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圭視点
Petit Prelude ★
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夢中で掃除しているうちに、夕方になってしまった。残っているのは資料室のファイリングと、泪が使っている部屋の資料棚のファイリングだけだ。もちろん眼鏡をして掃除をした。そうでないと見えないし。
いつ電話したのか、途中で床を綺麗にする業者が来て綺麗にしていったのが三時過ぎだったと思う。おやつの時間過ぎちゃったなあ……。
そう思った途端、お腹が鳴った。
(うーん……なんか怠いなあ……無理し過ぎたかな……。そう言えば、夢中で掃除してたからお昼を食べそこねちゃった……)
面接はしないのかなとか何時に帰れるのかなと思っていると量販店から家電製品が届き、不必要な物を引き取って帰って行った。入れ替わりで穂積本社からパソコンが届き、穂積のシステム部から来たという人が事務所と泪の部屋のパソコンをあっという間に交換し、設置して帰って行った。
「ごめん、お昼食べそこなっちゃったわよね? お腹が空いたでしょ? 食べに行きましょ?」
「え? ですが……」
「頑張ったご褒美よ。何か食べたいのはある?」
帰って良いですか? と言うつもりだったのにお腹の誘惑には抗えず、「ブイヤベースかパエリアが食べたい」と伝える。
「この近くに、友人がやってるレストランがあるの。食べたいのがなければそこに行こうと思ってたから……ちょうどよかったわ」
「スペイン料理のお店ですか?」
「違うわよ」
「え?」
「んー……どう言えばいいかしら。多国籍料理? みたいな感じかしら。料理名を言えばたいていのものが出てくるわよ? それじゃあ行きましょうか」
ニコリと微笑まれ、掌を差し出される。意味がわからなくてきょとんと小首を傾げると「もう、鈍い子ね」と苦笑され、「お手」と言われて条件反射で手を乗せる。
「はい、捕獲完了♪」
「ほか……っ!」
「次からは手を出したら手を乗せるように!」
「命令ですか?」
私の質問にちょうど手を引っ張って歩き始めた彼の動きがピタリと止まり、私を振り返った。
「アンタ、それ本気で言ってる?」
「え?」
意味がわからなくて泪の顔を見ると、困り顔になっていた。ちょうどエレベーターが来たので乗り込み、一階へ行く。
「つかぬことを聞くけど……」
考え事をしていたのかそれまで黙っていた泪が、エレベーターを出た途端そう切り出した。
「何でしょうか?」
「男と付き合ったことくらい、あるわよね?」
「えっと……ないです」
「……はぁ?! 冗談よね?! デートは?!」
「ない……で、す……」
「マジ?! いまどき?!」
私の答えに意外、と謂わんばかりに驚かれる。
「まあ……いろいろありましたし」
「どんなこと? ……って聞いてもいいかしら?」
「楽しい話ではないですし、聞いても不愉快になるだけですよ?」
「構わないわ。さあ、ここよ」
歩きながら話しているうちに着いたらしく、泪がドアを開けるとカウベルがカランと鳴った。「いらっしゃいませ」という声と共に、男性がこちらに来た。
「あれ、この時間に来るなんて珍しいな、泪」
「こんばんは、直哉。奥は空いてる?」
「空いてるが……ふうん?」
私のほうを見たので、「こんばんは」とお辞儀をする。
「……何よ?」
「……いんや?」
「あっそ。あ、アタシはパエリアが食べたいわ。小さくていいから、バレンシア風の」
「お前な……」
「お圭ちゃんは? 同じの食べる?」
お腹は空いてるのだけれど、どういうわけか食欲がなくなってしまった。一瞬迷って、結局ブイヤベースにすると告げる。
「……おい。……まぁいいか、材料はあるし。あ、泪、シェリー酒が手に入ったんだが……飲むか?」
「マジ? 飲むわ! お圭ちゃんは?」
「ワイン系をストレートに飲むのはあまり得意ではなくて……」
「そうか、わかった。泪、左奥の個室な」
「サンキュ、直哉。お圭ちゃん、こっちよ」
泪のあとをついていきながら店内を見回す。店内は木目調の手作りの民家風で、照明は少し暗め、各テーブルには本物のキャンドルの炎が揺れている。
泪は個室に連れて行ってくれたあと、「トイレに行ってくる」と言って出ていった。
そのあとすぐに直哉と呼ばれた人が水とお絞り、食器を持って来た。
「一つ聞きたいんだが」
「何でしょうか?」
「泪のおネエ言葉、どう思う?」
「どう、とは?」
直哉の質問の意味を図りかねて首を傾げる。
「気持ち悪くねえ?」
「別にそうは思いませんが」
「ホントに? 男としてどうよ、それ、とかも感じない?」
「違和感、ということですよね? 別に感じませんが……。むしろ、せ……る、いさんの審美眼のほうが危ないのではないかと……」
「審美眼?」
私の言葉に、今度は直哉が首を傾げた。
「すっごく散らかってる部屋に対して、『綺麗でしょ?』って言ったんですよ!?」
「ああ……うん、それは確かにダメだな」
うんうん、と頷く直哉。
「でも、アイツの見る目は確かだから」
「……は?」
「いや、なんでもない。ごゆっくり」
ひとりで納得したのか、直哉はそう言って出ていった。しばらくしてから泪も帰って来たのと同時に、シェリー酒とカクテルが運ばれて来る。
「はい、お待たせ。泪にはシェリー。お嬢さんにはシェリー酒のカクテルで『Petit Prelude』。これなら大丈夫だろ? ごゆっくり」
そう聞かれて「はい」と返事をする。
直哉が出ていったあと、お疲れ様とグラス同士を軽くチンと鳴らす。
「さて、話してもらおうかしら」
「朝の、羽多野君の話にも繋がるのですが……」
そう前置きしてから葎にした話の一部と周たちにした話を、食事をしながらそのまま話した。その内容に泪の眉間にはだんだん皺が寄って行くけれど、見なかったことにする。
「じゃあ、その足の傷は……」
「その時の事故で。……全身にあります。目もその時に」
「そう、目も……。でも、それだと、羽多野君と赤の他人にはならないんじゃないの?」
そう言われて、目を瞑る。
「そうですね。でも、入院中に先生に聞いた話なんですが……」
血が流れ過ぎて、ショック症状で死にかけていたこと。
輸血用のパックを用意したけれどあと少し足りなくて、急遽病院で献血を募ったらたまたまお見舞いに来ていた在沢夫妻が同じ血液型だと名乗り出てくれたこと。
「血液も、戸籍上も、たとえ僅かに血が残っていようとも、私にとって羽多野家の人間は他人なんです」
ただ一人、血液型が違うというだけで家族にすらなれなかった羽多野家と、同じ血液型を分けたというだけで家族になった在沢家。家族のありかた、どう接すればいいかなど、在沢夫妻とその子供たちにたくさんの気持ちと感情を教わったのだ。だからとても感謝している。
「申し訳ありません。暗い話をするのに相応しい場所ではなかったですね」
「そんなことないわ。お圭ちゃんのキズの理由がわかったもの。……さて、明日もあることだし、今日は疲れたでしょ? ぼちぼち帰りましょうか」
席を立ち、レジのところまで行く。割り勘でと言ったのに、「ご褒美って言ったでしょ?」と泪は一円も払わせてくれなかった。
「送ってあげたいけど、飲んじゃったから駅までね」
そう言われ、通勤時間や最寄り駅を調べたかったのでちょうどよかったと思い、その言葉に甘えることにした。
出勤時間の確認と会社の電話番号、念のためにスマホのアドレスや番号を交換してから駅までの道をゆっくり歩き始めたのだけれど、何かを思い出したのか「さっきの続きだけど」と泪はまたもや手を握って来た。
「なんでデートしたことないの?」
「……こんな容姿ですし」
「十分可愛いじゃない」
「……太ってますし」
「朝も言ったけど、どこが? ちょっと……いえ、かなり胸は大き……ゴホン、アタシ好みだけど」
アタシ好みってなんですか、それは。
「傷だらけ……」
「関係ないでしょ? つまり、今まで誰もアンタの魅力に気付かなかったってことね。……ってことは、手を繋いだのも今日が初めて……?」
「ううう……」
泪の質問にこくんと頷く。うう……居たたまれない。
「あらあら……純粋培養がいたわ……。いまどきの高校生でもいないわよ? でも……」
私には聞こえなかったけれど、小さな声で何かを呟いたかと思うと急に繋いでいた手が上がり、手の甲に軟らかいものが当たって驚く。
「アタシが徐々に教えてあげる。だから、圭。……いつか、アンタの全てを――、アタシにちょうだい」
そう言うと、チュッと音を立てて額に軟らかいものが落ちた。
いつもの高めのトーンの「お圭ちゃん」ではなく、低く艶のある声で「圭」と呼ばれて、ドキンと鼓動が跳ねる。
そのことに気を取られ、手の甲と額にキスをされたのだと気付いたのは、自宅に帰り着いてからだった。
いつ電話したのか、途中で床を綺麗にする業者が来て綺麗にしていったのが三時過ぎだったと思う。おやつの時間過ぎちゃったなあ……。
そう思った途端、お腹が鳴った。
(うーん……なんか怠いなあ……無理し過ぎたかな……。そう言えば、夢中で掃除してたからお昼を食べそこねちゃった……)
面接はしないのかなとか何時に帰れるのかなと思っていると量販店から家電製品が届き、不必要な物を引き取って帰って行った。入れ替わりで穂積本社からパソコンが届き、穂積のシステム部から来たという人が事務所と泪の部屋のパソコンをあっという間に交換し、設置して帰って行った。
「ごめん、お昼食べそこなっちゃったわよね? お腹が空いたでしょ? 食べに行きましょ?」
「え? ですが……」
「頑張ったご褒美よ。何か食べたいのはある?」
帰って良いですか? と言うつもりだったのにお腹の誘惑には抗えず、「ブイヤベースかパエリアが食べたい」と伝える。
「この近くに、友人がやってるレストランがあるの。食べたいのがなければそこに行こうと思ってたから……ちょうどよかったわ」
「スペイン料理のお店ですか?」
「違うわよ」
「え?」
「んー……どう言えばいいかしら。多国籍料理? みたいな感じかしら。料理名を言えばたいていのものが出てくるわよ? それじゃあ行きましょうか」
ニコリと微笑まれ、掌を差し出される。意味がわからなくてきょとんと小首を傾げると「もう、鈍い子ね」と苦笑され、「お手」と言われて条件反射で手を乗せる。
「はい、捕獲完了♪」
「ほか……っ!」
「次からは手を出したら手を乗せるように!」
「命令ですか?」
私の質問にちょうど手を引っ張って歩き始めた彼の動きがピタリと止まり、私を振り返った。
「アンタ、それ本気で言ってる?」
「え?」
意味がわからなくて泪の顔を見ると、困り顔になっていた。ちょうどエレベーターが来たので乗り込み、一階へ行く。
「つかぬことを聞くけど……」
考え事をしていたのかそれまで黙っていた泪が、エレベーターを出た途端そう切り出した。
「何でしょうか?」
「男と付き合ったことくらい、あるわよね?」
「えっと……ないです」
「……はぁ?! 冗談よね?! デートは?!」
「ない……で、す……」
「マジ?! いまどき?!」
私の答えに意外、と謂わんばかりに驚かれる。
「まあ……いろいろありましたし」
「どんなこと? ……って聞いてもいいかしら?」
「楽しい話ではないですし、聞いても不愉快になるだけですよ?」
「構わないわ。さあ、ここよ」
歩きながら話しているうちに着いたらしく、泪がドアを開けるとカウベルがカランと鳴った。「いらっしゃいませ」という声と共に、男性がこちらに来た。
「あれ、この時間に来るなんて珍しいな、泪」
「こんばんは、直哉。奥は空いてる?」
「空いてるが……ふうん?」
私のほうを見たので、「こんばんは」とお辞儀をする。
「……何よ?」
「……いんや?」
「あっそ。あ、アタシはパエリアが食べたいわ。小さくていいから、バレンシア風の」
「お前な……」
「お圭ちゃんは? 同じの食べる?」
お腹は空いてるのだけれど、どういうわけか食欲がなくなってしまった。一瞬迷って、結局ブイヤベースにすると告げる。
「……おい。……まぁいいか、材料はあるし。あ、泪、シェリー酒が手に入ったんだが……飲むか?」
「マジ? 飲むわ! お圭ちゃんは?」
「ワイン系をストレートに飲むのはあまり得意ではなくて……」
「そうか、わかった。泪、左奥の個室な」
「サンキュ、直哉。お圭ちゃん、こっちよ」
泪のあとをついていきながら店内を見回す。店内は木目調の手作りの民家風で、照明は少し暗め、各テーブルには本物のキャンドルの炎が揺れている。
泪は個室に連れて行ってくれたあと、「トイレに行ってくる」と言って出ていった。
そのあとすぐに直哉と呼ばれた人が水とお絞り、食器を持って来た。
「一つ聞きたいんだが」
「何でしょうか?」
「泪のおネエ言葉、どう思う?」
「どう、とは?」
直哉の質問の意味を図りかねて首を傾げる。
「気持ち悪くねえ?」
「別にそうは思いませんが」
「ホントに? 男としてどうよ、それ、とかも感じない?」
「違和感、ということですよね? 別に感じませんが……。むしろ、せ……る、いさんの審美眼のほうが危ないのではないかと……」
「審美眼?」
私の言葉に、今度は直哉が首を傾げた。
「すっごく散らかってる部屋に対して、『綺麗でしょ?』って言ったんですよ!?」
「ああ……うん、それは確かにダメだな」
うんうん、と頷く直哉。
「でも、アイツの見る目は確かだから」
「……は?」
「いや、なんでもない。ごゆっくり」
ひとりで納得したのか、直哉はそう言って出ていった。しばらくしてから泪も帰って来たのと同時に、シェリー酒とカクテルが運ばれて来る。
「はい、お待たせ。泪にはシェリー。お嬢さんにはシェリー酒のカクテルで『Petit Prelude』。これなら大丈夫だろ? ごゆっくり」
そう聞かれて「はい」と返事をする。
直哉が出ていったあと、お疲れ様とグラス同士を軽くチンと鳴らす。
「さて、話してもらおうかしら」
「朝の、羽多野君の話にも繋がるのですが……」
そう前置きしてから葎にした話の一部と周たちにした話を、食事をしながらそのまま話した。その内容に泪の眉間にはだんだん皺が寄って行くけれど、見なかったことにする。
「じゃあ、その足の傷は……」
「その時の事故で。……全身にあります。目もその時に」
「そう、目も……。でも、それだと、羽多野君と赤の他人にはならないんじゃないの?」
そう言われて、目を瞑る。
「そうですね。でも、入院中に先生に聞いた話なんですが……」
血が流れ過ぎて、ショック症状で死にかけていたこと。
輸血用のパックを用意したけれどあと少し足りなくて、急遽病院で献血を募ったらたまたまお見舞いに来ていた在沢夫妻が同じ血液型だと名乗り出てくれたこと。
「血液も、戸籍上も、たとえ僅かに血が残っていようとも、私にとって羽多野家の人間は他人なんです」
ただ一人、血液型が違うというだけで家族にすらなれなかった羽多野家と、同じ血液型を分けたというだけで家族になった在沢家。家族のありかた、どう接すればいいかなど、在沢夫妻とその子供たちにたくさんの気持ちと感情を教わったのだ。だからとても感謝している。
「申し訳ありません。暗い話をするのに相応しい場所ではなかったですね」
「そんなことないわ。お圭ちゃんのキズの理由がわかったもの。……さて、明日もあることだし、今日は疲れたでしょ? ぼちぼち帰りましょうか」
席を立ち、レジのところまで行く。割り勘でと言ったのに、「ご褒美って言ったでしょ?」と泪は一円も払わせてくれなかった。
「送ってあげたいけど、飲んじゃったから駅までね」
そう言われ、通勤時間や最寄り駅を調べたかったのでちょうどよかったと思い、その言葉に甘えることにした。
出勤時間の確認と会社の電話番号、念のためにスマホのアドレスや番号を交換してから駅までの道をゆっくり歩き始めたのだけれど、何かを思い出したのか「さっきの続きだけど」と泪はまたもや手を握って来た。
「なんでデートしたことないの?」
「……こんな容姿ですし」
「十分可愛いじゃない」
「……太ってますし」
「朝も言ったけど、どこが? ちょっと……いえ、かなり胸は大き……ゴホン、アタシ好みだけど」
アタシ好みってなんですか、それは。
「傷だらけ……」
「関係ないでしょ? つまり、今まで誰もアンタの魅力に気付かなかったってことね。……ってことは、手を繋いだのも今日が初めて……?」
「ううう……」
泪の質問にこくんと頷く。うう……居たたまれない。
「あらあら……純粋培養がいたわ……。いまどきの高校生でもいないわよ? でも……」
私には聞こえなかったけれど、小さな声で何かを呟いたかと思うと急に繋いでいた手が上がり、手の甲に軟らかいものが当たって驚く。
「アタシが徐々に教えてあげる。だから、圭。……いつか、アンタの全てを――、アタシにちょうだい」
そう言うと、チュッと音を立てて額に軟らかいものが落ちた。
いつもの高めのトーンの「お圭ちゃん」ではなく、低く艶のある声で「圭」と呼ばれて、ドキンと鼓動が跳ねる。
そのことに気を取られ、手の甲と額にキスをされたのだと気付いたのは、自宅に帰り着いてからだった。
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