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スピンオフ
香りを輔ける者 前編
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最初は父のボディーガードだった。どういう伝かは知らないが、父が個人的に雇った人だった。それが父からアタシのボディーガードへと変わったのは、あるストーカーのせいだった。
何がきっかけでそうなったのかはわからないが、最初は自宅に届けられた手紙だった。そのころのアタシは一人暮らしをしており、当時住んでいたマンションのポストに届けられたそれは、アタシの名前しか書かれていない、差出人名のない手紙。それがアタシ宛ての封書の中に混じっていたのだ。
何だろうと思いつつもダイレクトメールでもないそれを開封することもなく、もし知り合いからだった場合のことを考えて『不明』と書かれたプラスチックのトレーにそれを入れた。
忙しさにかまけてその存在を忘れたころ、また同じような手紙が届いた。それも同じようにトレーに入れてを繰り返す。一月に一度だったのが三週間になり、二週間になり、一週間になり……それを過ぎると、五日が三日に、三日が二日に、最後は毎日になった。
毎日になったころから視線を感じ始め、あとをつけられているような感覚と無言電話がかかりだし、それが日に日に酷くなって行くのだ。余りにも気味が悪く、それを気にして仕事に支障を来し始めたアタシをおかしいと思ったらしい父から問い詰められ、仕方なく全てを話した。
『全く……。もっと早く言えばいいものを……』
『ごめんなさい』
『とにかく、一旦帰ってこい』
契約更新も間近で、どのみち引っ越すつもりで別のマンションに移るつもりだったため、父のその言葉に素直に頷いて実家に帰ることにした。その時に『彼は役に立つから』と言ってボディーガードにつけてくれたのが、元警察官だという彼……前嶋 圭輔だった。
処分品などは同じ系列の業者に頼むからと言ってすぐに電話をかけてくれたあと、仕事を早退するように言った父はすぐに引っ越すように言い、早退させてくれた。
自宅マンション途中にあるレンタカー屋を見つけた彼は『寄ってくれ』と言ったため、そこに寄ってワンボックスを借りた彼を伴って自宅マンションに戻ると、彼は『興味津々』という体を装い、周囲を然り気無く気にしながら時折鋭い視線を投げ掛けていた。
『前嶋さん、こっちよ』
ポストを開けて手紙の束を持つと彼を促し、自宅へと戻る。彼に上がってもらい、一旦ソファーに腰掛けてもらってからコーヒーを出して、手紙の束を確認するとやはり例の手紙が入っていた。
『また……!』
『これですか?』
『そうよ』
『封を開けたことは?』
『一度もないわ』
開けてもいいかと聞かれて頷くと、彼はそれを開けて眉間に皺を寄せた。その手紙を見ようとしたら『見ないほうがいい』と言われてしまった。彼はその手紙を畳んでさっさとしまうと『他の手紙はあるか?』と聞いて来たため、今まで貯めておいたものをトレーごと渡すと、眉を顰められた。
『社長ではありませんが、もっと早く言うべきでしたね』
『ごめんなさい……』
『この手紙を全部預かってもいいですか?』
『構わないわ』
頷くと彼に紙袋を持って来るように言われ、それを渡す。受け取った彼はその中へ手紙を全て入れ、トレーを返してくれた。そのあとは通帳や印鑑などの貴重品を鞄に詰め、パソコン内の必要なデータをUSB数本に移したあとで、それ以外のデータを全部初期化した。アタシの一連の作業を見ていた彼は『パソコンを見せてくれ』と言ったため、その場を退いて彼に明け渡すと『内部のデータも消すから』と言って、何をどうやったのかはわからないが、パソコン本体自体を初期化し、まっさらな状態にしてしまった。
それに唖然としつつも下着や一部の私服、スーツをダンボールやスーツケースにしまう。いらない服などは大きなゴミ袋に入れて纏め、家電品や不要品を取りに来た業者に、不必要なものを全て渡した。
ダンボール数箱とスーツケースを運んで車に乗せ、車に乗り込んだあとで『携帯も新しくしましょう』と言われたので、その足でショップに寄って実家に帰った。その日のうちに弟妹全員と両親、職場の人たち、気心の知れた友人のみにアドレスを変更したことをメールで送った。
父と彼の三人で出勤し、何の憂いもなく過ごした三日後、彼から『ストーカー犯が捕まりましたので、安心できますよ』と言われて驚いた。
『え! もう?!』
『はい。ちょっとした伝がありますので、その人たちに協力していただきました』
『協力、って……』
『俺の元同僚に、です』
元同僚ということは、現職警察官に頼ったということなんだろうとは思ったが、「そう」とだけ言って息を吐いた。
ストーカー犯は隣のマンションの住人ということ、至って普通のサラリーマンという以外は、彼は何も教えてはくれなかった。アタシもそれすらも知りたくはないとは思ったが、敢えて何も言わず、ただ頷いた。
そんなことがあってからはマンションに住むのは止めようと思い、しばらく実家にいたいと両親に相談したところ『構わない』と言ってくれたのでそのまま五年ほど実家にいたが、その間前嶋はアタシから離れることはなく、父やアタシのボディーガードをしてくれていた。
あまり喋らない前嶋だが、それでも多少なりとも話していたり一緒にいるうちに、いつの間にか彼を好きになっていた。何がきっかけかなんて今となってはわからない。
でも。それでも。
時々見せる、彼がアタシを見る目だったり誠実な態度だったり、『護られている』という安心感と、忙しく過ごす日々に彼は自分に癒しを与えてくれた。
ずっと側にいたいと思うほど、彼を好きになった。彼に想いを告げよう。そう思った矢先に、アタシは『政略結婚』という名の結婚を強いられて結婚したものの、それはその日の内に崩れた。すぐにでも離婚したかった。けれどアタシの仕事が忙しくなり、結婚相手と話をする時間すらなかった。
結婚相手と夫婦同伴のパーティーには行っても、それはほとんど義務からで彼と話す時間を取ることもできないまま、そしてアタシのブティックに来ては何か話したそうにしながらも何も言わず、結局喧嘩を繰り返し、三年が過ぎた。
その間、前嶋はずっと影に日向に支えてくれた。それが嬉しかった。ずっと片思いだと……このまま彼への想いを秘めたまま父の跡を継ぎ、離婚できないまま生きて行くのだと思っていたのだ。
――泪の恋人となった彼女が、その決定打を作ってくれるまでは。
表向きは喧嘩しつつも仲のいい夫婦を演じた、この三年。既にアタシの中ではあの時の怒りは収まっている。最後はお互いに穏やかに話し合い、離婚届に判を押した。家族には、泪の彼女が事故に遭った原因である兄だから、という離婚理由を添えて。父には、その理由プラス元夫と妹の理由と、自分の気持ちを正直に伝えた。
『瑠瀬たちのことは何となく知ってはいたが、瑠香……お前はそれでいいのか?』
『いいわよ? もともとそのつもりだったもの。アタシは一人で生きて行けるしね』
『前嶋には?』
『言ってないわ。言おうと思ったけど、いろいろあって言えなかったの。言ったところで、前嶋さんには迷惑でしかないだろうし……』
『瑠香……』
『たがら、彼には……ううん、彼だけじゃなく、誰にも言わないで、お父さん』
『……わかった』
ふっと息を吐いた父は困ったような顔をしていたが、もう決めたことだった。これでアタシの気持ちに蓋をし、封印するつもりでいた。そのつもりでいたのに、なぜかそれができなくなってしまった。
***
「瑠香さん、話があるんだが」
「話?」
年末商戦の忙しい最中。家に着く直前、突然前嶋にそんなことを言われた。
「今ここでする?」
「いや、できれば別の場所……俺のマンションで。渡したいものもあるし……ダメか?」
「別にいいけど、先に食事したいわ」
「簡単なものでよければ、俺が作る」
前嶋が自分で作ると言ったことに驚いたが、それ以上に珍しくも強引な彼に驚きつつも、まだ彼と一緒にいられることが嬉しくて「いいわ」と返事を返すと、前嶋はアタシの家を素通りし、穂積家からさらに車で十分ほど先にある前嶋のマンションへと車を走らせた。
前嶋に促されて入ったダイニングのテーブルに案内され、勧められるままソファーに座る。
「材料がほとんどないな……。買ってくれば良かった。仕方ない。瑠香さん、オムライスくらいしかできないんだが、構わないか?」
「オムライスなんて久しぶり! 食べたいわ!」
「了解」
普段とは違う、柔らかに微笑んだ前嶋にドキドキしつつも、初めて見る前嶋の住まいに興味津々で室内をキョロキョロと見回す。
扉が三つ、薄型テレビ、ソファーの前にはガラス張のローテーブル。大型の本棚には犯罪心理学や推理小説、なぜか手作りのアクセサリー関連の本まであった。
(……何でアクセ関連の本?)
元警察官なら犯罪心理学の本は何となくわかるんだけど……と内心首を傾げつつも、携帯がメールを受信したことを告げたためバッグから携帯を取り出してメールを確認する。個人的にやっているブティックの店長からで、内容は本日の売上と、連絡事項などのメールだった。それに返事を返し、携帯をバッグに閉まったところで前嶋がオムライスを持って来た。
「美味しそう! いただきます!」
「召し上がれ」
一緒に出されたわかめスープを一口飲んで驚く。
「美味しい!」
「それはよかった」
前嶋の視線を時折感じつつ、一緒に黙々とオムライスを食べ、食後に出て来たコーヒーを飲んで一息ついたところで、前嶋が十センチ四方の箱を持って来た。
「これを渡したかったんだ」
「なに? 開けていい?」
「どうぞ」
そっと蓋を開けると、中からブレスレットが出て来た。
「ブレスレット……?」
「ああ。GPS機能付きの」
「は?!」
見た目はごく普通のブレスレット。これのどこにGPSが仕込んであるのか全くわからなかったが、なぜアクセ関連の本があったのか、何となくわかってしまった。
「でも、どうしてGPS付きなの?」
「瑠香さんは、『穂積エンタープライズ』の次期社長だ。万が一、拉致、或いは誘拐されないとは限らない。そのための御守りと考えてくれていい。できれば、外出時は常に身に付けていてくれ。あともう一つあるが、それはまた別の日に話すとして……」
そこで一旦前嶋は話を切る。が、前嶋はなぜか、それ以上話さない。それを訝しみ、「前嶋さん?」と問いかけると、前嶋はフッと息を吐いて席を立つとアタシの横に座った。それにドキドキしながら前嶋の動向を見ていると、前嶋はアタシの手を掴んでからポケットから何かを取り出し、それを掌に乗せた。
「え……?」
「瑠香さん……いや、瑠香。君が好きだ」
「ま、えじま、さん……?」
「瑠香と一緒にいるうちに、いつの間にか好きになってた。君が結婚した時は苦しかったが……」
「あ……」
前嶋の言葉に、嬉しさが込み上げる。ずっと報われないのだと思っていた。自分の気持ちに蓋をしなければならないと思っていた。
「離婚した今なら言える。もう一度言う。瑠香、君が好きだ。半年後、君が結婚できるようになったら……俺と結婚してくれ」
「前嶋さん……。嬉しい。すごく嬉しい。でも、アタシは穂積の後継者なの。後継者になってしまったの。だからもう、穂積の名前を二度と捨てられない……!」
「わかってる。だから、俺が婿養子に入る」
「でも……!」
「俺は長男だが、警察官になると決めた時、全てのことを弟に任せて家を出た。もちろん、両親も弟妹も了承済だ」
「前嶋さん……」
前嶋は、アタシの掌に乗っていた紺色のビロードの箱を持ち上げると蓋を開け、それを見せるようにもう一度手のひらに乗せた。
「これからは、仕事の面でも瑠香を支えたい。支えるためにたくさん勉強する。これを着けてもらうのは社長たちにお許しをもらってからになると思うが……瑠香、結婚してくれ。いや、結婚を前提に、俺と付き合ってくれ」
真剣な眼差しの前嶋をまじまじと見る。護衛をしている時はいつもその精悍な顔には他者を見透かすような鋭い眼差しを向け、無表情にも取れそうなほど、あまり表情を動かさない。
でも、今目の前の前嶋は、普段話す時のように穏やかな表情を浮かべながらも、どこか困ったような、それでいてその目が。
――その目が、アタシを好きだと訴えていた。
「……好きになっちゃいけない人だと思ってたの」
「瑠香?」
「好きになってもいいの? 好きでいていいの? 本当にアタシで、いい……ん……っ」
頭を押さえ付けられ、その唇を塞がれた。
「あ……」
「もう一度言ってくれ」
「……前嶋さんが、好き」
「もう一度」
「アタシも、いつから好きになってたのかわからない。結婚する前に前嶋さんに言おうと思ってた。でも、言えなかった。確かに、離婚した今なら言えるわ。アタシも、前嶋さんが、好き」
「結婚、してくれるか?」
そう聞かれ、ビロードの箱の蓋を閉じてギュッと握ると、前嶋の逞しいその首に抱きつく。
「父さんに反対されたら、泪に後継者を押し付けてでも、貴方と結婚するわ」
「……さっきと言ってることが違うが?」
「それくらい前嶋さんが好きで、どうしても貴方と結婚したいって意味に取ってちょうだい!」
そう言った途端、前嶋はギュッと抱き締めたあとでキスをしてくれた。最初は唇を合わせるだけの軽いものだったのだが、徐々に深いキスに変わって行く。何度も角度を変えられ、上顎を舐められ、舌を絡められる。最後は名残惜しそうに下唇を唇で挟まれ、愛撫するように離された。
「ま、えじま、さん……?」
「瑠香をこのまま抱きたいが、これ以上は社長に挨拶してからだ」
「あ……」
「そんな顔をするな、自制がきかなくなる。今日は送って行くから」
その時は覚悟しておけよ、と言った前嶋に、内心あたふたしながらも頷いた。
何がきっかけでそうなったのかはわからないが、最初は自宅に届けられた手紙だった。そのころのアタシは一人暮らしをしており、当時住んでいたマンションのポストに届けられたそれは、アタシの名前しか書かれていない、差出人名のない手紙。それがアタシ宛ての封書の中に混じっていたのだ。
何だろうと思いつつもダイレクトメールでもないそれを開封することもなく、もし知り合いからだった場合のことを考えて『不明』と書かれたプラスチックのトレーにそれを入れた。
忙しさにかまけてその存在を忘れたころ、また同じような手紙が届いた。それも同じようにトレーに入れてを繰り返す。一月に一度だったのが三週間になり、二週間になり、一週間になり……それを過ぎると、五日が三日に、三日が二日に、最後は毎日になった。
毎日になったころから視線を感じ始め、あとをつけられているような感覚と無言電話がかかりだし、それが日に日に酷くなって行くのだ。余りにも気味が悪く、それを気にして仕事に支障を来し始めたアタシをおかしいと思ったらしい父から問い詰められ、仕方なく全てを話した。
『全く……。もっと早く言えばいいものを……』
『ごめんなさい』
『とにかく、一旦帰ってこい』
契約更新も間近で、どのみち引っ越すつもりで別のマンションに移るつもりだったため、父のその言葉に素直に頷いて実家に帰ることにした。その時に『彼は役に立つから』と言ってボディーガードにつけてくれたのが、元警察官だという彼……前嶋 圭輔だった。
処分品などは同じ系列の業者に頼むからと言ってすぐに電話をかけてくれたあと、仕事を早退するように言った父はすぐに引っ越すように言い、早退させてくれた。
自宅マンション途中にあるレンタカー屋を見つけた彼は『寄ってくれ』と言ったため、そこに寄ってワンボックスを借りた彼を伴って自宅マンションに戻ると、彼は『興味津々』という体を装い、周囲を然り気無く気にしながら時折鋭い視線を投げ掛けていた。
『前嶋さん、こっちよ』
ポストを開けて手紙の束を持つと彼を促し、自宅へと戻る。彼に上がってもらい、一旦ソファーに腰掛けてもらってからコーヒーを出して、手紙の束を確認するとやはり例の手紙が入っていた。
『また……!』
『これですか?』
『そうよ』
『封を開けたことは?』
『一度もないわ』
開けてもいいかと聞かれて頷くと、彼はそれを開けて眉間に皺を寄せた。その手紙を見ようとしたら『見ないほうがいい』と言われてしまった。彼はその手紙を畳んでさっさとしまうと『他の手紙はあるか?』と聞いて来たため、今まで貯めておいたものをトレーごと渡すと、眉を顰められた。
『社長ではありませんが、もっと早く言うべきでしたね』
『ごめんなさい……』
『この手紙を全部預かってもいいですか?』
『構わないわ』
頷くと彼に紙袋を持って来るように言われ、それを渡す。受け取った彼はその中へ手紙を全て入れ、トレーを返してくれた。そのあとは通帳や印鑑などの貴重品を鞄に詰め、パソコン内の必要なデータをUSB数本に移したあとで、それ以外のデータを全部初期化した。アタシの一連の作業を見ていた彼は『パソコンを見せてくれ』と言ったため、その場を退いて彼に明け渡すと『内部のデータも消すから』と言って、何をどうやったのかはわからないが、パソコン本体自体を初期化し、まっさらな状態にしてしまった。
それに唖然としつつも下着や一部の私服、スーツをダンボールやスーツケースにしまう。いらない服などは大きなゴミ袋に入れて纏め、家電品や不要品を取りに来た業者に、不必要なものを全て渡した。
ダンボール数箱とスーツケースを運んで車に乗せ、車に乗り込んだあとで『携帯も新しくしましょう』と言われたので、その足でショップに寄って実家に帰った。その日のうちに弟妹全員と両親、職場の人たち、気心の知れた友人のみにアドレスを変更したことをメールで送った。
父と彼の三人で出勤し、何の憂いもなく過ごした三日後、彼から『ストーカー犯が捕まりましたので、安心できますよ』と言われて驚いた。
『え! もう?!』
『はい。ちょっとした伝がありますので、その人たちに協力していただきました』
『協力、って……』
『俺の元同僚に、です』
元同僚ということは、現職警察官に頼ったということなんだろうとは思ったが、「そう」とだけ言って息を吐いた。
ストーカー犯は隣のマンションの住人ということ、至って普通のサラリーマンという以外は、彼は何も教えてはくれなかった。アタシもそれすらも知りたくはないとは思ったが、敢えて何も言わず、ただ頷いた。
そんなことがあってからはマンションに住むのは止めようと思い、しばらく実家にいたいと両親に相談したところ『構わない』と言ってくれたのでそのまま五年ほど実家にいたが、その間前嶋はアタシから離れることはなく、父やアタシのボディーガードをしてくれていた。
あまり喋らない前嶋だが、それでも多少なりとも話していたり一緒にいるうちに、いつの間にか彼を好きになっていた。何がきっかけかなんて今となってはわからない。
でも。それでも。
時々見せる、彼がアタシを見る目だったり誠実な態度だったり、『護られている』という安心感と、忙しく過ごす日々に彼は自分に癒しを与えてくれた。
ずっと側にいたいと思うほど、彼を好きになった。彼に想いを告げよう。そう思った矢先に、アタシは『政略結婚』という名の結婚を強いられて結婚したものの、それはその日の内に崩れた。すぐにでも離婚したかった。けれどアタシの仕事が忙しくなり、結婚相手と話をする時間すらなかった。
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その間、前嶋はずっと影に日向に支えてくれた。それが嬉しかった。ずっと片思いだと……このまま彼への想いを秘めたまま父の跡を継ぎ、離婚できないまま生きて行くのだと思っていたのだ。
――泪の恋人となった彼女が、その決定打を作ってくれるまでは。
表向きは喧嘩しつつも仲のいい夫婦を演じた、この三年。既にアタシの中ではあの時の怒りは収まっている。最後はお互いに穏やかに話し合い、離婚届に判を押した。家族には、泪の彼女が事故に遭った原因である兄だから、という離婚理由を添えて。父には、その理由プラス元夫と妹の理由と、自分の気持ちを正直に伝えた。
『瑠瀬たちのことは何となく知ってはいたが、瑠香……お前はそれでいいのか?』
『いいわよ? もともとそのつもりだったもの。アタシは一人で生きて行けるしね』
『前嶋には?』
『言ってないわ。言おうと思ったけど、いろいろあって言えなかったの。言ったところで、前嶋さんには迷惑でしかないだろうし……』
『瑠香……』
『たがら、彼には……ううん、彼だけじゃなく、誰にも言わないで、お父さん』
『……わかった』
ふっと息を吐いた父は困ったような顔をしていたが、もう決めたことだった。これでアタシの気持ちに蓋をし、封印するつもりでいた。そのつもりでいたのに、なぜかそれができなくなってしまった。
***
「瑠香さん、話があるんだが」
「話?」
年末商戦の忙しい最中。家に着く直前、突然前嶋にそんなことを言われた。
「今ここでする?」
「いや、できれば別の場所……俺のマンションで。渡したいものもあるし……ダメか?」
「別にいいけど、先に食事したいわ」
「簡単なものでよければ、俺が作る」
前嶋が自分で作ると言ったことに驚いたが、それ以上に珍しくも強引な彼に驚きつつも、まだ彼と一緒にいられることが嬉しくて「いいわ」と返事を返すと、前嶋はアタシの家を素通りし、穂積家からさらに車で十分ほど先にある前嶋のマンションへと車を走らせた。
前嶋に促されて入ったダイニングのテーブルに案内され、勧められるままソファーに座る。
「材料がほとんどないな……。買ってくれば良かった。仕方ない。瑠香さん、オムライスくらいしかできないんだが、構わないか?」
「オムライスなんて久しぶり! 食べたいわ!」
「了解」
普段とは違う、柔らかに微笑んだ前嶋にドキドキしつつも、初めて見る前嶋の住まいに興味津々で室内をキョロキョロと見回す。
扉が三つ、薄型テレビ、ソファーの前にはガラス張のローテーブル。大型の本棚には犯罪心理学や推理小説、なぜか手作りのアクセサリー関連の本まであった。
(……何でアクセ関連の本?)
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「美味しそう! いただきます!」
「召し上がれ」
一緒に出されたわかめスープを一口飲んで驚く。
「美味しい!」
「それはよかった」
前嶋の視線を時折感じつつ、一緒に黙々とオムライスを食べ、食後に出て来たコーヒーを飲んで一息ついたところで、前嶋が十センチ四方の箱を持って来た。
「これを渡したかったんだ」
「なに? 開けていい?」
「どうぞ」
そっと蓋を開けると、中からブレスレットが出て来た。
「ブレスレット……?」
「ああ。GPS機能付きの」
「は?!」
見た目はごく普通のブレスレット。これのどこにGPSが仕込んであるのか全くわからなかったが、なぜアクセ関連の本があったのか、何となくわかってしまった。
「でも、どうしてGPS付きなの?」
「瑠香さんは、『穂積エンタープライズ』の次期社長だ。万が一、拉致、或いは誘拐されないとは限らない。そのための御守りと考えてくれていい。できれば、外出時は常に身に付けていてくれ。あともう一つあるが、それはまた別の日に話すとして……」
そこで一旦前嶋は話を切る。が、前嶋はなぜか、それ以上話さない。それを訝しみ、「前嶋さん?」と問いかけると、前嶋はフッと息を吐いて席を立つとアタシの横に座った。それにドキドキしながら前嶋の動向を見ていると、前嶋はアタシの手を掴んでからポケットから何かを取り出し、それを掌に乗せた。
「え……?」
「瑠香さん……いや、瑠香。君が好きだ」
「ま、えじま、さん……?」
「瑠香と一緒にいるうちに、いつの間にか好きになってた。君が結婚した時は苦しかったが……」
「あ……」
前嶋の言葉に、嬉しさが込み上げる。ずっと報われないのだと思っていた。自分の気持ちに蓋をしなければならないと思っていた。
「離婚した今なら言える。もう一度言う。瑠香、君が好きだ。半年後、君が結婚できるようになったら……俺と結婚してくれ」
「前嶋さん……。嬉しい。すごく嬉しい。でも、アタシは穂積の後継者なの。後継者になってしまったの。だからもう、穂積の名前を二度と捨てられない……!」
「わかってる。だから、俺が婿養子に入る」
「でも……!」
「俺は長男だが、警察官になると決めた時、全てのことを弟に任せて家を出た。もちろん、両親も弟妹も了承済だ」
「前嶋さん……」
前嶋は、アタシの掌に乗っていた紺色のビロードの箱を持ち上げると蓋を開け、それを見せるようにもう一度手のひらに乗せた。
「これからは、仕事の面でも瑠香を支えたい。支えるためにたくさん勉強する。これを着けてもらうのは社長たちにお許しをもらってからになると思うが……瑠香、結婚してくれ。いや、結婚を前提に、俺と付き合ってくれ」
真剣な眼差しの前嶋をまじまじと見る。護衛をしている時はいつもその精悍な顔には他者を見透かすような鋭い眼差しを向け、無表情にも取れそうなほど、あまり表情を動かさない。
でも、今目の前の前嶋は、普段話す時のように穏やかな表情を浮かべながらも、どこか困ったような、それでいてその目が。
――その目が、アタシを好きだと訴えていた。
「……好きになっちゃいけない人だと思ってたの」
「瑠香?」
「好きになってもいいの? 好きでいていいの? 本当にアタシで、いい……ん……っ」
頭を押さえ付けられ、その唇を塞がれた。
「あ……」
「もう一度言ってくれ」
「……前嶋さんが、好き」
「もう一度」
「アタシも、いつから好きになってたのかわからない。結婚する前に前嶋さんに言おうと思ってた。でも、言えなかった。確かに、離婚した今なら言えるわ。アタシも、前嶋さんが、好き」
「結婚、してくれるか?」
そう聞かれ、ビロードの箱の蓋を閉じてギュッと握ると、前嶋の逞しいその首に抱きつく。
「父さんに反対されたら、泪に後継者を押し付けてでも、貴方と結婚するわ」
「……さっきと言ってることが違うが?」
「それくらい前嶋さんが好きで、どうしても貴方と結婚したいって意味に取ってちょうだい!」
そう言った途端、前嶋はギュッと抱き締めたあとでキスをしてくれた。最初は唇を合わせるだけの軽いものだったのだが、徐々に深いキスに変わって行く。何度も角度を変えられ、上顎を舐められ、舌を絡められる。最後は名残惜しそうに下唇を唇で挟まれ、愛撫するように離された。
「ま、えじま、さん……?」
「瑠香をこのまま抱きたいが、これ以上は社長に挨拶してからだ」
「あ……」
「そんな顔をするな、自制がきかなくなる。今日は送って行くから」
その時は覚悟しておけよ、と言った前嶋に、内心あたふたしながらも頷いた。
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どうしたらいいかわからない…。
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