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第二話『ソレ』

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どうしたらいいか分からなくなったのは、中学二年生の夏休み。初めて、同級生にこっそり自慰する時のお供にする情報源は何かを聞かれた時だった。


僕自身は、誰か他の人の破廉恥な姿を見て興奮して、身体の中に生まれた熱を発散したいといった欲求を持った事がなかったから、どう答えたらいいか分からなくて。曖昧に笑って、自分はどうなの?と質問に質問を返す事でその場をやり過ごそうとした。


すると、元から自分の話をしたくて堪らなかったのか、その同級生は自分がいま好意を抱いている隣のクラスの女子を引き合いに出して、興奮した様子で理想のセックスについて語り始めた。その、身近にいる人物を対象とした生々しい妄想に辟易とした僕は、早くこの場から去りたいという一念を胸に抱いて、教室の床に視線を落としたのだけど。


その瞬間。この世界にある、生き物や無機物が生み出す、あらゆる音という音が、消えて失せた。


誰かに、優しく耳を塞がれた様に。
猥雑な情報から、僕の身を守るかの様に。


だけど、僕の胸に湧いた感情は、感謝でも安堵でもなく、当たり前の様に、恐怖そのもので。背中、脇、掌、全身のあらゆる汗腺が開栓し、全身をしっとりと濡らしていく状況にすら、身じろぎ一つとして反応が返せなかった。


何か、一つでも反応を返してしまえば。この存在を感知したと、この存在に悟られてしまえば。僕は、この先、『一人』から『二人』になってしまうから。


自分の過大妄想を教室の片隅でひけらかし紅潮していく同級生の頬。次第に霞んでいく意識の中、それだけは、記憶に残っている。


だから、僕がその場で気絶をした為に、突然呻き声を上げて発狂したその同級生が、開け放たれていた教室の窓から飛び降りたその瞬間を見なくて済んだのは、もしかしたら、その存在の気遣いだったのかもしれない。


その存在、『ソレ』は何者なのか。そもそも、そこに疑問を抱いていいのか。疑問を持つという事は、興味を抱くという事に繋がる。だとしたら、これから先を生きていく自分にとって、それは、どんな意味を持つのか。


『ソレ』を『ソレ』と認識してしまって、本当にいいのか。ソレは、それを望んでいるのだろうか。だとしたら、普段何の接触も持とうとしてこない理由は何だろうか。これは、単なる僕が生み出した妄想で、精神的な疾患を抱えているというだけの話では無いのだろうか。


悩みに悩んで、しかし、それすらも悟られてしまったらと思い、気持ちに蓋をする。もしもいつか、『ねぇ』と声を掛けられでもした時に、身構える事なく、素直に驚きを返したいから。





『居たの?ちっとも気が付かなかった』って。




「ねぇ、ちょいとアンタ」


高校受験の為に通っていた塾の帰り道。商店街の通りにいる神社の入り口付近に、占術を営む老女がいるのは、僕も知っていた。クラスの女子の間では割と好感触で受け止められていたその占術士は、話術を巧みに駆使して、主に恋愛についてのあっさりとしたアドバイスをする事で人気を集めていた。そんな、怪しげな人物から突然声を掛けられたので、初めのうちは訝しんでいたのだけど。脂汗をじっとりと額に浮かべた老女の、鬼気迫るその様子を見て、単なる客引きの一種とは違った感覚を覚えた僕は、ゆっくりと老女の元に歩み寄った。


「あの、何か?」

「……本当はね、私も声なんて掛けたくなかったんだけどさ。其方さんからのお願いだから、仕方なくね。だから、要件だけ伝えるよ」

「……はぁ」


『其方さん』とは、一体何のことなのか。嫌々声を掛けてきた、というのは、態度からして本当の事のようだけれど。ただ、単なる客引きとは違った、というのは間違ってはいないようだ。老女は、今にも卒倒しそうな顔色でもって、続けた。


「アンタ、この先、ずっと独り身で過ごしな。周りを不幸にしたくなかったらね」


商売で、こんな物騒な話を突然頭ごなしに持ち掛けたりしないだろう。だから、その言葉の内容には、ずしり、とした重みがあった。


「仕事は、極力人と関わらない物を選びな。当たり前だけど、恋人も家庭も作ったらいけないよ。相手や、その家族を巻き込むからね」

「それは、何故ですか?」

「私の口からは言えないね。言ったら、私が駄目になる」


駄目になる、の内容について、老女は口を閉ざした。けれど、それがどんな意味を持つのか、僕は、同級生の一件で身を持って理解しているから、それ以上は追求しなかった。


それにしても、こうして遠回しにでも、僕に接触を試みてくるだなんて。これまでこんな経験をした試しは無かった。普段はこれといって接触をしてこずに大人しくしてくれている『ソレ』にしては、何だか粗忽に感じてしまう。


嗚呼、いけない。『ソレ』だなんて、意識の上でも存在を固定してしまったら、本当にその存在が在ると認識してしまう様なものなのに。


ただ、それでも。


「怖いです」


押し迫る恐怖を振り払う事は、出来なかった。


「なんで、僕なんですか?恨みを買ったなら、謝ります。でも、どうしても、僕にはそれが思い当たらない。だから、謝りようがなくて。どうしたら、僕を……僕から、離れてくれますか」

「……難しい問題だね。こればかりは、簡単には教えて貰えないからね。ただ、一つ言えるのは、アンタが其方さんから、大層気に入られてるという事さ。決して恨まれてはいないから、安心しな」


安心できる要素が全くない。好きな人が出来たら相手を不幸にする。結婚もしてはならない。人と極力関わるな。と言われて、はいそうします、と直ぐに納得出来る人間が、どこにいるというのか。だけど、初めて自分以外にその存在を『固定』した人間に出会えたから、僕は、腹の底から湧いてくる憤りや恐怖をグッと堪えて、老女に質問をした。


「どうしたら、僕から離れてくれますか?」

「悪い物ならやりようはあるが……アンタを守っとる其方さんは、私なんぞには、はかれない存在だからね。もしも、もっと其方さんとの間で少しでも都合をつけたいなら、私の師匠を紹介するよ」


詐欺かもしれない。霊感商法の可能性だって勿論ある。親を駆り出してお金の無心をするか、もしくは、犯罪紛いの行いをさせて、僕の将来性を奪うつもりなのか。どこからどう見てもお金の匂いがしない僕でも、悪い大人からしてみれば、お金の引っ張りようなんて、いくらでもあるだろう。でも、僕は老女のその申し出に、深く頷いた。藁にも縋る思いとは、まさにこの感情を差すのだろうと分かりながら。


何故なら、僕は、本当の自由というものを知らない人間だったから。


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