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第二話 不審な死
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入り浸るのはいい。飯を作るのもいい。風呂に入って俺のビールを勝手に開けるのも許そう。俺のベッドを占領するのも然りだ。けれど。
「来るなら来るって言え」
「えー、だって俺自身も予定に無かったんで」
「だとしたら、夕飯の材料ぐらい自分で買って来い」
「買ってきたじゃないですか、あれ」
「カップ麺は料理に入らないし、大体一人分しか無いってどう言う了見だ」
「湊さんは今朝夕飯食べて来るって言ってましたし、秀一さんは自分の夕飯用意してるでしょ?だったら俺の分だけでいいじゃないですか」
「そこじゃない。そこじゃないんだよ・・・」
『俺気が効くでしょう?』みたいな得意げな顔をした後に、心底言われている意味が分からないという顔をしないで欲しい。俺は別に、こいつの家政婦になりたくてルームシェアを始めたんじゃない。そこを分かってくれさえすれば良いんだ。偶には材料買ってきて、偶にはキッチン使って、偶には自分の事をしてくれさえすればいいのだ。
完全に住んでいる訳では無いので流石に洗濯まではしないが、これでは弟どころか作った覚えのない図体のデカイ息子を持った様な気持ちになってしまう。この歳でコブ付きなんて本当に勘弁なんだが、俺の塩っぱい気持ちなんて何のその、レイジは半年間掛けて完全なる自分の陣地にしてしまったリビングにあるソファーベッドからのっそりと立ち上がると、キッチンで途方に暮れていた俺の直ぐ近くまで歩み寄り、俺の顔を覗き込んできた。
「これから一人分だけ飯作るの面倒臭い?じゃあ、どっかに食いに行きませんか。最近ハマってるつけ麺屋あるんすよ。ニンニク山盛り無料だし」
『何処か』と口にした次の瞬間に、自分の行きたい店を指定して来るうえに、俺が営業職だという事も分かっている癖にニンニクを勧めてくるレイジの勝手さにウンザリとする。どこから突っ込めばいいのか分からないし、そもそも、その流れだと確実に俺の奢りだよな?てか、俺はニンニクアレルギーだって何遍も言ってるだろう。本当、自由過ぎるのも良い加減にしろよ、お前は。
だけど、その全てを口にしても、まだ社会経験の無いレイジには馬耳東風に終わるというのは分かっているから、俺は深い溜息を吐いてから、今さっき脱いだばかりのコートを羽織った。
住宅街を抜け、歓楽街を進む上機嫌なレイジの斜め後ろを歩きながら、こんな生活がいつまで続くのかと陰鬱とした思いを巡らせる。湊とこいつが付き合っている以上、この不思議な三者の関係性は続くのだろうが、はっきり言って俺の精神は限界に近付いていた。かと言って、湊に文句を言った所で、問題の根本的解決には繋がらない。それに俺は、この二人の関係をギクシャクさせたい訳でも無いので、結果として俺が不満を溜め込むという状況が常態化しているのだ。
この負の連鎖を断ち切るには、レイジの意識改革をしなければならないのだけど、どれだけ俺がこいつを教育し直そうとしても、末っ子気質なこいつは俺に甘えてばかりで、一向に問題を解決しようとはしない。単純な家事能力と一般常識を身に付けるだけで話は済むのだけど、こいつは俺に対して年上に対する敬意も無ければ、日頃から世話をして貰っているという有り難みすら感じていない様子だ。可愛らしい部分もあるにはあるのだが、そんな無礼千万な奴を相手にして、どれだけ我慢がしきれるだろう。
ルームシェアを始めようと湊に持ち掛けた時は、こんな生活が待っているとは思わなかった。湊自身は良い子、なんて言葉じゃ足りないくらいに良い子なので、レイジさえどうにかなれば俺には何の文句も無いのだけど。割れ鍋に綴蓋という言葉もあるくらいだから、これでいて二人の相性は良いのだろう。
そんな風に悶々と思いを巡らせているうちに、趣きのある一件の店に辿り着いた。寒い中外に行列も出来ているので、本当に繁盛店なのだろう。俺の趣味は専らゲームで、普段は腹を満たせればそれでオッケー的なスタイルではあるが、レイジという食べ盛りの男を抱えている以上そんな生活は続けられないし、金を出して外食するとなれば、余計に店には拘る方だ。となれば、必然的に食生活は豊かになっているのだが、それだといかんせん家計に響いてしまう。
湊にルームシェアを申し出た理由の一つとして、いつまで続くか分からない独身生活を憂いて、今からしっかり貯金して置きたいというものがあったのだけど、そんな淡い期待もレイジという存在を前にしたら灰塵に帰してしまいそうだ。
何処にもぶつけようが無いストレスを抱えたまま行列の最後尾に並ぶと、一陣の風が吹いて俺の懐を拐った。あまりの寒さに上半身をぎゅっと固めて、さむ、と思わず口にすると、レイジは笑いながら、鼻真っ赤、と俺の鼻を摘んだ。
「結構並んでるじゃん。繁盛してるんだなぁ。こんな店あるの知らなかった」
「秀一さん、普段から温野菜とか女子の食いそうなもんばっかり食ってるじゃないですか。偶にはこんな店にも来た方が、逆に老けませんよ」
一々一言余計なんだよな。態々言わなくても良くない?俺くらいの菜食主義な人間なんて、全然おるわ。ニンニク抜きのメニューもあるからって言われたから着いてきてやったのに、その態度どうなのよ。
「俺だけ爺さんみたいな扱いするなよ。スーツ着てる人が少ないからって・・・あれ?」
行列に並ぶ人間の中に、見慣れた人物の後ろ姿を発見する。その人物は、間違いなく湊だった。長髪の美女と一緒に談笑しながら列に並ぶ彼の横顔は、何処からどう見ても幸せそうで。彼女が湊にとって、どの様な立ち位置にいる存在なのかが、ありありとその表情に表れていた。
彼女の方も良く知っている。うちの営業部の新卒採用で入ってきた新人で、年齢やキャリアの差はあれど、湊と同期の子だった。俺はそれを見た瞬間に、背中に冷や汗が伝って、隣にいるレイジの横顔を、恐る恐る横目で確認した。すると、レイジは、無表情のままに、ただジッとその二人を、否、湊の隣にいる彼女を無言で見つめ続けていた。
「あの、さ。時間も時間だし、深い意味は無いと思うんだよね。それに、そんな事する奴じゃないだろ。今は、あいつにはお前がいるんだし」
気が付けば慰めを口にしていたけれど、レイジは俺の言葉を横からきっぱりと遮った。
「黙って。あなたまで巻き込むから」
よく分からない言葉を発してから、レイジは人差し指を一本、肘から上げてひたりと女性に向けた。そして、ぼそぼそと聞き取りにくい声量で何事かを呟き続けると、今度はまるで菩薩の様に柔らかに微笑んでから、無言のままその指をすぅ、と肘ごと下ろした。
俺は、その一連の出来事があまりにも理解不能で、もしかしてこいつ酔ってんのかな、とも考え付いたけど、リビングの様子を思い返すだに、その考えはどうやら違う様だ、という結論に至る。とは言っても、自分の中にある疑問をそのままにはして置けないので、俺はレイジに質問をぶつけた。
「なぁ、いまの何?何だかちょっと、不気味なんだけど」
「え?あぁ、大した事じゃありませんよ。だから、気にしないで下さい」
「気にするって。あの子、湊と同期で入ってきた子なんだよ。お前の気持ちも分かるけどさ、いざこざは勘弁だからな?」
「あぁ、それは知ってます。湊さんが、特別親しくしている同期の子だって。だから、今日直接顔が見られて良かったです。難しい事せずに、全部終わらせられたから」
は?と俺が素っ頓狂な声を上げた瞬間に、レイジは再び、見るからに上機嫌な表情を作り始めた。こいつが上機嫌だと、大抵俺にとって都合が悪い事が起きる前触れとなる。対戦ゲーム然り、取って置いたコンビニスイーツが消えてなくなっているなど然り。けれど、今回に限っては、そんな子供じみた理由が原因ではないのが明白だったから、俺は漠然とした不安を抱えてしまって、その不安を払拭する為に、再び口を開こうとした。すると。
「流石に店で鉢合わせるのは気不味いんで、違う店行きません?」
などと、レイジに至極真っ当な事を言われてしまったので、俺は口から言葉を生み出す前に、渋々と頷くしか無かった。
次に行ったラーメンチェーン店でも食欲があまり湧かず、俺はその店の看板メニューでもあるタンメンを半分以上残してしまった。レイジには体調を心配され、店員にはもう宜しいのですか?と不思議そうに尋ねられ、久々の夕飯の外食としては散々な結果になってしまったのだが、それ以上に何がどう出来るわけでもなかったので、二人分の勘定を終わらせて、さっさとその店を出た。
そんな俺を見ていて慌てる様子は無いものの、何処か俺の様子を観察していたらしいレイジは、俺が帰宅の途に着こうとすると、その背中に向けて珍しく、すみませんでした、と謝ってきた。驚いて後方を振り向くと、レイジは気不味そうに頬を指で掻いてから、きちんと正面を向いて、再び俺に謝罪をしてきたのだった。
「折角食事に誘ったのに、俺の所為で雰囲気悪くして、すみません」
二度も謝って来るなど前代未聞だったから、俺は自分の中にある疑問や、湊に対する懐疑心、言葉に表せない苛立ちなどを一旦自分の中で保留扱いにして、レイジに小さく首を横に振ってみせた。
「じゃあ、お前が一体さっき、あの女の子に何をしたのか、教えてくれないか?」
「すみません、それは説明出来ません」
まさか、答えるのを拒否されるとは思わなかったので、呆気に取られてしまった。その理由を慌てて尋ねると、その理由すらも答えられないと返されてしまう。さっきの謝罪で相殺されてしまった苛立ちが再び芽を吹き、俺の胸の内側をちらちらと擽り始める。
話せない理由くらいは話してくれても良いだろうと食い下がると、レイジは口元に作った笑みを深くして、瞳に妖しい色を浮かべながら、ひっそりとした口調と、俺にだけ伝わる声量で語り始めた。
「世の中には、知らない方が幸せでいられる話もあるんですよ。それに、俺が語らなくても、いずれ分かります。その時になったら、今日何が起きたのか、その説明をきちんとしましょう。但し、その代わりにあなたから代価を頂きます」
「代価?」
「はい。真実を、決して湊さんには語らないで下さい。俺が何をしたのかも、その結果にどんな事が起こったのかも、その全てを、彼に話さないで下さい。湊さんとの間に、秘密を作る事。それがあなたに求める代価です」
そんな事が代価に繋がるのか?それにしても、いつの間にかレイジと契約を交わすかどうかみたいな流れになってしまっているけれど、それがごく自然な流れの中にあり過ぎて、疑問の余地を挟む隙間がまるで無い。俺は、いつの間にかカラカラに干上がっていた喉から情け無い声が生み出されない様に、唾をごくりと飲み下した。
「俺は、あいつとの間に秘密を作るつもりはないよ。あいつにとって、真実を知るのも必要な事なら、積極的に黙っていようとも思わないしな」
「正直者が馬鹿を見る、なんて言葉もあるんですけどね。まぁ、いいでしょう。なら、俺はあなたに真実は語りません。あなたがどれだけ真実を知りたがってもね。ですが・・・」
その時、一陣の強い風が吹いた。俺とレイジの間をすり抜けて、天空へと舞い上がっていくその風は、レイジの最後に呟いた言葉をも攫っていき、俺の耳に届く前に、その音は空に溶けて消えていった。
「 」
◇◇◇◇
それから数週間後、湊と仲睦まじくラーメン屋の列に並んでいた女性社員は、他の部署の管理職の男との不倫が発覚し、居場所を無くして退社していった。
管理職の男の部下達の話によれば、熱烈に交際を迫っていたのは、女性社員の方からだったという。それまで、もしかしたら湊と交際間近なのでは、と噂されていた彼女が急変した為、うちの部署の人間達にも動揺が走ったが、他の女性社員達の目は冷ややかだった。
どうやら、女性社員の中では彼女は浮いた存在だった様で、湊だけでなく他の男性社員にも気がある素振りを見せるなどして、女性社員達の反感を買っていた人物だったそうだ。陰では女狐などと呼ばれていたらしく、この一連の流れも、彼女達からは身から出た錆扱いを受けていた。
しかし、最後の不倫だけが、いつもの彼女らしくないと、彼女達はこぞって口にしていた。不倫を持ち掛けた男性社員は子煩悩で、自分のデスクにも家族写真を立て掛けている様な、何処にでもいるごく普通の良いお父さんで、大変失礼ではあるが、間違ってもその女性社員の琴線に触れる様な人間では無かったらしい。だから、彼女達は口々にこんな話をしていた。まるで、何かに取り憑かれてしまった人間にしか見えなかった、と。
そして昨日の夜、彼女は本社ビルの屋上から投身自殺を図った。警察関係者の話によると、恐らく即死だっただろうと推察されている。
入り浸るのはいい。飯を作るのもいい。風呂に入って俺のビールを勝手に開けるのも許そう。俺のベッドを占領するのも然りだ。けれど。
「来るなら来るって言え」
「えー、だって俺自身も予定に無かったんで」
「だとしたら、夕飯の材料ぐらい自分で買って来い」
「買ってきたじゃないですか、あれ」
「カップ麺は料理に入らないし、大体一人分しか無いってどう言う了見だ」
「湊さんは今朝夕飯食べて来るって言ってましたし、秀一さんは自分の夕飯用意してるでしょ?だったら俺の分だけでいいじゃないですか」
「そこじゃない。そこじゃないんだよ・・・」
『俺気が効くでしょう?』みたいな得意げな顔をした後に、心底言われている意味が分からないという顔をしないで欲しい。俺は別に、こいつの家政婦になりたくてルームシェアを始めたんじゃない。そこを分かってくれさえすれば良いんだ。偶には材料買ってきて、偶にはキッチン使って、偶には自分の事をしてくれさえすればいいのだ。
完全に住んでいる訳では無いので流石に洗濯まではしないが、これでは弟どころか作った覚えのない図体のデカイ息子を持った様な気持ちになってしまう。この歳でコブ付きなんて本当に勘弁なんだが、俺の塩っぱい気持ちなんて何のその、レイジは半年間掛けて完全なる自分の陣地にしてしまったリビングにあるソファーベッドからのっそりと立ち上がると、キッチンで途方に暮れていた俺の直ぐ近くまで歩み寄り、俺の顔を覗き込んできた。
「これから一人分だけ飯作るの面倒臭い?じゃあ、どっかに食いに行きませんか。最近ハマってるつけ麺屋あるんすよ。ニンニク山盛り無料だし」
『何処か』と口にした次の瞬間に、自分の行きたい店を指定して来るうえに、俺が営業職だという事も分かっている癖にニンニクを勧めてくるレイジの勝手さにウンザリとする。どこから突っ込めばいいのか分からないし、そもそも、その流れだと確実に俺の奢りだよな?てか、俺はニンニクアレルギーだって何遍も言ってるだろう。本当、自由過ぎるのも良い加減にしろよ、お前は。
だけど、その全てを口にしても、まだ社会経験の無いレイジには馬耳東風に終わるというのは分かっているから、俺は深い溜息を吐いてから、今さっき脱いだばかりのコートを羽織った。
住宅街を抜け、歓楽街を進む上機嫌なレイジの斜め後ろを歩きながら、こんな生活がいつまで続くのかと陰鬱とした思いを巡らせる。湊とこいつが付き合っている以上、この不思議な三者の関係性は続くのだろうが、はっきり言って俺の精神は限界に近付いていた。かと言って、湊に文句を言った所で、問題の根本的解決には繋がらない。それに俺は、この二人の関係をギクシャクさせたい訳でも無いので、結果として俺が不満を溜め込むという状況が常態化しているのだ。
この負の連鎖を断ち切るには、レイジの意識改革をしなければならないのだけど、どれだけ俺がこいつを教育し直そうとしても、末っ子気質なこいつは俺に甘えてばかりで、一向に問題を解決しようとはしない。単純な家事能力と一般常識を身に付けるだけで話は済むのだけど、こいつは俺に対して年上に対する敬意も無ければ、日頃から世話をして貰っているという有り難みすら感じていない様子だ。可愛らしい部分もあるにはあるのだが、そんな無礼千万な奴を相手にして、どれだけ我慢がしきれるだろう。
ルームシェアを始めようと湊に持ち掛けた時は、こんな生活が待っているとは思わなかった。湊自身は良い子、なんて言葉じゃ足りないくらいに良い子なので、レイジさえどうにかなれば俺には何の文句も無いのだけど。割れ鍋に綴蓋という言葉もあるくらいだから、これでいて二人の相性は良いのだろう。
そんな風に悶々と思いを巡らせているうちに、趣きのある一件の店に辿り着いた。寒い中外に行列も出来ているので、本当に繁盛店なのだろう。俺の趣味は専らゲームで、普段は腹を満たせればそれでオッケー的なスタイルではあるが、レイジという食べ盛りの男を抱えている以上そんな生活は続けられないし、金を出して外食するとなれば、余計に店には拘る方だ。となれば、必然的に食生活は豊かになっているのだが、それだといかんせん家計に響いてしまう。
湊にルームシェアを申し出た理由の一つとして、いつまで続くか分からない独身生活を憂いて、今からしっかり貯金して置きたいというものがあったのだけど、そんな淡い期待もレイジという存在を前にしたら灰塵に帰してしまいそうだ。
何処にもぶつけようが無いストレスを抱えたまま行列の最後尾に並ぶと、一陣の風が吹いて俺の懐を拐った。あまりの寒さに上半身をぎゅっと固めて、さむ、と思わず口にすると、レイジは笑いながら、鼻真っ赤、と俺の鼻を摘んだ。
「結構並んでるじゃん。繁盛してるんだなぁ。こんな店あるの知らなかった」
「秀一さん、普段から温野菜とか女子の食いそうなもんばっかり食ってるじゃないですか。偶にはこんな店にも来た方が、逆に老けませんよ」
一々一言余計なんだよな。態々言わなくても良くない?俺くらいの菜食主義な人間なんて、全然おるわ。ニンニク抜きのメニューもあるからって言われたから着いてきてやったのに、その態度どうなのよ。
「俺だけ爺さんみたいな扱いするなよ。スーツ着てる人が少ないからって・・・あれ?」
行列に並ぶ人間の中に、見慣れた人物の後ろ姿を発見する。その人物は、間違いなく湊だった。長髪の美女と一緒に談笑しながら列に並ぶ彼の横顔は、何処からどう見ても幸せそうで。彼女が湊にとって、どの様な立ち位置にいる存在なのかが、ありありとその表情に表れていた。
彼女の方も良く知っている。うちの営業部の新卒採用で入ってきた新人で、年齢やキャリアの差はあれど、湊と同期の子だった。俺はそれを見た瞬間に、背中に冷や汗が伝って、隣にいるレイジの横顔を、恐る恐る横目で確認した。すると、レイジは、無表情のままに、ただジッとその二人を、否、湊の隣にいる彼女を無言で見つめ続けていた。
「あの、さ。時間も時間だし、深い意味は無いと思うんだよね。それに、そんな事する奴じゃないだろ。今は、あいつにはお前がいるんだし」
気が付けば慰めを口にしていたけれど、レイジは俺の言葉を横からきっぱりと遮った。
「黙って。あなたまで巻き込むから」
よく分からない言葉を発してから、レイジは人差し指を一本、肘から上げてひたりと女性に向けた。そして、ぼそぼそと聞き取りにくい声量で何事かを呟き続けると、今度はまるで菩薩の様に柔らかに微笑んでから、無言のままその指をすぅ、と肘ごと下ろした。
俺は、その一連の出来事があまりにも理解不能で、もしかしてこいつ酔ってんのかな、とも考え付いたけど、リビングの様子を思い返すだに、その考えはどうやら違う様だ、という結論に至る。とは言っても、自分の中にある疑問をそのままにはして置けないので、俺はレイジに質問をぶつけた。
「なぁ、いまの何?何だかちょっと、不気味なんだけど」
「え?あぁ、大した事じゃありませんよ。だから、気にしないで下さい」
「気にするって。あの子、湊と同期で入ってきた子なんだよ。お前の気持ちも分かるけどさ、いざこざは勘弁だからな?」
「あぁ、それは知ってます。湊さんが、特別親しくしている同期の子だって。だから、今日直接顔が見られて良かったです。難しい事せずに、全部終わらせられたから」
は?と俺が素っ頓狂な声を上げた瞬間に、レイジは再び、見るからに上機嫌な表情を作り始めた。こいつが上機嫌だと、大抵俺にとって都合が悪い事が起きる前触れとなる。対戦ゲーム然り、取って置いたコンビニスイーツが消えてなくなっているなど然り。けれど、今回に限っては、そんな子供じみた理由が原因ではないのが明白だったから、俺は漠然とした不安を抱えてしまって、その不安を払拭する為に、再び口を開こうとした。すると。
「流石に店で鉢合わせるのは気不味いんで、違う店行きません?」
などと、レイジに至極真っ当な事を言われてしまったので、俺は口から言葉を生み出す前に、渋々と頷くしか無かった。
次に行ったラーメンチェーン店でも食欲があまり湧かず、俺はその店の看板メニューでもあるタンメンを半分以上残してしまった。レイジには体調を心配され、店員にはもう宜しいのですか?と不思議そうに尋ねられ、久々の夕飯の外食としては散々な結果になってしまったのだが、それ以上に何がどう出来るわけでもなかったので、二人分の勘定を終わらせて、さっさとその店を出た。
そんな俺を見ていて慌てる様子は無いものの、何処か俺の様子を観察していたらしいレイジは、俺が帰宅の途に着こうとすると、その背中に向けて珍しく、すみませんでした、と謝ってきた。驚いて後方を振り向くと、レイジは気不味そうに頬を指で掻いてから、きちんと正面を向いて、再び俺に謝罪をしてきたのだった。
「折角食事に誘ったのに、俺の所為で雰囲気悪くして、すみません」
二度も謝って来るなど前代未聞だったから、俺は自分の中にある疑問や、湊に対する懐疑心、言葉に表せない苛立ちなどを一旦自分の中で保留扱いにして、レイジに小さく首を横に振ってみせた。
「じゃあ、お前が一体さっき、あの女の子に何をしたのか、教えてくれないか?」
「すみません、それは説明出来ません」
まさか、答えるのを拒否されるとは思わなかったので、呆気に取られてしまった。その理由を慌てて尋ねると、その理由すらも答えられないと返されてしまう。さっきの謝罪で相殺されてしまった苛立ちが再び芽を吹き、俺の胸の内側をちらちらと擽り始める。
話せない理由くらいは話してくれても良いだろうと食い下がると、レイジは口元に作った笑みを深くして、瞳に妖しい色を浮かべながら、ひっそりとした口調と、俺にだけ伝わる声量で語り始めた。
「世の中には、知らない方が幸せでいられる話もあるんですよ。それに、俺が語らなくても、いずれ分かります。その時になったら、今日何が起きたのか、その説明をきちんとしましょう。但し、その代わりにあなたから代価を頂きます」
「代価?」
「はい。真実を、決して湊さんには語らないで下さい。俺が何をしたのかも、その結果にどんな事が起こったのかも、その全てを、彼に話さないで下さい。湊さんとの間に、秘密を作る事。それがあなたに求める代価です」
そんな事が代価に繋がるのか?それにしても、いつの間にかレイジと契約を交わすかどうかみたいな流れになってしまっているけれど、それがごく自然な流れの中にあり過ぎて、疑問の余地を挟む隙間がまるで無い。俺は、いつの間にかカラカラに干上がっていた喉から情け無い声が生み出されない様に、唾をごくりと飲み下した。
「俺は、あいつとの間に秘密を作るつもりはないよ。あいつにとって、真実を知るのも必要な事なら、積極的に黙っていようとも思わないしな」
「正直者が馬鹿を見る、なんて言葉もあるんですけどね。まぁ、いいでしょう。なら、俺はあなたに真実は語りません。あなたがどれだけ真実を知りたがってもね。ですが・・・」
その時、一陣の強い風が吹いた。俺とレイジの間をすり抜けて、天空へと舞い上がっていくその風は、レイジの最後に呟いた言葉をも攫っていき、俺の耳に届く前に、その音は空に溶けて消えていった。
「 」
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それから数週間後、湊と仲睦まじくラーメン屋の列に並んでいた女性社員は、他の部署の管理職の男との不倫が発覚し、居場所を無くして退社していった。
管理職の男の部下達の話によれば、熱烈に交際を迫っていたのは、女性社員の方からだったという。それまで、もしかしたら湊と交際間近なのでは、と噂されていた彼女が急変した為、うちの部署の人間達にも動揺が走ったが、他の女性社員達の目は冷ややかだった。
どうやら、女性社員の中では彼女は浮いた存在だった様で、湊だけでなく他の男性社員にも気がある素振りを見せるなどして、女性社員達の反感を買っていた人物だったそうだ。陰では女狐などと呼ばれていたらしく、この一連の流れも、彼女達からは身から出た錆扱いを受けていた。
しかし、最後の不倫だけが、いつもの彼女らしくないと、彼女達はこぞって口にしていた。不倫を持ち掛けた男性社員は子煩悩で、自分のデスクにも家族写真を立て掛けている様な、何処にでもいるごく普通の良いお父さんで、大変失礼ではあるが、間違ってもその女性社員の琴線に触れる様な人間では無かったらしい。だから、彼女達は口々にこんな話をしていた。まるで、何かに取り憑かれてしまった人間にしか見えなかった、と。
そして昨日の夜、彼女は本社ビルの屋上から投身自殺を図った。警察関係者の話によると、恐らく即死だっただろうと推察されている。
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