〜湫に咲く〜背中に昇り龍を刻まれた男が、恋に堕ち、一匹の雄になるまで。

鱗。

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第十話 一触即発

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「……で、こいつが最近お前が塩っぽかった理由か」


雅の腕の中にすっぽりと抱かれたまま。拓海は俯いて、泣き腫らした真っ赤な眼を気まずそうに揺らした。


「言いたくない。諍いは、ごめんだ」

「もう、遅えよ。お前が気が付いてないだけで、俺達はずっとお前を挟んで喧嘩してたんだからな」


だろ?と、雅が此方に問い掛けてきたので。彰宏は、静かに頷いた。拓海は、驚きを隠さない表情を浮かべて、二人を交互に見やった。


「お前は無意識なんだろうけどな。今日は……まぁ、引き分けってとこか?」

「そうですね」

「お前、通い始めてどれくらいになる?」

「三月になります」

「あぁ、やっぱりそれくらいか。だろうと思ってた。此奴の匂いっつうか、空気が変わったのが、その辺からだったからな」

「……どういう事?」


彰宏と雅が会話をしていると、雅の腕の中から、半ば蚊帳の外にいた拓海が躊躇いがちに尋ねた。それを合図にして、二人の視線が、じぃ、と拓海に注がれた。


頭の先から爪先までを、二人してじっくりと、丹念に視線だけで嬲ると、拓海は居心地が悪そうに身を捩った。


雅が言う。


「着物と角帯は、俺が選んだやつだな」


彰宏が言う。


「羽織と羽織紐。それに今日焚き染めた香は、俺が選んだ物ですね」

「へぇ、香もか。良い趣味してんじゃん」

「それは、どうも」


嬉しくもなんともない、全く心の篭っていない賛辞に、此方も愛想も素っ気もなく応える。拓海は、二人のやり取りに瞠目していた。彰宏は、その様子を見て、漸く理解が追いついたかと思い、やれやれと肩を竦めた。雅が、一つ利口になった拓海に向けて、その口を開く。


「喧嘩するにしても、作法ってもんがあるんだよ。お前には、分かんねぇ世界かもしれないけどな」

「何も殴り合ったり罵り合ったりするだけが、全てじゃないという事です。こういうやり方の喧嘩だってあるんですよ」

「全く……どんだけ、やきもきしてきたか。殴り合ってどうにかなる問題なら、いっそ気が楽だったわ。でも、人の心ってもんは、そういうもんで手に入る訳じゃねぇしさ」


呆気にとられているのだろう。拓海が、ぽかんと口を開けている。雅が、緩りと此方に向けて、好戦的な視線を投げかけてきた。だから彰宏も、居住まいを正して、しっかりと腰を据えてそれに応えた。


「よう。初めまして、じゃ、ねぇよな……どっかで会ったか?」

「えぇ、ここで。直接は会っていませんが」

「……あー、あん時の覗き見野郎か」

「待たせた方が悪いんでしょうが」

「あんまり此奴が可愛いく啼くもんだから、つい時間忘れちまってさ」

「は、童貞でもあるまいし。性根の無い人ですね」

「此奴を相手にすると、偶にな。初心に返るのも悪く無いもんだぜ?」


嫌味をさらりと躱されて、彰宏は内心で歯軋りをした。年の違いの所為だろうか。なかなか舌戦で太刀打ち出来る気がしない。


「お前、こいつの名前、もう知ってんのか?」

「知ってます」

「いつからだ」

「先々週」

「……へぇ、早いな。知らないで終える奴が大半なんだぜ」

「あんたは?」

「俺は初日」


だからこその、この余裕と質問か、と思い至る。口許に浮かべた笑みが憎たらしい。彰宏は、くそったれ、と胸の内で悪態を吐いた。あからさまに苛立っていると、拓海が、後ろ手で雅の頭を小突いた。


「お前は俺の事を師匠が呼んでたの、聞いただけでしょうに」

「馬鹿、お前、それ言っちゃ駄目なやつだろ」


なんだ、種を明かせば、そんな事かと、無意識のうちに虚勢を張っていた彰宏は、少しだけ胸を撫で下ろした。過ごした歳月が違うのだ。拓海に関して知っている事が、その分多かったり耳が早かったりするのは仕様がない。彰宏は、そんな当たり前の事さえ失念していた自分を叱責した。だが、どうしたって癪には障る。ただ、雅の挑発に一々食らいついても此方の度量が知れてしまうので。彰宏は、奥歯を噛み締めて、その感覚をやり過ごした。


「あんまり虐めてやるなよ」

「随分優しいのな。まぁ、仕方ねぇか。お気に入りだもんなぁ……『最近』の」


その言い回しに、引っ掛かりを感じない筈もなく。彰宏は、まじまじと雅を見詰めた。そして彼の口から次にどんな言葉が飛び出してくるのかを、じっと待った。雅は、彰宏のその反応を見て、にや、と口許に人の悪い笑みを浮かべると、悠然とした態度をそのままに、言葉を紡いだ。


「前のお気に入りは、女だったよな。芸妓の……名前は確か……」

「雅ッ」


拓海が、語尾を荒げて、ぴしゃりと言った。


「お前って奴は……言葉選びに気をつけろよ」

「はいはい、すいませんでした」


雅が悪びれた素振りもなく、くつくつと笑ってのけるので。彰宏は、頭を鈍器で、がつん、と殴られたかのような衝撃を受けた。


唇が乾燥する。息が浅いからだろう。
そんな、意味の無い事を考える。


頭の中が真っ白になっていた。それ以外に考えなくてはいけない事があるはずなのに。頭が、心が、考えるのは止してしまえ、とそれを放棄しようとしている。これは自己防衛だ。たぶんそれだ。


「拓海」


教えてもらったばかりの彼の名を、声に感情を乗せることなく呼ぶ。頭の中が伽藍堂になり、わぁん、と彼の名を呼ぶ自分の声だけが反響していた。


「俺で、遊んだの?」

「違う」


直ぐに、否定される。悲痛な叫びだった。掌に爪の先が食い込む。昨晩、深く切っておいた筈なのに。今日この日、この人を抱く為に。この人を、傷付けない為に。


「遊びじゃない。俺は、お前の事を、大切に思ってる」

「なら、証明してよ」


己の肚の底で、どす黒い感情が蠢いて、口を介して噴出した。被せるようにして言い放つ。火鉢の炭がぱちんと音を立てて爆ぜた。春が到来したとはいえ、まだまだ、これがなければ過ごせないほどの季節だった。


「俺の事、遊びじゃないって、いますぐ」


怒りと悲しみと憎しみとが、ぐわりと腹の底から競り上がる。混沌とした感情の波が飛沫をあげて胸にまで押し寄せると、その感情の渦は衝動となって四肢に伝達された。


「こっちに来て、拓海」


此方が、正気を保っていられるうちに。でないと、なにを仕出かすか自分でも分からない。火鉢に突き刺さっている、先端が、かあかあと赧くなっている火箸が視界の端に映り込む。あれが手元にありさえすれば、自分なら容易く命を摘み取れる。


狙うは、一人か、若しくは諸共か。


「ほら、こうなる」


雅が、やれやれと大業に溜息を吐いた。


「だからいつも止めろっていうのに、聞きゃあしねぇんだから。お前、俺がいなかったら命が幾つあっても足りてねぇぞ」


言い切ると、雅は、ひた、と彰宏を見とめた。その目は、断じて拓海に手だけは出させまいという、強い意志を感じさせた。まるで西洋の騎士を気取っているかの様なその男の風体に、彰宏の心身は余計に逆立った。


「雅……もう、黙っててくれないか」


拓海の静かな懇請が、畳の上に、ぽつりと落とされた。だが、雅はそれを強い口調で突っ撥ねた。


「嫌だね。こう言う時の為に俺はいるんだから。いつもみたいに、後腐れなく手を切らせてやるよ。人一倍情の深いお前に代わってな」

「違う、雅。こいつは、彰宏は、いままでのとは、違う」

「どう違うってんだ?言ってみろよ」

「そ、れは……」


言い淀む拓海を放って、雅はゆっくりとした口調で、これまでの経緯を語り始めた。


「俺は、こいつとは昔からの付き合いだが、こいつに関する尋常じゃない修羅場をいくつも経験してる。大抵がこいつに嵌まっちまった奴同士の諍いだ。墨が仕上がればそれまでよ、の関係に我慢出来ずに襲い掛かってくる奴も、わんさといたよ。いまはお前も、此奴のお気に入りだから調子に乗ってるかも知れねぇけど、こいつの、誰のもんにもならねぇっていう意志は、金剛石のように硬いんだ。悪い事は言わねぇから止めておけ、こいつは、お前の手に余るよ」


随分とまぁ、言いたい事ばかり言ってくる男だと思った。だが、話を聞いている間に、頭に上っていた血がすう、と潮が引く様に鎮まっていった。


拓海の迫真に迫った、心からの否定を目にしたからだろう。彼の様子を見て、自分の事を馬鹿にしたり、こけにしている訳ではないのだと知れた。それを目の当たりにする前は、飽きたらぽいと捨てられる玩具。そんな風に思われていたのかという考えが、頭を占めていた。


もしも、それが真実だったなら。どんな行動を起こしていたか、自分でも分からない。少なく見積もっても、この空間にいる誰かの血が流れていた事は自明の理だった。


胸の内で、ぶすぶすと黒煙を上げながら、いまだに燻っている激しい衝動を乗せたままに鈍く輝る目を、雅に向ける。すると、それと時を同じくして、火鉢の炭が大きく爆ぜ、音を立てて崩れた。


「巫山戯ないで下さい。そんな話で、誰が諦めますか。そんなもの、此方の気持ちを止める理由になんてなりませんよ。俺が例外になればいいだけの事じゃないですか。俺は、この人を手に入れる為だったら、何だってしてやりますよ」


雅は、やれやれと肩を竦めると、目の動きだけで、拓海に膝の上から退く様に促した。拓海は小さく頷くと、着物の着乱れを直して、彰宏と雅の間に静かに腰を下ろした。


「喧嘩売るなら買うけどよ。ちゃんと相手くらい選べよ、百舌鳥家のお坊っちゃん」

「……は?なんで、あんた、俺の事知ってるんですか」


彰宏が驚きを隠さずに質問をぶつけると、質問を受けた雅ではなく、間に座っていた拓海が反応を示した。


「おい、彰宏……まさかお前、こいつの事、知らなかったのか?」


信じられないといった空気をその口調から察して、彰宏は、居心地の悪さを感じざるを得なかった。あまりの事に、二の句が継げないといった体の拓海に代わって、雅がやれやれと肩を竦めてから話し始めた。


「この間の『喧嘩』は、派手にやったなぁ。その後、城島の怪我の具合は、どうだ?」


瞬間。駆け抜ける思考。


喧嘩。
城島。
雅という名前。


その全てが、ある一つの結論を指し示した。


「あんた、もしかして中條家の……?」


現在進行形で、長年に渡り島争いをしている相手組織。その家長の長男。それが、中條 雅だ。


現在は若頭を務めているが、その直系という血筋と類い稀なる資質により、将来的に家長になる事は明白。百舌鳥家は、いま城島が若頭を務めているが、将来的には、その肩書きを彰宏が受け継ぐことになっている。そして、仕事に慣れてきた辺りで、次期家長になるだろうと期待されているのだ。


つまり、この男と自分は。大規模地下組織の、未来の家長同士であり。公私共に、競合相手という事になる。


「今後は、喧嘩する相手の顔くらい、覚えておけよ」


雅が、余裕綽々といった表情を浮かべたので。彰宏は、目を据わらせてそれと対峙した。


「……すいませんでした。記憶に残らないくらい、相手にしていなくて」

「お前の頭がざるなだけだろーが……はぁ、じみなぁ、確かに顔は良いかもしんねぇけどさ、お前此奴の何処が気に入ったわけ?俺にはさっぱり分かんねぇんだけど」


雅が呆れたように口にすると、彰宏が、此方にゆっくりと顔を向けた。細めがちな艶のある眼差しで、隅々までとっくり眺めてくるので、彰宏はそれに合わせて、少しだけ姿勢を正した。


その様を見て何を思ったのやら。拓海は、小さく。だが大切に、大切に。


「真っ直ぐな、とこ」


それだけを口にして、花が綻ぶようにして、笑んで見せた。


その、あまりにも真摯な響きに。その、あまりにも可憐な佇まいに。図らずしも、拓海の胸は、ぎゅうと鷲掴みにされた。


こんな状況だっていうのに。


壁際に追いやって。
腕の中に閉じ込めて。
その顎を引き、視線を合わせて。
一旦、その唇を荒々しく塞いだ後に。
噛み付かんばかりに、問い詰めてやりたい。


一体全体、貴方は俺をどうするつもりなのかと。こんなにも心を傾けさせて、どうするつもりなのかと。


拓海は、顔を片手の掌で覆うと、深い溜息を吐いてその衝動をやり過ごした。


「お互い、難儀な奴に嵌ったな」


雅の、同意を求めるでもなく呟かれたその言葉に。彰宏は内心で、全くもってその通りだと深く頷いた。


「なぁ、百舌鳥家のお坊ちゃんさぁ」

「……なんですか」

「俺はな、こいつも島も、どっちも譲るつもりは無ぇけどさ。一人の男としてどっちを取るかって聞かれたら、悩むまでもないわけよ」


臆面もなく言ってのける雅に、彰宏は、緩々と顔を上げた。その真剣な眼差しを受けて。此方もそれに見合うだけの態勢を瞬時に整えた。


「お前に、俺の喧嘩相手が務まるかなぁ……容赦なんてするつもり、毛頭無ぇんだけど」

「三月であんたに追いついたんです。あと三月でものにします」

「こいつなりの流行り物に乗ってるだけだろ。その勢いも、いまだけだ」

「いつまで経っても、ものに出来ない人に、何を言われたところで効きませんよ」

「へぇ、言うねぇ」

「余裕見せてんのも今のうちですから……覚悟して下さい」


互いの視線が交差して火花が散ったような心地になると同時に、火鉢の墨が盛大に爆ぜて、パッと空間に火の粉が上がった。視界の端で、拓海の肩が、ふるりと揺れる。しかし彰宏も雅も、それを見て見ぬ振りをした。


雅が、さて、どうするかなぁ、などと言って口許に手をやって思案し始めたので、彰宏は片眉を上げて、動向を見守ることにした。


暫くすると、雅が一つ、頷いた。


「さて、なら勝負だ。こうなったら、分かりやすく行こうじゃねぇか。拓海の背中を、先に見た方が勝ち……こいつを、自分のオンナに出来るってのはどうだ?」


彰宏は、驚きに目を見開いた。あまりにも突飛な提案だったからということもあるが、それ以上にまず雅が拓海の背中を見た事が無いという事実が俄かに信じられなかったからだ。


「あんたも、まだ見た事無いんですか?」

「あぁ。一度もな」

「何が描かれてるとかも、知らないんですか?」

「そうだな、知らねぇ。聞いたところで、こいつ全然口割らねぇし」

「……なんて言ったらいいか分かりませんけど」

「……その目は、やめろ」


雅が、罰が悪そうに視線を漂わせた。然しもの彰宏も、ご愁傷様、という感想しか出てこない。だが、それだけ拓海の意思を尊重し、念頭に置いているという証拠でもあるので、頭から馬鹿には出来なかった。


無理強いでもして、機嫌を損ねたり、万が一嫌われでもしたら、それこそ元も子もない。彰宏が、拓海という気まぐれが態をなしたかの様な男と、長年に渡り共に居られる理由。それは、彼が持つ寛容さと懐の深さ、そしてほんの僅かな意気地の無さが起因しているのではないか、と彰宏は自分なりに分析していた。


雅から、学ぶべき所は多い。良い所は吸収して、反面教師にすべきところはしていこう。そうして、一刻も早く拓海と懇ろな関係に持ち込もう。


彰宏は、気持ちを新たにして、拓海へと向き直った。


「拓海さん」

「……なに」


拓海に呼び掛けると、うっそりとした返事が返ってきた。あからさまに、機嫌が悪い。当たり前だろうな、と思う。だが、今この時ばかりは気にかけてやれない。


「悪いけど、貴方の意見は聞いてあげられない。俺も、雅さんも、もう限界なんだ。貴方も男なら、分かるでしょう?……だからもう、いい加減観念して、どちらかの物になって」


拓海が、額に手をやって其処を軽く押さえるようにした。頭痛を覚えているのかもしれない。だが、そこにも頓着はしてやれない。暫くすると、拓海がまたうっそりと口を開いた。


「全く……黙って聞いていれば、好き勝手に、ぽんぽん話を進めて……俺の意思はどうなるんだよ」

「決めんのは、お前だ。だったら文句ねぇだろ?」


雅が、踏ん反り返ってそう言えば、拓海は深い溜息を吐いた。


「大いにある。けど……頷く意外、選択肢はないんだろ?」

「「ない」」


二人同時に、きっぱりと告げると。拓海は、渋い表情を隠すことなく天井を仰ぎ見た。そうして、諦めたかのように目を伏せると。


「………分かった。俺も腹を決める」


そう、ぽつりと呟いた。


それを聞いた途端。雅が、小さく拳を握り締めたのを、彰宏は視界の端で捉えた。彰宏は、そこに雅の執念や長年に渡り蓄積された想いを見出して。これは、長丁場になりそうだな、と胸の内で襟を正した。
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