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第一章『無自覚な天才』
第二話『勇気を振り絞って』
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改札を抜け、人の流れに身を任せて駅を出ると、駅ビルの中央部をくり抜いて作られた通りを抜けてから、エスカレーターを下って商店街通りに足を向けた。活気があり、店舗の入れ替わりの激しい商店街通りには趣や情緒という物を感じ取る事は出来なかったけれど、通りを抜け、道路を一本挟んでみると、伝統的な家屋や建築物、寺院などが立ち並ぶ、ノスタルジックな雰囲気が醸し出されている通りに出る事ができた。
商店街通りとは違い、その通りは建物同士の間隔が広めに設けてあった。そのため、店舗や家屋の距離感が適度に存在しており、観光で訪れる人々の喧騒も、何処か遠くに感じられる。
人の往来はそれなりにあるのに、そこだけ時が止まっているような不思議な感覚が身の内側に呼び込まれる。けれど、俺が特別にそうと思うのではなくて、きっとこの場所を訪れる人は、皆同じ様な感覚に捉われるのではないかなと、ぽつりと思った。
小さな寺院の前を通り過ぎてからまた暫く進むと、再び細い道路を一本挟んで、石畳で出来ている道に足を進めた。碁盤の目のように細部に道が枝分かれしていて、地元民でもなければそう足を運ばない場所、という印象がある。しかし、その第一印象は強ち間違いでは無いのだろう。人の往来も疎で、地元民の生活圏に密着した街並みに徐々に変わってきているからだ。分かりやすい見た目の雑貨店や飲食店などよりも、看板も小さく、よりディープな地元密着型の店がぽつぽつと点在している。だから俺が目指している待ち合わせ場所である喫茶店も、観光客向けというよりは、どちらかというとそれに近しい感覚で営業をしている店なのだろうなと当たりをつけた。
石畳の道を暫く進み、その道が丁字路になった所で左手に進むと、そこにはもう目的地である店しか存在していない行き止まりだった。平家の古民家をリノベーションして使用しているその喫茶店は、店先の庭木である純白の花をつけた木蓮に至るまで、手入れがしっかりと行き届いていた。
光のどけき、春。風車型の桃花色の花弁を広げた咲き始めのクレマチスが、木蓮の合間を縫うようにしてその勢力を広げている。その春爛漫を絵に描いたような光景の広がる建物の隣には、敷地を同じくして、英国銀器や陶器製の茶器を中心としたアンティーク製品などを取り扱っている骨董品店が品良く並んでいた。木蓮やクレマチスはその骨董品店の軒先でもその花弁を大きく花開いている。そもそも喫茶店と骨董品店はその趣だけで統一感があるというのに、同じ花々が店の前で咲き乱れている事で、その境界をより一層曖昧にしていた。
何というか、男一人ではなかなか足を向けにくい雰囲気がある一帯だなと思った。けれど、今回俺は仕事の用事でこの場所に来ている。そのため、この場所に足を踏み入れて良い大義名分があるわけだ。だから、変に臆する必要などないのだけど、青春を木工に捧げ、喫茶店を経営している実家を除いて、こうしたお洒落な店とは関わってこなかったものだから、入店するに際し、どうしても気後れしてしまう。
俺が待ち合わせ場所である喫茶店の入り口でもたついていると、隣の店舗である骨董品店の扉が、ドアベルをからんころんと鳴らしながらゆっくりと開いた。音につられて、そちらに視線を移す。すると、これまでTVの画面越しでしか見た事のない様な美丈夫が店の中からひょこりと現れた。
身長も高い。まるで俳優か何かのようだ。俺はそちらの方面に明るくないから、事実俳優であると紹介されてもなんら不思議ではないなと思った。半ば呆気にとられながら、まじまじとその男の人の顔を眺めていると、男の人は不躾に浴びせられる視線に気が付いたのか、店の前で佇んでいる俺をぱっと見て、おや?という顔をした。
「その店なら、もう営業してますよ。だから入って大丈夫。十一時になったので、この店も今から営業開始です。普段の珈琲や紅茶を特別な物に変えてくれる逸品ばかりですから、もしご興味がありましたらその店の帰りにでも見ていって下さい。あ、因みに、その店で使っている茶器や食器なんかは、全部俺が厳選した物ですから、落として割ったりしないように」
器用に片目を瞑って、恐ろしい事を言ってくる男の人の口調は茶目っ気たっぷりだった。骨董的価値のある食器を喫茶店で使用しているだなんて、より一層緊張して店に入れなくなってしまうじゃないか。掌にじんわりと汗をかいてしまって、前にも後ろにも進めなくなった俺を見てその人はどう思ったのか。上機嫌に鼻歌を歌いながらずんずんと俺のいる店先に足を進め、俺に代わって店の出入り口をぱかんと開けた。そしてその人は、中にいるのであろう従業員さんに向けて親しげに声を掛けた。
「一ノ瀬、お客さんだよ。忙しいようなら、俺が案内しようか?」
「あぁ、倉敷さん。大丈夫ですよ、いま相沢の手が空いているので。あいつに任せて下さい」
「分かった、じゃあ俺は自分の店に戻るよ。お客さん、ついてるね。この時間帯は基本的に満席ばかりなのに、今日は珍しく空いてるよ。因みに俺のオススメは、この店の店長でパティシエも兼任してる瀬川君特製クラシックショコラと、バリスタの一ノ瀬が淹れてくれた本日の珈琲のセットね。良かったら覚えておいて」
じゃあ、またね。そう言い残し、倉敷と呼ばれた男の人は嵐の様に去っていった。店の前に取り残されたのは、来店を前にして尻込みしていた俺だけ。しかし、扉は開け放たれたままの状態だったために、店の中にいた一ノ瀬と呼ばれた男の人と、カウンター越しにばっちり目が合って、にこりと微笑まれてしまった。
こうなれば、もはや前に進む他に道はない。俺は、ままよ、と気を取り直して、漸くその店に入店した。バリスタがいるということは、恐らく使っている豆にも拘っているのだろう。店に入った瞬間、挽き立ての珈琲のいい香りが鼻腔を擽った。実家の店を思い出し、懐かしい気持ちになる。その香りのおかげで、俺は漸く肩に入れていた力を少しだけ抜く事ができた。
「いらっしゃいませ。お一人様でいらっしゃいますか?」
「あ、あの……この店で、人と待ち合わせをしていて。店の人には、柿沼さんの紹介で来たと告げればいいと言われてきたのですが」
一ノ瀬さんは合点が入ったように、あぁ、と小さく呟くと、こちらに向けて人好きのする笑顔を浮かべた。
「オーナーがお呼び立てした、木工家の小日向様でいらっしゃいますね?話は聞き及んでいます。店先では何ですから、どうぞもっと中へお進み下さい。すぐに他の従業員が参ります」
「はい。あの、よろしくお願いします」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します」
カウンターに向けて軽く頭を下げると、一ノ瀬さんは俺に会釈を返してから、注文を取ってカウンターに戻ってきた他の従業員さんに目配せをした。どうやらそれだけである程度の意思疎通が図れたようで、今はまだ一人ではあるものの、その後現れる柿沼さんと、資料を広げた打ち合わせがしやすい様に、麗かな春を詰め込んだ中庭が見渡せる、四人掛けのゆったりとした席に案内をされた。
春の日差しが暖気を呼び込んでいる店内は静かだった。中庭を囲むように造られた雰囲気のある平屋の古民家は、レトロモダン調にリノベーションがなされていて、落ち着いた色の漆喰壁により快適な湿度に保たれていてなんとも居心地が良い。使われている家具や調度品にも趣があり、店の雰囲気作りに余念がない事が伺える。中庭には開放感のあるテラス席も幾つかあり、これから初夏に掛けての天気の良い日は、外で過ごすのも悪くないなと思わせた。
案内をしてくれた男性は、先ほど出逢った骨董品店の店主らしき人とはまた違った種類の美男子で、一ノ瀬さんの話から察するに相沢という名前の人だった。ギリシア彫刻のように整った顔を穏やかに和ませながら放った、こちらへどうぞ、と言う声は思っていた以上に低音で、俺の耳にもしっとりと馴染んだ。
「オーナーは少し遅れるみたいだって、さっき連絡が入りました。お待たせしてしまって、すみません」
「そうなんですね。いえ、こちらこそすみません、俺まだスマホを確認していなくて」
柿沼さんとは、出会ったその日に連絡先を交換した。それからはメールと通話のやり取りを何度か交わして、今日この日を迎えたと言うわけだ。まだ一回しか会っていない人との待ち合わせは内心緊張する。しかも、話す内容は仕事の内容だ。失敗だけはしない様にと思っていたのに、出鼻を挫かれた格好になり、申し訳なさが募った。
「気にしないで大丈夫ですよ。遅れてくるオーナーが悪いんですから。オーナーが、何でも注文して下さいと伝えてくれと言っていたので、この機会に気になる物があったら、どんどん注文して下さい」
穏やかに微笑む相沢さんの話ぶりからは、どことなくオーナーである柿沼さんと従業員の間にある垣根が低いような感覚を覚えた。そこに、この店の居心地の良さの一端を見た気がして、俺の胸は少しだけ温まった。
「あの、じゃあ……クラシックショコラと本日の珈琲のセットを下さい」
「あれ、常連さんと同じ頼み方だ。でも、ご来店されたのは初めてですよね?」
きょとん、と目を丸くする相沢さんの顔は、喫茶店の従業員として一部の隙も無いキリッとした表情を浮かべていた先程よりも幼顔が際立っていて、より一層の親しみを感じた。こう見えても、俺との年齢差は対して無いのかもしれないなと思いながら、くすりとそれを笑ってから、先程倉敷さんという骨董品店の人からオススメされたという経緯を説明すると、相沢さんは納得した様に、あぁ、それで、と溢した。
「瀬川さんの作るケーキはどれも美味しいんですけど、中でもクラシックショコラは絶品ですよ。この店の雰囲気に合わせた和紅茶も取り扱ってはいるんですが、どちらかというと観光のお客様向けかなぁ。それに、淹れるのは何の資格も持ってない俺だし。この店には腕利きのバリスタの一ノ瀬さんがいるので、飲み物は珈琲の方が楽しめますよ。だから、本日の珈琲の方も期待していて下さい」
開けっ広げというか、正直過ぎるというか。オブラートと言う言葉を知らない様な話の展開の仕方に思わず苦笑いを浮かべてしまう。そんな俺を見て、相沢さんは頭の上にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げた。ケーキや珈琲がお勧めみたいだけれど、お茶を淹れてくれる人が、この吃驚するほど顔が整った相沢さんだというだけで、注文してしまうお客さんもいるだろう。もしまた注文する機会が訪れたら、俺も正直者で素直なこの人が手ずから淹れたお茶が飲んでみたいなと思った。
「楽しみにしています。それと……すみません、もしよろしければ、注文したお品が届くまで、中庭を見学させて頂いても宜しいでしょうか?」
「えぇ、勿論。その為にいらしたんですから。こちらへどうぞ」
カウンターに一度注文表を届けに行ってから、相沢さんは俺を中庭に案内してくれた。日差しは暖かいけれど、まだ吹きつける風は冷たい。上に一枚羽織ってきて正解だった。テラス席に人がいないのも道理だなと感じながら、案内してくれる相沢さんの後に続いて歩みを進めた。
暫くすると、相沢さんが一本の木の前で立ち止まった。純白の花をつけて咲き乱れる木蓮の木の間に挟まれてあったその木は、天空に向けて満開の花を付けた枝を惜しみなく揺らしていた。
立派な山桜だ。これほど見事な桜の木は、そう拝める物ではない。山桜は韓国や台湾、そしてここ日本にも自生している。中には大木になるものもあり、丼計算ではあるものの、この木ならば、ゆうに三十mはありそうな勢いがあった。開花と同時に赤茶けた若葉を萌えさせるのでソメイヨシノのように見るに鮮やかな桜とは言えないけれど、それを補って余りある存在感がこの木にはあった。
「凄いですね。これを……となると、なかなかの決断がいったでしょう」
「そうですね。でも、変に剪定して不格好にするよりは、思い切りがいい決断だなって俺は思います。それに、この店から完全に無くなるわけではないんだし……」
俺は、そのしみじみとした語り口に、きゅっと摘まれたように胸が痛んだ。相沢さんは、この木を本当に大切に思っているんだろう。多くは語らないけれど、口調にこの木に対する愛着が滲み出ている。この人がどれだけの年数をこの店で過ごしてきたかは分からない。けれど、この木がその場からすっぽりと無くなってしまうその寂しさが、何処と無く表情に現れていた。
この山桜は、この古民家が建設される前からこの土地にあったとされているらしい。あまりに見事な桜だった為に切り倒すことが出来ず、寧ろこの木を生かして建物を建築しようという流れになるのも自然の中にあったのではないかと、柿沼さんは推察していた。
古民家の中庭から望めるこの木は、しかし、その枝葉を伸び伸びと成長させると、次第に人間の生活圏を脅かす存在にもなっていった。人間が後から張った電線に枝葉が絡んでしまうようになり、剪定を余儀なくされてしまったのだ。運悪くその電線が張られている場所が太い幹の近くにあったため、これを剪定するともなれば、余りにも惨い見た目になってしまうとの診断が下された。そんな状態で在り続けるよりは、いっそのこと伐採してしまった方がこの木の為にも良いだろうと判断され、その計画は立案された瞬間に、オーナーである柿沼さんと従業員の満場一致で通されたのだという。
しかし、黙って木を伐採しただけではあまりにも寂しいし忍びない。何とかしてこの山桜を無駄にしない方法は無いものか、と柿沼さんが従業員達と相談した結果、この店の調度品や家具として生まれ変わらせるのはどうだろうとその場にいた誰かが言い始め、それがいいと遽に盛り上がり、結局その方向で話が纏まったのだ。
それからというもの、この木のポテンシャルを存分に活かせる木工家はいないかと探し回る日々が始まった。飲食店を何軒も経営し、普段から忙しく走り回っている柿沼さんが、俺の参加した展示即売会に足を運んだのも、その流れからだったらしい。どうして俺みたいな新参者に目をつけてくれたのか最初は分からなかったけれど、木工の他に林業のアテもある俺に声を掛けたチョイスは間違っていないなと思った。
けれど話を持ち掛けられた当初は、あまりにも荷が重いと思い、仕事を断ろうとした。俺よりも修業先だった工房の方がずっと経験があるからといって親方を紹介しようとも。
しかし、柿沼さんは、絶対にこの依頼を達成するのは貴方でなければならないと、俺に食い下がった。これまでにも様々な木工家の作品に触れ、彼らと対話してきたけれど、これだけ真摯に使い手と木材の事だけを見つめ続けた人間はいないと、真剣な眼差しでそう言って。
こだわりは何ですか?と聞かれたら、全部です、としか答えられない俺に、苦笑いを浮かべるお客様ばかりが続いたけれど。柿沼さんはそんな俺を絶対に笑ったりしなかった。成る程、と唸って、その素っ気なくも感じる新参者の俺の返答を、頭から信用してくれた。そんなお客様には、修業していた工房に属していた時も含めて出会ったことが無かったから、俺は漸く俺のお客様に巡り合えたと思って、胸が歓喜に湧いたんだ。
俺を見つけ出してくれた柿沼さんの期待に何とかして応えたい。だから、最初から無理だと決めつける前に、実際にその木を見てから仕事を受けるかどうかを決めようと心に誓って、今日この場所を訪れた。けれど、実際にこの大木を目にして、その木に思い入れのある人の表情や話を見聞きしてしまうと、やはりどうしても尻込みしてしまう。
果たして俺に、この大役が果たせるだろうかと、胸に漠然とした不安が過ぎる。でも、こんな大口の依頼を断ったら、次にいつこんな大きな機会が訪れるか分からない。俺は尻込みしてしまう自分自身をどうにか鼓舞して、大木の山桜に向き直った。
逃げるな。男を上げる機会は、今しかない。今まで培ってきた経験と技術でもって、この大きな波に立ち向かえ。
「………責任重大ですね」
「あれ、もしかしてプレッシャー掛けちゃいましたか?すいません、そんなつもり無かったんですけど……」
「あ、いや、大丈夫です。不安にさせてしまって、すみません。立ち木を切ってからとなると乾燥に一年近く掛かりますから、長いお付き合いになるとは思いますが、これからも宜しくお願いします」
言った。言ってしまった。男として、俺は、今までの人生の中で最も大きな決断をした。これで、もう後には引けない。ひたすら前に突き進むしかない。
心拍数が飛躍的に上昇していて、息がし辛い。けれどそれは、決して不快な感覚では無かった。寧ろ、胸に抱えていた余計な雑念がすっきりと晴れ渡り、清々しい感覚すら覚えている。
自分の目の前にいる男が、己が人生で最大の決断をたったいま下した事などまるで知らない相沢さんは、こちらこそよろしく、と改めて挨拶をしてくれた。俺は相沢さんのその明るい表情を受けて、どうにかこの場を切り抜けられた事にホッと胸を撫で下ろした。
依頼人本人ではないにせよ、関係者のうちの一人である相沢さんに、余計な不安を与えなくて良かった。次第に緊張と興奮で昂っていた心身が落ち着いてくる。指先は少しだけ震えていたけれど、これくらいは些事だとして片付けた。
「しかし一年かぁ、思っていた以上に乾燥って時間が掛かるんですね」
「はい。切り出した生材がきちんとした木材として扱えるかは、乾燥が十分に行えたかに掛かっていますから」
木材に含まれる水分量を表す指標として『含水率』というものがあり、山などに生えている立ち木の場合だと、それは150%という事になる。一般に乾燥材とされる基準は、含水率20%とされているから、150%近い状態から20%まで落として行く工程が乾燥作業に当たる。
原木から製材したばかりの生材の状態のまま使用することは殆ど無い。乾燥するという事は、木材から水分が抜けるという事で、野菜や魚でも保存用に乾燥させると縮むけれど、これと同様の現象が木材にも起きるからだ。
木材は野菜や魚ほど縮むことはないのだけど、乾燥による変形・収縮で、曲り・反り・割れが生じることが多いため、切り出した後、ただ放っておけばいいのではなく、乾燥させるその工程には繊細な作業が必要とされていた。
「林業も経験してる人になら、信頼して任せられます。それにオーナーだけじゃなく、俺達も貴方の作る作品には凄く興味があるんですよ。写真で見せて貰ったんですけど、もうみんな貴方のファンです。早く出来上がりが見たいなぁ。確かこの木の作品だけじゃなく、この店の家具とか調度品をちょこちょこ修繕したり新しい物にしてくれるんでしたよね?」
「はい。だから、本当の常連になる日も、そう遠くはないと思います」
「それは良かった。こいつの事、宜しくお願いしますね」
相沢さんが山桜のことを『こいつ』と呼んで親しみを込めている所を受けて、木工家としてのエンジンが漸く掛かり始めた。この人達の期待に応えよう。絶対にきちんとした木材にして、作品として生まれ変わらせてみせよう。山桜を目の前にして、俺はそう、意気込みを新たにしてみせた。
一陣の風が、桜の枝花を揺らして花弁を散らしていく。隆盛を極めた山桜の開花は、されど今年で見る事は叶わなくなるのだ。
倒される前に、一番綺麗な瞬間にまみえる事が出来て良かった。相沢さんは、そろそろ珈琲が淹れ終わる頃だからと言って、俺を店内に促した。けれど、その山桜の最後の宴を一度見てしまったものだから、後ろ髪を引かれるような心地になってしまって。俺はその山桜の大木を最後に一度振り返ってから、相沢さんの後に続いた。
改札を抜け、人の流れに身を任せて駅を出ると、駅ビルの中央部をくり抜いて作られた通りを抜けてから、エスカレーターを下って商店街通りに足を向けた。活気があり、店舗の入れ替わりの激しい商店街通りには趣や情緒という物を感じ取る事は出来なかったけれど、通りを抜け、道路を一本挟んでみると、伝統的な家屋や建築物、寺院などが立ち並ぶ、ノスタルジックな雰囲気が醸し出されている通りに出る事ができた。
商店街通りとは違い、その通りは建物同士の間隔が広めに設けてあった。そのため、店舗や家屋の距離感が適度に存在しており、観光で訪れる人々の喧騒も、何処か遠くに感じられる。
人の往来はそれなりにあるのに、そこだけ時が止まっているような不思議な感覚が身の内側に呼び込まれる。けれど、俺が特別にそうと思うのではなくて、きっとこの場所を訪れる人は、皆同じ様な感覚に捉われるのではないかなと、ぽつりと思った。
小さな寺院の前を通り過ぎてからまた暫く進むと、再び細い道路を一本挟んで、石畳で出来ている道に足を進めた。碁盤の目のように細部に道が枝分かれしていて、地元民でもなければそう足を運ばない場所、という印象がある。しかし、その第一印象は強ち間違いでは無いのだろう。人の往来も疎で、地元民の生活圏に密着した街並みに徐々に変わってきているからだ。分かりやすい見た目の雑貨店や飲食店などよりも、看板も小さく、よりディープな地元密着型の店がぽつぽつと点在している。だから俺が目指している待ち合わせ場所である喫茶店も、観光客向けというよりは、どちらかというとそれに近しい感覚で営業をしている店なのだろうなと当たりをつけた。
石畳の道を暫く進み、その道が丁字路になった所で左手に進むと、そこにはもう目的地である店しか存在していない行き止まりだった。平家の古民家をリノベーションして使用しているその喫茶店は、店先の庭木である純白の花をつけた木蓮に至るまで、手入れがしっかりと行き届いていた。
光のどけき、春。風車型の桃花色の花弁を広げた咲き始めのクレマチスが、木蓮の合間を縫うようにしてその勢力を広げている。その春爛漫を絵に描いたような光景の広がる建物の隣には、敷地を同じくして、英国銀器や陶器製の茶器を中心としたアンティーク製品などを取り扱っている骨董品店が品良く並んでいた。木蓮やクレマチスはその骨董品店の軒先でもその花弁を大きく花開いている。そもそも喫茶店と骨董品店はその趣だけで統一感があるというのに、同じ花々が店の前で咲き乱れている事で、その境界をより一層曖昧にしていた。
何というか、男一人ではなかなか足を向けにくい雰囲気がある一帯だなと思った。けれど、今回俺は仕事の用事でこの場所に来ている。そのため、この場所に足を踏み入れて良い大義名分があるわけだ。だから、変に臆する必要などないのだけど、青春を木工に捧げ、喫茶店を経営している実家を除いて、こうしたお洒落な店とは関わってこなかったものだから、入店するに際し、どうしても気後れしてしまう。
俺が待ち合わせ場所である喫茶店の入り口でもたついていると、隣の店舗である骨董品店の扉が、ドアベルをからんころんと鳴らしながらゆっくりと開いた。音につられて、そちらに視線を移す。すると、これまでTVの画面越しでしか見た事のない様な美丈夫が店の中からひょこりと現れた。
身長も高い。まるで俳優か何かのようだ。俺はそちらの方面に明るくないから、事実俳優であると紹介されてもなんら不思議ではないなと思った。半ば呆気にとられながら、まじまじとその男の人の顔を眺めていると、男の人は不躾に浴びせられる視線に気が付いたのか、店の前で佇んでいる俺をぱっと見て、おや?という顔をした。
「その店なら、もう営業してますよ。だから入って大丈夫。十一時になったので、この店も今から営業開始です。普段の珈琲や紅茶を特別な物に変えてくれる逸品ばかりですから、もしご興味がありましたらその店の帰りにでも見ていって下さい。あ、因みに、その店で使っている茶器や食器なんかは、全部俺が厳選した物ですから、落として割ったりしないように」
器用に片目を瞑って、恐ろしい事を言ってくる男の人の口調は茶目っ気たっぷりだった。骨董的価値のある食器を喫茶店で使用しているだなんて、より一層緊張して店に入れなくなってしまうじゃないか。掌にじんわりと汗をかいてしまって、前にも後ろにも進めなくなった俺を見てその人はどう思ったのか。上機嫌に鼻歌を歌いながらずんずんと俺のいる店先に足を進め、俺に代わって店の出入り口をぱかんと開けた。そしてその人は、中にいるのであろう従業員さんに向けて親しげに声を掛けた。
「一ノ瀬、お客さんだよ。忙しいようなら、俺が案内しようか?」
「あぁ、倉敷さん。大丈夫ですよ、いま相沢の手が空いているので。あいつに任せて下さい」
「分かった、じゃあ俺は自分の店に戻るよ。お客さん、ついてるね。この時間帯は基本的に満席ばかりなのに、今日は珍しく空いてるよ。因みに俺のオススメは、この店の店長でパティシエも兼任してる瀬川君特製クラシックショコラと、バリスタの一ノ瀬が淹れてくれた本日の珈琲のセットね。良かったら覚えておいて」
じゃあ、またね。そう言い残し、倉敷と呼ばれた男の人は嵐の様に去っていった。店の前に取り残されたのは、来店を前にして尻込みしていた俺だけ。しかし、扉は開け放たれたままの状態だったために、店の中にいた一ノ瀬と呼ばれた男の人と、カウンター越しにばっちり目が合って、にこりと微笑まれてしまった。
こうなれば、もはや前に進む他に道はない。俺は、ままよ、と気を取り直して、漸くその店に入店した。バリスタがいるということは、恐らく使っている豆にも拘っているのだろう。店に入った瞬間、挽き立ての珈琲のいい香りが鼻腔を擽った。実家の店を思い出し、懐かしい気持ちになる。その香りのおかげで、俺は漸く肩に入れていた力を少しだけ抜く事ができた。
「いらっしゃいませ。お一人様でいらっしゃいますか?」
「あ、あの……この店で、人と待ち合わせをしていて。店の人には、柿沼さんの紹介で来たと告げればいいと言われてきたのですが」
一ノ瀬さんは合点が入ったように、あぁ、と小さく呟くと、こちらに向けて人好きのする笑顔を浮かべた。
「オーナーがお呼び立てした、木工家の小日向様でいらっしゃいますね?話は聞き及んでいます。店先では何ですから、どうぞもっと中へお進み下さい。すぐに他の従業員が参ります」
「はい。あの、よろしくお願いします」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します」
カウンターに向けて軽く頭を下げると、一ノ瀬さんは俺に会釈を返してから、注文を取ってカウンターに戻ってきた他の従業員さんに目配せをした。どうやらそれだけである程度の意思疎通が図れたようで、今はまだ一人ではあるものの、その後現れる柿沼さんと、資料を広げた打ち合わせがしやすい様に、麗かな春を詰め込んだ中庭が見渡せる、四人掛けのゆったりとした席に案内をされた。
春の日差しが暖気を呼び込んでいる店内は静かだった。中庭を囲むように造られた雰囲気のある平屋の古民家は、レトロモダン調にリノベーションがなされていて、落ち着いた色の漆喰壁により快適な湿度に保たれていてなんとも居心地が良い。使われている家具や調度品にも趣があり、店の雰囲気作りに余念がない事が伺える。中庭には開放感のあるテラス席も幾つかあり、これから初夏に掛けての天気の良い日は、外で過ごすのも悪くないなと思わせた。
案内をしてくれた男性は、先ほど出逢った骨董品店の店主らしき人とはまた違った種類の美男子で、一ノ瀬さんの話から察するに相沢という名前の人だった。ギリシア彫刻のように整った顔を穏やかに和ませながら放った、こちらへどうぞ、と言う声は思っていた以上に低音で、俺の耳にもしっとりと馴染んだ。
「オーナーは少し遅れるみたいだって、さっき連絡が入りました。お待たせしてしまって、すみません」
「そうなんですね。いえ、こちらこそすみません、俺まだスマホを確認していなくて」
柿沼さんとは、出会ったその日に連絡先を交換した。それからはメールと通話のやり取りを何度か交わして、今日この日を迎えたと言うわけだ。まだ一回しか会っていない人との待ち合わせは内心緊張する。しかも、話す内容は仕事の内容だ。失敗だけはしない様にと思っていたのに、出鼻を挫かれた格好になり、申し訳なさが募った。
「気にしないで大丈夫ですよ。遅れてくるオーナーが悪いんですから。オーナーが、何でも注文して下さいと伝えてくれと言っていたので、この機会に気になる物があったら、どんどん注文して下さい」
穏やかに微笑む相沢さんの話ぶりからは、どことなくオーナーである柿沼さんと従業員の間にある垣根が低いような感覚を覚えた。そこに、この店の居心地の良さの一端を見た気がして、俺の胸は少しだけ温まった。
「あの、じゃあ……クラシックショコラと本日の珈琲のセットを下さい」
「あれ、常連さんと同じ頼み方だ。でも、ご来店されたのは初めてですよね?」
きょとん、と目を丸くする相沢さんの顔は、喫茶店の従業員として一部の隙も無いキリッとした表情を浮かべていた先程よりも幼顔が際立っていて、より一層の親しみを感じた。こう見えても、俺との年齢差は対して無いのかもしれないなと思いながら、くすりとそれを笑ってから、先程倉敷さんという骨董品店の人からオススメされたという経緯を説明すると、相沢さんは納得した様に、あぁ、それで、と溢した。
「瀬川さんの作るケーキはどれも美味しいんですけど、中でもクラシックショコラは絶品ですよ。この店の雰囲気に合わせた和紅茶も取り扱ってはいるんですが、どちらかというと観光のお客様向けかなぁ。それに、淹れるのは何の資格も持ってない俺だし。この店には腕利きのバリスタの一ノ瀬さんがいるので、飲み物は珈琲の方が楽しめますよ。だから、本日の珈琲の方も期待していて下さい」
開けっ広げというか、正直過ぎるというか。オブラートと言う言葉を知らない様な話の展開の仕方に思わず苦笑いを浮かべてしまう。そんな俺を見て、相沢さんは頭の上にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げた。ケーキや珈琲がお勧めみたいだけれど、お茶を淹れてくれる人が、この吃驚するほど顔が整った相沢さんだというだけで、注文してしまうお客さんもいるだろう。もしまた注文する機会が訪れたら、俺も正直者で素直なこの人が手ずから淹れたお茶が飲んでみたいなと思った。
「楽しみにしています。それと……すみません、もしよろしければ、注文したお品が届くまで、中庭を見学させて頂いても宜しいでしょうか?」
「えぇ、勿論。その為にいらしたんですから。こちらへどうぞ」
カウンターに一度注文表を届けに行ってから、相沢さんは俺を中庭に案内してくれた。日差しは暖かいけれど、まだ吹きつける風は冷たい。上に一枚羽織ってきて正解だった。テラス席に人がいないのも道理だなと感じながら、案内してくれる相沢さんの後に続いて歩みを進めた。
暫くすると、相沢さんが一本の木の前で立ち止まった。純白の花をつけて咲き乱れる木蓮の木の間に挟まれてあったその木は、天空に向けて満開の花を付けた枝を惜しみなく揺らしていた。
立派な山桜だ。これほど見事な桜の木は、そう拝める物ではない。山桜は韓国や台湾、そしてここ日本にも自生している。中には大木になるものもあり、丼計算ではあるものの、この木ならば、ゆうに三十mはありそうな勢いがあった。開花と同時に赤茶けた若葉を萌えさせるのでソメイヨシノのように見るに鮮やかな桜とは言えないけれど、それを補って余りある存在感がこの木にはあった。
「凄いですね。これを……となると、なかなかの決断がいったでしょう」
「そうですね。でも、変に剪定して不格好にするよりは、思い切りがいい決断だなって俺は思います。それに、この店から完全に無くなるわけではないんだし……」
俺は、そのしみじみとした語り口に、きゅっと摘まれたように胸が痛んだ。相沢さんは、この木を本当に大切に思っているんだろう。多くは語らないけれど、口調にこの木に対する愛着が滲み出ている。この人がどれだけの年数をこの店で過ごしてきたかは分からない。けれど、この木がその場からすっぽりと無くなってしまうその寂しさが、何処と無く表情に現れていた。
この山桜は、この古民家が建設される前からこの土地にあったとされているらしい。あまりに見事な桜だった為に切り倒すことが出来ず、寧ろこの木を生かして建物を建築しようという流れになるのも自然の中にあったのではないかと、柿沼さんは推察していた。
古民家の中庭から望めるこの木は、しかし、その枝葉を伸び伸びと成長させると、次第に人間の生活圏を脅かす存在にもなっていった。人間が後から張った電線に枝葉が絡んでしまうようになり、剪定を余儀なくされてしまったのだ。運悪くその電線が張られている場所が太い幹の近くにあったため、これを剪定するともなれば、余りにも惨い見た目になってしまうとの診断が下された。そんな状態で在り続けるよりは、いっそのこと伐採してしまった方がこの木の為にも良いだろうと判断され、その計画は立案された瞬間に、オーナーである柿沼さんと従業員の満場一致で通されたのだという。
しかし、黙って木を伐採しただけではあまりにも寂しいし忍びない。何とかしてこの山桜を無駄にしない方法は無いものか、と柿沼さんが従業員達と相談した結果、この店の調度品や家具として生まれ変わらせるのはどうだろうとその場にいた誰かが言い始め、それがいいと遽に盛り上がり、結局その方向で話が纏まったのだ。
それからというもの、この木のポテンシャルを存分に活かせる木工家はいないかと探し回る日々が始まった。飲食店を何軒も経営し、普段から忙しく走り回っている柿沼さんが、俺の参加した展示即売会に足を運んだのも、その流れからだったらしい。どうして俺みたいな新参者に目をつけてくれたのか最初は分からなかったけれど、木工の他に林業のアテもある俺に声を掛けたチョイスは間違っていないなと思った。
けれど話を持ち掛けられた当初は、あまりにも荷が重いと思い、仕事を断ろうとした。俺よりも修業先だった工房の方がずっと経験があるからといって親方を紹介しようとも。
しかし、柿沼さんは、絶対にこの依頼を達成するのは貴方でなければならないと、俺に食い下がった。これまでにも様々な木工家の作品に触れ、彼らと対話してきたけれど、これだけ真摯に使い手と木材の事だけを見つめ続けた人間はいないと、真剣な眼差しでそう言って。
こだわりは何ですか?と聞かれたら、全部です、としか答えられない俺に、苦笑いを浮かべるお客様ばかりが続いたけれど。柿沼さんはそんな俺を絶対に笑ったりしなかった。成る程、と唸って、その素っ気なくも感じる新参者の俺の返答を、頭から信用してくれた。そんなお客様には、修業していた工房に属していた時も含めて出会ったことが無かったから、俺は漸く俺のお客様に巡り合えたと思って、胸が歓喜に湧いたんだ。
俺を見つけ出してくれた柿沼さんの期待に何とかして応えたい。だから、最初から無理だと決めつける前に、実際にその木を見てから仕事を受けるかどうかを決めようと心に誓って、今日この場所を訪れた。けれど、実際にこの大木を目にして、その木に思い入れのある人の表情や話を見聞きしてしまうと、やはりどうしても尻込みしてしまう。
果たして俺に、この大役が果たせるだろうかと、胸に漠然とした不安が過ぎる。でも、こんな大口の依頼を断ったら、次にいつこんな大きな機会が訪れるか分からない。俺は尻込みしてしまう自分自身をどうにか鼓舞して、大木の山桜に向き直った。
逃げるな。男を上げる機会は、今しかない。今まで培ってきた経験と技術でもって、この大きな波に立ち向かえ。
「………責任重大ですね」
「あれ、もしかしてプレッシャー掛けちゃいましたか?すいません、そんなつもり無かったんですけど……」
「あ、いや、大丈夫です。不安にさせてしまって、すみません。立ち木を切ってからとなると乾燥に一年近く掛かりますから、長いお付き合いになるとは思いますが、これからも宜しくお願いします」
言った。言ってしまった。男として、俺は、今までの人生の中で最も大きな決断をした。これで、もう後には引けない。ひたすら前に突き進むしかない。
心拍数が飛躍的に上昇していて、息がし辛い。けれどそれは、決して不快な感覚では無かった。寧ろ、胸に抱えていた余計な雑念がすっきりと晴れ渡り、清々しい感覚すら覚えている。
自分の目の前にいる男が、己が人生で最大の決断をたったいま下した事などまるで知らない相沢さんは、こちらこそよろしく、と改めて挨拶をしてくれた。俺は相沢さんのその明るい表情を受けて、どうにかこの場を切り抜けられた事にホッと胸を撫で下ろした。
依頼人本人ではないにせよ、関係者のうちの一人である相沢さんに、余計な不安を与えなくて良かった。次第に緊張と興奮で昂っていた心身が落ち着いてくる。指先は少しだけ震えていたけれど、これくらいは些事だとして片付けた。
「しかし一年かぁ、思っていた以上に乾燥って時間が掛かるんですね」
「はい。切り出した生材がきちんとした木材として扱えるかは、乾燥が十分に行えたかに掛かっていますから」
木材に含まれる水分量を表す指標として『含水率』というものがあり、山などに生えている立ち木の場合だと、それは150%という事になる。一般に乾燥材とされる基準は、含水率20%とされているから、150%近い状態から20%まで落として行く工程が乾燥作業に当たる。
原木から製材したばかりの生材の状態のまま使用することは殆ど無い。乾燥するという事は、木材から水分が抜けるという事で、野菜や魚でも保存用に乾燥させると縮むけれど、これと同様の現象が木材にも起きるからだ。
木材は野菜や魚ほど縮むことはないのだけど、乾燥による変形・収縮で、曲り・反り・割れが生じることが多いため、切り出した後、ただ放っておけばいいのではなく、乾燥させるその工程には繊細な作業が必要とされていた。
「林業も経験してる人になら、信頼して任せられます。それにオーナーだけじゃなく、俺達も貴方の作る作品には凄く興味があるんですよ。写真で見せて貰ったんですけど、もうみんな貴方のファンです。早く出来上がりが見たいなぁ。確かこの木の作品だけじゃなく、この店の家具とか調度品をちょこちょこ修繕したり新しい物にしてくれるんでしたよね?」
「はい。だから、本当の常連になる日も、そう遠くはないと思います」
「それは良かった。こいつの事、宜しくお願いしますね」
相沢さんが山桜のことを『こいつ』と呼んで親しみを込めている所を受けて、木工家としてのエンジンが漸く掛かり始めた。この人達の期待に応えよう。絶対にきちんとした木材にして、作品として生まれ変わらせてみせよう。山桜を目の前にして、俺はそう、意気込みを新たにしてみせた。
一陣の風が、桜の枝花を揺らして花弁を散らしていく。隆盛を極めた山桜の開花は、されど今年で見る事は叶わなくなるのだ。
倒される前に、一番綺麗な瞬間にまみえる事が出来て良かった。相沢さんは、そろそろ珈琲が淹れ終わる頃だからと言って、俺を店内に促した。けれど、その山桜の最後の宴を一度見てしまったものだから、後ろ髪を引かれるような心地になってしまって。俺はその山桜の大木を最後に一度振り返ってから、相沢さんの後に続いた。
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