖かく晴れていて、どこからかかすかに海のにおいが運ばれてくる。
2.5次元の稽古場は都内でないことが多い。世界観を表現するための衣装、舞台装置の数々、それから音響も多用する。広さと防音、都心から移動できる距離。すべてを満たすとなれば、千葉あたりの倉庫になるのも妥当な話だ。
奇しくもそれが出待ち対策にもなっていた。都内の稽古場では、こんなふうにふらふら出歩けたりしない。
古い雑居ビルの入り口に、敢えて錆を浮かせた看板が立っているのに気がついた。
ーーカフェだ!
最近はこういうレトロなビルの内装をリノベしたカフェをよく見かける。
もちろん、稽古場の中には演者が不自由しないよう、ケータリングその他諸々が取り揃えられているのだが、こういう発見があるからふらふら歩きはやめられないのだ。
早速狭くて急な階段を上って店内に入ると、コンクリート打ちっぱなしの空間に、カリモクのソファが並んでいた。
高い天井にはシーリングファン。壁にはドライフラワーが下げられ、敢えて古いままにしたのだろう窓の桟には、小さな多肉植物の鉢がいくつも置かれていた。ほどよくこぢんまりした、心地よい空間。
平日の真昼間ということもあり、店内に客は百樹ひとり。良い。とても良い。
クラフト紙に印刷されたメニューに〈クリームソーダ〉の欄を見つけ、わくわくゲージがさらに跳ね上がる。
完全に龍介の影響だ。
しかも何種類もある。早速見慣れない名前のものをオーダーして、うきうきと待っていたとき「いらっしゃいませ」と声がした。
「あ……」
先輩、
戸口に立っていたのは、数ヶ月前まで付き合っていた相手だ。
そうだった。今日はあとから主役級も合流することになっていた。2.5次元は、課される制約も求められるものも多いから、業界に慣れているにこしたことはない。だから演目が変わっても、役者が被ることは珍しくない。
先輩は百樹がいることに気がつくと、一瞬ためらったように見えた。
が、お店の人が「どうぞー。お好きなところにおかけください」と再度促すと、諦めた様子で中に入ってきた。お好きなところと言ってもそう広くはない店内だ。どこに座ってもお互いの姿が目に入る。
気まずい。
ーーが、そこへ注文したクリームソーダが運ばれてくると、そんな空気も一気に霧散してしまった。
「かっわ!」
〈クリームソーダ 菫〉と書いてあった名前に惹かれて頼んでみたそれは、上品なうす紫色をしている。
窓辺からの光に透かすと、淡い淡いグラデーションが美しかった。
黄色みの強いアイスクリームは自家製だろうか。ちょこんと乗ったさくらんぼがいっそう鮮やかに見える。
ブルーハワイ、ストロベリーくらいまでならたまに見かける。けれどうす紫はなかなか遭遇しない。
早く、早く龍介さんに見せなくちゃ!
「わー、わー!」
声に出しながら前から斜めから真上からスマホで写真を撮っていると「おい」と不機嫌そうな声がした。
「あほみたいにSNSに上げんなよ?」
長い足を組んでソファに深く座り、視線はこちらに向けないまま。
たしかに、せっかく都心から離れたところで稽古してるのに、写真から場所を特定されては面倒だ。
「大丈夫です。人に送るだけなんで!」
しゅぽっと送信して、ようやく口をつける。
まずは不思議な色のソーダをひと口吸うと、ふわっと青い香りがした。菫味のソーダなんて初めて飲むはずなのに、なんだか懐かしい香り。薔薇ほど強くはなく、けれどほんのり甘い。〈可憐〉を味わいにしたら、こんなふうになるんだろうかと百樹は思う。
そこにたまごの風味が残る、しゃりしゃりとした食感のアイスが乗っている。一見何の変哲もなく見えて、こだわりが詰まったクリームソーダだ。
わーわーと声を上げたいのは山々なのだが、それでは食べることができない。やむなく心の中で叫びながら味わっていると、また「おい」と声がした。
「はい。ーーあ、先輩も頼みます? 店員さん呼びますか?」
「頼まねえよ」
気を回したつもりだったのに、先輩の声はいっそう棘を増す。
「ーー送ったって、男?」
「はい。クリームソーダ好きなひとがいて」
先輩は不意に「はっ!」と笑った。
「おまえ、昔から男の顔色うかがうの上手かったもんな」
その言葉に、百樹はやっと気がついた。〈男〉。文字通りの意味ではなく〈そういう意味〉なのだと。
先輩と付き合っていた頃は、顔色を伺ってばかりいた。誰かの望む自分を〈提供〉できなければ、愛される価値がないと思っていたから。
でも今はもう、違う。
「……たしかにおれ、好きな人の好きなものって、覚えなくちゃって思ってました。それが付き合う義務っていうか。それがどんだけ好きかの証明、みたいな。それこそゲームのレアアイテムみたいに、たくさん持ってたら勝ちで、持ってないーー知らないのは、好きが足りないみたいな」
先輩の好きなものは、ミネラルウォーターの銘柄から香水まで、なんでも押さえておきたかった。
反対に、俺の好きなものももっと覚えてくれたらいいのになって、思ったこともあったっけ。
百樹はほんの数ヶ月前の自分を思い出し、まぶたを伏せた。光を透かしたグラスが、菫色の影を白木のテーブルに落としている。
「でも今はちょっと違うなって。好きな人の好きなものを知ってるって、一緒にいないときでも繋がっていられる……どこでもドアみたいな感じなんです」
たとえば厳しい稽古の合間にでも、クリームソーダがあれば百樹はそこに龍介の姿を見る。龍介のことを考える。
義務だとか、どっちがより好きな証明かなんて、そんなことは考えない。ただ好きなものの前で嬉しそうな顔をする、龍介の姿を思い描くだけだ。
それだけのことなのに、こっちもなんだかじんわり嬉しい気持ちになる。それが幸せなのだ。
「は?」
先輩が「理解できん」とでも言いたげな声を発っしたとき、テーブルの上のスマホが震えた。ーー龍介だ。
「もしもし? え、なんで? 仕事は?」
『休憩時間。写真送ってくるってことは、そっちもだろ。ーー声が聞きたくなった』
「……おれも」
たった一言で、グラスの底から湧き上がる泡みたいに、ふつふつ嬉しさが込み上げる。
「待って。お店に迷惑だから、一旦外出るね」
店員さんに会釈して、外に出る。
「俺は炭酸は飲まない。……もう覚えてねえのかよ」
という先輩の呟きは、百樹の耳には届かなかった。
〈了〉
20210505
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