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最終章 『最愛』
第一話 あのまま、キスしとけば良かった
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事情を知らない人間から見てみれば、まるで激しい苛立ちや怒りを全身に纏っているかの様な荒々しい足取りで……その実、そそくさとあの場から逃げ出す様にして訪れたキッチンの、作った料理やお茶や食器を一旦置く為のスペースとして利用しているテーブルには、俺が出前を頼み、事前に取り寄せていた近所でも評判の寿司屋の特上寿司が、ラップをして其処に置かれていた。
その、味も見た目も申し分がない、矢澤家の家族全員の折り紙付きのおもてなし料理が置かれたテーブルの端に手を置くと、俺はその場にずるずると座り込んで、顔を手の平で覆い、はぁぁ……と、深い溜息を吐いた。
「………何やってんの、俺」
自分自身に向ける、落胆、後悔、焦燥、苛立ち、怒り……その他、諸々に付属した感情を抑える為に、あの人を振り切って逃げ出す様な行為に走ってしまった自分自身に、信じられない想いを抱く。
こんな風にして、誰かの前から逃げ出した経験は、いつを振り返って見ても、一度もなかったのに。
肩書きのしっかりした父や母よりも年上の人に試合内容や成績に付いていちゃもんを付けられても。コーチや先輩から必要以上の可愛がりを受けても。学業もスポーツも両立している事実に嫉妬心を持った同級生から難癖を付けられても。俺はその相手を前にして、自分から背を向けた事は無かった。
相手の度量や、絡んできた理由の真意を理解して向こうの算段を見定め、態々相手にしなかった時も勿論ある。結果や試合で勝てないからと、場外で試合をして本来の試合内容や俺の評判に傷を付けようと画策する輩なんて、幾らでも居たからだ。けれど、今回の場合は、そのどの時のケースにも当て嵌まらない。
あの人は、何も悪くないのに。全部が全部、俺個人が持ち合わせている感情の所為なのに。もっと言葉を尽くせば、俺がもっと器用な人間なら、あんな風にして、あの人を傷付ける様な言葉なんて選ばなかったのに。
……いや、でも、それをしなければ、俺は。
『う、ん……分かった。この服は、お部屋着にするね。それで、律以外の前では、恥ずかしいから着ないようにする。教えてくれて、ありがとう、律』
『律は、優しいね。僕みたいに抜けてる人間にも、こうして気遣ってくれて……誰かから服を貰ったりした事ないから、お返しに何を返せばいいのか分からないんだけど、何か、僕に出来る事はないかな?』
強く噛み締めた奥歯が、がり、と不穏な音を立てる。こんな風に強く噛み締めては、身体が資本の俺にとって、パフォーマンスにも影響する可能性があるのに。普段、練習する時に装着するマウスピースは、今は洗面台にあるから、それを取りに行くには、あの人がいる居間を通るしかないので、それもままならず。ただ黙って、自分の身体を痛め付ける自分自身を見送り続けるしかなかった。
あの人は、誰に対しても、あんな風に自然に、人の懐にするりと入り込む様な態度を取っているんだろうか。
あの、甘い甘い言葉選びは。
あの、甘える様な仕草は。
あの、柔らかな声色は。
あの、艶々と潤んだ瞳は。
俺以外の他の誰を相手にしても、無作為に向けられている物なんだろうか。
……冗談だろ。あんな人、本当に実在していいの?
存在自体が規格外過ぎて、あれじゃあ、兄貴が浮気疑われるのも仕方ないなと思えた。あの人に関わってきた中で、性癖を狂わされた人間なんて、幾らでも居ただろう。兄貴は一応、ギリギリの所で踏ん張っていた形跡は確認出来たので、そんな風にして頑張って踏みとどまって来た人達には、寧ろ同情心すら覚えるけれど。しかし、あれは……俺と『同種』の人間にとってみたら、目の毒なんて物じゃあ収まらないぞ。
雪の様に白く、透き通る程にきめ細やかな肌膚。ふっくらと柔らかで、ぽってりと麿みを帯びた紅い唇。黒蜜を溶かし込んだ様に甘い目元と、その眼差し。夜空を映し込んだかの如く艶やかな黒髪。抱き締めたら壊れてしまいそうなくらい華奢な体躯。自然な上目遣いが叶う、男がキスをするのに都合が良い身長。
そして何よりも。誰しもを受け入れる、驚くほどに柔らかな物腰と、生来からの其れであると誰しもが分かる穏やかな気質。無意識に男の庇護欲と支配欲求を刺激してくる、その全てが、俺の心の柔らかな部分を捉えて離さない。
「……遠くから見てる時でも、結構な破壊力だったんだけどなぁ」
自宅や練習場に備え付けてある機材で、充分トレーニングには事足りていたけれど。気分転換にも広告塔にもなるからとお試し価格以下で勧められたジムで、初めてあの人をジムで見掛けた時の衝撃は、計り知れない物があった。
こんなにも、自分の心の琴線に触れる人が、存在していただなんて、と。
競技人口が狭く、それに総じて人付き合いも濃くなりがちで、自分自身が性的マイノリティに所属している事を自覚している俺にとって、恋愛なんて縁遠い代物だったけれど。あの人を一目見たその時から、ジムに通う理由が、気分転換のトレーニングから、一日でも早くあの人の視界に入り込む事に切り替わった。
今日も話し掛けられなかった。次こそは、明日こそは。嗚呼、だけど、あの人は間違いなく俺とはジムに通う目的が違うから、筋トレばかりしている俺が突然声を掛けても不審に思って話を続けてくれないかもしれない。あの人に距離を置かれでもしたら、それこそ深い、取り返しが付かないまでの心理的ダメージを負ってしまうじゃないか。それに、トレーナーの阿部さんと随分と打ち解けている様子だし、もしかしたら二人は……いや、自分がそうだからって、他の男性まで色眼鏡で見たらいけないよな。でも、どう見ても阿部さんは、あの人に対するボディータッチが他の人より多めだし、話している内容も自分のプライベートな内容に必要以上に食い込んでいる気がする。だから、あの人は違っても、阿部さんはあの人を狙っている可能性は充分に……いや、寧ろ絶対にそうだ。自分の男としての勘が『そうだ』と叫んでいる。その心の声に従って、いま動きを取らなければ、後で絶対に後悔する事になるぞ。だから、明日こそは、必ずあの人に……
そう、来る日も来る日も奮起しては、今日も駄目だったとガックリと肩を落として帰宅して。見た所どうやら社会人みたいだから、仕事終わりにジムに通っているあの人に合わせて、日中は練習に勤しんでから、夕方からジムに詰めて。ジムにあの人が現れると、視界に入るか入らないかの所を選んで、黙々と筋トレに励んで……今日もまた駄目だったと、打ちひしがれて。
そうこうしているうちに、決して長いとは言えない選手生活において最も大事な位置にある、四年に一度しかない大会が近付いて。コーチとの相談をした結果、大会に向けての調整の必要性があるからと、そのジムに通うのを一旦諦める事になった。
だけど、もしもその大会で良い成績を残せたら、生放送のTV中継も相まって、あの人の視界に入り込む事が出来るかもしれないと、ふと、思い至った。今のところ、自分自身のコンディションは良い位置まで持って行けているし、一番良い色のメダルにも、もしかしたら。そうして考え付いた俺は、元から切り替えが早い性格的気質を発揮して気持ちを切り替え、只管にトレーニングに励み、調整に調整を重ねて、四年に一度の大会、オリンピックに臨んだ。
でも、そうした邪念があったのがいけなかったのかもしれない。結果として、俺は一番良い色のメダルを母国に持ち帰る事なく帰国して、自分自身に対する自信すらも喪失してしまった。
それなのに、母国ではまるで英雄の様に持て囃されて。インタビューでの殊勝な様子が好印象だったとか、謙虚な姿に好感を抱かれただとか、大会の内容とは乖離した、自分では良くわからない理由で、スポーツクライミング全体の広告塔として奉り上げられてしまった。
ただ、申し訳ない事に、自分自身の性的思考も相まって、女性人気が高くても、特別嬉しいという感情は俺の中には芽生えない。スポーツクライミングの布教に自分の名前が役立つのは悪い気持ちでは無かったし、俺に出来る事があるなら、いくらでも協力するつもりはあったけれど。自分の自己評価とは真逆の世間の反応を見ているうちに、俺自身は次第に冷静になっていった。
俺みたいな、陰日向に咲く様な存在には、所詮、幸せな恋愛なんて望みようが無い。だったら、いっその事、スポーツクライミング全体の発展の為に、そして、俺をここまで支え続けてくれた人達に恩返ししていくつもりで、一心不乱にスポーツクライミングに向き合って、新規ファンや選手獲得の為の客寄せパンダとして生きて行くのもアリかもしれない。そうと考え付くと、俺は、オリンピックに向けた調整が始まる前まで、あの人と知り合う目的でダラダラと通っていたジムを解約し、再びスポーツクライミング一色の生活に没入していった。
けれど、そうと思い込んで、あの人に出会う迄に過ごしていた時間と同じ生活に戻ってみると。其処には、まるで灰色一色の光景しか広がっていなかった。
どれだけの課題に取り組んでも。自己最高の記録を自分自身で塗り替えても。観客席に大観衆を抱えた、これ迄にない注目と歓声を浴びる中で、試合を勝ち進んで栄光を手にしても。胸の内側に、全くといって達成感や高揚感が湧き上がってこない。周囲の明るい表情や評価する声を受けても、次の四年後こそ一番良い色のメダルを獲得出来ると、コーチや、幼い頃から切磋琢磨してきたライバル達に太鼓判を押されても、心の中の何処にも、何の感慨も湧いてこない。
そうしていくうちに、俺は、自分自身のスランプを、自然に、そしてはっきりと、自覚した。
あの人という存在を、あの人との出逢いを、自分の中で無かった事にするという事は。恋という事象だけでなく、この世界を彩る、色という色を失ってしまう事と同じ意味を持つのだと理解して。
名前も知らないその人を想って。生まれて初めて抱いた感情を自分の手で殺した自分自身の罪を想って。布団の中で、朝が来るその時まで、声を枯らして、泣いた。
否、本当は、その人の名前は知っている。トレーナーの阿部さんとの間で交わされる、漏れ聞こえてくる会話から、名前だけは把握していた。だけど、芸能人や著名人でもない限り、声を掛けて、会話して、自己紹介をして初めて、人は、その人の名前を知り合いとして口にして良いと思っているから。俺の頭の中で、その人の名前はしっかり固定されているとしても、口に出そうとは思わなかった。
それに、その人の名前を口にしたら、その瞬間。枯れていた涙が、再び涙腺から噴き上げてくるだろうと、想定ではなく事実であると知れていたから。決して忘れられない存在として、自分の心の中で取り置いていたとしても、名前だけは口にしない様にと、固く自分自身に誓っていたんだ。
なのに。思いも寄らぬ相手から、その人の名前を口にされて。俺の心は、再び大きく掻き乱されていった。それが、自分自身の姉の婚約者の口からだった事実も併せて。
結局、兄貴の浮気相手がその人だった、というのは、周囲の勘違いというか、早とちりだったのだけど。地元のクライミング仲間に、最近凄く可愛い生徒が入ってきたと自慢しまくっていた、兄貴にも責任はあると思っている。今時あんなに素直で謙虚な子は居ないと、クライミング仲間を捕まえる度に、聞いてもいないのに惚気る様にしてその人の人柄やスポーツクライミングに寄せる直向きな様子を熱弁しているうちに、その名前が女性にも使われる名前だったのもあり、その内、話に尾鰭が付いて……兄貴が、もっと婚約者がいる人間なのだという自覚を持って行動していれば、あんな悲しいすれ違いは生じなかったかもしれないのに。
因みに、俺の姉の件についても、勿論、冤罪だ。ただ、一緒に働いてる既婚者の上司に執念く付き纏われているのは確かだった。上司の態度や日頃の発言などが職場で噂になってしまい、いつの間にか、姉も乗り気になって不倫関係にあるとの邪推が事実として語られる様になってしまったのだ。姉は地元企業に事務で勤めているので、いつしかそれが、婚約者である兄貴の耳にも伝わって……兄貴に心配させない様にと、姉が一人で頑張り過ぎて黙っていたのが、裏目に出た結果になってしまった。
そして、上記に挙げた問題がまだ全くと言って解決に至らなかった、二週間前の、あの日。俺は、これまでの人生で最大の失態を犯した訳である。
周囲の人や応援してくれているファンの方には申し訳ないけれど、あの日あの時にした失態に比べれば、四年に一度の国際大会、所謂、オリンピックでのメダルが銀に終わってしまった事実なんて、比べるに値しなかった。あっという間に遠い記憶の彼方。嗚呼、確かにそんな事もありましたね、くらいのものである。だから、ある意味で、あの時の大失態は、遠く迂回する格好でスランプの解消には役立っていたのかもしれないけれど。それは、あの人とこうして自宅で会える機会に恵まれるまで、ある程度打ち解ける事が出来た今だからこそそうと思えるだけですよね、という話ではあった。
あの時の俺の頭は、膨大な赤黒い感情に支配されていて。これまでの人生で一度も使ってこなかった様な、鋭く尖った言葉ばかりをずらずらと選んで、言葉を無くして呆然とするあの人に向けて、感情に任せて口にしてしまっていた。
婚約者がいる様な真面目な人間を手玉にとる人間だったのかと、人となりすら知らない癖に、勝手に裏切られた様な気持ちになって。兄貴の肩に掛けられたブランケットに、吐き気を催す程に嫌悪感と嫉妬心を抱いて。自分自身が、その人の隣に座っていない事実に、目が眩む程に絶望して。
だから、その人が、この世で最も忌々しくて堪らない存在であると、自分の中に設定する事で、自分の心を守ろうとした。そうでなければ、俺自身の心が、粉々に砕け散ってしまいそうだったから。
だけど、その最悪の想定が、全て俺の早とちりだったのだと、その場で直ぐ様、店の店主であり姉と俺の幼馴染である徳馬さんからの訂正が入って。そして、それが本当の事実として、俺の中でも固定化されていくと、頭に上っていた血が、次第にではなく、貧血を起こす程一気にざぁ、と音を立てて引いていって。
その人の忌々しくて堪らなかった涙が、途端に、この世で一番透明で、儚くて悲しい涙に、俺の目に映った。
その涙の原因となったのが、自分自身の存在と、その人を徹底的に傷付けようと口にした言葉の数々だという事実に、足元が崩れ落ちそうになる程の深い後悔と罪悪感とを胸に、全身に、宿した。
今でも、その時の激しい後悔は、自分の胸の中にしっかりと巣を張っていて。その巣の糸に絡みとられた自意識を、罪悪感という鋭く尖った針が、ちくちくと血が滲む程にまで甚振り続けている。
あの人と対峙し、コミュニケーションを図っていく上で、これから先も、その後悔と罪悪感は、俺の自意識をじりじりと甚振り続けていくのだろうけれど。あの人を、二度とあんな風に泣かせたりしないと心に誓った俺にとっては、足枷ではなく、戒めとして胸の内側の一番柔らかな場所に取り置かれている。
だけど、あの涙は。お互いの誤解が解けて、和解し合った後に流された、あの人の……恐らくは安堵から流されたのだろう其れは、はっきり言って想定外だった。
そして、その後に続く言葉も。
『矢澤さんに……嫌われて、なくて、……良かった……っ、よかったぁ……』
あんな台詞を耳にして、あんな温かい涙を、この目で見てしまったら。自分自身を押さえ付ける理由が、無くなってしまうじゃないかと、途方に暮れてしまって。
その人となりに触れてからの方が、より強い衝撃を受けるだなんて、思いもよらなくて。
……本当に、この世界に、あんな奇跡みたいな人が存在していただなんて、夢にも思わなくて。
出逢った頃よりも、知り合って、コミニケーションを重ねてきた今の方が、ずっとずっと深い感情を胸に抱いている。
それが、恋から愛に変わるのに、時間は殆ど掛からなかった。そして、たった二週間の内に、俺はこの先、どれだけあの人を自分の人生に巻き込めるのかだけを考える人間に様変わりしてしまった。
それなのに、あの人は。両親の影響で、生まれた頃からスポーツクライミング一筋で生きてきたこの俺を、これだけ自分に嵌らせて置きながら、あんなにも隙だらけな反応ばかり見せて。一体俺をどうしたいんだと、頭を抱えてしまう程、気が気じゃない態度ばかり取る様になって。
俺だけならいい。全く問題ない。寧ろ、どんどん甘えた姿や素の表情を引き出してくれた方がいい。そうじゃないと俺が困るし、あの人を甘やかせる状況が俺だけに許されるのは、本当の本当に、本望だから。だけど、あの人がこうして甘えてくる存在が、俺だけしかいないという甘い見立ては、浮かれきっている俺の頭であっても、流石に導き出せない。
「……知り合ったばっかの男の家に、簡単に上がるなよ」
誰に対しても同じ様にして、あんな風に隙だらけで、甘い仕草や声で接しているのだとしたら……
その、誰ともしれない相手を俺は、心の底から呪うだろうし、もし顔を合わせる機会があったら、そいつを人気の無い路地裏に連れ込んで、俺の人に手を出すな、と脅し付ける可能性すらあった。
脅し付けるだけで済むなら良いけれど。生涯に渡って俺という存在に怯えて過ごす程のトラウマを植え付ける必要性すら自分の中に見繕えたから。今後の選手生命と、そうする事により負うかもしれないリスクとを、胸の中にある天秤の反対の皿に乗せて、自分の中で何とか均衡を保っていた。
それに、あの人に簡単に手出し出来ない様に、あの人を自分自身のテリトリーに囲った方が何倍も手っ取り早いと考えて。その物騒な発想からは一旦離れて、より生産的な未来を想像する事にした。
先ずは、今回のお泊まりを成功させる所からスタートして。俺の誠実な人柄や、例えお互いに好意を抱いていたとしても、簡単には手出ししない俺という人間自体を信頼して貰って。次は、俺のホームにしている練習場に連れて行って、コーチやスタッフさんや、他にもいる練習仲間や顔見知りだとかにも、顔を覚えて貰って。俺が態々お膳立てしなくても、あの人の事だし、そこでの評判は勝手に上がっていくだろうから、そうしてクライマー間の空気を温めてから、俺の両親にも紹介して、徐々に家族ぐるみの付き合いをしていって。遠征先とか、試合にも呼んで、家族同然の扱いをしていって。俺と一緒に居ても、周囲の人間には、何の違和感も無くなるくらいの関係性を築いて………嗚呼、駄目だわ。というか無理だわ。
クライマー脳よろしく、黙々と、着々と、あの人を囲い込んでいく攻略方法を考えていったけど。そこまであの人に手出ししないでいられる自信が全くない。
「あー………早く既成事実が欲しい」
既成事実も何も、相手は男性だし、そもそも付き合ってすらいないけど。
『首元が余り過ぎて、肩まで見えてる。俺以外の前じゃ、着たら駄目だよ』
だなんて、分かり易く、どっぶりと独占欲や支配欲に塗れた台詞を口にしても、いまいち、此方の意図を汲んではくれていないし。
ただ、それでも。
あの人が、俺の事を好きでいてくれて、応援してくれているのは、俺にも分かるから。どれくらいの時間が掛かるかは分からないけれど、あの人の逃げ場がいつの間になくなる状況を作り上げて、いつか絶対に俺だけの人にしてみせると、それだけは決定事項として未来日記に書き加えている。
「……あの人、俺の何処が好きなんだろう」
クライマーとしての功績を見て憧れてくれる人は、沢山いるけれど。あの人は、これまで出会った誰とも違う反応ばかりを見せるから、どう接したらいいのか、全く分からない。距離を詰めようとすると、この手に、腕の中に、引き寄せようとすると。するり、と身を躱してあっという間に逃げていってしまう。にも関わらず、気が付いた時には俺の直ぐ側にいて、全身から迸る程の大好きオーラを放って擦り寄ってくる。
考えている事が、分かりそうで、ちっとも分からない。ただ分かる事は、俺にとってあの人が、世界一可愛い人だという事だ。
それにしても、危なかった。あのまま彼処にいたら、あの人の優しさや気遣いを勘違いした見知らぬ男共に必要以上に嫉妬して、まだ付き合ってもいないのに、行動制限とか、普段の格好にまでチェックを入れるところだった。それに、あのままでいたら、俺は絶対に、あの人をあの場所で……
抱き締めたい。
キスしたい。
セックスしたい。
ずっと一緒にいたい。
他の人なんて放って置いてよ。何処にも行かないでよ。俺の隣にいてくれよ、頼むから。なんで、あの人、こんなに俺の頭の中一杯にすんの。意味分かんない……辛い……辛いよ、真澄さん。
ぼとぼと、とキッチンの床に、生暖かい液体が零れ落ちていく。普段は、スポーツに従事する人間として、割と感情のコントロールが出来ている方だと自負しているけれど、あの人が絡むと途端に情緒が不安定になってしまう。スポーツクライミングにばかり時間を割いてきて、これまでずっと自分自身の恋愛に向き合って来なかったから、こんな風に初めて生まれた感情に振り回される結果になってしまったのかも知れないけれど。だとしても、この状況は、流石に度が過ぎている様に思えてならなかった。ただ、そうと思っても、自分にはどうする事も出来ない。
なんなの、さっきの。誘ってるの?どうしてあんなに可愛いの?何の確認もなく人差し指を第二関節まで胸元に突っ込まれて、キョトンじゃないでしょ。それに、彼氏でも何でもない人間に、明らかに独占欲とか支配欲求丸出しの台詞吐かれて、ありがとうって、何だよそれ。
「俺をどうしたいの。貴方は、俺とどうなりたいの………」
誰よりも優しくしたいのに、感情に振り回されてしまって、それが出来ない。
ただ愛したいだけなのに、笑顔が見たいだけなのに、自分の欲が、それを邪魔してしまう。
「…………あのまま、キスしとけば良かった」
そして、それを無理矢理に既成事実として掲げて、自分達の関係性に、誰の目にも明らかな名称を付けてみたかった。
事情を知らない人間から見てみれば、まるで激しい苛立ちや怒りを全身に纏っているかの様な荒々しい足取りで……その実、そそくさとあの場から逃げ出す様にして訪れたキッチンの、作った料理やお茶や食器を一旦置く為のスペースとして利用しているテーブルには、俺が出前を頼み、事前に取り寄せていた近所でも評判の寿司屋の特上寿司が、ラップをして其処に置かれていた。
その、味も見た目も申し分がない、矢澤家の家族全員の折り紙付きのおもてなし料理が置かれたテーブルの端に手を置くと、俺はその場にずるずると座り込んで、顔を手の平で覆い、はぁぁ……と、深い溜息を吐いた。
「………何やってんの、俺」
自分自身に向ける、落胆、後悔、焦燥、苛立ち、怒り……その他、諸々に付属した感情を抑える為に、あの人を振り切って逃げ出す様な行為に走ってしまった自分自身に、信じられない想いを抱く。
こんな風にして、誰かの前から逃げ出した経験は、いつを振り返って見ても、一度もなかったのに。
肩書きのしっかりした父や母よりも年上の人に試合内容や成績に付いていちゃもんを付けられても。コーチや先輩から必要以上の可愛がりを受けても。学業もスポーツも両立している事実に嫉妬心を持った同級生から難癖を付けられても。俺はその相手を前にして、自分から背を向けた事は無かった。
相手の度量や、絡んできた理由の真意を理解して向こうの算段を見定め、態々相手にしなかった時も勿論ある。結果や試合で勝てないからと、場外で試合をして本来の試合内容や俺の評判に傷を付けようと画策する輩なんて、幾らでも居たからだ。けれど、今回の場合は、そのどの時のケースにも当て嵌まらない。
あの人は、何も悪くないのに。全部が全部、俺個人が持ち合わせている感情の所為なのに。もっと言葉を尽くせば、俺がもっと器用な人間なら、あんな風にして、あの人を傷付ける様な言葉なんて選ばなかったのに。
……いや、でも、それをしなければ、俺は。
『う、ん……分かった。この服は、お部屋着にするね。それで、律以外の前では、恥ずかしいから着ないようにする。教えてくれて、ありがとう、律』
『律は、優しいね。僕みたいに抜けてる人間にも、こうして気遣ってくれて……誰かから服を貰ったりした事ないから、お返しに何を返せばいいのか分からないんだけど、何か、僕に出来る事はないかな?』
強く噛み締めた奥歯が、がり、と不穏な音を立てる。こんな風に強く噛み締めては、身体が資本の俺にとって、パフォーマンスにも影響する可能性があるのに。普段、練習する時に装着するマウスピースは、今は洗面台にあるから、それを取りに行くには、あの人がいる居間を通るしかないので、それもままならず。ただ黙って、自分の身体を痛め付ける自分自身を見送り続けるしかなかった。
あの人は、誰に対しても、あんな風に自然に、人の懐にするりと入り込む様な態度を取っているんだろうか。
あの、甘い甘い言葉選びは。
あの、甘える様な仕草は。
あの、柔らかな声色は。
あの、艶々と潤んだ瞳は。
俺以外の他の誰を相手にしても、無作為に向けられている物なんだろうか。
……冗談だろ。あんな人、本当に実在していいの?
存在自体が規格外過ぎて、あれじゃあ、兄貴が浮気疑われるのも仕方ないなと思えた。あの人に関わってきた中で、性癖を狂わされた人間なんて、幾らでも居ただろう。兄貴は一応、ギリギリの所で踏ん張っていた形跡は確認出来たので、そんな風にして頑張って踏みとどまって来た人達には、寧ろ同情心すら覚えるけれど。しかし、あれは……俺と『同種』の人間にとってみたら、目の毒なんて物じゃあ収まらないぞ。
雪の様に白く、透き通る程にきめ細やかな肌膚。ふっくらと柔らかで、ぽってりと麿みを帯びた紅い唇。黒蜜を溶かし込んだ様に甘い目元と、その眼差し。夜空を映し込んだかの如く艶やかな黒髪。抱き締めたら壊れてしまいそうなくらい華奢な体躯。自然な上目遣いが叶う、男がキスをするのに都合が良い身長。
そして何よりも。誰しもを受け入れる、驚くほどに柔らかな物腰と、生来からの其れであると誰しもが分かる穏やかな気質。無意識に男の庇護欲と支配欲求を刺激してくる、その全てが、俺の心の柔らかな部分を捉えて離さない。
「……遠くから見てる時でも、結構な破壊力だったんだけどなぁ」
自宅や練習場に備え付けてある機材で、充分トレーニングには事足りていたけれど。気分転換にも広告塔にもなるからとお試し価格以下で勧められたジムで、初めてあの人をジムで見掛けた時の衝撃は、計り知れない物があった。
こんなにも、自分の心の琴線に触れる人が、存在していただなんて、と。
競技人口が狭く、それに総じて人付き合いも濃くなりがちで、自分自身が性的マイノリティに所属している事を自覚している俺にとって、恋愛なんて縁遠い代物だったけれど。あの人を一目見たその時から、ジムに通う理由が、気分転換のトレーニングから、一日でも早くあの人の視界に入り込む事に切り替わった。
今日も話し掛けられなかった。次こそは、明日こそは。嗚呼、だけど、あの人は間違いなく俺とはジムに通う目的が違うから、筋トレばかりしている俺が突然声を掛けても不審に思って話を続けてくれないかもしれない。あの人に距離を置かれでもしたら、それこそ深い、取り返しが付かないまでの心理的ダメージを負ってしまうじゃないか。それに、トレーナーの阿部さんと随分と打ち解けている様子だし、もしかしたら二人は……いや、自分がそうだからって、他の男性まで色眼鏡で見たらいけないよな。でも、どう見ても阿部さんは、あの人に対するボディータッチが他の人より多めだし、話している内容も自分のプライベートな内容に必要以上に食い込んでいる気がする。だから、あの人は違っても、阿部さんはあの人を狙っている可能性は充分に……いや、寧ろ絶対にそうだ。自分の男としての勘が『そうだ』と叫んでいる。その心の声に従って、いま動きを取らなければ、後で絶対に後悔する事になるぞ。だから、明日こそは、必ずあの人に……
そう、来る日も来る日も奮起しては、今日も駄目だったとガックリと肩を落として帰宅して。見た所どうやら社会人みたいだから、仕事終わりにジムに通っているあの人に合わせて、日中は練習に勤しんでから、夕方からジムに詰めて。ジムにあの人が現れると、視界に入るか入らないかの所を選んで、黙々と筋トレに励んで……今日もまた駄目だったと、打ちひしがれて。
そうこうしているうちに、決して長いとは言えない選手生活において最も大事な位置にある、四年に一度しかない大会が近付いて。コーチとの相談をした結果、大会に向けての調整の必要性があるからと、そのジムに通うのを一旦諦める事になった。
だけど、もしもその大会で良い成績を残せたら、生放送のTV中継も相まって、あの人の視界に入り込む事が出来るかもしれないと、ふと、思い至った。今のところ、自分自身のコンディションは良い位置まで持って行けているし、一番良い色のメダルにも、もしかしたら。そうして考え付いた俺は、元から切り替えが早い性格的気質を発揮して気持ちを切り替え、只管にトレーニングに励み、調整に調整を重ねて、四年に一度の大会、オリンピックに臨んだ。
でも、そうした邪念があったのがいけなかったのかもしれない。結果として、俺は一番良い色のメダルを母国に持ち帰る事なく帰国して、自分自身に対する自信すらも喪失してしまった。
それなのに、母国ではまるで英雄の様に持て囃されて。インタビューでの殊勝な様子が好印象だったとか、謙虚な姿に好感を抱かれただとか、大会の内容とは乖離した、自分では良くわからない理由で、スポーツクライミング全体の広告塔として奉り上げられてしまった。
ただ、申し訳ない事に、自分自身の性的思考も相まって、女性人気が高くても、特別嬉しいという感情は俺の中には芽生えない。スポーツクライミングの布教に自分の名前が役立つのは悪い気持ちでは無かったし、俺に出来る事があるなら、いくらでも協力するつもりはあったけれど。自分の自己評価とは真逆の世間の反応を見ているうちに、俺自身は次第に冷静になっていった。
俺みたいな、陰日向に咲く様な存在には、所詮、幸せな恋愛なんて望みようが無い。だったら、いっその事、スポーツクライミング全体の発展の為に、そして、俺をここまで支え続けてくれた人達に恩返ししていくつもりで、一心不乱にスポーツクライミングに向き合って、新規ファンや選手獲得の為の客寄せパンダとして生きて行くのもアリかもしれない。そうと考え付くと、俺は、オリンピックに向けた調整が始まる前まで、あの人と知り合う目的でダラダラと通っていたジムを解約し、再びスポーツクライミング一色の生活に没入していった。
けれど、そうと思い込んで、あの人に出会う迄に過ごしていた時間と同じ生活に戻ってみると。其処には、まるで灰色一色の光景しか広がっていなかった。
どれだけの課題に取り組んでも。自己最高の記録を自分自身で塗り替えても。観客席に大観衆を抱えた、これ迄にない注目と歓声を浴びる中で、試合を勝ち進んで栄光を手にしても。胸の内側に、全くといって達成感や高揚感が湧き上がってこない。周囲の明るい表情や評価する声を受けても、次の四年後こそ一番良い色のメダルを獲得出来ると、コーチや、幼い頃から切磋琢磨してきたライバル達に太鼓判を押されても、心の中の何処にも、何の感慨も湧いてこない。
そうしていくうちに、俺は、自分自身のスランプを、自然に、そしてはっきりと、自覚した。
あの人という存在を、あの人との出逢いを、自分の中で無かった事にするという事は。恋という事象だけでなく、この世界を彩る、色という色を失ってしまう事と同じ意味を持つのだと理解して。
名前も知らないその人を想って。生まれて初めて抱いた感情を自分の手で殺した自分自身の罪を想って。布団の中で、朝が来るその時まで、声を枯らして、泣いた。
否、本当は、その人の名前は知っている。トレーナーの阿部さんとの間で交わされる、漏れ聞こえてくる会話から、名前だけは把握していた。だけど、芸能人や著名人でもない限り、声を掛けて、会話して、自己紹介をして初めて、人は、その人の名前を知り合いとして口にして良いと思っているから。俺の頭の中で、その人の名前はしっかり固定されているとしても、口に出そうとは思わなかった。
それに、その人の名前を口にしたら、その瞬間。枯れていた涙が、再び涙腺から噴き上げてくるだろうと、想定ではなく事実であると知れていたから。決して忘れられない存在として、自分の心の中で取り置いていたとしても、名前だけは口にしない様にと、固く自分自身に誓っていたんだ。
なのに。思いも寄らぬ相手から、その人の名前を口にされて。俺の心は、再び大きく掻き乱されていった。それが、自分自身の姉の婚約者の口からだった事実も併せて。
結局、兄貴の浮気相手がその人だった、というのは、周囲の勘違いというか、早とちりだったのだけど。地元のクライミング仲間に、最近凄く可愛い生徒が入ってきたと自慢しまくっていた、兄貴にも責任はあると思っている。今時あんなに素直で謙虚な子は居ないと、クライミング仲間を捕まえる度に、聞いてもいないのに惚気る様にしてその人の人柄やスポーツクライミングに寄せる直向きな様子を熱弁しているうちに、その名前が女性にも使われる名前だったのもあり、その内、話に尾鰭が付いて……兄貴が、もっと婚約者がいる人間なのだという自覚を持って行動していれば、あんな悲しいすれ違いは生じなかったかもしれないのに。
因みに、俺の姉の件についても、勿論、冤罪だ。ただ、一緒に働いてる既婚者の上司に執念く付き纏われているのは確かだった。上司の態度や日頃の発言などが職場で噂になってしまい、いつの間にか、姉も乗り気になって不倫関係にあるとの邪推が事実として語られる様になってしまったのだ。姉は地元企業に事務で勤めているので、いつしかそれが、婚約者である兄貴の耳にも伝わって……兄貴に心配させない様にと、姉が一人で頑張り過ぎて黙っていたのが、裏目に出た結果になってしまった。
そして、上記に挙げた問題がまだ全くと言って解決に至らなかった、二週間前の、あの日。俺は、これまでの人生で最大の失態を犯した訳である。
周囲の人や応援してくれているファンの方には申し訳ないけれど、あの日あの時にした失態に比べれば、四年に一度の国際大会、所謂、オリンピックでのメダルが銀に終わってしまった事実なんて、比べるに値しなかった。あっという間に遠い記憶の彼方。嗚呼、確かにそんな事もありましたね、くらいのものである。だから、ある意味で、あの時の大失態は、遠く迂回する格好でスランプの解消には役立っていたのかもしれないけれど。それは、あの人とこうして自宅で会える機会に恵まれるまで、ある程度打ち解ける事が出来た今だからこそそうと思えるだけですよね、という話ではあった。
あの時の俺の頭は、膨大な赤黒い感情に支配されていて。これまでの人生で一度も使ってこなかった様な、鋭く尖った言葉ばかりをずらずらと選んで、言葉を無くして呆然とするあの人に向けて、感情に任せて口にしてしまっていた。
婚約者がいる様な真面目な人間を手玉にとる人間だったのかと、人となりすら知らない癖に、勝手に裏切られた様な気持ちになって。兄貴の肩に掛けられたブランケットに、吐き気を催す程に嫌悪感と嫉妬心を抱いて。自分自身が、その人の隣に座っていない事実に、目が眩む程に絶望して。
だから、その人が、この世で最も忌々しくて堪らない存在であると、自分の中に設定する事で、自分の心を守ろうとした。そうでなければ、俺自身の心が、粉々に砕け散ってしまいそうだったから。
だけど、その最悪の想定が、全て俺の早とちりだったのだと、その場で直ぐ様、店の店主であり姉と俺の幼馴染である徳馬さんからの訂正が入って。そして、それが本当の事実として、俺の中でも固定化されていくと、頭に上っていた血が、次第にではなく、貧血を起こす程一気にざぁ、と音を立てて引いていって。
その人の忌々しくて堪らなかった涙が、途端に、この世で一番透明で、儚くて悲しい涙に、俺の目に映った。
その涙の原因となったのが、自分自身の存在と、その人を徹底的に傷付けようと口にした言葉の数々だという事実に、足元が崩れ落ちそうになる程の深い後悔と罪悪感とを胸に、全身に、宿した。
今でも、その時の激しい後悔は、自分の胸の中にしっかりと巣を張っていて。その巣の糸に絡みとられた自意識を、罪悪感という鋭く尖った針が、ちくちくと血が滲む程にまで甚振り続けている。
あの人と対峙し、コミュニケーションを図っていく上で、これから先も、その後悔と罪悪感は、俺の自意識をじりじりと甚振り続けていくのだろうけれど。あの人を、二度とあんな風に泣かせたりしないと心に誓った俺にとっては、足枷ではなく、戒めとして胸の内側の一番柔らかな場所に取り置かれている。
だけど、あの涙は。お互いの誤解が解けて、和解し合った後に流された、あの人の……恐らくは安堵から流されたのだろう其れは、はっきり言って想定外だった。
そして、その後に続く言葉も。
『矢澤さんに……嫌われて、なくて、……良かった……っ、よかったぁ……』
あんな台詞を耳にして、あんな温かい涙を、この目で見てしまったら。自分自身を押さえ付ける理由が、無くなってしまうじゃないかと、途方に暮れてしまって。
その人となりに触れてからの方が、より強い衝撃を受けるだなんて、思いもよらなくて。
……本当に、この世界に、あんな奇跡みたいな人が存在していただなんて、夢にも思わなくて。
出逢った頃よりも、知り合って、コミニケーションを重ねてきた今の方が、ずっとずっと深い感情を胸に抱いている。
それが、恋から愛に変わるのに、時間は殆ど掛からなかった。そして、たった二週間の内に、俺はこの先、どれだけあの人を自分の人生に巻き込めるのかだけを考える人間に様変わりしてしまった。
それなのに、あの人は。両親の影響で、生まれた頃からスポーツクライミング一筋で生きてきたこの俺を、これだけ自分に嵌らせて置きながら、あんなにも隙だらけな反応ばかり見せて。一体俺をどうしたいんだと、頭を抱えてしまう程、気が気じゃない態度ばかり取る様になって。
俺だけならいい。全く問題ない。寧ろ、どんどん甘えた姿や素の表情を引き出してくれた方がいい。そうじゃないと俺が困るし、あの人を甘やかせる状況が俺だけに許されるのは、本当の本当に、本望だから。だけど、あの人がこうして甘えてくる存在が、俺だけしかいないという甘い見立ては、浮かれきっている俺の頭であっても、流石に導き出せない。
「……知り合ったばっかの男の家に、簡単に上がるなよ」
誰に対しても同じ様にして、あんな風に隙だらけで、甘い仕草や声で接しているのだとしたら……
その、誰ともしれない相手を俺は、心の底から呪うだろうし、もし顔を合わせる機会があったら、そいつを人気の無い路地裏に連れ込んで、俺の人に手を出すな、と脅し付ける可能性すらあった。
脅し付けるだけで済むなら良いけれど。生涯に渡って俺という存在に怯えて過ごす程のトラウマを植え付ける必要性すら自分の中に見繕えたから。今後の選手生命と、そうする事により負うかもしれないリスクとを、胸の中にある天秤の反対の皿に乗せて、自分の中で何とか均衡を保っていた。
それに、あの人に簡単に手出し出来ない様に、あの人を自分自身のテリトリーに囲った方が何倍も手っ取り早いと考えて。その物騒な発想からは一旦離れて、より生産的な未来を想像する事にした。
先ずは、今回のお泊まりを成功させる所からスタートして。俺の誠実な人柄や、例えお互いに好意を抱いていたとしても、簡単には手出ししない俺という人間自体を信頼して貰って。次は、俺のホームにしている練習場に連れて行って、コーチやスタッフさんや、他にもいる練習仲間や顔見知りだとかにも、顔を覚えて貰って。俺が態々お膳立てしなくても、あの人の事だし、そこでの評判は勝手に上がっていくだろうから、そうしてクライマー間の空気を温めてから、俺の両親にも紹介して、徐々に家族ぐるみの付き合いをしていって。遠征先とか、試合にも呼んで、家族同然の扱いをしていって。俺と一緒に居ても、周囲の人間には、何の違和感も無くなるくらいの関係性を築いて………嗚呼、駄目だわ。というか無理だわ。
クライマー脳よろしく、黙々と、着々と、あの人を囲い込んでいく攻略方法を考えていったけど。そこまであの人に手出ししないでいられる自信が全くない。
「あー………早く既成事実が欲しい」
既成事実も何も、相手は男性だし、そもそも付き合ってすらいないけど。
『首元が余り過ぎて、肩まで見えてる。俺以外の前じゃ、着たら駄目だよ』
だなんて、分かり易く、どっぶりと独占欲や支配欲に塗れた台詞を口にしても、いまいち、此方の意図を汲んではくれていないし。
ただ、それでも。
あの人が、俺の事を好きでいてくれて、応援してくれているのは、俺にも分かるから。どれくらいの時間が掛かるかは分からないけれど、あの人の逃げ場がいつの間になくなる状況を作り上げて、いつか絶対に俺だけの人にしてみせると、それだけは決定事項として未来日記に書き加えている。
「……あの人、俺の何処が好きなんだろう」
クライマーとしての功績を見て憧れてくれる人は、沢山いるけれど。あの人は、これまで出会った誰とも違う反応ばかりを見せるから、どう接したらいいのか、全く分からない。距離を詰めようとすると、この手に、腕の中に、引き寄せようとすると。するり、と身を躱してあっという間に逃げていってしまう。にも関わらず、気が付いた時には俺の直ぐ側にいて、全身から迸る程の大好きオーラを放って擦り寄ってくる。
考えている事が、分かりそうで、ちっとも分からない。ただ分かる事は、俺にとってあの人が、世界一可愛い人だという事だ。
それにしても、危なかった。あのまま彼処にいたら、あの人の優しさや気遣いを勘違いした見知らぬ男共に必要以上に嫉妬して、まだ付き合ってもいないのに、行動制限とか、普段の格好にまでチェックを入れるところだった。それに、あのままでいたら、俺は絶対に、あの人をあの場所で……
抱き締めたい。
キスしたい。
セックスしたい。
ずっと一緒にいたい。
他の人なんて放って置いてよ。何処にも行かないでよ。俺の隣にいてくれよ、頼むから。なんで、あの人、こんなに俺の頭の中一杯にすんの。意味分かんない……辛い……辛いよ、真澄さん。
ぼとぼと、とキッチンの床に、生暖かい液体が零れ落ちていく。普段は、スポーツに従事する人間として、割と感情のコントロールが出来ている方だと自負しているけれど、あの人が絡むと途端に情緒が不安定になってしまう。スポーツクライミングにばかり時間を割いてきて、これまでずっと自分自身の恋愛に向き合って来なかったから、こんな風に初めて生まれた感情に振り回される結果になってしまったのかも知れないけれど。だとしても、この状況は、流石に度が過ぎている様に思えてならなかった。ただ、そうと思っても、自分にはどうする事も出来ない。
なんなの、さっきの。誘ってるの?どうしてあんなに可愛いの?何の確認もなく人差し指を第二関節まで胸元に突っ込まれて、キョトンじゃないでしょ。それに、彼氏でも何でもない人間に、明らかに独占欲とか支配欲求丸出しの台詞吐かれて、ありがとうって、何だよそれ。
「俺をどうしたいの。貴方は、俺とどうなりたいの………」
誰よりも優しくしたいのに、感情に振り回されてしまって、それが出来ない。
ただ愛したいだけなのに、笑顔が見たいだけなのに、自分の欲が、それを邪魔してしまう。
「…………あのまま、キスしとけば良かった」
そして、それを無理矢理に既成事実として掲げて、自分達の関係性に、誰の目にも明らかな名称を付けてみたかった。
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