〜The Secret Garden〜『薔薇の花園』という超高級会員制ボーイズクラブで、生涯支えたい運命の人に出会いました。

鱗。

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第二章『罪』

『御方』の過去と、思い出された『罪』

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直ぐにでもこの島を離れる、という事が決まって、俺は蓮さんに、それなら最後に会いたい人がいますと進言をした。すると、蓮さんはにっこりと笑ってから、『分かっているさ。気の済むまで、ゆっくり話しておいで』と言って、俺を気持ちよく送り出してくれた。感謝を伝える様に、深く一礼をする。そして俺は、蓮さんが用意してくれた酒席にはたりと目を向けた。俺は蓮さんが用意してくれたこの酒席や、朝晩に出される食事に対して、感謝する言葉を用意して来なかった。いつまた蓮さんと話が出来る環境が整うのか分からない。だから、今この時の時間を大いに活用する事にしたんだ。


「あの……初めて会った時、食事に手を付けなかったり、酷い態度を取ってしまって、すみませんでした。俺、いままで宗教絡みで良い目に遭って来なかったから、食事一つ取っても、どうしても受け付けなくて……」

「ん?……あぁ、そんな事か。別に気にしていないよ。君の生い立ちを考えれば、私に対する見方が偏ったり、そう考えたりしても仕方がないさ。しかし、勘違いしていて欲しくは無いから一つ訂正しておくが、君の知っている昔の教会といまの教会は全くと言って良いほどシステムが異なる。より弱者に位置する者達から搾取する形の形態はもう古いという御方の考え方から、ね。君は、先生の所で紅茶か何かを頂いた事は無いかい?」

「あ、はい……祐樹先生が、いつも俺の為に淹れてくれました。それが?」


蓮さんは、遠く離れた場所にある、目の前に広がる茶畑を慈しみ眺める様な眼差しで続けた。


「心や生活にゆとりが無い者の為に宗教がある、という、弱者依存の体制は脆弱の一言に尽きる。人に生活基盤を与え、教育というゆとりを与え、そのゆとりを得た人々が感謝の気持ちを込めて生活して、社会に貢献していく。そんな人々の生活の中に宗教が存在すれば、それは貧しかった人々にとって、忘れられない心の支えとなるだろう。だから、人々が感謝の気持ちを胸にあの茶畑で作った紅茶は、市場から高い評価を受ける特産品へと進歩したんだ。まぁ、御方の先見の明、というものも間違いなくあるだろうがな」


蓮さんの話を聞きながら、俺は、御方という人物を、ずっと誤解していたんだという事に気付かされた。ロサ・フェティダさんの様な人の心を縛り、弱者である人々の生活を縛り上げて、人々の犠牲の名の下に、豪華絢爛な生活を送る、悪の権化。そんなイメージを御方に対して抱き続けてきたけれど、それはあまりに偏った見方をして来たんだと、改めて考えさせられたんだ。


この、まるで城の様な建物のある景観の抜群な島一つ取っても、地元の人間達の生活の基盤を支える職場環境を与えて、地元の人間達にとって、なくてはならない存在になっているらしい。集められた骨董品や建物の維持管理も、蓮さんが滞在している時以外は、地元の人間達によって行われ、この島の管理という名目の仕事は、貴重な収入源になっているのだそうだ。この島自体も、大口の寄付をしてくれたVIP達をもてなす為に用意された特別な場所で、蓮さんが贅沢をする為だけに用意された場所では無いのだという。それを聞いて、俺はある疑問を抱き、蓮さんにその質問を問い掛けた。


「蓮さんが顔役として『表』で活動しているのは分かりました。ですが、なら……御方は、普段どういった生活をなさっているんですか?」


それを聞いた蓮さんは、すぐさま苦渋を滲ませた表情を浮かべた。いつの間にか蓮さんの斜め後方の位置に戻ってきていた新庄さんや慎也さんも、沈痛を露わにした顔で、唇を噛み締めている。その様子を見て、俺は自分の考えが正しかった事実を知った。


「御方は……普段、質素そのものを体現した様な生活を送られている。その御身に相応しい居住地を用意しても、その資金をより貧しい者達の為に回せ、と申されるばかり。私達も、何とかその待遇を受け入れて貰いたいと、何度も御方に陳情しているのだが……これまで、まともに取り合って頂けた試しはない」

「そんな……何故、そこまでして?」

「私程度の存在には、御方の考えを推察するのも烏滸がましい。けれど、それでも尚、邪推するならば……本当の豊かさや幸せという物を、御方が知っているからなのではないかと考えている」

「本当の豊かさや、幸せ?……それって……」


豪華絢爛を楽しみ、栄華を極めるだけの身分や権能、地位と言った物を有していながら、自分自身は質素そのものに生活する。その心理が分からず、俺は蓮さんの話の続きをはやる気持ちで促した。しかし、蓮さんはそれ以上を口にする事はなかった。


「………これから先は、君が御方に直接お尋ねして、自分自身の耳と心で真実を受け止める事だ」


その静かな表情を見て、俺は蓮さんに、『これ以上話す事は何も無い』と言われた気持ちになった。それを受け入れた俺は、了解を伝える様にして頷き、俺の為に酒席を用意してくれた蓮さんに背中を向けて歩き出した。


この島で、最後に会わなければならない、その人を訪ねる為に。


◇◇◇◇


いつもの様に、いつもの場所で、いつもの香りと味を台無しにしている紅茶を飲みながら、その人はその温室の中に居た。その、俺を受け入れる態勢をいつも言葉にせずとも用意してくれている祐樹先生を俺は、温室の少し離れた場所から暫く眺めて過ごした。


俺がこの場所に連れて来られても正気を保っていられたのは、祐樹先生がいてくれたからだ。先生がこの場所で、『よう、来たな』と自然に俺をこの場所に受け入れてくれたからこそ、俺はこうして、この島に初めて訪れた時よりも広い視点で物事を見定められる人間になれた。その感謝の気持ちを伝えたくて、そして、きちんとした、さようならを言ってみたくて。俺は最後に、ここを訪れたんだ。それなのに。


「よう、来たな」


あまりにも変わらない、その姿を見て、俺の涙腺は、勝手に崩壊した。


「……何してんだ、お前。人の顔見ていきなり泣き出すなんざ、失礼な奴だな」

「ゆ、ゆうき、せんせっ……おれ、先生に、いわ、……言わなくちゃ、いけない……ッ」

「あーあー、はいはい、分かったよ、分かったから、泣くな」

「う、ぅう……ぜんぜい……いま、いままで、……ありがとう、ございました……ッ」

「………なんだ、その……取り敢えず、顔どうにかしろ、な?」

「……ずび……ばせん……」


呆れた様にティッシュの箱を持って温室から出てくる祐樹先生に、申し訳がなかったけれど、有り難さしか感じなくて。子供と呼べる歳でもないのに、まるで泣き虫な親戚の子供の様に扱われてしまうのを、俺はみすみす許してしまった。『ほら、チーンしろ、チーン』と言われて、鼻に押し当てられたティッシュで鼻をかむ。暫くそんな風にして世話を焼かれてから、落ち着きを取り戻した俺は、先生に改めてお礼を言った。


「……ありがとうございます。そして、すみませんでした、お世話を掛けて」

「これくらい別にどうってことねぇよ。そんで、お前は何で泣きながらここに突っ立ってたんだ?」


話が本題に入ったので、気を取り直して対峙する。そして、直角90度のお辞儀をしてから、再び祐樹先生に向かって、ありがとうございました、と感謝を述べた。


「俺がこうしてこの場所に連れて来られても普通に過ごせていたのは、先生のおかげです。ありがとうございました」 

「……お前、帰るんだな。自分の国に」

「はい、今日、というか、さっき決まりまして……だから、最後に蓮さんに、先生と話す機会を頂きました」

「律儀なこった……まぁ、悪い気はしねぇけどな」


フッと、何処か寂しげに笑う祐樹先生に、ギュッと胸が締め付けられる。お世話になった恩師など俺には居なかった。だからこれが、人生で初めての、恩師と呼べる人との別離となる。けれど、悲しんでばかりはいられない。俺にはやる事がまだ残っている。この人と、俺が聞きたかった話をするまでは。


「祐樹先生。俺、先生にお聞きしたかった事があって……先生は、外から雇い入れられた方でありながら、妙にこの教会の内情にお詳しいですよね?それに、俺が御方であるとされている蓮さんを名前で呼んでも、特別な反応は見せなかった。それは、どうしてなんですか?」


祐樹先生が、この教会の顧問弁護士として雇い入れられたのは、蓮さんが御方の影武者として御方に擁立されてからの事だ。いくら顧問弁護士だとはいえ、先生は、それ以前の教会の内情や、教会の暗部に詳しすぎる。先生自身が信者では無いのだとしたら、その理由は一体何なのか。俺はそれを詳しく聞く為に、ここにやって来たのだった。


「………気が付いたか。まぁ、俺がヒントを与え過ぎたというか、な」


静かに犯行を自供する犯人の様な空気を纏いながら、祐樹先生は俺の目を見据えた。


「俺は昔、御方ご本人の家庭教師をしていた。幼い頃のお前の事も、だから、本当はよく知っている。リリー……いや、真司。お前の話は、御方からいつも聞いていたよ。利発で大人しい御子だったが、お前と知り合ってからは、とても可愛い遊び相手が出来たと、珍しくはしゃいでおられた」


驚きの事実を隠していた祐樹先生に、涙も鼻水も、完全にぴたりと止まった。まさか、先生が御方の家庭教師をしていて、幼い頃の俺の事まで知っていただなんて、予想外もいいところだ。


「何故、今までこの話を黙っていたんですか?」

「お前がこの教会の茶番の絡繰に気が付かなければ、黙っているつもりでいた。口止め程度の話なら、『蓮さん』にされていたからな。余計な知識を横から与えて、お前を混乱させたくなかったんだろう」


理由になっている様でいて、なっていない。素直に最初から説明を受けていたら、こんなに面倒な流れにはなっていなかっただろうに。俺がどうしても納得のいかない気持ちを抱えていると、祐樹先生はそんな俺をフッと鼻で笑った。


「素直に納得出来ないのも分かる。けど、あの人は、自分自身の力で、お前に真実に辿り着いて欲しいと願っていた。その気持ちは、俺にも分かる。与えられた情報だけを鵜呑みにして、『はい、そうですか』とすんなり納得してしまう様な人間では、あの御方を相手に立ち回って、あいつを救い出せる訳がないからな」

「祐樹先生……先生は、もしかして、ロサ・フェティダさんの事を知っているんですか?」


『あいつ』と親しげにロサ・フェティダさんの事を呼ぶユンギ先生に、唐突に閃きを得て、俺はその閃きから得た確信を突いた。すると。


「あいつは、俺の初恋の相手だ」


衝撃的な事実に、思わず思考が停止する。知り合いだけならまだしも、慎也さんに続いて二人目の訳あり人物が現れてしまった。しかし、慎也さんの時ほどの強い衝撃には至らなかった。初恋の人、という括りに、ロサ・フェティダさんと慎也さんほどの距離感を感じないからなのかも知れない。


「なんで……何処で、あの人を?」

「あいつは、花園が一旦活動を停止して、九條氏の手によって再稼働するまでの間、蓮さんと一緒に行動していたからな」


確かに、流れで言ったらその辺りの時期でないと説明がつかない。しかし、ロサ・フェティダさん……何処まで男を惑わせたら気が済むんですか、貴方は。


俺から見て、祐樹先生は完全なるヘテロにしか見えない。だとすると、そんな普通の性的嗜好を持つ人間を虜にしてしまうロサ・フェティダさんの自力が恐ろし過ぎる。本当に、心臓に悪いからやめて欲しい。祐樹先生が本気になりでもしたら、ロサ・フェティダさんだって、もしかしたら……いや、でもあの人は御方を深く信仰して愛してもいるから、簡単には靡きはしないだろう、けど、そういえば、慎也さんという前例があった……もう考えただけでも、辛い。


「予想以上に深傷を負ってるな、お前。大丈夫か?」

「いや、はい、……あの、大丈夫です。それは兎も角、祐樹先生から見た御方は、どんな方でしたか?」


何とか気持ちを切り替えて、より生産性の高い話題に持っていく。少しどころか、かなり強引な手段を選んだけれど、祐樹先生は心配そうな顔をしながらも、俺の話に乗ってくれた。


「さっきも話したが、大変利発で、大人しい御子だった。軟禁されている教会から外に出る事は許されていなかったから、友達と呼べる人間も少なかった。そんな中で出来た例外の一人が、お前だよ。辛い事があっても、お前の存在が御方の支えになっていた。だから、お前が教会に来なくなってからの御方は、それはそれは精神的に不安定になってしまわれてな……御方の世界は狭過ぎたんだ。お前の自立や、人としての成長を許容出来なかった。けれど、誰もその事を指摘出来る人間もいなかったんだよ。御方の身の上を知っている人間には、な」


俺は、教会に一人取り残された御方の気持ちを知って、深い罪悪感に苛まれた。幼い頃の夢を見てから、御方と過ごした時間を少しづつ思い出して来ていたのも、その罪悪感に拍車を掛けていた。思えば、御方との思い出は、基本的に単調を絵に描いたような物ばかりだった。母の教会での活動が終わるまでの短い時間、砂場で一緒に遊んでいた、という他愛もない記憶ばかりだったからだ。


御方との間にある特別な記憶といえば、教会の深い森にある古びた小さな教会での、あの異様な集会の時の記憶が突出した思い出だった。俺は、あの時の出来事がきっかけとなり、教会自体に寄り付かなくなってしまったので、御方としては、さよならも言わずに突然教会に来なくなってしまった俺に困惑した事だろう。どんな意図があって、あの集会の様子を俺に見せたのかは分からないけれど、今思えば、きちんと事情を説明してもらったり、もっと密にコミュニケーションを図っていれば、そんな悲しい結末にはなっていなかったのかもしれない。


「俺は、御方には何も説明せずに、あの人の元を去りました。だから、御方にとっては、裏切られたという気持ちがあってもおかしくはありません」

「良ければ、俺に話してくれないか?お前が、御方の前から姿を消した、その理由について」


俺は、重々しく口を開いて、祐樹先生に事の経緯を説明した。教会での集会を見せられてショックを受けたという話も、きちんと順序を立てて話をしていった。


「俺は大人達が一様に崇めていたあの人が、人知の及ばない存在なのかもしれないと次第に怖くなって、それもあって、あの人の元を………だから、御方が、俺にどうしてあんな光景を見せたのか、俺には未だによく分からないんです」

「なるほど、分かったよ。何故お前が御方に、その場所に『招待』されたのか」


え?……と、小さな声を上げて俺が驚きを表現すると、祐樹先生は真剣な表現で、御方がどんな経緯があって俺をその教会の集会に招待したのか、説明をし始めた。


先代の教祖はその精神を病み、御方というその存在を教会に軟禁する事でその精神を安定させていた。御方がそんな生活をしている一方で、御方の存在を知る一部の熱狂的な信者から、死の淵から生還を果たした神の子として、その存在を崇められる様になっていったのだという。中でも、軟禁場所として指定されていたその教会の司祭には、教祖本人以上の存在として御方を信者達に認知させ、その立場を利用して、何も知らない御方に、教会本部や教祖には知らせずに、ある事をさせる様になっていったのだそうだ。


それが、入信の時とはまた別にして執り行われる、『洗礼の儀』であった。


当時の教会には厳しい階級制度が設けられていて、より上の支配者層が、下の被支配者層から金銭や性的な搾取を行う図式が成り立っていた。被支配者層の人間が、支配者層の人間に組入る為には、支配者層の中でも権威ある人物からその存在を認められて、教祖自らが行う『洗礼の儀』を取り計らって貰う様に嘆願書を提出しなくてはならない。


しかし、権威ある信者、つまりは幹部の人間から嘆願書を発行して貰う為には、発行に関わる発行費は勿論の事、そこに至るまでの間にも、幹部である人間に資金的な面で援助をしたり、非人道的な行いを通してご機嫌伺いを立てるなどして、幹部に取り入る必要性があった。そんな、一握りの人間にしか現実的には許されていない経緯を踏まなければ洗礼の儀が執り行えないとなれば、被支配者層は、黙ってその立場を受け入れるしかない。そんな人間達の不満や欲望に目を付けたのが、御方のその身を教会内で秘密裏に軟禁している教会の司祭だった。


司祭は、死の淵から生還を果たした神の子、と御方を祀り上げ、搾取される側に回ってばかりいる可哀想な信者を憐れに思い、御方は、その者達の為に立ち上がったのだ、というシナリオを作り上げた。そして、教祖の実子であり神の子である御方に従う者には幸いを与えると信者に啓蒙し、支配者層になりたくてもなれなかった人間達を集め、秘密裏に集会を行い、正式な手続きを踏まない、御方による『洗礼の儀』を執り行う様になった。


御方が本来のお役目である教祖としてその席に座された暁には、その立場を保証するという触れ込みをすると、手を上げる者は次々と現れた。そして、教会の司祭はその集会に集まった人間達からの寄付を募り、その中から特に『見所のある』人物を選んで、何も知らない御方に洗礼をさせるという行為を繰り返させていったのだ。


「俺が気が付いた時には、全てが遅過ぎた。御方に集う信者達の数は、あまりの規模にまで膨れ上がっていたんだ。最初は人から感謝される日々に喜びを抱いていたらしい御方も、集会に集まる人間の欲望の渦に飲まれて、本格的に祀りあげられる存在になってしまってからは、悩ましい日々を過ごされる様になっていった。静かな暮らしを望んでいた御方にとって、本当に教祖になりたいだなんて願望はまるで無かった。けれど、それを司祭や、それを取り巻く人間達に言えるはずもなく……御方は、教祖として生きる道を歩まざる終えなくなってしまったんだ」

「そんな……」


信頼していた周囲の大人達に利用されていたと知った御方の失望と絶望は、きっと計り知れなかった事だろう。狭い世界しか知らされずに生き、その周囲の人間の価値観に染まるしかなかった御方の境遇を思うと、胸が締め付けられる。


「それだけでなく、御方は……司祭からの性的虐待を受けていた。お身体が小さかったのもあって、完全な形での虐待には至らなかったのだけど、それを知った時には、流石の俺も怒ってな。思わず抗議しにいって、その髭面に向かって証拠の写真を突き付けた。出る所に出て貰いたくなければ、これ以上の勝手は慎むんだな、と言ったら、俺はその場で信者達からボコボコに殴られて、家庭教師を解雇された。まぁ、写真は死ぬ気で死守したがな」


カッコいいのか、いまいち頼りないのか分からないエピソードを聞いて。それでも、俺だって祐樹先生と同じ立場だったら、同じだけの事が出来るかは分からなかったから。先生の事を本当に強い人だなと思って、もとより格好いいと思っていた先生に、さらに尊敬の念を傾けた。


その時の経験があって、祐樹先生は弁護士になったらしい。自分を袋叩きにしてきたそいつら全員の顔はしっかり覚えていたから、いつか絶対に倍返しにして見せると息巻いて、法曹界に飛び込んだのだそうだ。そして、若手ながらも飛ぶ鳥を落とす勢いでエリート街道を駆け上がっていき、あっという間に独立開業を果たして、御方が御方としてその存在を定着させる為の手伝いに奔走した。


御方も、先生の事を本当に頼りにしていた様で、いつしか二人は教師と教え子の関係性から、相棒の様な存在となっていったのだそうだ。『まぁ、俺が勝手にそう思っているだけだけどな』と語る先生は、気恥ずかしそうに話していながらも、どこか誇らしげだった。俺はその二人の歴史に想いを馳せて、少しだけ胸が温まった。


「少し話は逸れたが……つまり、御方は洗礼の儀を行う事によって人々が喜んでくれる事を知っていたんだ。多分だけど、お前の母親が洗礼の対象に選ばれた事を知った御方は、母親がそうして洗礼を受けて祝福される姿や、そんな風に周りから頼りにされている自分の姿をお前に見せてやりたかったのかも知れないな。御方なら……きっと、そう考えるだろう。恥ずかしがり屋だった御方が、何がきっかけでそんな風に思ったのかは、分からないがな」

「………あ、」


俺は、祐樹先生の話を聞きながら自分の記憶を補完していき、そして、今この時になって漸く、その古い、とても古い記憶を、呼び起こしていった。


その日、いつもの様に俺が教会の砂場に行ってみると、教会の深い森に続く道の隅っこに、いつも遊んでくれているお兄ちゃんが座り込んで泣いているのを見つけた。俺は、『そんな格好』をしていても、お兄ちゃんが泣いているのが何故だか直ぐに分かったから、すぐにその場に駆け付けて、その身体を後ろからぎゅっと抱き締めた。


父は、母に暴力を振るった後は、いつもこうして母を抱き締めて慰めていた。すると泣いていた母は驚くくらい簡単に泣き止み、にこにこと笑顔を見せ始めるのだ。共依存関係にあるカップルや夫婦に見られがちなよくある光景なのだが、それを知らなかった俺は、母の様に泣き止んで欲しくて、お兄ちゃんに父と同じ事をしたんだ。俺の方を振り返ったお兄ちゃんは、何を考えているか分からない間を置いてから、俺に、なんで抱き締めてきたのかを尋ねてきた。だから俺はそれに、本心から。


『お兄ちゃんは、俺のお友達だもの。だから、当然でしょう?』


すると、お兄ちゃんはまた再び泣き始めてしまったんだ。慌てた俺がハンカチを探していると、お兄ちゃんが突然、俺に……いや、その場所そのものに向けて抗議する様に、大きな声を張り上げた。


『俺は……もう、ここに、ッ……こんな場所に、いたくない!!』


その悲痛な叫びに、俺の小さな胸が劈かれた。その必死な叫びに含まれた様々な感情の余波を浴びて、俺は思わず、お兄ちゃんと一緒になって泣き出してしまいそうになった。だけど、自分なんかよりよっぽど悲しい思いをしているのは、お兄ちゃんの方だと分かっていたから、俺は、小さいながらに勇気を振り絞って、お兄ちゃんの目がある場所をしっかり見つめながら。









『いつか絶対に、俺がお兄ちゃんをこの場所から連れ出してあげる』








まるで、宣誓する様に。


その後、俺達は小さな手と手を握り締め合いながら。共に泣き、共に笑い、共にはしゃいだ。


そう、俺は、お兄ちゃんに誓ったんだ。
その、果たされなかった、約束を。


知らなかった。お兄ちゃんが、どれだけの絶望の中を生きて来たのか。俺自身も家庭崩壊している環境で育っていたから、お兄ちゃんがいる環境やお兄ちゃんの心理にまで、深入りしていかなかったのも要因としてあるかもしれないが。それは子供にとって理由にはならない。御方に向けてその場所から連れ出すと約束した俺が、突然目の前から居なくなる。当然分からないだろう、俺のその気持ちが。そもそもが暗い環境にいたお兄ちゃんを、俺はどれほど追い詰めたのだろう。想像するだに、気持ちが逸る。


早くお兄ちゃんに、御方に会って、謝りたい。あの時は、本当にすまない事をした、と。


「俺は、御方に向かって、言ってはならない事を言いました。その償いは、しなければならないと思っています」

「……一体、お前は御方に何を言ったんだ?」



祐樹先生の纏う空気が変わる。氷の様に冷たいその雰囲気を感じ取って、先生がどれだけ御方を大切に思っているのかが伝わってきた。だから、そんな先生を相手に、真実を黙っているわけにはいかなくて。


「『いつか絶対に、俺がお兄ちゃんをこの場所から連れ出してあげる』……俺は、あの日お兄ちゃんに、そう告げたんです」


祐樹先生は、俺の昔使った台詞を聞いた瞬間、目をカッと見開き、そして次第に沈痛を露わにした表情を浮かべていってから、ゆっくりと温室の天井を仰いだ。


「………それは、無いな。あいつに向かって、それは無い」


天井を仰ぎ見たまま、御方に対する口調をより砕けたものとした祐樹先生の心境を考えただけで、どうしたらいいか分からなくなる。こんなに大切な話を今までずっと忘れていただなんて。なんでこんな風に追い詰められなければ、俺は。


『俺の事を忘れているなら、思い出させるまでの事』


という、御方が俺に向けた言葉が、ずしりと重くのし掛かる。あれだけの執着を俺に向け、執拗に俺を追い詰めてくる御方を、俺はずっと毛嫌いしてきた。文句があるなら、直接出てこいと言ってやりたかったけれど、そんな事を、御方という立場を隠して生きている『あの人』が、出来るはずがないのだ。


だとしたら、俺にやれる事は、ただ一つ。


「帰国したら、その足で、御方に会いに行きます。そして、今まで本当に申し訳ない事をしたと、謝るつもりです」

「謝って、それで終わりか?」

「いえ………可能性は低いですが、俺はやはり、どうあっても、ロサ・フェティダさんを救いたい。だから、その交渉も直接行うつもりでいます」

「あいつの意思はどうなる。あいつは花園の為に生き、御方と共にあると心に決めた奴だ。その意思を踏み躙ってまで、どうして花園と決別させようとする。俺は、お前のエゴで動いているところが、どうしても見過ごせない。だから、どうしてもロサ・フェティダと花園を切り離すつもりなら、俺を今この場で納得させてからにしろ」

「その提案、乗った」


音も無く、俺達がいる温室の入り口に姿を現した人物に、ハッと目を向ける。そこには、いつも通り飄々とした雰囲気を身に纏った慎也さんがいて、好奇心を一欠片覗かせた視線を此方に向けていた。


「俺も、どうしてそこまで必死になって、あいつと花園を引き離そうとしてるのかが分かんないんだよね。何がお前をそうさせるの?あ、感情論は辞めてね。聞いてらんないから」


そんな風に先回りされてしまっては、答えに窮してしまう。俺に用意出来る答えなんて、ただ『御方への気持ちに区切りをつけて、(出来れば俺と一緒に)自由に生きて欲しい』というものでしかない。理路整然とした理由なんてまだまるで無いし、それこそ感情論だ。この二人に説明し、納得させるだけの価値なんて無い。


だけど、それでも、俺は。


「………あの人を、御方の呪縛から、花園という場所から、解き放ちたい。何故なら、あの人はあの場所にいても、幸せそうにしている様子を、俺に見せてくれた事がないから。御方の愛を欲して、御方の為に生きて……自分の意思でそうしていると言っているけれど、そんなの、御方の洗脳に過ぎないかも知れない。そうでなかったとしても、あの人をあんなに精神的に不安定にしたまま平然としていられる御方を、俺はどうあっても許す事は出来ません。だから……俺は御方に会って、直接確かめたいんです。ロサ・フェティダさんの事を、どう思っているのか。そして、これから先の、あの人の人生をどう考えているのか。もしも、その返答に誠意が感じられ無かったら……」

「「感じられ無かったら、どうする」」



話の続きを促す二人は、俺の目にあって、厳しい態度を露わにしている様でいながら、自分自身でも諦めかけていた答えを求めて彷徨い続けてきた流浪の民の様な瞳で、俺を見つめていた。だから、ロサ・フェティダさんを陰ながら見守り続けてきたこの二人に向かって、俺はこれしかない、という渾身の気持ちをぶつけた。


「ロサ・フェティダさんに、俺を好きになって貰います」

「「…………は?」」


ぽかん、と口を開いて、俺の顔をまじまじと見つめる二人に向けて、俺は同じ言葉を繰り返した。


「あの人に、俺を好きになって貰って、あの人の凝り固まった考え方を変えてみせます。絶対に、なんとしても」

「いや、ど……えっと、なんか、その……悪いんだけどさ、お前の中に、作戦?みたいなのはあるわけ?もしあるなら、聞かせて欲しいんだけど」

「そんなもの、今はまだ、ありません」


きっぱりと言い切ると、質問してきた慎也さんも、さっきの祐樹先生と同じ様に温室の天井を仰ぎ見た。一方で先生の方はというと、不思議な事に、全く微動だにしていない。考えてみれば、この一週間、俺はこの人と時間が許す限りずっと一緒に過ごしてきた。その為、この島にいるどんな人物よりも俺に詳しいのは、この人なんだ。だから、先生は俺の意図を先回りして知っていたのだろう。その為、分かりやすいリアクションなど取らず、然もありなん、と憮然と構えていたんだろうと思っていたのだけど。


「慎也、こいつさっきから何言ってんだ?」


……単純に、殆ど頭が働いていなかっただけだったらしい。いや、それだけだったら、話は簡単に済んだ。


「祐樹さん、あのね、落ち着いて?こいつはこれでも、本気だし割と冷静だと思うんだ。だから、あんまり怒らないでやって」

「こっちが冷静になれねぇんだよ。今まで人がどれだけ真剣に……てめぇ、俺の労力と期待を返しやがれ」

「まぁまぁ」


こう見えて、祐樹先生は俺に対して静かに激怒していた様だ。先生と一緒になって俺に向けて凄んでいた慎也さんが、いつの間にやら嗜め役に回っている。こう見えて苦労人の分類に属されている慎也さんを見て、申し訳ないなぁ、と思いつつも、俺は主に慎也さんに向けて用意した謝罪等の文言を言葉にはしなかった。


「あー、そもそも、あいつを自分に惚れさせてっていうその話はさ、俺達も散々試してきてるんだよ。それでもそれが難しかったから、こうして悩んでいると……にも関わらず、ここに来てお前が俺達とまるで変わらない手法を取るって宣言されるとね。そりゃあ、俺達が呆れるのも当然だと思わねぇ?ていうかさ、何で俺達には無理で、自分には出来ると思えるの?すっげぇ不思議何だけど」

「おま、………慎也、てめぇ、ふざけてんのか」


絶句する様にして慎也さんを糾弾する祐樹先生の顔色は、一瞬のうちに青褪めてしまった。確かに、自分自身の恋愛的要素がふんだんに盛り込まれた過去を振り返って、『結局俺達にはあいつの意思を変えるのは無理でした』と開き直れる胆力は、常人にはそう持てるものでも無いよな、と思う。だから、心情的にはどうしても祐樹先生に同情してしまった。そんな目を向けると、先生は例え俺を殺したとしても物足りなさそうな物凄い眼光の視線をギラリと俺に向けてから、チッと鋭い舌打ちをした……柄が悪いし、おっかない。


「俺さぁ、祐樹さん。実は結構キてるんだよね……あいつの為に俺なりに頑張ってきたけどさ。やっぱり、全部無駄だったから。なのに、肝心のこいつはこの調子だって分かったから……だからもう、本当はずっと、うんざりしてるんだ」


自分自身の行いを全て無駄に感じてしまうくらいに、手応えの無い、暖簾に腕押しの経験をロサ・フェティダさんと交流していくなかで積み重ねているうちに、次第に慎也さんの心も擦り減って行ったのかも知れない。だとしたら、こんな風にすっかりと草臥れてしまうのも、仕方のない事なのかも知れないと思えた。


「慎也、気持ちは分かるが、本当に落ち着かなくちゃいけないのは、俺じゃなくてお前の方だ。気持ちをしっかり持て。後もう少しで……もうほんの少しで、あいつを救ってやれるかもしれないんだから」

「………その先に、俺や祐樹さんの救いはあるの?」

「分からない。だけど、やるしかない……お前だって、本当はそう思っているんだろう」


ロサ・フェティダさんが、御方と花園の呪縛から解き放たれる事と、俺とロサ・フェティダさんの関係が上手くいく事は『=』で結ばれている可能性がある。だから、その図式が存在する以上、ロサ・フェティダさんに人一倍の想いを抱いているこの二人は確かに、明るいばかりの未来図を描ける立場ではいられないだろう。だから、俺はロサ・フェティダさんにとって、そして、この二人にとっての唯一無二の光源にならなければいけないんだ。


…………この二人のこれまでの努力を、無駄にしない為にも。


俺は、グッと胸を張って、殆ど泣き出しそうな雰囲気でもってお互いを慰め合う二人に向かって、声を張り上げた。


「俺は御方と対峙していく中で、絶対にロサ・フェティダさんの気持ちを俺に向けさせて、御方に囚われているあの人を救い出し、幸せにしてみせます。だから……お二人の想いは、俺が必ず受け継ぎます」


俺のその宣誓を受けた二人は、再びぽかんと口を開けてまじまじと俺の顔を見てから、殆ど同じタイミングで、ドッと笑い始めた。腹を抱えて、という笑いではなくて、俺を小馬鹿に……というか、本当にちょっと、馬鹿にし過ぎてやしませんかね?と言った印象すら感じてしまう笑いだったので、流石の俺としてもカチンときてしまって。


「ちょっと、笑い過ぎなんじゃないですか?」

「いや、すまん、悪い、悪かった。こうも真っ直ぐに来られると、どうもな。でも、安心したよ。お前みたいな奴だったら、きっと何があっても大丈夫だってな。だから……お前は、そのままでいてくれよ」


祐樹先生の心強い励ましに背中を押される。


「俺も、もう余計な心配なんてせずに、お前を御方の元に送り出せるよ。笑っちまって、ごめんな。お前が本気だから余計にさ……眩しいよ、お前。本当、吃驚するくらいにさ」

「何となく、最後の一言が気になるんですけど……」

「あっはは……でも、真面目に期待してるから。頼んだぜ。お前は、そのまま真っ直ぐ突き進めよ」


慎也さんの激励に、胸が熱くなる。


「はい。行ってきます」


だから、二人に見送られるなか踏み出した始まりの一歩を、俺は強く記憶に刻み込んだんだ。
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 オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。  ――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。  懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。  義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

捨て猫はエリート騎士に溺愛される

135
BL
絶賛反抗期中のヤンキーが異世界でエリート騎士に甘やかされて、飼い猫になる話。 目つきの悪い野良猫が飼い猫になって目きゅるんきゅるんの愛される存在になる感じで読んでください。 お話をうまく書けるようになったら続きを書いてみたいなって。 京也は総受け。

年越しチン玉蕎麦!!

ミクリ21
BL
チン玉……もちろん、ナニのことです。

仕事ができる子は騎乗位も上手い

冲令子
BL
うっかりマッチングしてしまった会社の先輩後輩が、付き合うまでの話です。 後輩×先輩。

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

鈍感モブは俺様主人公に溺愛される?

桃栗
BL
地味なモブがカーストトップに溺愛される、ただそれだけの話。 前作がなかなか進まないので、とりあえずリハビリ的に書きました。 ほんの少しの間お付き合い下さい。

悪役令息シャルル様はドSな家から脱出したい

椿
BL
ドSな両親から生まれ、使用人がほぼ全員ドMなせいで、本人に特殊な嗜好はないにも関わらずSの振る舞いが発作のように出てしまう(不本意)シャルル。 その悪癖を正しく自覚し、学園でも息を潜めるように過ごしていた彼だが、ひょんなことからみんなのアイドルことミシェル(ドM)に懐かれてしまい、ついつい出てしまう暴言に周囲からの勘違いは加速。婚約者である王子の二コラにも「甘えるな」と冷たく突き放され、「このままなら婚約を破棄する」と言われてしまって……。 婚約破棄は…それだけは困る!!王子との、ニコラとの結婚だけが、俺があのドSな実家から安全に抜け出すことができる唯一の希望なのに!! 婚約破棄、もとい安全な家出計画の破綻を回避するために、SとかMとかに囲まれてる悪役令息(勘違い)受けが頑張る話。 攻めズ ノーマルなクール王子 ドMぶりっ子 ドS従者 × Sムーブに悩むツッコミぼっち受け 作者はSMについて無知です。温かい目で見てください。

激重感情の矢印は俺

NANiMO
BL
幼馴染みに好きな人がいると聞いて10年。 まさかその相手が自分だなんて思うはずなく。 ___ 短編BL練習作品

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