憑依型2.5次元俳優のおれが、ビッチの役を降ろしたまま見知らぬイケメンと寝てしまった話

あまみや慈雨

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21.おまえがどんな奴でも

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「じゃあ、俺は残してきた仕事があるから」
 轍人がそう言い出したのを機に、百樹たちは病室をあとにした。

 奇妙な興奮を冷ましたいと体が願うのか、足は誘われるように病院の脇を流れる隅田川の遊歩道へ向かった。
 そこから見上げる病院は、高級マンションかと見まごうほどの豪奢な作りだ。李木の名前で手配しなければ救急で入ることは適わない。
 それを羨ましく思う人もいるだろう。
 でも、遊歩道から見上げる建物は大きすぎる。小さなタイルにしか見えない四角い窓の向こうに、母は一人でいるのだ。駆けつけてきたのは、結局轍人と自分だけ。

『私は透明なのって、いつも言ってた』

 今までちゃんと考えてみたこともなかった。エリート揃いの李木の家で、若くして出産と離婚を経験した母のこと。きっと百樹の知らないつらいことも山ほどあったはずだ。
 
 ……俺と変わらない歳だったんだよな。
 
「良かったのか? もっとちゃんと言いたいこと全部言わなくて」
 静かに訊ねるのは龍介だ。百樹は川縁の手すりに両手を添え、伸びをしながら考えた。
「……なんかさ」
「うん?」
「考えてみたら、空港で〈傷つけられてつらかったって、ちゃんと言え〉って言われたとき、もうだいぶすっきりしてたような気がするんだよね、おれ」
 朝見た湖ほどではないが、宵闇に揺れる川面は心を穏やかにする。
「ああそれ、言っていいんだ、他の人がそう思ってくれるんだって思ったらさ――思うばっかり言ってるね、おれ」
「いや、いい」
 龍介はやけにきっぱりとした口調で応じた。
「わかる」
 まるで、なにかを思い出し噛み締めるような調子でそう口にすると、ひどくやさしい眼差しで微笑みかけてくる。
 不意に恥ずかしさがこみ上げて来た。――会ったばかりの相手に、泣いて、喚いて、結局母親になにも言えなかったところまで見られたのだ。
「えーっと。……こんなことに付き合わせて、ごめん」
 ひとまず詫びると、龍介はかぶりを振った。
「俺がやりたくてやったことだ。――このあとはどうする?」
 このあと。その言葉で現実が戻ってくる。 
 とるものもとらず空港に向かったから、荷物は当然梓のホテルに置いたままだ。
「連絡したらホテルの荷物は送って貰えるだろうから……」
 自分はそれでいいとして、問題は龍介だ。
「今日休みだったんだから、明日は仕事だよね? 急いで空港」
「最終便は八時だ。もう間に合わない」
「マジで? 待って、高速バスならまだ」
 百樹はスマホを取り出して検索する。

 その手をやんわり掴まれた。

「仕事なら、連絡すれば一日くらいどうとでもなる。日頃真面目にやってるからな」
 川風が、龍介の髪を揺らす。

「――今夜、一緒に過ごしたらだめか?」

「えっと」
 百樹は口ごもった。真っ直ぐに見つめてくる龍介の瞳の中を、川を行く水上バスの光が通り過ぎていく。

「……それは、最後にもう一回やりおさめしたいとか、そういう?」

 自分で切り出しておきながら肯定されるのが怖くて、百樹は俯くとまくし立てた。
「あの、もうわかったと思うけど、俺ほんとは全然遊び人とかじゃなくて、こんな、いい年して母親の前で泣いちゃうような奴で……子供の頃愛されなかったのが許せなくて、ずっと恨んでるような執念深い奴で」
 口にすると我ながら情けない。
「俺、役者なんだけど、岡さんに最初に会った日はまだ役が降りてて、酒も入ってて……つまり普通の状態じゃなくて……ほんとは会ったその日にやっちゃうようなキャラじゃない。だから、……もう会えないなら、長引かせたくない」
 五歳のあの日のようにまた傷ついてしまうから。

 そして今度の傷は――きっともっと深くなってしまうから。

「あの、岡さんならこっちの業界でもきっとモテるから、相手には不自由しないと思う。失恋の相手よりいい人がまた見つかる。それは心配しなくていいよ、……です」
 喉の奥からどうにか絞り出すようにして、それだけ告げた。役が降りているときなら、こんな程度の台詞、取りこぼしたことなんて一度もないのに。

 龍介は、あからさまに顔をしかめた。
「待て。何を言ってるんだおまえは」
「? 好きだった人以外も抱けるか試すのにちょうどいい相手だと思ってたんでしょ?」
「そんなことを、俺がいつ!?」
 犬の散歩で通りかかった中年男性が、驚いたような顔で足を止める。それほどの大声だった。怒りというよりは、心底驚いているような。
 やがて、押し殺した呟きが落ちた。
「……だいたい、この歳で初めて自分のセクシャリティに悩んでるんだぞ。試すなんてそんな余裕があるか」
 我にかえった龍介の顔から険しさが消える。代わりに浮かぶのは戸惑いの色だ。
 龍介は深く息を吐き、さらりとした前髪をかき上げる。
「――初めて好きになった相手は、田舎で生きるのがつらそうだった。自分がゲイだってことがバレるのが心底怖いみたいで、家族との関わりも断ってた。だから俺はただ黙ってそばにいることを選んだ。そうやってずっと寄り添ってやりたいと、そう思っていた」

 カフェで見かけたあの青年だろう。たしかに繊細で、傷つきやすそうな印象だった。龍介のような男らしい男が、思わず守ってやりたくなるような。

「でもそんなのは俺の保身に過ぎなかった。寄り添うといえば聞こえはいいが、要するに〈なにもしなかった〉だけだ」

 続いた龍介の言葉は、苦々しさに満ちている。己を責めているように。
 そんな必要ないのに。
 いくら理解が広がったからと言ったって、それまでの暮らしを全部なげうって、同性との恋のために生きるなんて、簡単にはできはしない。
 せめて慰めるべきだろうか。だけどどう言葉にしたらいいかわからない。

 夜風に川面が揺れる気配だけが伝わってくる。橋の上を行く自動車や、対岸のマンションの灯りがモザイク画のように砕ける。

 静けさの中で、掴んだ手を強く引き寄せられた。
 それに引きずられる形で面を上げる。龍介の強い眼差しが、すぐ近くにあった。

「だから決めたんだ。次に誰かを好きになったら、傷ついてもいい、うざがられてもいいから、そいつの抱えている問題にもちゃんと踏み込んでいこうって」

 え、と声を上げたつもりだった。実際は、声にならない掠れた吐息が微かに唇を震わせただけだった。
「おまえの問題に、俺を関わらせてくれてありがとう」
  そう告げて、ふう、と龍介は息を吐く。それを恥るように浮かべる笑みは、どこか弱々しかった。その笑みで、不意にすべてがわかった気がした。

 ――このひとも怖かったんだ。

 誰だって、素顔をさらけ出すのは怖い。
 誰かの素顔に触れるのも怖い。
 怖いのに、踏み込んでくれたんだ。

 遠く聞こえていた街の雑踏。行き交う車や電車の音。背後の川を、漣を立てて水上バスがいく。そんなすべてが消える。ただ長めの髪を風になぶられるまま告げる龍介の声だけが、はっきりと聞こえた。


「おまえがどんな奴でもいい。好きだ」


 ――こんなときどんな仮面を被ったらいいんだろう。

 わからない。
 もうとっくにわからなくなっていた。

 なにかがあふれ出して、街の灯りがにじむ。

「お、俺も、ずぎぃ……!」
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