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第二章『罪』
教会と花園の知られざる関係
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大きな鳥籠の様な形をした温室が、広葉樹の森の中に、ひっそりと姿を現した。硝子張りで出来た透明なその温室は、その中央に丸いテーブルが置かれており、小さな書斎も設てある。俺はそこに細いロープで腕をぐるぐる巻きにされ、猿轡をされた状態で案内され、テーブルの横に置いてあった小さな椅子に座らされた。あまりの仕打ちに、何をどう怒ればいいのかまるで分からなくなって、寧ろ冷静さを取り戻した俺は、温室にいて俺を出迎えてくれた人の後ろ姿をしげしげと眺めた。
慎也さんに連れて来られた猿轡をしている俺に、その人は最初、胡乱な眼差しを向けてきた。雪の様に白い肌に、すっきりと整った精悍な顔立ち。そんな、見るからに厄介事を持ち込まれるのが苦手そうなその人の名前は、水野 祐樹というらしい。御方お抱えの弁護士であり、作家でもある。ベストセラーを何本か抱えてはいるものの、最近では全く新作に手を付ける様子は見られていない、というのが、俺をこの場所まで案内してくれた慎也さん経由の情報だった。
お茶を淹れてくれた祐樹さんが、猿轡をしている俺を見て、ふっ、と鼻で軽く笑い飛ばした。それじゃ茶なんて飲めねぇよな、と言って俺の背後に周り、猿轡を外してくれる。ついでに、腕を後ろ手で交差する形で縛り上げていた縄も解いてくれた。漸く自由になった身体を伸ばし、肩や首を回して身体の緊張を解してから、改めて祐樹さんにお礼を告げた。
「ありがとうございます。助かりました。問答無用の状態で、ここまで連れて来られたので……」
「何したら、あんな目に遭うんだか。まぁ、いい。厄介な話は、俺んとこには持ち込まないでくれ」
「すみません、出来るだけ、そうします」
「……お前、案外頭悪かねぇな。出来るだけって前置きして即答しない所が気に入った。気に入らねぇ事があったって面してるな。一体、何があったんだ?」
厄介事を嫌っていると言った次の瞬間に、早速厄介事に首を突っ込んでくる。この人は、あれだ。これでいて、好奇心が割と強いんだろう。弁護士でもある作家だと聞いているから、物事に寄せる興味関心が、普通の人よりも広いのかも知れない。だとしたら、現状について掻い摘んで説明していけば、俺の心の靄みたいなものも、多少なり晴れていくかも知れないな、とそう思って、俺はぽつぽつと、これまでにあった出来事を少しずつ祐樹さんに話して行った。薔薇の花園に関する話は秘匿性が高く、外部の人間には話してはいけない事になっている。なので、その存在は隠して話をする必要があったから、選ぶ言葉を慎重にしていったのだけど……
「俺は、御方が運営しているある場所で、見習いとして働いていまして。そこで研修期間を終わらせてから御方にお会いする予定だったのですが、一方的に研修期間が終わらされて、気が付いた時にはここに……」
「成る程な、お前が御方たってのお気に入りで、花園に鳴り物入りしてきた新人か。確か、リリーとかいったか。もう薔薇になったとは、やるじゃねぇか、お前」
………ほぼ、全ての情報を把握されていましたとさ。気を遣って話を進めていた俺の努力を返して欲しい。というか、御方のお膝元で、こんな風に堂々と生活している『先生』が、花園の内情に詳しいかも知れない事くらい分かってないと駄目ですよね。はい、すみませんでした……
「で、期待の新人君は、何でここに?」
「俺にも良く理由が……本当に、突然連れて来られたので。その後も何だか、流れが良く分からなくて。一緒に食事をしたり、俺の質問に答えてくれたり……それくらいで」
「ふぅん。信者にとってみたら喉から手が出る程の報酬だな。確かに花園の薔薇ってのは御方の寵愛を受けている特別な存在だけど、そんな話は異例中の異例だぜ」
「………信者?」
自分のトラウマを刺激する様な単語に、ぴくりと反応する。俺が、何の事か分からない、といった顔をしていると、祐樹さんは片眉を上げて、おや?という表情を浮かべた。
「知らないのか?御方は、お前さんの国のトップ連中がこぞって入信してる巨大信仰宗教の教祖だ。あの方が、あの国の裏側を牛耳っていると言っても過言じゃない。声を聞いた者には幸いを、そのお姿を拝見した者には永劫の祝福があるとされている。本人に、その自覚は余りないみたいだけどな。周りの幹部達がその分気を遣っているから、御方の秘匿性が守られているような状態だよ。あの人がもっと自覚を持って行動してくれたら、側近の新庄もあんなに老け込まなくて良くなるんだけどな……この俺もサボりやすくなるし」
やれやれ、と肩を竦めて自分の淹れたお茶を一口啜る祐樹さんの顔をまじまじと見ながら、俺は全く別の事を考えていた。この国で最も権力を有していると言われている信仰宗教。この国の政財界にいる重鎮や様々な分野のVIP、有名芸能人等々がこぞって入信している事でも有名なそれは、一般の人間にも広く浸透しており、数多ある信仰宗教の中でも、比較にならないほどの知名度と権威を兼ね備えている事で有名だった。もしも、祐樹さんが言うその信仰宗教が、俺にとっても曰くのあるそれと合致するとしたならば。
俺の家庭を壊し、母を壊し、俺すらも壊そうとしたこの世で最も憎むべき存在に、俺はこの二ヶ月もの間、ずっと庇護されていた事になる。
用意された朝食に、手を付けなくて良かった。あの一つ一つの食材が、母の様な人間達から集められたお布施で賄われていたのだと考えただけで、虫唾が走る。あの、先程までいた、豪華絢爛を絵に描いた城の様な作りの建物も、お抱えの顧問弁護士を置く用意周到な部分の何もかもに、反吐が出た。
もう、一瞬たりともこの場所に居たくない。空気すら吸いたいと思わない。御方が俺にどんな感情を抱き、俺にどんな執着を見せようとも、もうどうでも良い。
もう、二度と、俺に関わらないでくれ。
あの地獄を、思い出させないでくれ。
「どうした?顔が真っ青だが……」
「何でもありません。ただ、俺はもう、ここに居たくない。帰りたいので、人を呼んで……いや、自分の足で帰ります」
「残念だが、それは無理だな」
「は?……どういう意味ですか?」
「最初と違って随分と俺に毛を逆立ててるところと、さっきの話を踏まえて考えるに、大体の察しはつく。気持ちは分からないでもないが、お前が一人でここを出るのは、物理的に無理なんだよ」
「だから、それはどういう……」
「ここは、離島だ。360度海に囲まれた、な。そして、お前が生まれ育っただろう国でもない……今、向こうは秋の始めくらいだったかな?だとしたら、ここが妙に暖かい事に気が付かなかったか?」
信じられない話を聞いた事により、深く暗い憎しみを抱いているのを思わず忘れて、ぽかんと口を開いてしまう。自分が今いる場所が、離島。それでいて、生まれ育った国でもないと聞かされて、放心してしまった。
「あの、なら……俺は、どうしたら帰れるんでしょうか」
「さぁ?それこそ、御方の気分次第だからな。今は寒いからこっちに越してきてるだけで、過ごしやすい季節になったら本国に帰るつもりでいるだろうし。その頃になったら、一緒に帰れるんじゃないか?」
ようは、『知らんけど』という事らしい。あまりの現実に、途方に暮れる。一秒だって居たくない場所で、これから何ヶ月と過ごさなくてはならないかも知れないなんて。目の前が真っ暗になる。本当の絶望とは、この事を言うのかもしれない。
「まぁ、いまさら騒いでも、連れて来られちまったもんは仕方ないだろ。茶でも飲んで落ち着けよ」
歳上の、それでいて肩書きもしっかりした大人から正論を述べられて、体重の全てを小さい椅子に預ける。渋々と、一口含んだ丁寧に淹れられた暖かい紅茶は、南国のどこかと思わしき場所の気温の中にあっても清涼さを俺の身体の隅々に行き渡らせた。紅茶を美味しいと思った事はあまりないけれど、飲み慣れていない俺であっても、この紅茶は今まで飲んだどの紅茶よりも美味しいと思えた。けれど、その感想を伝えたくなる様な気持ちにはどうしてもなれず。俺は押し黙ってその紅茶にまた口を付けた。
「……お前が、ここの宗教絡みでどれだけの目に遭ったのかは、お前の見た目の年齢的に考えたら、大体の察しがつく。だけど、お前が辛い目に遭っていた頃と、今のトップは違う。いまの御方に代替わりして、大規模な組織の改革が進められてからは、お布施や資金援助、性的搾取目的で私腹を肥やしていた大部分の幹部が粛清の対象となったんだ。そして、昔の様に、より強い者が弱い者から搾取する図式は失われた。だからといって、宗教が持つエゴイスティックな面が全く無くなった訳じゃない。だから、すぐに意識を変える事も、毛嫌いしたい気持ちを変える必要もないと、俺は思うよ」
昔と今は違う、と聞かされても、すぐに納得がいくものではない。トラウマというものが、そんな程度の情報で一度に解決されたら、何の苦労もしないのだ。昔いじめっ子だった子が改心して、学校の先生になりました。半グレだった人が気持ちを入れ替えて、警察官になりました。そんな話を聞くだけで、だからどうした、真面目に生きてきた人間の方がよっぽど偉いだろうが、と言ってやりたくなる。その人間が、今まで迷惑をかけてきた人間の全てに頭を下げてから新しい道を歩んでいったのならまだしも、開き直って『若気の至りでして』だなんてへらへらしている様であれば、改心していないどころか、より一層狡賢くなってしまっただけの悪改変でしかないじゃないかと言ってやりたい。
俺の憎しみは、こんな話では消えない。そして、この憎しみの頂点に座す御方を、俺は決して許さない。
無言のまま、出された紅茶をゆっくりと飲んでいると、そんな俺の気持ちを解きほぐす様に、祐樹さんは俺にある話をし始めた。それは、今まさに俺が味わっている紅茶に纏わるエピソードだった。
この紅茶は、御方が一口飲んだその時から、一目惚れに近い形で気に入られた物だった。その為、最初は現地から直接取り寄せていたらしいのだが、御方がその紅茶の存在を知るまでは、フェアトレードなんて言葉すら知らない、知識までもが貧困に満ちた場所で、現地の人間が馬車馬の様に働かされていた状態だったのだそうだ。それを見かねた御方が、畑のオーナーと直接契約を結び、畑ごと購入して、現地に人を派遣した。いまでは小さな学校もあって、そこに子供を預けた母親が安心して仕事が出来る環境が整えられているのだという。
『しかし、これも所謂エゴだろう』と、祐樹さんは語った。
同じ様な劣悪な環境にある人間達なんて、ごまんといる。紅茶という御方の目に止まった産物があったからこそ、その茶畑は庇護の対象となったに過ぎないのだ。
『けれど、それでいいんだよ』と、祐樹さんは穏やかな微笑みを浮かべた。そして、目を瞬いて驚きを表現した俺に向けて、こう続けた。
「信仰なんてものは、人の心に根付き、その存在を中から支えるものだ。初めがどうだったかなんて、問題にはならない。救いたいと思う人がいて、実際にその人に救われる人がいて、救われた人が感謝の気持ちを胸に、未来を生きていく。それで世界が回るなら、それでいい。実際、昔よりも今の方が、この紅茶は味も品質も良くなったしな」
この人は弁護士でもあるというから、その考え方の無駄の無さは、この人の職業からくる発想なのかもしれないけれど。祐樹さんの『結果こそ全て』という考え方は、どこまでも真っ直ぐに、俺の胸を捉えた。けど、それでも俺は。
「………だからといって、俺はあの御方を、すぐに肯定する事なんて、できません」
御方に対する率直な意見やエピソードをどれだけ語られても、俺は御方に対する見方をすぐに変えようとは思えなかった。けれど、そんな、ある意味で意固地になっている俺を見ても、祐樹さんは『それだって、自由意思さ』と、気にしている素振りすら見せなかった。
「……まぁ、恐らく時間はたっぷりある。お前もまた御方と話せる機会があるだろう。その機会を理解に向けるか無駄に終わらせるかも、お前次第だ。でも俺は、相互理解をしようとせず、一方的に相手を毛嫌いしたり、やっかんだりする様な人間に、進歩は無いと思うね」
真正面からの批判を受けて、俺は言葉に詰まった。けれど、だからと言って言われたままの状態を受け入れたいとは思えなかったから、俺は祐樹さんに、一言文句を言ってやろうと、気持ちを鼓舞した。
「貴方に、俺の何が分かるんですか。会ったばかりの、貴方に……」
しかし、俺の文句を受けても、祐樹さんの心を波立たせる事など敵わなくて。水鳥一羽として降り立たない、清涼な湖の湖面の様に静かな表情を俺に見せた。
「なら、俺にお前の事を話せ。自分を理解して欲しいなら、その意思を示せ。俺も俺の話をお前にする。まぁ、どうせ暇だしな……」
頭の良い人は、苦手だった。こんな風に自分のペースに丸め込んでくる人も、同様に。だけど、俺に興味を持って、俺という人間を知ろうとして、自分自身についても語ろうとしてくれる人間なんて、今まで殆ど居なかったから。
「祐樹……先生。俺、もっと、自分の知らない事が知りたいです。俺の事も、知って貰いたいです。だから、先生の事も、教えて下さい」
「そうか。お前がこれからこの場所に通う様になるなら、まずは紅茶の淹れ方から始めてみるとするかな」
俺は、人生で初めての、『先生』と呼びたいと思えた人と、巡り会えたんだ。
大きな鳥籠の様な形をした温室が、広葉樹の森の中に、ひっそりと姿を現した。硝子張りで出来た透明なその温室は、その中央に丸いテーブルが置かれており、小さな書斎も設てある。俺はそこに細いロープで腕をぐるぐる巻きにされ、猿轡をされた状態で案内され、テーブルの横に置いてあった小さな椅子に座らされた。あまりの仕打ちに、何をどう怒ればいいのかまるで分からなくなって、寧ろ冷静さを取り戻した俺は、温室にいて俺を出迎えてくれた人の後ろ姿をしげしげと眺めた。
慎也さんに連れて来られた猿轡をしている俺に、その人は最初、胡乱な眼差しを向けてきた。雪の様に白い肌に、すっきりと整った精悍な顔立ち。そんな、見るからに厄介事を持ち込まれるのが苦手そうなその人の名前は、水野 祐樹というらしい。御方お抱えの弁護士であり、作家でもある。ベストセラーを何本か抱えてはいるものの、最近では全く新作に手を付ける様子は見られていない、というのが、俺をこの場所まで案内してくれた慎也さん経由の情報だった。
お茶を淹れてくれた祐樹さんが、猿轡をしている俺を見て、ふっ、と鼻で軽く笑い飛ばした。それじゃ茶なんて飲めねぇよな、と言って俺の背後に周り、猿轡を外してくれる。ついでに、腕を後ろ手で交差する形で縛り上げていた縄も解いてくれた。漸く自由になった身体を伸ばし、肩や首を回して身体の緊張を解してから、改めて祐樹さんにお礼を告げた。
「ありがとうございます。助かりました。問答無用の状態で、ここまで連れて来られたので……」
「何したら、あんな目に遭うんだか。まぁ、いい。厄介な話は、俺んとこには持ち込まないでくれ」
「すみません、出来るだけ、そうします」
「……お前、案外頭悪かねぇな。出来るだけって前置きして即答しない所が気に入った。気に入らねぇ事があったって面してるな。一体、何があったんだ?」
厄介事を嫌っていると言った次の瞬間に、早速厄介事に首を突っ込んでくる。この人は、あれだ。これでいて、好奇心が割と強いんだろう。弁護士でもある作家だと聞いているから、物事に寄せる興味関心が、普通の人よりも広いのかも知れない。だとしたら、現状について掻い摘んで説明していけば、俺の心の靄みたいなものも、多少なり晴れていくかも知れないな、とそう思って、俺はぽつぽつと、これまでにあった出来事を少しずつ祐樹さんに話して行った。薔薇の花園に関する話は秘匿性が高く、外部の人間には話してはいけない事になっている。なので、その存在は隠して話をする必要があったから、選ぶ言葉を慎重にしていったのだけど……
「俺は、御方が運営しているある場所で、見習いとして働いていまして。そこで研修期間を終わらせてから御方にお会いする予定だったのですが、一方的に研修期間が終わらされて、気が付いた時にはここに……」
「成る程な、お前が御方たってのお気に入りで、花園に鳴り物入りしてきた新人か。確か、リリーとかいったか。もう薔薇になったとは、やるじゃねぇか、お前」
………ほぼ、全ての情報を把握されていましたとさ。気を遣って話を進めていた俺の努力を返して欲しい。というか、御方のお膝元で、こんな風に堂々と生活している『先生』が、花園の内情に詳しいかも知れない事くらい分かってないと駄目ですよね。はい、すみませんでした……
「で、期待の新人君は、何でここに?」
「俺にも良く理由が……本当に、突然連れて来られたので。その後も何だか、流れが良く分からなくて。一緒に食事をしたり、俺の質問に答えてくれたり……それくらいで」
「ふぅん。信者にとってみたら喉から手が出る程の報酬だな。確かに花園の薔薇ってのは御方の寵愛を受けている特別な存在だけど、そんな話は異例中の異例だぜ」
「………信者?」
自分のトラウマを刺激する様な単語に、ぴくりと反応する。俺が、何の事か分からない、といった顔をしていると、祐樹さんは片眉を上げて、おや?という表情を浮かべた。
「知らないのか?御方は、お前さんの国のトップ連中がこぞって入信してる巨大信仰宗教の教祖だ。あの方が、あの国の裏側を牛耳っていると言っても過言じゃない。声を聞いた者には幸いを、そのお姿を拝見した者には永劫の祝福があるとされている。本人に、その自覚は余りないみたいだけどな。周りの幹部達がその分気を遣っているから、御方の秘匿性が守られているような状態だよ。あの人がもっと自覚を持って行動してくれたら、側近の新庄もあんなに老け込まなくて良くなるんだけどな……この俺もサボりやすくなるし」
やれやれ、と肩を竦めて自分の淹れたお茶を一口啜る祐樹さんの顔をまじまじと見ながら、俺は全く別の事を考えていた。この国で最も権力を有していると言われている信仰宗教。この国の政財界にいる重鎮や様々な分野のVIP、有名芸能人等々がこぞって入信している事でも有名なそれは、一般の人間にも広く浸透しており、数多ある信仰宗教の中でも、比較にならないほどの知名度と権威を兼ね備えている事で有名だった。もしも、祐樹さんが言うその信仰宗教が、俺にとっても曰くのあるそれと合致するとしたならば。
俺の家庭を壊し、母を壊し、俺すらも壊そうとしたこの世で最も憎むべき存在に、俺はこの二ヶ月もの間、ずっと庇護されていた事になる。
用意された朝食に、手を付けなくて良かった。あの一つ一つの食材が、母の様な人間達から集められたお布施で賄われていたのだと考えただけで、虫唾が走る。あの、先程までいた、豪華絢爛を絵に描いた城の様な作りの建物も、お抱えの顧問弁護士を置く用意周到な部分の何もかもに、反吐が出た。
もう、一瞬たりともこの場所に居たくない。空気すら吸いたいと思わない。御方が俺にどんな感情を抱き、俺にどんな執着を見せようとも、もうどうでも良い。
もう、二度と、俺に関わらないでくれ。
あの地獄を、思い出させないでくれ。
「どうした?顔が真っ青だが……」
「何でもありません。ただ、俺はもう、ここに居たくない。帰りたいので、人を呼んで……いや、自分の足で帰ります」
「残念だが、それは無理だな」
「は?……どういう意味ですか?」
「最初と違って随分と俺に毛を逆立ててるところと、さっきの話を踏まえて考えるに、大体の察しはつく。気持ちは分からないでもないが、お前が一人でここを出るのは、物理的に無理なんだよ」
「だから、それはどういう……」
「ここは、離島だ。360度海に囲まれた、な。そして、お前が生まれ育っただろう国でもない……今、向こうは秋の始めくらいだったかな?だとしたら、ここが妙に暖かい事に気が付かなかったか?」
信じられない話を聞いた事により、深く暗い憎しみを抱いているのを思わず忘れて、ぽかんと口を開いてしまう。自分が今いる場所が、離島。それでいて、生まれ育った国でもないと聞かされて、放心してしまった。
「あの、なら……俺は、どうしたら帰れるんでしょうか」
「さぁ?それこそ、御方の気分次第だからな。今は寒いからこっちに越してきてるだけで、過ごしやすい季節になったら本国に帰るつもりでいるだろうし。その頃になったら、一緒に帰れるんじゃないか?」
ようは、『知らんけど』という事らしい。あまりの現実に、途方に暮れる。一秒だって居たくない場所で、これから何ヶ月と過ごさなくてはならないかも知れないなんて。目の前が真っ暗になる。本当の絶望とは、この事を言うのかもしれない。
「まぁ、いまさら騒いでも、連れて来られちまったもんは仕方ないだろ。茶でも飲んで落ち着けよ」
歳上の、それでいて肩書きもしっかりした大人から正論を述べられて、体重の全てを小さい椅子に預ける。渋々と、一口含んだ丁寧に淹れられた暖かい紅茶は、南国のどこかと思わしき場所の気温の中にあっても清涼さを俺の身体の隅々に行き渡らせた。紅茶を美味しいと思った事はあまりないけれど、飲み慣れていない俺であっても、この紅茶は今まで飲んだどの紅茶よりも美味しいと思えた。けれど、その感想を伝えたくなる様な気持ちにはどうしてもなれず。俺は押し黙ってその紅茶にまた口を付けた。
「……お前が、ここの宗教絡みでどれだけの目に遭ったのかは、お前の見た目の年齢的に考えたら、大体の察しがつく。だけど、お前が辛い目に遭っていた頃と、今のトップは違う。いまの御方に代替わりして、大規模な組織の改革が進められてからは、お布施や資金援助、性的搾取目的で私腹を肥やしていた大部分の幹部が粛清の対象となったんだ。そして、昔の様に、より強い者が弱い者から搾取する図式は失われた。だからといって、宗教が持つエゴイスティックな面が全く無くなった訳じゃない。だから、すぐに意識を変える事も、毛嫌いしたい気持ちを変える必要もないと、俺は思うよ」
昔と今は違う、と聞かされても、すぐに納得がいくものではない。トラウマというものが、そんな程度の情報で一度に解決されたら、何の苦労もしないのだ。昔いじめっ子だった子が改心して、学校の先生になりました。半グレだった人が気持ちを入れ替えて、警察官になりました。そんな話を聞くだけで、だからどうした、真面目に生きてきた人間の方がよっぽど偉いだろうが、と言ってやりたくなる。その人間が、今まで迷惑をかけてきた人間の全てに頭を下げてから新しい道を歩んでいったのならまだしも、開き直って『若気の至りでして』だなんてへらへらしている様であれば、改心していないどころか、より一層狡賢くなってしまっただけの悪改変でしかないじゃないかと言ってやりたい。
俺の憎しみは、こんな話では消えない。そして、この憎しみの頂点に座す御方を、俺は決して許さない。
無言のまま、出された紅茶をゆっくりと飲んでいると、そんな俺の気持ちを解きほぐす様に、祐樹さんは俺にある話をし始めた。それは、今まさに俺が味わっている紅茶に纏わるエピソードだった。
この紅茶は、御方が一口飲んだその時から、一目惚れに近い形で気に入られた物だった。その為、最初は現地から直接取り寄せていたらしいのだが、御方がその紅茶の存在を知るまでは、フェアトレードなんて言葉すら知らない、知識までもが貧困に満ちた場所で、現地の人間が馬車馬の様に働かされていた状態だったのだそうだ。それを見かねた御方が、畑のオーナーと直接契約を結び、畑ごと購入して、現地に人を派遣した。いまでは小さな学校もあって、そこに子供を預けた母親が安心して仕事が出来る環境が整えられているのだという。
『しかし、これも所謂エゴだろう』と、祐樹さんは語った。
同じ様な劣悪な環境にある人間達なんて、ごまんといる。紅茶という御方の目に止まった産物があったからこそ、その茶畑は庇護の対象となったに過ぎないのだ。
『けれど、それでいいんだよ』と、祐樹さんは穏やかな微笑みを浮かべた。そして、目を瞬いて驚きを表現した俺に向けて、こう続けた。
「信仰なんてものは、人の心に根付き、その存在を中から支えるものだ。初めがどうだったかなんて、問題にはならない。救いたいと思う人がいて、実際にその人に救われる人がいて、救われた人が感謝の気持ちを胸に、未来を生きていく。それで世界が回るなら、それでいい。実際、昔よりも今の方が、この紅茶は味も品質も良くなったしな」
この人は弁護士でもあるというから、その考え方の無駄の無さは、この人の職業からくる発想なのかもしれないけれど。祐樹さんの『結果こそ全て』という考え方は、どこまでも真っ直ぐに、俺の胸を捉えた。けど、それでも俺は。
「………だからといって、俺はあの御方を、すぐに肯定する事なんて、できません」
御方に対する率直な意見やエピソードをどれだけ語られても、俺は御方に対する見方をすぐに変えようとは思えなかった。けれど、そんな、ある意味で意固地になっている俺を見ても、祐樹さんは『それだって、自由意思さ』と、気にしている素振りすら見せなかった。
「……まぁ、恐らく時間はたっぷりある。お前もまた御方と話せる機会があるだろう。その機会を理解に向けるか無駄に終わらせるかも、お前次第だ。でも俺は、相互理解をしようとせず、一方的に相手を毛嫌いしたり、やっかんだりする様な人間に、進歩は無いと思うね」
真正面からの批判を受けて、俺は言葉に詰まった。けれど、だからと言って言われたままの状態を受け入れたいとは思えなかったから、俺は祐樹さんに、一言文句を言ってやろうと、気持ちを鼓舞した。
「貴方に、俺の何が分かるんですか。会ったばかりの、貴方に……」
しかし、俺の文句を受けても、祐樹さんの心を波立たせる事など敵わなくて。水鳥一羽として降り立たない、清涼な湖の湖面の様に静かな表情を俺に見せた。
「なら、俺にお前の事を話せ。自分を理解して欲しいなら、その意思を示せ。俺も俺の話をお前にする。まぁ、どうせ暇だしな……」
頭の良い人は、苦手だった。こんな風に自分のペースに丸め込んでくる人も、同様に。だけど、俺に興味を持って、俺という人間を知ろうとして、自分自身についても語ろうとしてくれる人間なんて、今まで殆ど居なかったから。
「祐樹……先生。俺、もっと、自分の知らない事が知りたいです。俺の事も、知って貰いたいです。だから、先生の事も、教えて下さい」
「そうか。お前がこれからこの場所に通う様になるなら、まずは紅茶の淹れ方から始めてみるとするかな」
俺は、人生で初めての、『先生』と呼びたいと思えた人と、巡り会えたんだ。
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