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第一章 『憧憬』

第三話 今日も推しが尊い

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アイドルの追っかけをした経験も無ければ、芸能人のファンクラブに入った事も無い僕だったけれど、矢澤選手だけは、自分の中で例外として扱われていた。矢澤選手は、その恵まれた容姿と数々の輝かしい成績を収めた事で、オリンピックに出場する以前から、スポーツ選手の其れでは収まらない規模のファン層を抱えていた。また、惜しくも銀メダルに終わったオリンピックでのインタビューにおいて、努めて冷静に自分自身の批評をし、応援してくれた関係者各位とファンに向けて感謝と謝罪を述べた謙虚な姿勢が好感を呼び、瞬く間にファンが急増。ホームにしているスポーツクライミングの練習場は会員になるまで年単位の待ちを必要とする状態になり、スポーツクライミング全体の普及に寄与し、国内において矢澤 律選手は賞賛の的となって、瞬く間に一大旋風を巻き起こしていった。


ファンクラブに入ったからといっても、目立った恩恵がある訳じゃない。矢澤選手は、芸能人の様にファンミーティングをするタイプの選手じゃないし、会費は全て国内にあるスポーツクライミングの練習場への寄付や選手育成費に回されている。それでも、自分は矢澤選手を、そして、スポーツクライミングに関わる全ての人を陰ながら応援しているんですよ、というスタンスを自分の中に取り置けるだけで、僕は満足していた。


『推し』が出来るって、こういう事を言うんだな。誰かを応援する事で、自分の力になったり、エネルギーを貰えたり。今まで、そんな人達の気持ちは想像でしか分からなかったけど、今は、そんな風にして推しから活力を貰って生きている人々に共感しか湧かない。推しの笑顔の為に生きてる、という感情や感覚は、他者に依存している様でいて、そうではなく。お互いに、共生しあって生きていくというか、もっと健全な感情が下地にあるんだなと、矢澤選手を応援する様になって、改めて気付かされた。


「………はぁ、今日も推しが尊い」


待ち受けにしている矢澤選手の練習風景を収めた写真は、仕事で疲れた僕の、文字通り生きる糧となっている。真剣な表情ばかりが多い中で、この写真に写っている矢澤選手は、無邪気で愛くるしい、矢澤選手の本来持つ性格が現れた、素の表情を収めた一枚だった。それを待ち受けにしている成年男子というのは絵面としてまだ受け入れ難いと感じる人がいる事は分かっていても、だからといって辞めようとは思わない。ああ、この人には推しが居ないんだな、なら僕みたいな存在の気持ちが分からなくて仕方ないかもな、と思うだけで、それ以上の目立った感情は湧かなかった。


というか、推しの力は本当に凄い。今までの自分なら絶対に見れなかった、見ようともしなかった新しい景色を、自分の力で見ようと努力したり、目標を定めて努力したり……今までなら、自分自身の虚弱体質や、遺伝的に見て筋肉に恵まれない体質だというのを理由にして、匙を投げていた所なのに。実際にこうしてスポーツクライミングを始めて、必ず週に三回は練習場に通う様になるなんて。


スポーツクライミングは全身運動だから体温アップに繋がるし、初心者レベルであれば特筆した筋力も必要としないから始めやすい上に、室内に開放されているスペースも多い事から、日光アレルギー持ちの僕にピッタリなスポーツだった。個人スポーツだから自分のペースで練習出来るし、教えてくれるコーチも丁寧で、その場にいる全員が課題に取り組むその人を応援する、人間的な気持ちの良さがある。老若男女全てに間口を開いているから、幅広い人間関係の交流も図れて、内心ではかなりの引っ込み思案な僕でも、年の離れたクライミング仲間と自然に交流出来ていった。


それもこれも、全部、矢澤選手のおかげだ。彼とあのジムで出逢い、偶然大会で活躍する姿を見た経験は、僕の中で大きな転換点となっていた。


「あの課題、もうクリアしたの?凄いね、始めてまだ半年くらいなのに」

「そんな、野崎先生の教え方が上手だからですよ」


通い始めて半年で、中難度の課題をクリアした僕に優しく声を掛けてくれたのは、この教室の専属コーチとして働いている野崎 勇先生だった。先生は、ご両親の影響で中学から大学まで地元のスポーツクライミング教室に通い、数々の大会で輝かしい成績を残した経験を生かし、脱サラしてこの教室のコーチとして働き始めた。高身長かつ、クライマーとして有利な広い肩幅を兼ね備えた、がっちりとした体躯の持ち主で、人当たりが良いだけでなく、売り出し中の若手俳優の様に精悍な顔立ちをしているので、学生から主婦層に至るまで幅広い年代の女性陣から熱い視線を寄せられていた。


「いや、それにしても真澄は才能があると思う。もっと自信を持っていいよ、俺が保証するから」

「ふふ、なら、少しだけ自信が付きました。お世辞でも嬉しいです。ありがとうございます、野崎先生」


煽て上手、褒め上手の野崎先生に、一からスポーツクライミングを教えて貰えたおかげで、誰かに自己紹介をする場面に遭遇した際に、プロフィール欄にある『趣味』という項目に、スポーツクライミングを自ら書き加えられる様になれた。大会に参加した訳でもないから、胸を張ってとまではいかないけれど、それでも、お酒の席などの砕けた雰囲気でコミュニケーションを図る中で、話の種になるくらいの知識は一応自分の中に備わっている。そこまで僕自身の成長を促してくた先生に、僕は、多大なる恩を感じていた。


「……なぁ、前にも言ったけどさ。俺達は同い年なんだから、敬語は使わないでいいよ。その方が、教えるにしても、ずっと接しやすいし」


この話は、野崎先生に、以前から持ち掛けられていた話だった。先生の言った通り、先生と僕は一応同じ学年の同い年に当たるので、万が一プライベートで出会っていたら、もっと砕けた調子で会話が出来る関係性を築いていても可笑しくはなかったのだけど。僕としては、趣味とプライベートを分ける意味でも、敬語を一応のON /OFFとしても利用していたから、教わっている立場を免罪符にして、ちょこまかと逃げ回っていたんだ。先生と親しくなりたくない訳ではないし、今後もっと仲良くなってプライベートで会う様になっても、別に構わないと思っているけど。一度、教える側と教わる側の立場を曖昧にしたら、そこから変な甘えが生じてしまって、これまでの良い関係を崩してしまうんじゃないか、なんて考えてしまって……ただ単に、僕が不器用なだけなのだけれど。


真剣な眼差しで、真摯に向き合ってくれる野崎先生に、申し訳ない気持ちで一杯になる。こうしてより良い関係を構築しようと手を差し伸べてくれる優しい人を、自分の不器用さを理由として、やんわりと突き放してしまうなんて。社会人として、一人の人間として、如何なものか。うんうん、と頭を悩ませて……とはいえものの数秒だけど……自分の中で勢いを付ける。だけどやっぱり、越えては行けないラインというのは、自分にとって経験則で成り立っているものだから。それを『今回は違うかも』と開き直って失敗に繋げてしまい、良好な人間関係を崩したくないなと改めて思えた。


「ありがとうございます、先生。でも、そうして敬語を使わない関係性を一度作ってしまったら、先生に対する尊敬の気持ちを、今までと同じ様に保てる自信がないんです。不器用で、すみません」

「………そうか。残念だけど、真澄の気持ちも大切にしたいし、仕方ないよな。無理を言って、此方こそ、すまない」


教える側でも、教わる側でも、同い年ならタメ口解禁、といった人間関係の間口を広く持とうとしてくれている野崎先生に無理を言っているのは、僕の方なのに。先生は、僕に対して気遣いを向けるだけでなく、謝罪までしてくれた。人が出来ているにも程がある。だから、僕は慌てて、此方こそすみません、と陳謝した。


「……湿っぽい空気にして、ごめんな。良ければ、この後、お詫びに一杯奢らせてくれないか?確か、真澄はワインなら飲めるって言っていたよな。行きつけの店で、珍しいワインを取り寄せてるイタリアンがあるんだ」


同じ相手に、二度もNOを突き付けられる心臓を持っていない僕は、頷く以外の他の方法を知らず。野崎先生の申し出に、はい、喜んで、と笑顔を取り繕った。敬語を使う使わない問題より、問題が頭ひとつ突き抜けてしまった感はあるけれど、職場の人間関係と同じだと割り切れば、是非もない。


その後は、敬語問題があったとは思えないほど和やかに野崎先生からのレクチャーを受けた。ポジションに対して悩んでいる時は、僕の手や脚の位置にきめ細やかな指示を飛ばし、地面にいる時には真剣な表情で僕の疑問や質問に答えてくれて、先生は、僕に対して硬質な態度を取ったりもせずに、いつもながら穏やかに接してくれた。そうして、コーチとして真摯に向き合ってくれる先生に申し訳ない気持ちを抱きながらも、せめてこの後のイタリアン料理の店では、良い飲み相手になれれるようにしないとな、と気持ちを引き締めたのだった。

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