〜espoir〜五つ星オーベルジュのオーナーだなんて、こんな僕には向いてません!

鱗。

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第一章 『それぞれの願い』

衝撃の邂逅

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後回しにされていた建物の二階にある広間サルーンには、竹之内総料理長と眞田副料理長との面会が終わってから、溝口支配人の案内を受けて訪れた。そこには、想像を持ってして余りある豪華絢爛ごうかけんらんな空間が広がっていて、ヴィクトリア朝時代の栄華と品格を兼ね備えたその場所に、僕は完全に気後れしていた。

天井から吊るされた、豪奢ごうしゃかつ美術品としての価値すら持つクリスタル製のシャンデリアのおごそかな灯りをこの身に受けるだけで、クラクラと目眩を起こしてしまう。あれだけで、一体いくらするんだろう、とか無粋ですよね、すみません。

国内有数の建設業を営む実家の跡継ぎとして父親から寵愛ちょうあいを受けていたのは、もっぱら出来のいい従兄弟の方だったので、こうした場所に連れて来られる機会は、正直あまり無かった。それでいて、将来跡継ぎとなる従兄弟を支えられるようにと、父親の意向によって指定された建築技術を学べる大学を受けていたので、無駄に建築に関する知識だけはある、けれどこうした場所には思い切り不慣れで、尚且つ世間知らずな僕という、いびつな存在が爆誕していたのだった。

社会に出て恥をかかない為にも、レストランでのマナーくらいは、積極性を持ってして学んで行けば良かったものの。父親に対する反発心と、母親の介護に近い日常に追われているうちに、そんな機会からは遠去かっていた。

その辺りの僕の感覚というか諸事情に対して、全くの関心を示さなかった父親も父親なのだけれど。こんな、自分史上最も自由にしてきた場所に、一人息子を放り込むつもりが最初からあったのだとしたら、それくらいの予備知識は予習させておいてくれたら良かったのに……と物申したいくらいだった。

自分の愛人に、こんな『』を与える暇があるんだったらさ。

「えっと、オーベルジュとホテルの違いって、なんだか分かります……か?」

同い年の相手に敬語だなんて使いづらいですよね。分かります、分かります。僕もバイト三昧の日々に身を投じる様になって、漸く身に付いたので……という、フランクな会話が出来たら、それくらいの社交性が僕にあったなら、どれだけ生き易かっただろう。

こんな出自だからこそプライドばかりが高くて、それでいて無駄に箱入り感ばかりが先行してしまっていて……つまり、人間関係には、割と苦労はしてきたんですよね。だからこそ、こうして初対面の人に、かつ、まるでルネサンス時代を代表する美女の絵画から抜け出てきた様な絶世の美男子との会話に行き詰まってしまっているのだけど。そんな事、理由になりはしないですよね、本当にすみません。

「……御園様?」

……あー、無理です、めっちゃキラキラしてて無理です。竹之内総料理長の時も大変だったけど、この人も顔面から何からえげつない。完全無欠。パーフェクト。エフェクトというか、全体的にラメが散らばって見える。誰か助けてー、眞田副料理長ー。

えっと、ですね。ネットにある情報の聞きかじりではあるのですが……誤解を恐れずに申し上げれば、ホテルはどちらかというと『宿泊をする部屋』、『食事をするレストラン、カフェ』など、機能性で説明されることが多いのではないか、と思います。ホテルは宿泊するだけの方もいれば、食事やお茶だけで帰る方もいて、滞在の目的は様々です。オーベルジュは基本的に地域性と食と滞在がセットになっているので、食を中心としながらハードやサービスの仕方が一体的に連なっていることが、ホテルとの大きな違いだと思います。

とか、覚えて来たこと、全部ちゃんと頭にあるけど、なんかそう言う事じゃないんだよなぁ。知ったか無職で、本当にすみません……

何も知りません教えて下さいモードの方がまだ可愛げがあるのかな。でも、これから半年、いや、一年近い時間を掛けて、経営者としての器を現場で働く人達に判断して貰う為にも、オーベルジュというホテルとレストランの中間にあるこの特異な場所に馴染んでから、やっとオーナー(仮)の(仮)が取れるか否かの段階に進める……かもしれない僕にとって、最早可愛げとか言ってらんないんじゃなかろうか。

自由奔放だった父親の、それでも一応は育ててくれた恩に報おうとここまでやってきたけれど、本当に父親の遺言通りに話を進めていくのだとしたら、こんな風にして初手から躓いてばかりはいられない。

一年という父親の定めた期間を経たとしても、僕という存在が現場の人間に否を唱えられたなら、素直に叔父か若しくはその息子である、将来的に会社を引き継ぐ予定の出来の良い従兄弟に、このオーベルジュを丸ごと返還する気持ちはあるけれど。

一応の馴染む努力をしてから相続如何いかんの判断をせよというのが、病床について間もなかった頃の父親の、親族連中含め僕自身に対する脅し文句としてあったから。

今こうして、慣れない環境に身を置き、まずはこの職場の新しい仲間として認めて貰える様にと挨拶回りをしている訳なんだけれど……

分かんない、全然分かんない。どうして僕は昔からこうなんだ。無駄に、それでいて変な方向性に努力して、突っ走って。そんな姿を誰にも見せたくなくて。自意識ばかり高くて。

こんな、何者でもない僕が、世界中から熱視線を浴びる名だたるスタッフを率いる何者かになれるなんて信じられないし、荒唐無稽な話でしかないのに。碌でもない背伸びばかりしてしまって。

「不勉強ですみません、まだ、よく分かりません。お手数をお掛けして大変申し訳ありませんが、良かったら教えて下さいますか?それと、その……」

自分自身の中にある安っぽいプライドを根本からへし折って、懸命に言葉を尽くす。フランク過ぎる対応は、時として諸刃もろはつるぎとして機能してしまう場合もあるけれど、僕は自分のオーナーとしての権能を発揮して、スパスパと小気味良く采配さいはいを振るう様な経営者になるつもりはないし、そもそもそんな存在には逆立ちしたってなれないと断言できるから。ある程度開襟を開いた状態からのスタートを切れるタイミングがあるのであればそうすべきと判断して、行動と言動くらいは、できるだけ一致させていきたいと思っていた。

「先程もご確認したのでお話ししますが、僕達は、どうやら同い年みたいなので、敬語は必要ありません。だから、もっと肩の力を抜いて下さると嬉しいです……三峰みつみね 弘樹ひろきさん」

表情には動揺を示さない様に注意しながら恐る恐る口にすると、先程知り合ったばかりの若き給仕長メートル・ド・テルは、ぱちくり、という愛らしい表現がぴったりな瞬きをしてから、世界中にその名声を轟かせてきた彫刻や絵画の名のある巨匠が、生涯にたった一つ辿り着いた境地と例えられても遜色のない光り輝く尊顔に、ゆったりとした穏やかな表情を浮かべた。

「じゃあ、春翔。このオーベルジュに関しては、他の場所とはちょっと毛色が違うから、それは追々説明するとして。初めての事ばかりだから、色々と分からない場面とか、これから遭遇したりすると思うんだけどさ。俺で良かったら、何でも聞いてね。時間の許す限りは付き合うから。それと……」

そこまで言い切ると、三峰給仕長……弘樹は、何を考えているのか分からない穏やかな表情のまま、ゆっくりと僕の耳元まで腰を折って顔を近付け、耳輪から首筋に掛けて艶やかな蜜を垂らすかのごとく、ぽたり、と囁いた。

「俺にも敬語、使わなくていいから。でも、それって結構大変だよ?……頑張れる?」

頭の中でイメージしていたよりも、深く、しっとりとした質感のテノール。一度耳にしたら忘れられない、独特の色香をはらんだ甘やかな響き。ずしん、とお腹の近くまで届いたそれは、僕の身体の芯を、容赦無く、ぐらぐらと揺さぶった。

………何がどうとか言えないし、本人達には勿論伝えるつもりもないけれど。何なんですかねぇ、ここの住人達みんな……もう、本当に勘弁して下さい……

「う、うん……がん、ばるよ。これから宜しくね、弘樹」

顔が熱い。何とか愛想笑い的なものは顔に貼り付けて誤魔化してるけど、多分、いや確実に、動揺しているのはバレている。僕の動揺を誘って、一体君にどんな得があるというのだろう。遊ばないで下さいよ、ほんとにもう。僕が女性だったら大変な騒ぎですよ?もしかして、それを狙っていたりして……いやいや、まぁ、ねぇ、同性ですし。いや、性別はこの際関係ないかもしれないけど。僕に関しては、その、無いと思いますよ?恋愛にはとんと疎いですし、これまでの人生で、全く関わってこなかったですし。

だから、そんなハニートラップ紛いの手を使ってでも厄介払いしたいとか、もしも感覚としてあるのだとしたら、そこはすみません、としか言いようがないのだけれど。

我が家の内情を知らない人達からしてみたら、僕なんて、経営経験どころか、いい年をして碌な職についた試しもない穀潰しのお坊ちゃんでしかないんだから、身内に引き入れるだけでも難色を示す人もいただろうしなぁ。罷り間違って、それがファミリーのボスになりますだなんて……少なくとも、嫌われる要素はあっても好かれる要素は一つもないですよね。

客観的に見た自分の価値というものを、きちんと理解している人は、こんな風にあっさりとその武器を使用できるんですね。凄いなぁ……

「うん、よろしくね。じゃあ、俺は忙しい支配人に代わってこのオーベルジュの紹介をしていく係を任せられたから、このまま開店時間まで、一緒に館内デートしよ?」

『館内デート』という言葉選びに、顔に貼り付けたままの作り笑いを思わず引き攣らせると、それに釣られて隣にいた弘樹もくすくすと笑った。うん、確信犯確定ですね、これは。全く悪びれた様子もないし、流石というかなんというか。僕がもう少し年若く、世間に揉まれていなければ、相手の肩の力を抜かせるのが得意な人なんだな、と好感を覚えずにはいられなかっただろうな。

けれど、父親の生前贈与の、結局最後は決裂してしまった話し合いの場において、血で血を洗うという表現が余りにも似つかわしく感じられる争いに巻き込まれた経験を持つ僕は、それをそっくりそのまま純粋な好意として受け止められるほど、お人好しな作りをしていなかった。

幼い頃から知る身内同士が憎み合い、嫉み合い、女性を使った罠を仕掛けられ、家庭すら崩壊させて。それでも、会社の経営権と莫大な財産よりもまず、その全ての人間が最後まで欲しがったのが、このオーベルジュ……『espoir』の経営権だった。

だからこそ、僕には確信があった。ここにはきっと、僕よりずっと年上の大人達だけが知る、僕の知らない『』がある、と。

僕は、死ぬ間際に立つ父親の義理に応えたいという理性と、全くといって相反する感情を、矛盾なくこの胸に秘めている。この場所に来た本当の理由。それは、その『秘密』を解き明かす為だった。

父親の最愛、今は亡き愛人が城主として君臨してきたこの場所に、一体何が隠されているのか。僕は、それを知らなければいけない。

母親の葬儀の日、この場所には父親がいた。長年連れ添ったパートナーの葬儀よりも、彼は、それまで陰日向に咲いてきた病床にある愛人と、その愛を確かめる為に、その日の時間を費やしていた。けれど、もしも、そこに愛だけではない他の何かが存在していたのだとするならば。 

父親にとっての、『唯一無二』の存在があるとするならば。僕には、その存在の秘密を解き明かす、責務がある。

「いまいる場所が広間。二階だね。基本的に、お客様のお食事のスペースとして開放されてる。本当にごく稀にだけど、手が空いていて気が向いたとき限定で、崇人さんがピアノの演奏をしたりもするよ。もし聴けたらラッキーだね。宿泊施設の方は、これから案内するけど……その前に、俺から紹介したい人達がいるんだ。ついて来て」

落ち着いてはいるものの、どことなく上機嫌に見えてならない、僕にとっては不穏に感じられる様子の弘樹に続いて広間を出ると、弘樹は玄関ホールにある螺旋階段を降りてから、その裏手側の目立たない場所にある落ち着いた栗皮色の扉を開けて中へと進んでいった。すると今度は、その先に、石造りの階段が姿を現した。暗がりの中、等間隔に設置された 燈會らんたんがぼんやりと地下へと続く階段を照らしている。この先に何が待っているのか分からない僕は、ごくりと唾を飲み込んで、危なげなく、慣れた様子で階段を下っていく弘樹の後ろ姿に追随した。

階段を下り終えると、そこには思っていた以上に広々とした空間が広がっていた。ずらりと並ぶ、圧巻の物量を誇るそれらを見て、僕は、うわぁ、と感嘆の声を上げた。

「ここは、約3,000本のワインが眠る地下セラー。フランスワインを中心として、イタリア、スペイン、アメリカ……それと、国内にある約450のワイナリーから厳選して仕入れたワインも取り揃えてるんだ。気温は13℃から15℃を保っている。冬の季節の湿度は約40%と低めだけど、夏は約75%くらいで落ち着いていて、ワインの保管としては理想の環境だったりするんだよ。因みに、このワインセラーは、このオーベルジュの建築当初からではなく、後から作ったものなんだって」

「へぇ……本当に凄いね」

ワインに合わせて適温に保たれている地下セラーは、冬の極寒ともいえる寒さを感じさせない、少しだけ暖かな環境にあった。その場所にある最高品質に保たれているずらりと並ぶワイン達を見て、僕は、本当に大変な場所に来てしまったんだな、とまざまざと思い知り、今度こそ深い溜息を吐いてしまった。

どうやって、知識も殆どない、こんな高そうなワインの数々を管理していけばいいのやら。支配人の仕事を真似たり、給仕長のその下の下、コミ・ド・レストランから下積みを始めるのととも、訳が違う。このオーベルジュの経営者としていつか本当に君臨する時がきたとしても、専門性の高い分野であるワインに対して、とんと知識のない僕が、果たしてこの秘蔵コレクション達に太刀打ち出来るものなのか。

それだけではなく、僕には、父親の残した『秘密』を解き明かしたいという、本来ある目的を達成しなければいけない責務がある。オーベルジュのオーナーとしての立場。真実の追求者としての立場。その両立を、果たして本当に完遂できるのだろうか。

「不安なのは分かるよ。でも大丈夫。このオーベルジュには、ちゃんと腕利きのソムリエが常勤で勤めているから。分からない事があれば、二人か、俺に聞くといいよ」

滲み出る不安のどこまでを把握しているかは不明だけれど、思い遣りや気遣いといった感情を傾けてくれた弘樹に、思わず胸の内で苦笑する。目の前にいる箱入り息子が、仕事仲間として、経営者として、これから先、果たして本当に馴染んでいけるかどうかという不安だけを胸中に抱く殊勝しゅしょうな人間ではなく。いい年をして、探偵ごっこみたいな真似までしている幼稚な人間だと知ったなら。この人は、まだこんな風にして、優しさを保ってくれるだろうか。

「弘樹に?」

「うん。俺も一応、ソムリエの資格持ってるからね」

流石は、若くして給仕長メートル・ド・テルを任されているだけあって、死角は無しといったところか。頼り甲斐のある弘樹には、これから相当お世話になるだろう未来が透けて見える。僕がこの場所に慣れ、溝口支配人の業務内容を丸々引き継げる状態になるまで鍛えてくれる存在は、恐らく彼になるだろう。つまり、弘樹は僕の直属の上司にあたる存在というわけだ。だから、という訳ではないけれど。頭の一つや二つ、この場で下げても何の苦ではなかった。

「ありがとう。色々とお世話になる事もあると思うけど、御指導御鞭撻ごしどうごべんたつの程、宜しくお願いします」

ぺこり、とその場で深いお辞儀をして、正面に立つ弘樹の顔を真っ直ぐに見つめると、彼は少しだけ目を見開き、驚きの感情をそこに形作った。けれど、それは刹那せつなの出来事で、僕が瞬きをした次の瞬間、その表情は、先程まであった柔和にゅうわで穏やかなものに戻っていた。

「うん、こちらこそ。でも、やっぱりそれ専門にしてる二人には知識と経験では叶わないからさ。早めに紹介しておいた方がいいかなぁって思って……輪島わじまさん、お疲れ様です」

ワインセラーの出入り口に向けて、軽く会釈をする弘樹に合わせて後ろを振り返ると、気配を消し、階段の中腹付近で足を止めてこちらの様子を伺ってきた男性が、ゆっくりと僕達の近くまで歩み寄ってきた。彼は、僕らを点と点を結ぶと綺麗な二等辺三角形になる構図で足を止めると、朗らかで人好きのする笑みを、にっこりと浮かべた。

「おー、お疲れ様。見ない顔だけど、お客様……じゃないですよね?もしかして、例の?」

「そうです。例のあの人こと、御園 春翔氏、その人」

逞しい腕で、肩をがっちりと掴まれる。相手は勿論弘樹だ。玄関先で僕を出迎えてくれた溝口支配人とは違って、今はまだ私服姿でいるから分かり辛かったけれど、弘樹は脱いだら凄いタイプなんだなぁ、とまざまざと思い知らされる。この顔に、この肉体。天はどれだけの恩恵を彼に与えたのやら。

突然の衝撃に身を固め、まるで小動物の様に縮こまって目を白黒させているうちに、僕は弘樹に肩を抱かれたまま、現れた男性の前に立たされた。綺麗な二等辺三角形だったそれぞれの立ち位置が縮小し、正三角形の形に間隔が狭まると、僕は弘樹の腕の中から慌てて抜け出して、条件反射的にその場で深々と頭を下げた……挨拶のタイミングくらい選ばせてよ、もう。実は君、天然とかいうタイプでしょう?

「御園 春翔といいます。ま、まだまだ未熟な面ばかりですが、これから宜しくお願いします」

「初めまして。このオーベルジュで、シェフソムリエとして働いている輪島わじま 隆之たかゆきです。これから大変でしょうけど、宜しくお願いします」

全体的に、スマート過ぎる。足が長くて頭身も驚く程。清々しいまでの清潔感があり、溝口支配人とはまた違った方面のジェントルマンだ。私服姿で完全なるOFFスタイルを貫いている弘樹とは違い、既にフォーマルなソムリエのユニフォームをピッシリと着こなし、髪型から指先に至るまで、余念無く神経を使っているのが一目で分かる。この人の第一印象をして、好印象を抱かない人間はこの世に存在しないのではないだろうか。

細身ではあるけれど、体幹がしっかりしているのが、立ち姿だけでハッキリと分かる。何かしらの体術を二、三習得していると言われても何ら驚きはないし、寧ろ納得の領域でしかない類稀なる存在感を放っていた。男性が憧れるタイプの男性というべきか。これだけの逸材を、よくぞ見つけてきたなと、人材に対する審美眼しんびがんだけは無駄にあった父親を、生まれて初めて褒めたい気分になった。

その分、身内には恵まれなかったし、自分の身から出たさびを処理する能力は皆無で、女癖はこの通りだったけれど……いや、ちょっと待って?もし仮に、亡くなった愛人が集めた人材だったとしたら、顔採用とまでは言えないけれど……でも、その仮説は酷く納得できてしまう代物だった。

(……いま、凄く失礼な事考えたな、僕)

自分自身が嫌になる。このオーベルジュにいる従業員達が、間違いなく実力で椅子を勝ち取ってきた人達だと分かっていても。彼らの背後にいる父親と、顔も知らない愛人とが、どうしても脳裏にチラついて、あっという間に醜い考えに支配されてしまう。

昔から、こんな人間では無かった筈だ。でも、生前贈与の話の段階になって、このオーベルジュの相続の問題が初めて浮上し、愛人の存在が明らかになってからというもの、こんな風にして黒い感情に支配されてしまう時間が目に見えて増えていった。そして、母親の葬儀の日に、この場所を愛人との逢瀬おうせの場として選んだ父親の汚さに触れて、益々ますますとその兆候は顕著になっていった。

今の自分は、ハッキリ言って大嫌いだ。だからこそ、そんな自分嫌いな人間が、最初から人に好印象を与えられるとは、到底思えなかった。

このオーベルジュの経営権は、当初、父親の愛人にあった。けれど、その愛人が昨年末に亡くなってからは、元々の出資者であった父親が、その権利を仮に引き継いでいた。そして、その父親が病床に伏したいま、その権利は、今度は僕の手の中に転げ落ちてきた。

それは、血濡れで、ベトベトしていて、醜悪を絵に描いた様な代物に思えて。最初は、すっかり放り投げて逃げてしまいたいとばかり考えていたけれど。

「どうして、誰も俺を紹介してくれないんですか?」

忌まわしき過去の断罪と。
母親の無念を晴らしたいという正常な欲求。
夢にまで見た復讐を願う、苛烈なる執着。

その全てを。
この手で壊して、進むため。

「だったら、さっさと入ってくれば良かったじゃん。ねぇ、輪島さん」

「お前さぁ、面倒臭いからって俺に振るなよ。まぁ、こういうのは、纏めてやった方が早いかなとも思うし……ほら、デカい図体で拗ねてないで、こっち来いよ、千秋ちあき

僕が僕らしく在るため。
前を向いて進むため。
未来を是正する余地を掴むため。

「……どうも。時任ときとう 千秋ちあきといいます。このオーベルジュで、常勤のソムリエとして従事しています。お会いできる日を、楽しみにしていました。貴方は、このオーベルジュの、新しい主人となる人ですから」


『希望』を、この手で掴むため。


「俺の、母に代わって」

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