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第一章 『憧憬』

第一話 もし仮に、これを憧憬と呼ぶのならば

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風邪を引いた。季節性とか流行とかあまり関係がない、雑菌が入り込んで扁桃腺がぱんぱんに腫れるいつものパターン。掛かりつけの耳鼻咽喉科の先生の話によると、取ってしまえばある程度解決する話ではあるらしいのだけど、術後の痛みが酷かったり、一週間から10日ほど入院する必要があるらしいと聞いて、尻込みしている状態にある。


昔から、扁桃腺に限らず風邪は引きやすい体質だった。所謂、虚弱体質というやつだ。風邪に限らず、空気の悪い場所にいると咳が止まらなくなるし、気圧の変化で頭痛や眩暈を覚えるし、何の対策もせずに日光に当たると日光アレルギーで発疹が出たり、アレルギー食品も複数あって、スタミナ食品の代名詞でもあるにんにくを食べると、逆に体力や気力を奪われて一日中寝込む様な有様だった。


生きる事自体が苦行なんじゃないか、とすら思い始めている僕にとって、手術をすれば扁桃腺が腫れて身動きが取れなくなる、という状況に見舞われなくなるのは有難い話なのだけど。それ以上に、自分自身の体質改善を優先させるべきなんじゃないか?つまり、ある程度の体力を付ける努力も必要なんじゃないか?という気持ちが頭をもたげて。僕は、仕事終わりの時間を使って、24時間営業のジムに通う事にした。


けれど、資本である身体を鍛えれば自ずと免疫力が上がるだろう、という安直ながらも確実な方法を選んだ僕に、突如として新たなる壁が立ち塞がる。


どれだけ頑張っても一向に筋肉が付かない、遺伝から来る体質。生まれながらにして、常人よりもずっとずっと筋肉が付きずらい僕は、虚弱体質を改善しようにも、その改善すべき土台を見失うという事態に陥ってしまった。


筋肥大を引き起こす重要なホルモンに、男性ホルモンの『テストステロン』という物があるらしいのだけど。血液検査の結果、僕はこのテストステロンの分泌量が少なく、男性ホルモンの働きを阻害してしまう女性ホルモンの分泌量が多い上に、女性ホルモンの影響を受けやすい体質である事が分かった。だからこそ、筋肉をつける為にはホルモン対策も必要不可欠になってくるのだけど、ホルモン対策に置いて重要な食事という場面で、僕の目の前に、二つ目の壁が立ち塞がる事になる。


食べたものが栄養として体内に吸収されにくく、食事量やカロリー摂取量を増やしても体重が増えない、『ハードゲイナー』。数多いるダイエッターが喉から手が出る程欲しがるであろうその体質を、僕は、生まれながらにして有しているのだった。


どうしたらいいの……何も、僕みたいな虚弱体質かつ少食な人間に、更なる難題をふっかけてこなくても良いだろうに。しかも、体質改善に必要な栄養バランスの取れた食事をしようにも、アレルギーが邪魔をして身動きが取れない。サプリメントで補強しようにも、原材料にアレルギー食品が使われているとそれも服用出来ない。にっちもさっちも行かない、という状況は、僕の為にこそある言葉なんじゃないかと思いたくなるくらいだ。


やっぱり、無駄に努力を積み重ねるより、先生に相談して扁桃腺を取って貰おうかな。だけど、ジムの年会費は支払い済みだから、一応通わないと勿体無いんだよね。トレーナーさんの人柄も素晴らしくて、僕の体質改善の為にめげずにアドバイスしてくれていたから、成果らしい成果が出せないまま辞めてしまうのは、トレーナーさんにも申し訳ないし。だけど、ずるずる続けてしまうのが、一番良くないよなぁ……なんて、生来からある優柔不断を発揮させながら、筋肉が付けられないなら、まずは持久力だけでも、と始めたジムに横並びで備え付けられているルームランナーで汗を掻いていると、僕から見て斜め後ろの方向から、ジムを利用している人達の微かな響めきが上がった。


走りながらも、何があったんだろう、とガラス越しに視線を送ると。そこには信じられない光景が広がっていて。ガラス鏡に淡く浮かび上がるその人の姿に、僕は驚きに目を見開いた。


どれだけの努力と労力と時間を掛けて、この身体を鍛え上げてきたのか、誰の目にも一目で分かる、一切無駄の無い、研ぎ澄まされたカラダ。必要な部分を、必要な分だけ鍛え上げ、精密な機械の様に計算され尽くされた、ある種の芸術作品にも例えられるであろう、ソレ。


全身に汗を滲ませながら、ただ、ゆっくりと、正確な懸垂を繰り返しているだけのその人の姿をガラス鏡越しに唖然と見つめながら。僕は、息を呑む、という感覚は、いまこの瞬間を表現するに最も相応しい言葉選びだろうと思えた。


いつの間にか、僕は、走るのを辞めていた。走る必要性を感じなかった。いくら鍛えても一向に成果の出ない自分の身体を虐め続けるよりも、この美しい生き物の躍動をこの目に収める事こそに、無意識の内に重点を置いていたから。


この感情を、何と呼ぶのだろう。圧巻。圧倒。なされるがままに気圧され、自らの矮小さに気が付き、人間という生き物の粋を極めた存在を前にして、無駄な努力を手放した末に得られる多幸感と、深い安堵。


もし仮に、これを憧憬と呼ぶのならば。


この頬を流れる涙の意味を、誰か教えて下さい。

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