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第三話『 』
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古びた建物にある長い行列のあるお店だったり、地下もしくは高いビルの最上階にあって完全紹介性を貫き、一見さんお断り感を出しているお店だったりを想像していた僕にとって、古民家が立ち並ぶ住宅街にあって、築三十年程が経過していると見られるアパートの一室を自らの居住としても利用している店の主人は、一見すると、気さくを絵に描いたような明るく朗らかな好人物だった。
占術を生業とし、先日お世話になった老女の師匠だと聞いていたから、おどろおどろしくも威厳のある印象の老人が現れるかと思いきや、どう考えてもその人は、溌剌とした二十代後半くらいの年代の男性にしか見えず。インターホンを押して扉を開けてくれたその男性の『いらっしゃーい』という明るい挨拶と表情に、僕は目を白黒とさせてしまった
「ごめんね、さっきまで友達来ててさ。ちょっと部屋散らかってるんだよね。まぁ、適当に座っててよ」
これで散らかっている、と言われても対処に困るくらいに、その部屋には物という物が無かった。まるで、モデルルームにでも案内されたかの様な生活感の無さに、本当に居住しているのかと疑いたくなる。アパート自体は古くてもリノベーションがなされているため、まるで新築の様な雰囲気があって、それについても、緊張した。
「中学生って、多感な時期だよね。占いとかハマるの分かるけど、あんまり、変な人に着いていっちゃ駄目だよ?あ、麦茶飲む?」
「え、と……はい」
二つの意味で同意を告げると、いかにも快活な雰囲気を持った男性は、にこり、と穏やかに微笑んでから、カウンターキッチンにある冷蔵庫に向かった。そして、お客様用に用意したと思われる綺麗な装飾がなされた赤色と青色の二つのグラスにお茶を注ぎ、それをお盆に乗せて、結局ずっと立ちぼうけになっていた僕の隣まで歩み寄ってきた。
「綺麗でしょ?江戸切子っていうんだって。親しくしてるお客さんから貰ったんだ。今日は特別なお客様がいるからね。ほら、座って」
嫌味のないウィンクを一つして、その人は僕をリビングとしても利用している空間に手招きした。空間の中央には、テーブルが置かれていて、両対面に座布団が二つずつ置かれている。どちらに座ればいいのか分からず、取り敢えず出入り口に近い場所を選ぼうとしたら、男性に柔らかく右手側の座布団がある方に座る様に勧められた。
どうやら、上座下座、という概念があるらしい。年齢差があって難しいけれど、ここは一応話の流れ的にも、上座を選ばざる負えないかと諦めて、胸の中で溜息を吐いてから席についた。目の前に置かれた江戸切子の赤色のグラスには、製氷器で作った氷ではなく、わざわざ買ってきた物と思われるロックアイスが入っていて、高級感が際立っている。喉を通るか心配にはなったけれど、そもそも飲んでしまっていいものかどうか分からず、結局手を付けずに、男性が対面に座るのを待った。
「さて、と。じゃあ、ざっと自己紹介しようかな。俺の名前は田邊。君を紹介した人の、一応師匠にあたる人間だ。俺はこう見えて忙しいんだけど、件の弟子が祟られたら敵わないと泣きついて来たんで、無理矢理この日をセッティングした。まぁ、俺からしてみても、その見解は正しいと思うから、俺なりに誠意を持って対応させて貰うよ」
師匠と弟子の逆転した年齢差については、あまり深く追求しない方がいいのだろうとは思いつつも、詳細が気になって仕方がない。けれど、それ以上に、『祟り』という物騒な言葉が、太い針となって喉元にぶすりと突き刺さって、僕は、喘ぐ様な息を吐いた。
僕の左隣にある席に、江戸切子の青色のグラスが置かれている現状も踏まえて。
「君にはいくつかの選択肢がある。というよりも、それ以外に選び取れる選択肢が無い、と言った方が正しいかな。それ以外にも選択肢が無いわけじゃないんだけど、俺の命にも関わってくるから、正直あまりお勧めはしたくない」
いくつか、という狭められた選択肢の中で、自分がどんな選択をしていくべきなのか。まずは、その内容を示されない限りは、何とも返答の仕様がない。だから、田邊さんの命が関わってくる様な選択肢を含めて、一体自分にどの様な未来が選び取れるのかが知りたかった。
「それは……一体どんな?」
「あれ、このプレッシャーの中で普通に話せるんだ?凄いね君。だいぶ素質あるよ」
手放しに誰かに褒められた経験が殆ど無い僕は、突然の賛辞に呆気に取られた。けれど、あまりにも明るく言い放たれたそれは、正直に言って、特別嬉しいといった温かな感情を胸に呼び込むことは無かった。
「君に残された選択肢は、二つ。一つ目は、このまま一生誰とも色の付いた関係を結ばずに孤独に過ごす事。しかし、この場合、君は早世する可能性が非常に高い。二つ目は、俺をこの場で仲介役として利用し、今すぐに先方と夫婦の契り……所謂、婚姻関係を結ぶ事。これをすれば、君の寿命は格段に伸びるし、人並み以上の幸福な一生を送る事が出来る。その代わり、何らかの人生の選択をしていく際には、その都度先方との話し合いが必要となっていくけれどね。ただし、夫婦としての価値観の擦り合わせがあれば納得しなくもない、というのが、先方の考えとしてあるようだ。さて、どうする?」
あまりにも無謀な話に、唖然として口から言葉が紡げない。そんな選択肢、いくつかあるだなんて言いながら、実質一つしか無いじゃないか。穏やかな笑顔を浮かべながら、なんて残酷な話をしてくるんだろう。他人である以上、完全なる僕の味方だとは最初から思っていないけど、二つある選択肢のうち、二つ目をこうして推してくる様子を見るからに、早々に厄介払いがしたくてならない人間にしか見えなくなってしまった。事実そうだとしても、態度があからさま過ぎる。確かに僕はまだ中学生だけど、頭ごなしにそうと言われて素直に従える程、自分の人生を悲観的に考えたくはない。
「三つ目は……あるんですよね、確か」
プレッシャーという物が目に見えるなら、きっと僕の全身という全身に、針の様に、否、剣の様に尖った矛先が無数に向けられているだろう。それを放っている相手が、目の前にいる田邊さんなのか、目には見えない、認識したくも無い存在なのかは分からない。だけど、その恐怖に、いま打ち勝たなければ、僕の人生は僕の物ではなくなってしまう。僕の物でない人生が、他人から見て幸せに彩られていたとして、一体何だというのか。
誰かの掌の上で踊る人生を。
誰かの掌の上で得る幸福を。
僕は、絶対に幸せとは呼ばせない。
「申し訳ないけれど、三つ目は言葉にするだけで俺の命に関わるから、簡単に口には出来ない」
「どうしたら、知る事が出来ますか?」
「うーん。君が先方と話し合って直接聞くくらいしか無いんだけど……」
直接聞けたら、どれだけ楽か。けれど、それをしたら、間違いなく、僕はその存在を感知して、認識しなくてはならない。もはや、悪あがきの域に差し掛かっているのは分かっていても、出来るだけ関わりを持ちたく無いという気持ちに蓋は出来なかった。
けれど。
「俺、降霊術は割と得意分野なんだよね。それでも、一回しかやった事ないんだよね、『神降し』……俺の場合は、その一回で懲りたし、正直、君の事を守ってる先方よりだいぶ格下だったから、今度は身体を乗っ取られる可能性が高いん……」
「待って下さい」
聞き流せない、その話に。耳を塞ぐという手段は、既に、僕の中に存在しなかった。
「相手は、神様、なんですか?」
「人間の認識というか、辞書で言ったらね」
「どんな……なんの?」
「ああ、ほら、それ以上はヤバいって」
だから、直ぐに、僕にも分かったんだ。
「泣いちゃうから」
これは、罠だったんだと。
「俺に興味持ってくれて、嬉しい。本当に、本当に、嬉しい」
いつからだ。
いつから、田邊さんに『入っていた』んだ。
僕は、いつから『コレ』と会話していたんだ。
もしかしたら、あの占術士の老女は、これを見越して?
だとしたら、いつから僕は『コレ』の掌の上で踊っていたんだ。
「ずっと、貴方と……茜と話がしたかった。なのに、貴方は俺の事ずっと無視するから、早く今生に別れを告げさせて、俺だけの物にしようかな、なんて思ってた所なんだ」
田邊さんにも、占術士の老女にも、僕は自分の名前を名乗っていない。だから、間違いなく『コレ』は、これまで僕の人生を絡め取ってきた存在なんだと認識出来た。そして、その眼差しは、幼い頃からずっとずっと僕に纏わりついてきた視線と、見た目に受ける印象がぴたりと一致していた。
「でも、これで漸く、貴方に触れられるし。早まらなくて良かったなって」
田邊さんが、僕が来る前に対応していたのは、友達なんかじゃない。きっと、『コレ』に抵抗して、それで身体を奪われたんだ。だとしたら、本当の田邊さんは、いまどうしているんだろう。消されてしまったのか、今も身体の中で抵抗を続けているのか。
「……お前と僕との問題に、田邊さんは関係無い。気が済んだら、ちゃんと身体を返してあげて」
僕達を罠に嵌めたのが『コレ』だとしたら、僕をこの場所まで導いた老女も田邊さんも、恐らくは被害者の一員だ。なら、出来るだけ僕達とは関係がない、これから先の未来を歩んで行って欲しい。罠に嵌められた側の人間なのだから、そこまでの仏心を垣間見せる必要はないと分かっていても、それ以外に二人に対する贖罪の方法が見当たらなかった。
「ねぇ、もしかして、コイツの事、気に入ったの?」
こんなバケモノを相手にしたら、誰だって、言いなりになるしかないだろうから。
「違うよ」
「なら、なんで庇うの」
「庇ってない。これは、僕の気持ちの問題だから」
真っ黒で、伽藍堂で、底知れない闇を内包したその眼は、僕の内面や心の奥深い所までをも隅々まで見渡す様にぐりぐりと薄気味悪く動いた。暫くして、漸く納得がいったのか、その眼は次第に澄んだ色を取り戻していったけれど。僕は、それを見て理解した。
『コレ』は、神様なんかじゃない。神を語った、別の黒々とした『ナニカ』だと。
「……貴方、一週間前に、やっと精通したでしょう。ずっと待ってた。誰よりも、貴方より前に、貴方に触れたかったから。だから、もう我慢が出来なくて」
「それで僕を玩具みたいに扱って満足したら、殺すの?」
何故、そこで間を置くのか。
真実なら真実として、語ればいい。
神を語る『ナニカ』らしく、最後まで。
「違うよ……俺は、茜と本当の夫婦になりたい。身体も、心も、全部俺だけの物になって欲しい。ただ、それだけなんだ……」
なんて強欲な。その前提を、『それだけ』と言って退けるか。そうした部分は、確かに神話に語られる神々にそっくりだなと思う。最初から、人間なんて対等に見ていない。だから、話し合いのテーブルになんて着くつもりがない。搾取する側とされる側の意識が変わらない限り、この話は平行線を辿るだけだ。
僕は殺される。そして、死後もまた『コレ』に囲われるのかもしれない。でも、だとしたら、それは。
絶対に、愛なんかじゃない。
「それは、夫婦なんて呼ばない。そんな事をされても、僕は絶対に、お前を愛さない」
お前は、僕の初恋の相手だった同級生の命に、易々と手を掛けた。あれは二階からの転落だったから同級生の命は助かったけれど、あの行動の意図として、僕の耳が猥雑な雑音を拾わない様にという配慮の他に、間違いなくお前の嫉妬がそこにあった筈だ。でも、それを僕に寄せる深い愛情と紐付けて考えられるほど、僕は落ちぶれていない。
そう、僕は、お前に恐怖を感じるよりも、ずっとずっと。
「お前は誰だ」
怒っていたんだ。
「僕と遊んで欲しいなら、名前を先に言って。言われないとそんな事も分からない様な奴と、僕は絶対に遊ばない。ましてや仲良くなったり、好きになったりもしない」
ぱし、ぴし、と部屋の中にラップ音が響き渡る。目の前にある江戸切子の赤色のグラスにも、ぱきり、とヒビが入り、中にあった麦茶がじわじわと染み出して、テーブルの上に水溜りを作った。目の前にいる存在の圧迫感が、みるみると増していく。だけど、それを見ても僕の中に目立った後悔はなかった。全身を包む強烈な冷気に寒気を覚え、水を被って極寒の地に放り出された人間の様に、頭の天辺から足の爪先に至るまでをぶるぶると震わせていても。
「……名前を言ったら、俺の物になるって、約束できるなら、教える」
「なら、一生知らないでいい。殺すならさっさと殺して」
「……ッなんで、そんな事言うの」
今度は泣き落としか。あの手この手だな、この神様モドキは。まるで、僕よりずっと小さな子供を相手にしている気持ちになる。僕の中にある感情の引き出しに全て手を付けないと気が済まないとでも言うかの様だ。だけど、気を抜いたらいけない。相手は人外。人の命を意のままにし、こうして難無く人間の身体を乗っ取る事が出来る力を持った存在なのだから。
「そんなに、俺の事、嫌いなの…ッなんで、こんなに好きなのに、分かってくれないのッッ!!」
「好きとか嫌いとかの問題の前に、そもそも僕はお前を知らない。知らない人を、嫌いにも好きにもならないよ」
人間関係の初歩的な部分を強調して、僕なりの落とし所を懸命に探ろうとしていくと、目の前にいる神様モドキは、ぐしゃぐしゃに泣きべそを掻きながら、僕に、ずい、と詰め寄った。
「なら、これから、俺の事を知っていって。俺の事好きになって、それで……それで……」
「……結婚?」
こくこく、と強く深く頷かれて、促さないまでも、言わなくても良かったなと、舌打ちをしたい気持ちになる。見た目は田邊さんそのままだから、立派な成人男性が、学生服を着た中学生に詰め寄って求婚を持ち掛けているという危ない絵面になっていた。だから、それに押されてしまって口が滑ったという面は間違いなくあった。田邊さんには、巻き込んでしまって本当に申し訳ない気持ちになる。田邊さんがこれ以上、犯罪者紛いの存在にならない為にも、この状況をどうにかして進展させなくてはいけないなと思って、僕は、掌に掻いた汗をギュッと握り締めてから、神様モドキに向き直った。
「あのね、僕はまだ未成年で、結婚とか大事な話が出来る年齢じゃないんだ。だから、気持ちは嬉しいんだけど……」
「なら、いくつになったらいい?どれだけ待てば、返事をくれる?」
「それまでにも、色々と段階があるでしょう。それに、僕達、まだ付き合ってないし」
「…………は?」
体感での室温がグッと下がり、江戸切子の青色のグラスの方にも、めきり、と深いヒビが入る。低く低く放たれた疑問符は、それだけの物理的な威力を内包していた。自分に徐々に理が傾きつつあったからといって、これまで通用してきた流れを汲み、本心に近い言葉を並べていけば良いという訳ではないのだ、という事を痛感する。相手が、自分にどれだけの深い執着と恋慕を抱いていても、目に見えた立場の違いというものが前提として備わっているのだから。
「付き合ってない?俺と貴方が?何の冗談?……いくら俺を無視していても、俺の寵愛があった事実は変わらないのに。これだけ俺に愛されておきながら、貴方は俺の愛を本気で受け取る気がないの?」
「そ、うじゃない。ただ、僕は……時間が欲しくて。お前はそうじゃなくても、僕は、今日初めて出会ったばかりの気持ちだから。もっと、その、お前の事を知ってから、付き合うかどうか決めて……」
嗚呼、しまった。
「じゃあ、教えてあげる。俺が、どんな存在か。俺が貴方をどれだけ想っているか。どれだけ貴方の誕生を待ち望んでいたか。こうして通じ合えるその日を、どれほど渇望していたか」
語るに落ちた。
「何度も何度も、貴方の生と死を、血の涙を流して見送ってきた……だから、今度こそ俺だけの物にしてみせる」
きっと、こんな場面はこれまでにも何度もあったんだろうな。そして、その度に僕は、自分自身の迂闊さに閉口してきたんだろう。だけど今生を生きる今の僕は、ただ黙ってこの状況を受け入れるだけの、柔らかいばかりの気質を持った人間ではないから。
反撃の狼煙くらいは、自分の手で上げてみせたいんだ。
「なら、まずは名前を教えて。付き合っている相手の名前くらい知らないと、きちんと彼女面が出来ないでしょう……それともお前は、ずっと僕に、『お前』なんて突き放した呼ばれ方をされ続けたいの?」
田邊さんの顔をした『ナニカ』は、苦悶の表情を浮かべて、『否』を示した。その反応を受けて、この現状は、まだ僕自身の努力と根気さえ寄せ集めれば攻勢に回れる段階にあるのだという事を理解した。
「……『 』」
ぽつり、と呟かれたその名前に、深い安堵を覚えた。婚姻を前提として名前を教えるという縛りが目の前で潰えた瞬間に立ち会えたからだ。名前が分かったからどうという訳ではなくても、この先ゆっくりと懐柔していく為の足掛かりにはなれた筈だ。完全に懐柔するのは難しいだろうけれど、せめて、田邊さんの身体の自由が戻るまでは、出来る限りの悪あがきはしてみようと思った。
そこから先の自分の未来については、まだ考えたくもない。
「『 』?良い名前だね。ねぇ、『 』、お前は、僕の何処が好き?」
「考えた事もない。貴方の魂の輝きを一目見た時から、ずっとずっと、貴方に夢中だったから」
「他に趣味は無いの?折角凄い力を持ってるのに、僕にばかり拘っていたら勿体無いよ」
「これは、もうずっとずっと、俺の生き方だったから。貴方が死んだら現世で傷付いた魂を綺麗に浄化して、貴方が無事に生まれ変わったら、例えそれが虫であろうと微生物であろうと貴方に着いていく。死んだら魂を回収して綺麗に浄化してから、再び地上に返して……話が出来なかったり、触れ合えなかった時は辛かったけど、その生き方に不満なんてなかった」
神様モドキ、と思いたかった。事実、ついさっきまでは、そうだと確信していた。そんな高尚な存在が、僕なんて何処にでもいる存在に嵌る筈がないのだからと。だけど、話を聞いていくにつれて、次第にその考えに暗雲が立ち込めてきた。
「何故そんな真似を?ずっと自分の手元に置こうとはしなかったの?」
「貴方の魂の錬磨を待っていたんだ。俺と一緒に永劫の時を彷徨う為には、現世で修行をしなければならなかった……強靭な魂に育たなければ、俺の傍らにあっても、いつか塵芥同然の存在になってしまうから」
「じゃあ、今までずっと黙っていたのに、今になってこうして接触してきたのは、僕の魂の修行の旅が漸く終わったから?」
「……うん」
気の長い話だ。どれだけの時間を掛けて、僕の魂を追いかけ続けてきたのか。例え、それが一方通行の想いだったとしても、そこに掛ける熱意や直向きさには翳りなど存在しない。しかし、これだけの話を聞いてしまったら、いよいよ『 』が、神様を語った別の『ナニカ』だという僕の推察が揺らいでしまう。
悪いだけのもの、邪悪なもの、人の命を弄ぶもの……そんな、分かりやすい悪であったなら、こうまでして接し方に悩まずに済んだのに。
「『 』は、本当に神様なの?」
「人間の認識というか、辞書でいうなら」
「なら、一体、なんの神様なの?」
「知らない」
正と悪とを決めるのは、いつだって人間だった。自分達に理があるものを神と崇め、自分達にとって邪なるものを悪魔やバケモノと呼び忌み嫌った。けれど、そのどちらでもない、中間にある存在が、もしも本当に存在したとしたならば。
「ただ、この世界は、貴方の魂の揺籠に相応しい様に、俺が一から作りました」
きっとその存在は、他のどんなものよりも、独善的だ。
身体の震えが治まらない。冷気に当てられて震えていた、さっきまでとはまるで違う。全身を包み込む、ねっとりと纏わりついてくる様な生暖かい空気が、僕の身体の自由を奪っていた。指先一つとして動かせず、呼吸も覚束なくなる。
『 』は、そんな僕の様子を見て、満足げな笑みを一つ浮かべると、一度立ち上がってから僕の背後にゆっくりと回り、再び音もなく腰を下ろした。そして、歯の根が合わず、ガチガチと奥歯を鳴らす僕の身体を、後ろからすっぽりと抱き締めると、僕のうなじや首筋に鼻先を押し当てて、深い深呼吸をした。
まだ女を知らない、青臭い雄の匂いを堪能する様に。
「や、……っ、……」
夏使用の学生服の上から上半身をゆっくりと撫で回され、布地の上から、胸の尖りに爪先を引っ掻けられる。刺激によって生理的な反応を見せ始めた其処が、つん、と存在を主張してきた所で、『 』は僕の汗ばんだシャツの中に、ぬっと右手を侵入させた。
「……ぁ、……んっ……」
インナーを掻い潜り、直に胸の尖りに触れると、『 』は、充血した其処を指の腹や爪先を使ってしきりに愛撫し、時たま親指と人差し指で摘み上げては、くりくりと扱く様にその指を動かしていった。初めて他人から与えられる性的な刺激と、それを与えてくる未知の存在への恐怖に震え上がった僕の全身は痺れた様に動かなくなってしまい、『 』にされるがままの状態を受け入れるしかなかった。
「……や、……やだ、……」
僕の胸の尖りに向けていた執着を半分だけ手放すと、『 』はもう半分の執着を、僕のズボンの下にある、ふっくらと充血し始めた部分に向け始めた。生理的な刺激を受けて兆しを見せ始めた其処は、まだ勃起するだけで痛みを生じる状態……所謂、真性包茎の状態にあったから、勃起する事自体に恐怖心があったのだけど。『 』は構わずにズボンの上から恥部を弄って、そこに血流を集めていった。
「いた……痛い、……やめ、…ん……」
「怖がらないで。俺が付いてるから大丈夫。皮を剥くのも全部、後で俺がしてあげる。貴方の初めては、全部、俺が……だから、このまま何も考えずに気持ち良くなって」
ベルトを外し、ホックとチャックを片手で手早く解放すると、『 』は、薄らとした茂みの先にある兆し始めた性器を、初手から根本までがっぷりと掴んでいった。成人男性の田邊さんの掌の中に、すっぽりと収まってしまう成長期只中の未成熟な性器は、それだけで恐怖に打ち震え、みるみると萎縮してしまった。腕力でも、体格でも、何一つ敵わず、抗えない。それでいてその相手の中身は、人知の及ばぬ存在とまでなってしまえば、僕の中に、抵抗するという選択肢は存在しなかった。
僕は、このまま犯されるのだろう。せめて、これまでの鬱憤をある程度晴らして貰ったら、田邊さんにその身体を返してあげて欲しいと思うけれど。それ以上に、これまでの鬱憤を晴らした『 』が、僕自身に向ける執着を少しでも手放してくれたらいいな、とも思った。
「あったかい」
身体の中でも最も無防備な急所を握り締めた『 』は、感慨深くそう呟くと、胸に寄せていた執着を手放し、僕の頬をするりと撫で上げてから、ひたり、と視線を合わせた。そして、何も言わずに、何の予備動作すらなく僕の唇を奪うと、そのまま口内に長々と舌先を侵入させ、縮こまっていた僕の舌を舌根から引き摺りだして、まるで甘い蜜を堪能するかの様に僕の唾液を啜り上げた。
全てが初めてなのに、最初からこんな濃厚なキスを身体に教え込まれてしまったら、僕の身体は、一体どうなってしまうんだろう。そもそも、『 』はこれから、僕をどうするつもりでいるんだろう。
「茜のおちんちん、また元気になってきたね。さっきまであんなに怖がって縮こまってたのに、キスで感じた?……素直で可愛いよ」
夫婦とか、本気で言ってるのかな。多分、本気なんだろうな。僕は男だけど、あまり性別に関しては気にしてないのかな。
「自分でした事ないから、全部分からないよね。ここをこうして扱いてあげるとね、段々と、おちんちんがむずむずしてくるんだ。だけど、怖がってそこで止めちゃ駄目だよ。白いのが出るまで、きちんと面倒みてあげて。でも、これからは俺がしてあげるから、別にやり方なんて覚えなくてもいいけれど」
身体はどうするつもりなんだろう。ずっとこのまま、田邊さんの身体を使い続けるつもりなのかな。それとも、早々に僕の命を現世から抜き取って、自分の側に置くつもりでいるのかな。僕が夫婦の契りを交わさなければ、きっと直ぐにそうするつもりではいるんだろうけど。だとしたら、気持ちの通じ合っていない僕を隣に置いて、『 』はそれで幸せなんだろうか。
「……ッ、ゃ、……だめ……おしっこ、でる…」
「大丈夫、おしっこじゃないよ。だから、安心してそのまま出して」
「やだ、そんなの、はずかし……っ、やめて、おねが……ん、ッ」
「茜、嗚呼、可愛い……怖がってる姿も、恥ずかしがってる姿も、全部。なんで、どうしてこんなに可愛いの」
「手、とめて、も……ほんとに、でちゃう、…ぁっ、あ、っ……」
「一杯出して。精通したばかりの、青臭いザーメン」
「……ッッぁ、……はぁっ、あぁッッ」
まぁ、でも。
そこまで考えてあげる義理はないか。
古びた建物にある長い行列のあるお店だったり、地下もしくは高いビルの最上階にあって完全紹介性を貫き、一見さんお断り感を出しているお店だったりを想像していた僕にとって、古民家が立ち並ぶ住宅街にあって、築三十年程が経過していると見られるアパートの一室を自らの居住としても利用している店の主人は、一見すると、気さくを絵に描いたような明るく朗らかな好人物だった。
占術を生業とし、先日お世話になった老女の師匠だと聞いていたから、おどろおどろしくも威厳のある印象の老人が現れるかと思いきや、どう考えてもその人は、溌剌とした二十代後半くらいの年代の男性にしか見えず。インターホンを押して扉を開けてくれたその男性の『いらっしゃーい』という明るい挨拶と表情に、僕は目を白黒とさせてしまった
「ごめんね、さっきまで友達来ててさ。ちょっと部屋散らかってるんだよね。まぁ、適当に座っててよ」
これで散らかっている、と言われても対処に困るくらいに、その部屋には物という物が無かった。まるで、モデルルームにでも案内されたかの様な生活感の無さに、本当に居住しているのかと疑いたくなる。アパート自体は古くてもリノベーションがなされているため、まるで新築の様な雰囲気があって、それについても、緊張した。
「中学生って、多感な時期だよね。占いとかハマるの分かるけど、あんまり、変な人に着いていっちゃ駄目だよ?あ、麦茶飲む?」
「え、と……はい」
二つの意味で同意を告げると、いかにも快活な雰囲気を持った男性は、にこり、と穏やかに微笑んでから、カウンターキッチンにある冷蔵庫に向かった。そして、お客様用に用意したと思われる綺麗な装飾がなされた赤色と青色の二つのグラスにお茶を注ぎ、それをお盆に乗せて、結局ずっと立ちぼうけになっていた僕の隣まで歩み寄ってきた。
「綺麗でしょ?江戸切子っていうんだって。親しくしてるお客さんから貰ったんだ。今日は特別なお客様がいるからね。ほら、座って」
嫌味のないウィンクを一つして、その人は僕をリビングとしても利用している空間に手招きした。空間の中央には、テーブルが置かれていて、両対面に座布団が二つずつ置かれている。どちらに座ればいいのか分からず、取り敢えず出入り口に近い場所を選ぼうとしたら、男性に柔らかく右手側の座布団がある方に座る様に勧められた。
どうやら、上座下座、という概念があるらしい。年齢差があって難しいけれど、ここは一応話の流れ的にも、上座を選ばざる負えないかと諦めて、胸の中で溜息を吐いてから席についた。目の前に置かれた江戸切子の赤色のグラスには、製氷器で作った氷ではなく、わざわざ買ってきた物と思われるロックアイスが入っていて、高級感が際立っている。喉を通るか心配にはなったけれど、そもそも飲んでしまっていいものかどうか分からず、結局手を付けずに、男性が対面に座るのを待った。
「さて、と。じゃあ、ざっと自己紹介しようかな。俺の名前は田邊。君を紹介した人の、一応師匠にあたる人間だ。俺はこう見えて忙しいんだけど、件の弟子が祟られたら敵わないと泣きついて来たんで、無理矢理この日をセッティングした。まぁ、俺からしてみても、その見解は正しいと思うから、俺なりに誠意を持って対応させて貰うよ」
師匠と弟子の逆転した年齢差については、あまり深く追求しない方がいいのだろうとは思いつつも、詳細が気になって仕方がない。けれど、それ以上に、『祟り』という物騒な言葉が、太い針となって喉元にぶすりと突き刺さって、僕は、喘ぐ様な息を吐いた。
僕の左隣にある席に、江戸切子の青色のグラスが置かれている現状も踏まえて。
「君にはいくつかの選択肢がある。というよりも、それ以外に選び取れる選択肢が無い、と言った方が正しいかな。それ以外にも選択肢が無いわけじゃないんだけど、俺の命にも関わってくるから、正直あまりお勧めはしたくない」
いくつか、という狭められた選択肢の中で、自分がどんな選択をしていくべきなのか。まずは、その内容を示されない限りは、何とも返答の仕様がない。だから、田邊さんの命が関わってくる様な選択肢を含めて、一体自分にどの様な未来が選び取れるのかが知りたかった。
「それは……一体どんな?」
「あれ、このプレッシャーの中で普通に話せるんだ?凄いね君。だいぶ素質あるよ」
手放しに誰かに褒められた経験が殆ど無い僕は、突然の賛辞に呆気に取られた。けれど、あまりにも明るく言い放たれたそれは、正直に言って、特別嬉しいといった温かな感情を胸に呼び込むことは無かった。
「君に残された選択肢は、二つ。一つ目は、このまま一生誰とも色の付いた関係を結ばずに孤独に過ごす事。しかし、この場合、君は早世する可能性が非常に高い。二つ目は、俺をこの場で仲介役として利用し、今すぐに先方と夫婦の契り……所謂、婚姻関係を結ぶ事。これをすれば、君の寿命は格段に伸びるし、人並み以上の幸福な一生を送る事が出来る。その代わり、何らかの人生の選択をしていく際には、その都度先方との話し合いが必要となっていくけれどね。ただし、夫婦としての価値観の擦り合わせがあれば納得しなくもない、というのが、先方の考えとしてあるようだ。さて、どうする?」
あまりにも無謀な話に、唖然として口から言葉が紡げない。そんな選択肢、いくつかあるだなんて言いながら、実質一つしか無いじゃないか。穏やかな笑顔を浮かべながら、なんて残酷な話をしてくるんだろう。他人である以上、完全なる僕の味方だとは最初から思っていないけど、二つある選択肢のうち、二つ目をこうして推してくる様子を見るからに、早々に厄介払いがしたくてならない人間にしか見えなくなってしまった。事実そうだとしても、態度があからさま過ぎる。確かに僕はまだ中学生だけど、頭ごなしにそうと言われて素直に従える程、自分の人生を悲観的に考えたくはない。
「三つ目は……あるんですよね、確か」
プレッシャーという物が目に見えるなら、きっと僕の全身という全身に、針の様に、否、剣の様に尖った矛先が無数に向けられているだろう。それを放っている相手が、目の前にいる田邊さんなのか、目には見えない、認識したくも無い存在なのかは分からない。だけど、その恐怖に、いま打ち勝たなければ、僕の人生は僕の物ではなくなってしまう。僕の物でない人生が、他人から見て幸せに彩られていたとして、一体何だというのか。
誰かの掌の上で踊る人生を。
誰かの掌の上で得る幸福を。
僕は、絶対に幸せとは呼ばせない。
「申し訳ないけれど、三つ目は言葉にするだけで俺の命に関わるから、簡単に口には出来ない」
「どうしたら、知る事が出来ますか?」
「うーん。君が先方と話し合って直接聞くくらいしか無いんだけど……」
直接聞けたら、どれだけ楽か。けれど、それをしたら、間違いなく、僕はその存在を感知して、認識しなくてはならない。もはや、悪あがきの域に差し掛かっているのは分かっていても、出来るだけ関わりを持ちたく無いという気持ちに蓋は出来なかった。
けれど。
「俺、降霊術は割と得意分野なんだよね。それでも、一回しかやった事ないんだよね、『神降し』……俺の場合は、その一回で懲りたし、正直、君の事を守ってる先方よりだいぶ格下だったから、今度は身体を乗っ取られる可能性が高いん……」
「待って下さい」
聞き流せない、その話に。耳を塞ぐという手段は、既に、僕の中に存在しなかった。
「相手は、神様、なんですか?」
「人間の認識というか、辞書で言ったらね」
「どんな……なんの?」
「ああ、ほら、それ以上はヤバいって」
だから、直ぐに、僕にも分かったんだ。
「泣いちゃうから」
これは、罠だったんだと。
「俺に興味持ってくれて、嬉しい。本当に、本当に、嬉しい」
いつからだ。
いつから、田邊さんに『入っていた』んだ。
僕は、いつから『コレ』と会話していたんだ。
もしかしたら、あの占術士の老女は、これを見越して?
だとしたら、いつから僕は『コレ』の掌の上で踊っていたんだ。
「ずっと、貴方と……茜と話がしたかった。なのに、貴方は俺の事ずっと無視するから、早く今生に別れを告げさせて、俺だけの物にしようかな、なんて思ってた所なんだ」
田邊さんにも、占術士の老女にも、僕は自分の名前を名乗っていない。だから、間違いなく『コレ』は、これまで僕の人生を絡め取ってきた存在なんだと認識出来た。そして、その眼差しは、幼い頃からずっとずっと僕に纏わりついてきた視線と、見た目に受ける印象がぴたりと一致していた。
「でも、これで漸く、貴方に触れられるし。早まらなくて良かったなって」
田邊さんが、僕が来る前に対応していたのは、友達なんかじゃない。きっと、『コレ』に抵抗して、それで身体を奪われたんだ。だとしたら、本当の田邊さんは、いまどうしているんだろう。消されてしまったのか、今も身体の中で抵抗を続けているのか。
「……お前と僕との問題に、田邊さんは関係無い。気が済んだら、ちゃんと身体を返してあげて」
僕達を罠に嵌めたのが『コレ』だとしたら、僕をこの場所まで導いた老女も田邊さんも、恐らくは被害者の一員だ。なら、出来るだけ僕達とは関係がない、これから先の未来を歩んで行って欲しい。罠に嵌められた側の人間なのだから、そこまでの仏心を垣間見せる必要はないと分かっていても、それ以外に二人に対する贖罪の方法が見当たらなかった。
「ねぇ、もしかして、コイツの事、気に入ったの?」
こんなバケモノを相手にしたら、誰だって、言いなりになるしかないだろうから。
「違うよ」
「なら、なんで庇うの」
「庇ってない。これは、僕の気持ちの問題だから」
真っ黒で、伽藍堂で、底知れない闇を内包したその眼は、僕の内面や心の奥深い所までをも隅々まで見渡す様にぐりぐりと薄気味悪く動いた。暫くして、漸く納得がいったのか、その眼は次第に澄んだ色を取り戻していったけれど。僕は、それを見て理解した。
『コレ』は、神様なんかじゃない。神を語った、別の黒々とした『ナニカ』だと。
「……貴方、一週間前に、やっと精通したでしょう。ずっと待ってた。誰よりも、貴方より前に、貴方に触れたかったから。だから、もう我慢が出来なくて」
「それで僕を玩具みたいに扱って満足したら、殺すの?」
何故、そこで間を置くのか。
真実なら真実として、語ればいい。
神を語る『ナニカ』らしく、最後まで。
「違うよ……俺は、茜と本当の夫婦になりたい。身体も、心も、全部俺だけの物になって欲しい。ただ、それだけなんだ……」
なんて強欲な。その前提を、『それだけ』と言って退けるか。そうした部分は、確かに神話に語られる神々にそっくりだなと思う。最初から、人間なんて対等に見ていない。だから、話し合いのテーブルになんて着くつもりがない。搾取する側とされる側の意識が変わらない限り、この話は平行線を辿るだけだ。
僕は殺される。そして、死後もまた『コレ』に囲われるのかもしれない。でも、だとしたら、それは。
絶対に、愛なんかじゃない。
「それは、夫婦なんて呼ばない。そんな事をされても、僕は絶対に、お前を愛さない」
お前は、僕の初恋の相手だった同級生の命に、易々と手を掛けた。あれは二階からの転落だったから同級生の命は助かったけれど、あの行動の意図として、僕の耳が猥雑な雑音を拾わない様にという配慮の他に、間違いなくお前の嫉妬がそこにあった筈だ。でも、それを僕に寄せる深い愛情と紐付けて考えられるほど、僕は落ちぶれていない。
そう、僕は、お前に恐怖を感じるよりも、ずっとずっと。
「お前は誰だ」
怒っていたんだ。
「僕と遊んで欲しいなら、名前を先に言って。言われないとそんな事も分からない様な奴と、僕は絶対に遊ばない。ましてや仲良くなったり、好きになったりもしない」
ぱし、ぴし、と部屋の中にラップ音が響き渡る。目の前にある江戸切子の赤色のグラスにも、ぱきり、とヒビが入り、中にあった麦茶がじわじわと染み出して、テーブルの上に水溜りを作った。目の前にいる存在の圧迫感が、みるみると増していく。だけど、それを見ても僕の中に目立った後悔はなかった。全身を包む強烈な冷気に寒気を覚え、水を被って極寒の地に放り出された人間の様に、頭の天辺から足の爪先に至るまでをぶるぶると震わせていても。
「……名前を言ったら、俺の物になるって、約束できるなら、教える」
「なら、一生知らないでいい。殺すならさっさと殺して」
「……ッなんで、そんな事言うの」
今度は泣き落としか。あの手この手だな、この神様モドキは。まるで、僕よりずっと小さな子供を相手にしている気持ちになる。僕の中にある感情の引き出しに全て手を付けないと気が済まないとでも言うかの様だ。だけど、気を抜いたらいけない。相手は人外。人の命を意のままにし、こうして難無く人間の身体を乗っ取る事が出来る力を持った存在なのだから。
「そんなに、俺の事、嫌いなの…ッなんで、こんなに好きなのに、分かってくれないのッッ!!」
「好きとか嫌いとかの問題の前に、そもそも僕はお前を知らない。知らない人を、嫌いにも好きにもならないよ」
人間関係の初歩的な部分を強調して、僕なりの落とし所を懸命に探ろうとしていくと、目の前にいる神様モドキは、ぐしゃぐしゃに泣きべそを掻きながら、僕に、ずい、と詰め寄った。
「なら、これから、俺の事を知っていって。俺の事好きになって、それで……それで……」
「……結婚?」
こくこく、と強く深く頷かれて、促さないまでも、言わなくても良かったなと、舌打ちをしたい気持ちになる。見た目は田邊さんそのままだから、立派な成人男性が、学生服を着た中学生に詰め寄って求婚を持ち掛けているという危ない絵面になっていた。だから、それに押されてしまって口が滑ったという面は間違いなくあった。田邊さんには、巻き込んでしまって本当に申し訳ない気持ちになる。田邊さんがこれ以上、犯罪者紛いの存在にならない為にも、この状況をどうにかして進展させなくてはいけないなと思って、僕は、掌に掻いた汗をギュッと握り締めてから、神様モドキに向き直った。
「あのね、僕はまだ未成年で、結婚とか大事な話が出来る年齢じゃないんだ。だから、気持ちは嬉しいんだけど……」
「なら、いくつになったらいい?どれだけ待てば、返事をくれる?」
「それまでにも、色々と段階があるでしょう。それに、僕達、まだ付き合ってないし」
「…………は?」
体感での室温がグッと下がり、江戸切子の青色のグラスの方にも、めきり、と深いヒビが入る。低く低く放たれた疑問符は、それだけの物理的な威力を内包していた。自分に徐々に理が傾きつつあったからといって、これまで通用してきた流れを汲み、本心に近い言葉を並べていけば良いという訳ではないのだ、という事を痛感する。相手が、自分にどれだけの深い執着と恋慕を抱いていても、目に見えた立場の違いというものが前提として備わっているのだから。
「付き合ってない?俺と貴方が?何の冗談?……いくら俺を無視していても、俺の寵愛があった事実は変わらないのに。これだけ俺に愛されておきながら、貴方は俺の愛を本気で受け取る気がないの?」
「そ、うじゃない。ただ、僕は……時間が欲しくて。お前はそうじゃなくても、僕は、今日初めて出会ったばかりの気持ちだから。もっと、その、お前の事を知ってから、付き合うかどうか決めて……」
嗚呼、しまった。
「じゃあ、教えてあげる。俺が、どんな存在か。俺が貴方をどれだけ想っているか。どれだけ貴方の誕生を待ち望んでいたか。こうして通じ合えるその日を、どれほど渇望していたか」
語るに落ちた。
「何度も何度も、貴方の生と死を、血の涙を流して見送ってきた……だから、今度こそ俺だけの物にしてみせる」
きっと、こんな場面はこれまでにも何度もあったんだろうな。そして、その度に僕は、自分自身の迂闊さに閉口してきたんだろう。だけど今生を生きる今の僕は、ただ黙ってこの状況を受け入れるだけの、柔らかいばかりの気質を持った人間ではないから。
反撃の狼煙くらいは、自分の手で上げてみせたいんだ。
「なら、まずは名前を教えて。付き合っている相手の名前くらい知らないと、きちんと彼女面が出来ないでしょう……それともお前は、ずっと僕に、『お前』なんて突き放した呼ばれ方をされ続けたいの?」
田邊さんの顔をした『ナニカ』は、苦悶の表情を浮かべて、『否』を示した。その反応を受けて、この現状は、まだ僕自身の努力と根気さえ寄せ集めれば攻勢に回れる段階にあるのだという事を理解した。
「……『 』」
ぽつり、と呟かれたその名前に、深い安堵を覚えた。婚姻を前提として名前を教えるという縛りが目の前で潰えた瞬間に立ち会えたからだ。名前が分かったからどうという訳ではなくても、この先ゆっくりと懐柔していく為の足掛かりにはなれた筈だ。完全に懐柔するのは難しいだろうけれど、せめて、田邊さんの身体の自由が戻るまでは、出来る限りの悪あがきはしてみようと思った。
そこから先の自分の未来については、まだ考えたくもない。
「『 』?良い名前だね。ねぇ、『 』、お前は、僕の何処が好き?」
「考えた事もない。貴方の魂の輝きを一目見た時から、ずっとずっと、貴方に夢中だったから」
「他に趣味は無いの?折角凄い力を持ってるのに、僕にばかり拘っていたら勿体無いよ」
「これは、もうずっとずっと、俺の生き方だったから。貴方が死んだら現世で傷付いた魂を綺麗に浄化して、貴方が無事に生まれ変わったら、例えそれが虫であろうと微生物であろうと貴方に着いていく。死んだら魂を回収して綺麗に浄化してから、再び地上に返して……話が出来なかったり、触れ合えなかった時は辛かったけど、その生き方に不満なんてなかった」
神様モドキ、と思いたかった。事実、ついさっきまでは、そうだと確信していた。そんな高尚な存在が、僕なんて何処にでもいる存在に嵌る筈がないのだからと。だけど、話を聞いていくにつれて、次第にその考えに暗雲が立ち込めてきた。
「何故そんな真似を?ずっと自分の手元に置こうとはしなかったの?」
「貴方の魂の錬磨を待っていたんだ。俺と一緒に永劫の時を彷徨う為には、現世で修行をしなければならなかった……強靭な魂に育たなければ、俺の傍らにあっても、いつか塵芥同然の存在になってしまうから」
「じゃあ、今までずっと黙っていたのに、今になってこうして接触してきたのは、僕の魂の修行の旅が漸く終わったから?」
「……うん」
気の長い話だ。どれだけの時間を掛けて、僕の魂を追いかけ続けてきたのか。例え、それが一方通行の想いだったとしても、そこに掛ける熱意や直向きさには翳りなど存在しない。しかし、これだけの話を聞いてしまったら、いよいよ『 』が、神様を語った別の『ナニカ』だという僕の推察が揺らいでしまう。
悪いだけのもの、邪悪なもの、人の命を弄ぶもの……そんな、分かりやすい悪であったなら、こうまでして接し方に悩まずに済んだのに。
「『 』は、本当に神様なの?」
「人間の認識というか、辞書でいうなら」
「なら、一体、なんの神様なの?」
「知らない」
正と悪とを決めるのは、いつだって人間だった。自分達に理があるものを神と崇め、自分達にとって邪なるものを悪魔やバケモノと呼び忌み嫌った。けれど、そのどちらでもない、中間にある存在が、もしも本当に存在したとしたならば。
「ただ、この世界は、貴方の魂の揺籠に相応しい様に、俺が一から作りました」
きっとその存在は、他のどんなものよりも、独善的だ。
身体の震えが治まらない。冷気に当てられて震えていた、さっきまでとはまるで違う。全身を包み込む、ねっとりと纏わりついてくる様な生暖かい空気が、僕の身体の自由を奪っていた。指先一つとして動かせず、呼吸も覚束なくなる。
『 』は、そんな僕の様子を見て、満足げな笑みを一つ浮かべると、一度立ち上がってから僕の背後にゆっくりと回り、再び音もなく腰を下ろした。そして、歯の根が合わず、ガチガチと奥歯を鳴らす僕の身体を、後ろからすっぽりと抱き締めると、僕のうなじや首筋に鼻先を押し当てて、深い深呼吸をした。
まだ女を知らない、青臭い雄の匂いを堪能する様に。
「や、……っ、……」
夏使用の学生服の上から上半身をゆっくりと撫で回され、布地の上から、胸の尖りに爪先を引っ掻けられる。刺激によって生理的な反応を見せ始めた其処が、つん、と存在を主張してきた所で、『 』は僕の汗ばんだシャツの中に、ぬっと右手を侵入させた。
「……ぁ、……んっ……」
インナーを掻い潜り、直に胸の尖りに触れると、『 』は、充血した其処を指の腹や爪先を使ってしきりに愛撫し、時たま親指と人差し指で摘み上げては、くりくりと扱く様にその指を動かしていった。初めて他人から与えられる性的な刺激と、それを与えてくる未知の存在への恐怖に震え上がった僕の全身は痺れた様に動かなくなってしまい、『 』にされるがままの状態を受け入れるしかなかった。
「……や、……やだ、……」
僕の胸の尖りに向けていた執着を半分だけ手放すと、『 』はもう半分の執着を、僕のズボンの下にある、ふっくらと充血し始めた部分に向け始めた。生理的な刺激を受けて兆しを見せ始めた其処は、まだ勃起するだけで痛みを生じる状態……所謂、真性包茎の状態にあったから、勃起する事自体に恐怖心があったのだけど。『 』は構わずにズボンの上から恥部を弄って、そこに血流を集めていった。
「いた……痛い、……やめ、…ん……」
「怖がらないで。俺が付いてるから大丈夫。皮を剥くのも全部、後で俺がしてあげる。貴方の初めては、全部、俺が……だから、このまま何も考えずに気持ち良くなって」
ベルトを外し、ホックとチャックを片手で手早く解放すると、『 』は、薄らとした茂みの先にある兆し始めた性器を、初手から根本までがっぷりと掴んでいった。成人男性の田邊さんの掌の中に、すっぽりと収まってしまう成長期只中の未成熟な性器は、それだけで恐怖に打ち震え、みるみると萎縮してしまった。腕力でも、体格でも、何一つ敵わず、抗えない。それでいてその相手の中身は、人知の及ばぬ存在とまでなってしまえば、僕の中に、抵抗するという選択肢は存在しなかった。
僕は、このまま犯されるのだろう。せめて、これまでの鬱憤をある程度晴らして貰ったら、田邊さんにその身体を返してあげて欲しいと思うけれど。それ以上に、これまでの鬱憤を晴らした『 』が、僕自身に向ける執着を少しでも手放してくれたらいいな、とも思った。
「あったかい」
身体の中でも最も無防備な急所を握り締めた『 』は、感慨深くそう呟くと、胸に寄せていた執着を手放し、僕の頬をするりと撫で上げてから、ひたり、と視線を合わせた。そして、何も言わずに、何の予備動作すらなく僕の唇を奪うと、そのまま口内に長々と舌先を侵入させ、縮こまっていた僕の舌を舌根から引き摺りだして、まるで甘い蜜を堪能するかの様に僕の唾液を啜り上げた。
全てが初めてなのに、最初からこんな濃厚なキスを身体に教え込まれてしまったら、僕の身体は、一体どうなってしまうんだろう。そもそも、『 』はこれから、僕をどうするつもりでいるんだろう。
「茜のおちんちん、また元気になってきたね。さっきまであんなに怖がって縮こまってたのに、キスで感じた?……素直で可愛いよ」
夫婦とか、本気で言ってるのかな。多分、本気なんだろうな。僕は男だけど、あまり性別に関しては気にしてないのかな。
「自分でした事ないから、全部分からないよね。ここをこうして扱いてあげるとね、段々と、おちんちんがむずむずしてくるんだ。だけど、怖がってそこで止めちゃ駄目だよ。白いのが出るまで、きちんと面倒みてあげて。でも、これからは俺がしてあげるから、別にやり方なんて覚えなくてもいいけれど」
身体はどうするつもりなんだろう。ずっとこのまま、田邊さんの身体を使い続けるつもりなのかな。それとも、早々に僕の命を現世から抜き取って、自分の側に置くつもりでいるのかな。僕が夫婦の契りを交わさなければ、きっと直ぐにそうするつもりではいるんだろうけど。だとしたら、気持ちの通じ合っていない僕を隣に置いて、『 』はそれで幸せなんだろうか。
「……ッ、ゃ、……だめ……おしっこ、でる…」
「大丈夫、おしっこじゃないよ。だから、安心してそのまま出して」
「やだ、そんなの、はずかし……っ、やめて、おねが……ん、ッ」
「茜、嗚呼、可愛い……怖がってる姿も、恥ずかしがってる姿も、全部。なんで、どうしてこんなに可愛いの」
「手、とめて、も……ほんとに、でちゃう、…ぁっ、あ、っ……」
「一杯出して。精通したばかりの、青臭いザーメン」
「……ッッぁ、……はぁっ、あぁッッ」
まぁ、でも。
そこまで考えてあげる義理はないか。
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