20 / 37
20.透明な彼女
しおりを挟む一時間半。たったそれだけで百樹の体は東京に着いた。
蝶々の羽ばたきのような朝日に輝く湖面を見ていたのがほんの数時間前。
体と心のちぐはぐ感は相変わらず続いている。龍介はそんな百樹をモノレールに乗せ、駅に着くと今度はタクシーに押し込む。抵抗する間もなかった。
「百樹!」
病院にたどり着くなり、轍人が駆け寄ってくる。かたわらの龍介を見上げ、怪訝そうな顔をしたのは、無理もないことだ。
それに気分を害した様子もなく、龍介はいつも美しい立ち姿のまま、頭を下げた。
「ひとりで行かせるのは心配な状態だったんで、ついてきました。部外者が、突然すみません」
「……いえ、それは……有り難うございます。……えっと、私百樹の叔父で、李木轍人と申します」
戸惑いながらも轍人が名乗る。龍介の表情が、なぜか少し柔らかくなった気がした。
「叔父」
「はい。今は仕事のマネジメントも――おい百樹。向こうでお世話になった方か?」
轍人が戸惑うのも当然だった。知り合いがいない場所を選び、役を落とす。ひとりで過ごすのが目的だから、行った先で知り合いを作ることも今までならなかった。
なんでこの人、こんなとこまで着いてきてるんだろう。お金だって凄くかかるのに。
……ゲイ業界デビューのために俺を選んだだけなのに。
「――会ったその日にやっちゃっただけの人」
「や……っ!?」
龍介がどんな人間なのか、百樹にだってわかりはしない。やけくそでそう告げると、轍人が言葉を詰まらせる。龍介の顔は見られなかった。
「……母さんは?」
「あ、ああ。急遽帝王切開になったが、出血が酷くてまだ処置に時間がかかるそうだ。――座って待とう」
廊下の長椅子に腰を下ろすと、当たり前のように龍介が隣に座った。そして百樹の手を握る。実は飛行機の中でもこの調子だった。「中で話せる」と言ったのは龍介のほうだったのに、じっと黙ったまま手だけ握って、離してはくれなかった。
――逃げないようにって?
むっとして、無言で振り払う。けれど龍介の大きな手は力強く、再び指を深く絡められてしまう。億劫になり、百樹はされるがままにした。
処置室の扉は依然、開く気配もない。轍人の身につけた腕時計の秒針が刻む音だけが、微かに、そして間断なく響いている。
「……姉さんは」
不意に落ちた轍人の呟きが誰のことを指すのか、一瞬わからなかった。
轍人も母のいつまでも少女のような性分には長年困らされていて、普段 なら「あいつ」と呼ぶからだ。
「姉さんは、俺たちの中で唯一の女で」
たしかに、四人いる祖父母の子供の中で、女は母だけだ。それは聞いて知っている。いまさらなんでそんなことを言うんだろう?
「〈私は透明なの〉って、子供の頃からよく言ってた」
「とうめい?」
「李木みたいな家で、一番上と二番目が男で、しかも優秀だと、三番目で女だった姉さんは、たとえテストでいい点を取っても誰にも褒められなかった」
百樹は祖父母に会ったことも数回しかない。子供の頃、それも近しい親族の葬式だとか、そういうどうしても顔を出さないわけにはいかない席でのことだ。その席でも、親しく話しかけられた記憶はない。
その頃の百樹はまだ幼すぎて、幼稚園のクラスメイトから聞く「おじいちゃんち」とはなんだか違うな、としか思わなかった。
母の元を離れてからは、一度も顔を合せてはいない。
「そのうち姉さんはそれさえ口にしなくなった。ほんとなら外部受験もできた成績もどんどん落ちて、女子校からそのままエスカレーターで女子大に行くしかなかった。その大学の頃出入りしてた華道の先生の撮影現場で編集者の目に留まって、姉さんメインの本が世に出たときも、両親も兄も〈無能なおまえの落とし所としては上々だ〉と言ったきりだった。自分たちの仕事に役立つか競合するかでなければ興味がないからな、あの人たちは」
皮肉なもので、それから母の手がける世界は、どんどん美しさを増していったという。
母の最初の本は、その手のものでは珍しく、発売即重版になった。それを機に母は大学を休学。やがて正式に中退して仕事に打ち込むようになり、その縁で知り合った百樹の父親と結婚した。
離婚したのは、まだ百樹を妊娠中のことだったという。
それでも、祖父母の反応は薄かった、と轍人は呟いた。
「姉さん、少しおまえに手がかからなくなった頃、何人かの男ととっかえひっかえ付き合ってたことがあったよな。おまえを置き去りにして家をあけたり。それは知ってたんだ。……でも、姉さんよりさらにみそっかすでまだ学生だった俺には、どうすることもできなかった」
反応が欲しいわけではなかったのだろう。轍人は言うだけ言うと「飲み物でも買ってくる」と立ち上がった。
病室に入るのが許される頃には、すっかり日が暮れていた。
母子共に命に別状はなく、子供は念の為保育器に入れられている。そんな医師の説明を、百樹はひどくうつろに聞いた。
母は相変わらずどこか少女のような面影を残していたが、今はひどくやつれて見えた。眠るまぶたに血の気はない。
その姿に、名付けることのできない感情がこみ上げる。
無事で良かったという気持ち。
素直にそう思いたくない気持ち。
そんな自分を責めるべきなのか許すべきなのか、わからない。
「……ももき?」
か細い声がする。気づけば、ベッドの上で母が透けるほど青白いまぶたを力なく持ち上げていた。
「来て、くれたの」
病室の隅には轍人も龍介もいるのだが、たぶん、まだ意識のおぼろげな彼女の目には入っていないだろう。
「……お休みだったんでしょう? ごめんね」
母も、百樹が彼女に対して複雑な感情を抱いていることには気がついていたのだろう。その瞳が翳る。
その悔いの色を見て取ったとき、百樹の中にはたしかにいびつな喜びがあった。
そうだ。後悔して欲しい。俺を愛さなかったこと。俺のことは愛さなかったのに、また別の命を宿したこと。
「……っ」
言葉は明確な形を持たず、ただ、呻き声のようにこぼれ落ちた。
自分の中の醜さ。
それを許せない気持ち。
けれどその醜さは、この人の仕打ちから生れたんだという気持ち。
すべてが絡み合う。膝から下が消えたように力が入らなくなった。まただ。心と体がそれぞればらばらに苦しんでいる。
今すぐ背向けて、ここから逃げ出したくなる。
ドアに視線を走らせたとき、そこに立つ龍介と目が合った。
とっさに仮面を被れなかった。
ーー今のおれ、たぶん、情けない顔してる。全然遊びやすくなんかない、捨てやすくない顔を。
それでも龍介は視線をそらさない。ただ、ゆっくりとひとつ頷いてみせた。
機内でも、病院の廊下でも、龍介は握った手を離そうとしなかった。
百樹は、母に向き直ると、目を閉じてすうと息を吸う。
「……会ってちゃんと文句言えって、言うなら生きてるうちだぞって言ってくれた人がいて」
母が目をしばたき、それに払われたかのように翳りが消えていく。
弱々しかった表情にかすかな笑みが乗ると、百樹の中でくすぶっていた気持ちも少しずつ氷解していくようだった。
母がゆっくりとまぶたを伏せる。
「どうぞ。ちゃんと、全部聞くわ」
覚悟を決めたように唇を引き結ぶ顔からは、少女の面影が消えていた。
うーん、と百樹はわざとらしく唸る。
「なんかもう、いいかな」
そう口にしたのは、母の体調を気遣ったからではなかった。轍人の話にほだされたからでも。
『大丈夫』と言ってしまったあの日から、ずっと喉元につかえていたものがあった。
笑っていても、演じていても、それはずっとそこにあったのに、もう存在を感じない。体は妙に軽かった。
きっと、会いに来なかったら、まだつかえたままだった。
仮面をはぎとってくれる人がいなければ。
『嫌いなら、嫌いでいい。それをちゃんと伝えに行こう。五歳であんたに傷つけられてずっと苦しかったって、ちゃんと言うんだ』
そう俺の代わりに言ってくれる人が。
0
お気に入りに追加
182
あなたにおすすめの小説
次男は愛される
那野ユーリ
BL
ゴージャス美形の長男×自称平凡な次男
佐奈が小学三年の時に父親の再婚で出来た二人の兄弟。美しすぎる兄弟に挟まれながらも、佐奈は家族に愛され育つ。そんな佐奈が禁断の恋に悩む。
素敵すぎる表紙は〝fum☆様〟から頂きました♡
無断転載は厳禁です。
【タイトル横の※印は性描写が入ります。18歳未満の方の閲覧はご遠慮下さい。】
12月末にこちらの作品は非公開といたします。ご了承くださいませ。
近況ボードをご覧下さい。

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
ひとりのはつじょうき
綿天モグ
BL
16歳の咲夜は初めての発情期を3ヶ月前に迎えたばかり。
学校から大好きな番の伸弥の住む家に帰って来ると、待っていたのは「出張に行く」とのメモ。
2回目の発情期がもうすぐ始まっちゃう!体が火照りだしたのに、一人でどうしろっていうの?!
【完結・ルート分岐あり】オメガ皇后の死に戻り〜二度と思い通りにはなりません〜
ivy
BL
魔術師の家門に生まれながら能力の発現が遅く家族から虐げられて暮らしていたオメガのアリス。
そんな彼を国王陛下であるルドルフが妻にと望み生活は一変する。
幸せになれると思っていたのに生まれた子供共々ルドルフに殺されたアリスは目が覚めると子供の頃に戻っていた。
もう二度と同じ轍は踏まない。
そう決心したアリスの戦いが始まる。

初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。

【完】100枚目の離婚届~僕のことを愛していないはずの夫が、何故か異常に優しい~
人生1919回血迷った人
BL
矢野 那月と須田 慎二の馴れ初めは最悪だった。
残業中の職場で、突然、発情してしまった矢野(オメガ)。そのフェロモンに当てられ、矢野を押し倒す須田(アルファ)。
そうした事故で、二人は番になり、結婚した。
しかし、そんな結婚生活の中、矢野は須田のことが本気で好きになってしまった。
須田は、自分のことが好きじゃない。
それが分かってるからこそ矢野は、苦しくて辛くて……。
須田に近づく人達に殴り掛かりたいし、近づくなと叫び散らかしたい。
そんな欲求を抑え込んで生活していたが、ある日限界を迎えて、手を出してしまった。
ついに、一線を超えてしまった。
帰宅した矢野は、震える手で離婚届を記入していた。
※本編完結
※特殊設定あります
※Twitterやってます☆(@mutsunenovel)
運命の息吹
梅川 ノン
BL
ルシアは、国王とオメガの番の間に生まれるが、オメガのため王子とは認められず、密やかに育つ。
美しく育ったルシアは、父王亡きあと国王になった兄王の番になる。
兄王に溺愛されたルシアは、兄王の庇護のもと穏やかに暮らしていたが、運命のアルファと出会う。
ルシアの運命のアルファとは……。
西洋の中世を想定とした、オメガバースですが、かなりの独自視点、想定が入ります。あくまでも私独自の創作オメガバースと思ってください。楽しんでいただければ幸いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる