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第三章 『espoir(希望)』

秘密の鍵

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父親が危篤状態にあるという情報を、千秋から経由する形で知った時。あぁ、分かっていたことだけど、親族間における僕の存在感は、本当に、こんなにも薄かったんだな、と改めて思い知らされた。

親族間における生前贈与の話し合いも決裂していた現状があったから、養子ではあっても、相続権は有している僕に、何らかのリアクションはしてくるかもしれない……と鬱々とした気持ちを抱えて、面倒臭いにも程がある親族を相手に、これからどう立ち回ろうか、と頭を悩ませていた僕が、馬鹿みたいに思えてならない。

初めから懐に抱え込みたかった金鉱脈である千秋に、こうして目に見えた媚を売ってくる親族縁者達に、僕は、一体何を期待していたのだろう。

いや、期待、という言葉は言い過ぎだろうか。人と人との縁とは、こんなにも結び難く、脆いものなのか、とわびしい感情を抱いたのが、正直な感想かもしれない。

父親の葬儀は、その肩書と地位に見合った、厳かで大規模なものとなった。喪主を務めたのは、長男である僕ではなく、そこだけは予め、株主総会と親族間の話し合いの末に決定していた、会社の経営権を有する、出来の良い従兄弟が勤めを果たした。

親族席の片隅に追いやられていた僕の隣には、ずっと千秋がいてくれて。若かりし頃の父親と瓜二つの相貌は、葬儀会場にある人間達の興味関心を根こそぎ攫っていた。

けれど、本人は至って冷静かつ沈着にその場にあって。会社の役員関連者や、付き合いのあった企業の関係者のみならず、生前交流があった知人達や、血の繋がりが確かにある親族達に至るまで、会場全体の人間から不躾ぶしつけな視線を容赦なく浴びせられても、その全てを、何食わぬ顔で受け流していた。

計算尽くされたカットが施された、一粒の大きくて凛々りりしいダイアモンドのように。

強く、気高く、美しく。

その後は、会社のお抱え弁護士主導により、生前父親が書していた遺言者をもとに、淡々と相続が進められていった。

生前父親から話があったように、オーベルジュ『espoir』の経営権と、その施設内にある所蔵品は、全て僕のものに。それ以外の個人的資産は、父親の弟である叔父と千秋に相続される運びとなった。

遺留分侵害額請求権を行使する権利を持つ親族も、僕の他にはいなかったので、そんなつもりは毛頭ないという意思表示を予め表明すると、とんとん拍子話が前に進み。気が付いた時には、千秋は、父親が他界してから、僅か数ヶ月で、国内有数の資産家の一人に名を連ねる存在となっていた。

とはいえ、当の本人は、そんな莫大な資産を有する人間とは到底思えない、至って平静な態度でもって、いつも通りに、このオーベルジュにおける自らの職務をこなしているのだけれど……彼を見る目が変わってしまったのは、この場所にあって、僕だけなんだろうか、とつくづく不思議に思う。

千秋から、僕に対してのリアクションは、葬儀と遺産相続が終わってもなお、特筆したものはない。

溝口支配人の指導の元、支配人業務に関する全てを叩き込まれ、実際に、僕が、このオーベルジュの本当の『主人』となった今も。

"俺達の今後について話し合いませんか?"

という、お誘いはなかった。

千秋の母親も、僕達の父親も、何故、千秋に、このオーベルジュを任せようとしなかったのかという疑問も。千秋が、僕に寄せる、個人的な期待も。その問題の解消に打って出るべきは、やはり、年長者として、兄としての立場を有する、僕からでないといけないということなんだろうか。

だとしたら、僕自身が己を勢い付ける、きっかけらしいきっかけが、欲しいのだけれど。

……やっぱり、『コレ』を使う時がやってきた、と見るべきなんだろうな。


"この鍵を持っていけ。そして、色褪せぬ希望を、その手に収めなさい"


僕が、最後に聞いた父親の肉声。それは、いま僕が、首につけているネックレスのトップに飾られた、古びた鍵を示していた。

父親の寝室にあるベッドの脇にいた、父親の秘書で、昔から顔馴染みの熟年の男性は、その父親の言葉の後に、金細工の施された小さな箱を僕の下まで持ってくると。その蓋をゆっくりとした仕草で開けて、朱色に染色されたベルベットの布の上に鎮座されたその鍵を手に取るようにと促した。

そして、この鍵の存在が表沙汰にならないよう、常日頃からしっかりと身に付け、大切に保管するようにと、僕に念を押してきたんだ。

僕が、恐る恐るその鍵を手にし、戸惑いながら頷きを返すと。父親は、穏やかな表情を浮かべて、そのまま帰らぬ人となった。

親子らしい思い出は、殆どなかったけれど。不思議なくらいに、後から後から、涙は溢れた。その日、その時だけではあったけれど。感情と理性は、切っても切れない関係性にあるんだな、と妙な納得をしたものだ。

それにしても、最後まで言葉足らずで、本当に自分勝手な人だった。一体、この鍵を、何処でどう使えというのか。まるっきり、使い所を教えずに逝ってしまうだなんて。

秘書の男性に聞いても、暖簾のれんに腕押しで、答えらしい答えを教えてはくれないし。僕に気遣って、病院まで付き添ってくれた千秋の顔を、ちらりと覗き見ても、首を横に振るばかり。謎が謎を呼んでいる有様で、面倒臭くて、敵わない。

いっそのこと、この鍵も、このオーベルジュの経営権も、施設丸ごと、全部が全部。僕と同じく、いや、それ以上の熱意を持ってこのオーベルジュを盛り立て、大切にしてくれるだろう千秋に、権利を譲りたいくらいだけれど。この鍵の持つ本当の意味を知るまでは、父親の最後に遺した意志が何なのかを知るまでは、この場所を……オーベルジュ『espoir』を離れるつもりはなかった。

亡くなってなお、父親の思い通りに生きてしまう自分が、忌々いまいましい。けれど、父親のいう『希望』というものが、オーベルジュ全体を指すのではなく、その鍵を使える場所にある、確かなものであるとすれば。

どれだけの想いで遺しても。どれだけの熱意が託されていても。どれだけの莫大な利益をもたらすような代物であったとしても。

父親の遺した、『唯一無二』の存在を、僕は、僕自身の手垢がついてしまう前に、完膚なきまでに破壊するか。もしくは、そっくりそのまま手付かずの状態で、叔父や従兄弟ではなく、父親の一粒種として、正当なる後継者である千秋の手に委ねたいと思っていた。

けれど、例えそれが無事に成されたとしても。これまで、その地位や名声に似合わない、首都から遠く離れたこのオーベルジュに、母子共に引き篭もり、その存在を隠して息を潜めて生きてきた千秋の自由と引き換えにするには、まだまだ事足り無い。彼が、父親の手前勝手な判断により、不自由な生活を強いられてきたのは、誰の目にも明らかなのだから。僕には、父親に代わって、そんな風にしか生きられなかった千秋の、新たなる旅立ちを見守り、手助けする義務があると思えてならなかった。

……ひいては、僕という存在からの自立を含めて。

彼への贖罪しょくざいを成し、彼の自由を後押しする。そして、このオーベルジュにとって、より良い未来を描いていける本当の主人を見出し、それが僕では無かった場合、その存在を……千秋を、献身を持って盛り立て、陰から日向から支え、導く。だから、その想いを、ただひたすらに胸の内側で醸成じょうせいし続けるのではなく。直接千秋に、そうと告げなくてはならないのだけれど。

そのきっかけとなる『鍵』の話をするタイミングが、まるで掴めず……結果、堂々巡りとなってしまうのです。

という長い話を、ある程度掻い摘んで、イングリッシュガーデンに咲き誇る秋薔薇の手入れをしている眞田副料理長に相談したら。

「この近くに、観光客向けに作られた、大型アウトレットモールがある。そこに、世界中の調味料を扱う輸入食品店があるんだが、お前、ちょっと、買い出しに行ってくれないか?そこには、ワインの専門店もあるから、秋の新メニューに合わせた仕入れもついでにしてくれると助かる。勿論、腕利きのソムリエを連れてな」

なんて、渡りに船、な提案をされたというわけです。でもね、一応、尋ねてみたんだ。

『それって、つまり、二人きりでって、ことですよね?』って。

そうしたら、眞田さんってば、急に真顔になっちゃってね。

「……お前なぁ」

すみません。ごめんなさい。謝りますので、その残念な生き物を見る様な眼差しで、僕を見るのはやめて下さい……と平謝りをしたのです。


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