恋人を溺愛&神聖化し過ぎてEDになった俺だけど、絶対に二人で幸せになりたい!!

鱗。

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第二章『愛しい貴方に触れるまで』

第四話『貴方に、触れさせて』

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ぱちり、と目を開けると、全身という全身に、汗をびっしょりと掻いていた。パジャマに浸透するまでは行かなかったけれど、下着やインナーはぐっしょりと濡れて肌膚にくっつき、ベタベタとして気持ちが悪い。けれど、薬を使って熱を下げ、強制的に睡眠を取ったおかげで目覚めは良く、頭はスッキリとしていた。ただ、全身を覆う様な気怠さはまだどうしても身体に纏わりついていて、頭も鈍い痛みを訴えている。だから、無茶は出来ない事は分かってるけれど、自分の意思で身体が動かせるのには、充分に安堵した。


それにしても、嫌な夢だった。まるで、異次元の世界には、そんな世界線があったかもしれないとまで思えてしまう程の、圧倒的なリアルさがあった。だけど、その世界の世界観や、透さんという存在の不明瞭さや、その人物と、俺がこれまで接してきた透さんという人物との間にある誤差を受けて。そこから、これが夢であるという事実に行き着けた。


夢見は悪いけれど、全くの収穫がなかった訳では無い。もし万が一、透さんが俺を捨てて他の誰かの所へ行こうとしたら、俺は自分がどんな行動を起こすか分からず、不安で仕方なかった。もしかしたら、透さんを俺から奪ったそいつをこの手に掛けてから、透さんを無理矢理道連れにして……そんな可能性すら、自分自身の中に見繕えたから。でも、それはある意味で杞憂だったんだ。


俺は、何があっても、例えずっと裏切られていたとしても、透さんを自分の手に掛ける事など出来ないし、したくもない。自分自身の命に関しては不明瞭だけど、それは今考えなくても良い事だし。こうして自分にとって最も大切にしたい人に自分自身の命を救われた経験があって、折角救って貰えたそれを、無碍に扱う様な気持ちにはなれなかった。


だけど、もしも、透さんが、千明さんや幸也さんといった、他の人の元へと走ったならば。俺はもう一生誰とも付き合わず、結婚すらせず、孤独のまま野垂れ死にする可能性だけは捨てきれないとは思った。


「ああ、潤、起きたんや。起き上がれるなら丁度良かった。そろそろ水分と食事摂らせたかったんや。気分は大丈夫?」

「はい、だいぶ良くなりました。ありがとうございます、透さん。何から何まで」

「ええよ、そんなん。顔色も良いし、ホンマに良かった。せやけど、ごめんな。静かにしとかんとって思ったから、家の事が殆ど出来てないんや。二階のお掃除とお洗濯とお庭仕事と、お食事は消化に良い柔らかいおうどんにしたんやけど……」

「そんな……充分過ぎます。寧ろ働き過ぎです。だって、それ以外は、ずっとこの部屋に居たんでしょう?もっと自分自身も大事にしてくれないと、休みたくても休めません」


俺の指摘に、透さんはしゅんと項垂れて、ごめんなさい、と小さく漏らした。俺はその様子を見て、自分の頭を軽く掻き混ぜて、溜息を吐いてから、透さんに向き直った。


「怒っとるんやないんです。本当に心配で……俺が言えた義理やないですけど、体調には充分気を付けて下さい……だって、俺は貴方の看病には行けないんだから」


立場的に見ても、どの口が言えるのか、と言う突っ込みは自分の中に確かに合ったけれど、それでも伝えずにはいられなかった。透さんが、もしも体調を崩したとしても、それを看病しに行ける情報を透さん本人から仕入れていない俺には、取れる手立てがないからだ。


GPS搭載のカップルアプリなども、まだお互いにスマホに入れていないし、それに、仮に入れていたとしても、今回の俺の様に意識を朦朧とさせ、家の何処かで倒れてしまったら、今日は家にいるんだな、とそこだけ見て安心して、何も動きを取らない可能性すらある。そして、透さんが出勤日になるまで、俺は透さんの体調には気が付かず、その症状は悪化していき……そんな想像、考えただけで胸が潰れそうになる。でも、俺にはその自宅の情報を積極的に入手してこなかった理由があった。


「家を教えて欲しいって、ずっと言えなくて、ごめんなさい。誤解を招くかも知れないから言いますけど、ホンマは、貴方が他の男と暮らしている場所に詳しくなりたくなくて。知ってしまったら、俺は絶対に醜い嫉妬をしてしまうだろうから。敢えて避けていたんです」


恋人や男として以前に、人として如何なものか、という理由で、俺は今まで、透さんと千明さんが住んでいるアパートの詳細に、目を閉じて耳を塞いできた。行ける機会があるかと言われたら、特別そういった機会はこれまでなかったから、必要性に駆られたりはしなかったのだけど。最悪の事態の想定からも目を背けてしまうようでは、恋人失格だと思えてならなかった。


「潤、僕ね、千明との同居、辞めたんよ。せやから、今は一人でそのアパートにおる」


けれど、そんな地の底まで落ち込んでいた俺に掛けられた柔らかな声は、俺を地上まで引き上げ、それだけでなく、空すら飛べるかも、という気持ちにさせてくれる様な二翼の羽根を、俺の背中に授けてくれたんだ。


「……何があったんですか?」


俄かには信じられない話に、だけど、『ホンマに?』と何度も必死に確かめ、それに対してずっと穏やかに頷いてくれる透さんを見て、それが紛れも無い事実である事を理解すると。俺はホッと深く息を吐き、全身を緩々と脱力させていった。


「千明に、結婚したい人が出来て。その人といま、結婚準備の為に同棲始めたんや。せやから、それで……」


透さんは、微かに微笑みを浮かべながら、何故自分達が同居を解消するに至ったのかの説明をしてくれた。そう言えば、以前に電話で千明さんと会話した時に、彼女がいると本人自ら口にしていたから、恐らくあの時の彼女と、千明さんが。おめでたい話だし、個人的には、諸手を挙げて歓迎したいところなんだけど……


「……辛くはないですか?」

「え……なんで?」


きょとん、と目を丸くして不思議そうにしている透さんに、ぐ、と言葉に詰まってしまう。何故なら、俺のこの胸に巣食っている薄暗い感情や疑念は、口に出してしまったら元には戻せないから。知りたくなかった、けど、どうあっても知らなければならなかった事実を確認していくのは、精神的に凄く辛いけど。これから先もこの人と生きていく以上、胸にある疑念をそのままにしては置けなかった。


「その……透さんは、もしかしたら、ホンマは、ずっと千明さんの事が好きやったんやないかって、思ったので」


嗚呼、とうとう言ってしまった。文字通り、もう取り返しがつかない。これでもしも、透さんが、『そうなんや、実は……』と話を切り出したら、俺はもう……どうなるかは分からないけれど、きっと目に見えた良い結果にはならないだろう。前にも同じ事を考えたし、その気持ちは変わっていないから、一人寂しく孤独を抱えたまま、この家で息を引き取る可能性すらあった。


「僕が、千明を……?あはは、無い無い。ていうか待って、何でそないな話になってん。お前と千明、前に話しただけやったよな?そん時、連絡先とか交換してたっけ?」


だけど、透さんは、俺の胸や頭の中を占めていた疑念や薄暗い感情を、本当に可笑しそうに笑って否定した。


「いや、してないですけど」

「ほんなら、もしかして、想像?」


その通りです、とはなかなか言い出せない。自分の中にずっと持っていた疑問を一旦口に出してしまい、納得するまでは引っ込みがつかないと言う感情も働いていたからだ。その為、一つの疑問が解消を見せ始めたタイミングで、更にその下に秘められていたもう一つの疑念も、ひょっこりと顔を出してしまった。


「……それだけやなくて、俺、千明さんもまだ疑ってます。俺達が付き合い始めたタイミングで結婚するなんて、俺に対する当て付けや、透さんの気を引きたい為なんやないかって」


そう、透さんはそんな風に考えた事がなくても、千明さんまでそうとは限らない。親友という立場を崩したくない、だから手も出せないし、本当の気持ちもひた隠しにしてきた。ただずっと側にいられるだけで、これで良いんだと納得しようとして……そんな可能性だってあるのだから。


しかし、そんな所に、ある日突然、俺という存在が現れる。あっという間に距離を縮めていく透さんと俺の関係性に、口が挟める訳もなく。千明さんは、他の女性と接する中で、心の隙間を埋めようとする。彼女に癒されていくうちに、次第に感情の起伏も、落ち込んだ気持ちも回復していき、彼女はいつしか、千明さんにとって、掛け替えのない存在になっていく。けれど、千明さんの心の中には、いつだって透さんの存在があった。


そして、俺達が正式に付き合い流れになったのを知った千明さんは、人生で最大の賭けに打って出る。この結婚に、本当に心の底から祝福をしてくれる様なら、この恋を諦めよう。けれどもし、少しでも儚げな姿を見せてくれるなら、その時は、何が何でも、その手を離さない、と。


「潤……お前の目には、どんな世界が映っとるん?それに、ずっと思ってたけど、お前、僕の事どんな風に見えとんの?」


壮大かつスペクタクルな、俺の脳内想像&妄想の話は、透さんにとって、想像だにしていない話だったのか。俺がどうしてそんな風に千明さんの心理を結論付けてしまったのかを話し始めると、ぽかん、と口を開き、終始に置いて呆気に取られていた。そして、何と説明したらいいのか、ほんの少し同情を滲ませた心配そうな表情を浮かべて、話しずらそうにしながら、おずおずと質問をしてきた。だから、俺はそれに大真面目に自分の本心を返したんだ。


「無茶苦茶、世界一可愛いです。せやから、こないに可愛らしい人が、俺以外の男にも、放って置かれる訳がない」


その質問の答えとして、自分の考えの基礎中の基礎をきっぱりはっきりと断言すると、透さんは、眉間を指で押さえて、何やら深く考え込んでしまった。俺としては、そんな風に悩まれる事の方が心外だったのだけど、この人の自己肯定感は地を這っているのは今に始まった話では無いので、此方も反対に呆れながら、透さんの固く結ばれた唇が開く瞬間を待った。


「……せやかて、色んな方向に牙剥き過ぎなんよ。それに、僕なんて、ホンマにそんな大層な奴やないから」


時計の秒針が一回りするくらい、たっぷり間を置いてから、透さんは、自身の持つ重苦しい雰囲気をそのままに、俺に自分の考えを告げた。だけど、俺はその考え方には全く同意しかねるので、元より腫れていたのに、話過ぎた影響で痛み訴える喉には構いもせずに、声を張り上げた。


「貴方は自己肯定感が低過ぎる。世界的に有名なダンサーやったのに、どうしてそないに、自分に自信がないんですか?」


ずっと胸にあって、だけど話せる機会が無くて、それでもいつか必ず指摘したかった疑問が、俺の口から飛び出した。何故、こんなにもこの人は、自分自身に対する自己評価が低いのか。自分自身のキャリアを自信に変えたり、どうして自分の手で無かった事にしてしまうのか。ずっと不思議で、それでいてヤキモキしていた。


貴方は、俺がこれまで出会ってきた中で、人間性も生き様も、誰よりも尊敬できる人なのに。その肝心な貴方が、自分自身を大切にしたり、こんな風に自分を卑下したり。俺は、それが遣る瀬無くて、苦しくて、我慢出来ない。貴方自身は、それで良くても、今の生活にも自分にも不満がなくても、俺がそれを許せなかった。


怒りなのか悲しみなのか分からない感情の渦に飲まれて、けれど、どうにかして透さんの口が開いてくれはしないかと必死に願いながら待ち続けていると。透さんは、疲れた様な、諦めた様な、自嘲している様な笑みをくすり、と微かに浮かべて、俺の目を真っ直ぐに見つめ返した。


「……自信を打ち砕かれたからや。僕は、どれだけ練習しても、努力しても、一人の天才ダンサーを前にしたら、手も足も出なかった。その事実に何度も何度も打ちのめされているうちに、自分の自信が失われていったんや」

「それは、一体」

「僕の、お母さん」


初めて深くまで語られる透さんの過去の話に、俺は自然と聞き入っていった。絶対に、聞き逃すまいとする、俺のそんな真剣な気持ちに応える様に、透さんは、自分が何故ダンサーを辞め、表舞台からも裏舞台からも退いてしまったのかを、ゆっくりと説明してくれた。


透さんは、世界的な有名ダンサー同士のカップルの元に生まれた。しかし、燃え上がる恋に身を委ね、お腹に透さんが宿る頃には、お互いの感情の昂りも落ち着きを見せ、夫婦となる前に二人は別れを選び、透さんは、一人で産む決意を固めた母親によってこの世に誕生した。


しかし、透さんを産むまでにあった母性や愛情は、透さんを産んだのと同時に瞬く間に消え去ってしまったかの様に、母親は透さんを祖母の元へと押し付けて、再びダンサーとして海外を飛び回る生活を初めて行った。ただ、男と女は不思議なもので、透さんの父親と母親は海外公演で再びカップルになると、そのまま消えかけていた互いの熱が再燃し、何とそのまま籍まで入れてしまったのだ。


それでも未だにくっ付いたり離れたりを繰り返してはいる様だが、そんな自由な生き方を二人が送る反面、透さんという存在が置き去りにされてしまっていたのは事実だった。とは言え、家族には、他人から見たら分からない絆というものも存在するのか、家族仲は然程悪くは無いのだという。


「ダンサーを目指したいって相談をした時に、真っ先に動いてくれたのがお父さんで、直ぐに海外留学の手続きをしてくれて、現地のサポートはお母さんがしてくれたんや。お金の心配もなく、僕が幼い頃から伸び伸び練習出来たのも、二人のおかげなんよ。その代わり、お祖母ちゃんのお世話は僕がする事になったんやけど、そんなん言われんでもするし、何の負担でもなかったわ」


祖母の介護の為に自国に帰ってきた透さんは、それを機に、自国での活動をスタートさせる。すると、あの世界的ダンサー二人の隠し子という部分で先ずは脚光を浴び、透さんは瞬く間に業界内で注目を浴びる事となった。最初の内は興味本位の目しか周囲にはなく、ダンサーとして活動する環境としては最悪の状態にあったらしい。しかし、次第に透さん自身のダンスの才能にも注目が集まる様になると、そうした嫉妬や妬みや中傷の声も落ち着きを見せていき、『流石はあの二人の子供だ』『天に愛された申し子』という掌返しの賛辞に変わっていったそうだ。


しかし、周囲の人間達の賛辞をその身に受けながらも、透さんの胸の中にあった感情は、それとは全くの正反対に位置するものだった。


「僕のダンスのスタイルは、不思議とお母さんよりで。せやから、僕もお母さんと同じ様に、その道を極めようと思ったんやけど。どうしても身体の作り自体は男やから、お母さんの……女性らしい、しなやかさを手に入れる事が出来ひんかった」


その代わり、母親とは違う中世的な雰囲気や儚げな印象は、他に類を見ない逸材として注目され、持て囃されていった。キャリアを積み上げて行くにつれ、あの天才ダンサー達の息子という看板が外れてからも、何度もスランプに陥りはしたが、その度に自分を鼓舞して、舞台に上がり続けた。そして、透さんは、人生最大のスランプに陥っていた時、最高にして最悪の出会いを果たす。それが、世界的に有名な舞台演出家である男だった。


ロシア人と日本人のハーフであるその男は、青色の目を持つ長身の眉目秀麗な人物で、振付師としての活動もしていた。その男は、透さんの活躍ぶりを以前から確認はしていたものの、直接的な接触は果たしてはこず、公演を終えた透さんが控室に戻ったタイミングで使いの者を寄越し、いつもラブレターの様にしたためた手紙と大輪の薔薇の花束をプレゼントしてきたという。そして、透さんがこれまでのダンサー人生で最も深いスランプに陥っていた所を聞き付け、とうとう直接的な接触を果たした。


演出家、そして振付師としての男の才能は本物で、尚且つ、ダンスに対するアドバイスも的確だった。透さんは、その男のサポートを得てみるみると自信を漲らせると、再び舞台に返り咲いた。しかし、世界ツアーが無事に成功して、その興奮が冷めやらないうちに、男は俄かに、己が我欲を発揮し始めたのだ。


「その人は、僕に自分の女として生きれば、僕の中にある芸術性がより一層磨かれると信じきって、僕に関係を強要しようとした。その、演出家のあからさまな態度を見た僕の周囲の人間達からは、次第に奇異な目が集まる様になって、僕は、それに耐えきれなくなって……っちゅう名目を利用して、自分からダンスを手離したんや」


透さんの周囲の目が、『彼処と彼処はそういう関係』という公然の秘密扱いのもと、それまでとは変わった物になっていくのは、業界にあればごまんと転がっている話だった。だから、透さんも、こうしてこの男に着いていけば、いつかはそんな噂が流れて、周囲から関係性を固めていき、追い込み漁方式で男を拒めなくなるだろうと、割とすんなりその状況を受け入れていたのだという。


けれど、その頃には既に、透さんは自分自身の才能の限界を見出していた。だからこそ、その環境を大いに利用して、これまでの業界内に置いて、最も大々的な規模を誇る海外ツアーの最終日に、舞台上で突如として引退を宣言したのだ。


周囲には誰にも相談せず、完全なる独断だったが為に、自国のみならず世界中が騒然となった。自分自身の才能の限界を理由にして引退をすると宣言したが、周囲の人間や、耳聡い人間達は、演出家と透さんの関係性の闇がそこにあったのではと噂し、そしてそれは時間と共に本当にあった事実として確定されてしまった。


演出家が、あらゆるSNSやインタビューを通じて、透さんへの昂る愛やカムバックを叫び続けていた事も、そのあるはずも無かった事実が本物であったかの如く錯覚させてしまう状況を呼んでいた。しかし、当の本人である透さんの胸には、現役を退いた事への後悔や、演出家への未練など、全く存在していなかったという。そして、そればかりではなく。


「まだ、こっそりダンスを続けてるのは教えたやろ?何処にも発表したり、誰かに見せたりする機会は無いけど。僕でも信じられへんくらい、今が一番、ダンスが楽しいんや。こんなに自分がダンスを好きやったの、自分でも知らなくて戸惑ってる。せやけど、そう……きっとその理由は」


そこまで話して、透さんは、俺に向けて、熱い眼差しを送った。どきり、と胸が強く脈打って、透さんが、一体どんな台詞をその次に用意しているのかを何処となく悟った俺は、その台詞を全身全霊で受け止める為に、小さく頷いた。



『全部分かってる。だから、恥じらったりしなくていいんだよ』と。



「……僕が、恋をしたから」



予想通り、いや、それ以上の衝撃をこの身に受けて、身体の芯から、ぐらぐらと理性を揺さ振られる。いま、俺は酷い熱風邪を引いているから、それを移してしまう様な行為は慎まないといけない。だけど、俺はもう、自分自身を押さえ付けられなかった。


布団から出て、よろけながら、透さんのいる居間の隅に向かう。透さんは、心配そうにして、腰を上げ掛けたけれど、俺はそれを手だけで制して、ゆっくりと歩いて透さんの隣に腰を下ろした。そして、戸惑いと恥じらいの感情が綯交ぜになった表情を浮かべていた透さんの身体を壁に押し付け、そのままギュッと、今持てる限りの力で抱き締めた。


「……このまま話を続けて下さい。貴方の体温を感じていられれば、きっと色んな我慢が出来るから」


吐息に、自分の熱い感情を含ませて、そっと耳元で囁くと、透さんは耳まで真っ赤に染め上げながら、こくん、と頷いた。その反応が、小動物みたいに愛らしくて、俺は堪らずその耳に唇を落として、うっとりと目を細めた。


「……僕は、自分の身勝手で、周りの人の好意まで踏み躙った。せやから、どんな人にも合わせる顔が無くて。そんな中、千明だけは、ずっと変わらずに、僕の側にいてくれたんや」


千明さんは、何処に人の目があるか分からない状況で、碌に働きに出られなかった透さんの生活を支えてくれた。そして、お互いに大切な人が出来るまでは、一緒に暮らそうと言ってくれたのだという。家賃を折半し、時には自分の身銭を叩いて、彼は透さんを影から日向から支え続けた。そして、透さんがハウスキーパーという新たな生き方を模索し、実際に仕事を始めてからは、ゆっくりと自分の時間を作る様になっていったらしい。


それでも、透さんの生活を支える名目で始めた同居生活は終わる事なく続き、親友だった二人は、いつしか腐れ縁の様な関係性になっていった。彼女を作っては振られて帰ってくる千明さんを慰めたり叱ったりして行くうちに、透さんの中にある恩義めいた気持ちはすっかりと消え去っていった。しかし、今更になって離れて生活するだけの決定的な理由も無かったが為に、その生活はダラダラと、5年にも渡り続いていったという。


その間にも、千明さんには何度も彼女の入れ替わりがあった。しかし、必要以上に人と接しないと誓っていた透さんには春が訪れる事は無かった。元より結婚願望が強い千明さんの足を引っ張り続けてきた感覚はあったけれど、自分にもどうにも出来ない事情もある。だから、前にも後ろにも進めない状態で、この数年は過ごしてきたらしい。けれど、幸也さんに扱かれて仕事に自信と意欲を胸に抱く様になり、新しく雇用先を増やそうと意気込んだ透さんに、漸く目ぼしい出会いがあった。それで安心した千明さんは、透さんにはそうとは伝えずに、実はずっと結婚を待たせていた彼女を迎えに行ったのだという。


『せやから、ホンマに、千明が結婚する事は、自分の事以上に嬉しいんや』と語る透さんの姿に、嘘は全く感じられなかった。


千明さんと自分との関係性をつめびらかにして、何故二人が共に生活せねばならなかったのかを説明するこの話に行き着くまで、透さんの半生を振り返る必要があった事は、俺にも充分に伝わっていた。だから、こんなにも苦しい想いを抱えながら生きてきた透さんを労わる様にして、透さんの頭や背中を、ゆっくりと撫でた。


「……疑って、ごめんなさい。ホンマに俺、貴方に近付く人には、見境が無くて」

「大丈夫。誤解も解けて良かったし、それに、僕が、それだけ愛されてる証拠やから」


この人の言葉や優しさ、そして気遣いは、いつだって俺の胸を打ち、全身にスッと染み渡る。そして、際限の無い愛しさに変換され、俺の全身に行き渡って、生きる力そのものを築き上げていく。俺は今間違いなく、人としての根底の部分に至るまでを、この人に、しっかりと支えられている。だから、その恩や、嘘の無い言葉や態度を精一杯受け止めて、俺自身も心の窓を解放し、この人の気持ちに報いていかなければならないな、と思えた。


「透さん。実は、俺にも話したい事があるんです」

「そないに改まって、どうしたん?僕で良ければ、何でも相談して」


優しく気遣いに溢れた透さんなら、絶対にそう返してくれると判断した上での発言だと、自分にもよく分かっているから。透さんの様な度胸は、俺にはまだまだ足りていないんだろうな、と思いながら苦笑して。


「俺、実は、いま……自分の身体の事で、困った事があって」


やっぱり、俺って、本当にダメな奴だな、と心底から思った。


「もしかして、それって……」


嗚呼、ほらやっぱり。こんな風に話しをし始めたら、そう受け止められて当然だ。透さんの顔が青褪めて、いつも桜桃みたいに緋い唇からも血の気が引いていく。余計な誤解を生ませてしまって、とても申し訳ない。だけど、少しだけ嬉しいという気持ちも胸の中にひっそりとあって、それも含めて、ホンマにごめんなさい、と心の中で陳謝した。


「大丈夫。不治の病とかやないんで、安心して下さい」

「そうなんや、良かったぁ……心臓が止まるかと思った」


ホッと胸を撫で下ろし、表情をみるみると明るくさせていく透さんに、此方の頬も勝手に緩む。心配して貰っても嬉しいけれど、こんな風に自分の体調の深刻な不安が解けて喜びを溢れさせているこの人を見ている方が、よっぽど嬉しい。


「なら、その困った事って?」


だけど、その悩みをきちんと、率直に伝えられるかどうかの話は、別だ。


「……言葉にしたいけど、まだ勇気が足りなくて。すみません、勿体ぶって」

「そうなんや……ゆっくりで、ええからね?それに、もし決心が付かないなら、別に今すぐやなくても」

「いや、今話さないと、ずっと話せないと思うんです。せやから、俺に、貴方の勇気を分けてくれませんか?」

「僕の、勇気を?……でも、そんなもの、僕……」


ああ、これだから、この人は。自分の自己肯定感が低いのも理由としてあるんだろうけど、自分自身がどれだけ人を癒したり、勇気をくれたり、人に影響を与える人間なのか、全然分かってくれない。それに何より、自分自身が、誰よりも芯があって、何度でも何度でも、不屈の精神で立ち上がってきた、強靭な精神力を内に秘めている逞しい人間だという事も。


「貴方は、俺が見てきた人の中で、誰よりも強い人です。自分では、そんな自覚は無いかもしれませんけど、そんな貴方に癒されて、励まされて、救われてきた人間は、きっと沢山いる。その人間の一人である俺が言うんやから、間違いありません」

「そんな、僕は、いつも逃げてばかりやし。勇気なんて言葉からは、一番縁遠い人間や。せやから、そんな風に買い被らんといて」


この人の、自己肯定感や自尊感情が低いなら、俺がそこを変えてみせる。俺がこの人の存在によって支えられ、変わっていけた様に。今度は俺が、この人を支えて、癒して、励ましていく。


「自分の才能の限界を見て、それまで積み上げてきた輝かしいキャリアを全て捨てて、全く違う世界で生きて行く。そんな人間が、どれだけいると思いますか?大抵の人間は、その地位に醜くしがみ付き、晩節を汚して生きていく。けれど、貴方はそれをしなかった。そしてそれは、途轍も無く勇気がある人にしか出来ない事なんです」


透さんが、舞台に上がって踊っていた姿を、俺はこの目で見た事がない。恐らく、今この人の周囲にいて、この人を支えてきた人達はみんな、その機会に一度は触れた事のある人達ばかりなんだろう。それは、とても羨ましい限りなんだけれど。その人達から見た今の透さんが、その人達の目にどんな風に映るのかを考えた時に、そこに全くの同情心が無かったとは思い難い。だから、透さんが、ハウスキーパーという仕事を選んで、全くの一般人になってから出会った俺の言葉だからこそ、この人の胸に響く言葉だってあるんじゃないかと思うんだ。


「きっと、貴方は、これから先もずっと、全盛期に現役を引退した伝説のダンサーとして語り継がれていく筈です。そんな正々堂々とした生き方が出来る貴方を、俺は、心から尊敬しています」


真摯な気持ちや、人を想う気持ちは、必ずしも相手に伝わるとは限らない。だから、心を通わせた相手との思い出にも、お互いに対する想いの強さや比重の違いはどうしても生じてしまう時がある。けれど、それを寂しいと思ってはいけないし、ましてや損をしたなどと考えてしまうのは、勿体ない上にとても悲しい話でしかない。だから、俺のこの気持ちが伝わらない可能性があったとしても、俺は絶対に、この人に自分の気持ちを伝えて行く努力をやめたり、この人に自分の想いを理解してもらう為の労力を惜しみたくはなかった。



「……何をしたら、勇気が出るの?僕は、潤に、何をしたらええ?」



この人を、心の底から愛しているから。この人を、心の底から愛し続けたいから。



「貴方に、触れさせて」



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