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第一章『楊貴妃』
第五話『止まり木』
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・
「この店は、本当に『KANATA』の曲が好きだよね」
すっかり常連となった遥が、楊貴妃をゆったり愉しみながら、ぽつりと呟いた。店内に流れるBGMは、今日も勿論『KANATA』のオリジナル曲だ。
「知っているんですか?」
「うん、まぁ」
まさか遥の口から彼の話題が飛び出してくるとは思わず、彰は嬉しくなって聞き返した。しかし遥の方はそれ以上話を展開していく気は特に無かったのか、気の無い返事をしたのみで、このまま話を終わらせようとしている。けれど、彰としてはこのまま引き下がるつもりは微塵も無く、日頃培ってきた観察眼や空気を読む能力の悉くを嬉しさが上回っていて、遥の様子に対して、全く頓着しなかった。
店内BGMは自分が選んでいるのだという事実を告げると、彰は一頻りこの覆面で活動している『KANATA』について語り続けた。遥は内心少しだけ呆れていた様ではあったが、話の水を向けたのは自分であると分かっているからなのか薄く笑みを湛えながら、それに丁度いい塩梅の相槌を返してくれた。その話を促す雰囲気がどこまでも心地良くて、彰は知らず知らずの内に、遥との話にのめり込んでいった。
この、人の話を聞く時の態度にこそ、彼が『楊貴妃』として謳われる所以があることを、彰はまだ知らない。
「昔からのファンなんです、俺。彼がデビューした当時からの」
「へぇ、長いね」
さも驚いたと言わんばかりに遥が驚嘆を口にするので、彰は貴方もファンなんですか?と尋ねた。すると、そういう訳じゃない、と言わんばかりにゆっくり首を横に振られた。彰は、それを見て何故だかガッカリしている自分がいることに気が付いていたけれど、その感情を敢えて無視する事にした。その心の機微を深掘りしたところで、落とし所は一つしかないと、本能的に理解しているからだ。
彰は、もう、認め始めていた。自分は既に、彼という存在に嵌りかけているのだと。一般的に言われる好意とはまた別の、好感。それが胸の内側にひっそりと芽生えている事を。
「デビュー当時なんて無名じゃない。どうやって知ったの?」
「最初は、この店で流れたラジオがきっかけでした」
番組名などの記憶は朧げだけれど、新人発掘、みたいな内容だった気がする。出会いは、所謂偶然みたいなもので、彰は、そこにも自分の人生と彼との出会いに、ある種のドラマ性を感じていた。
「酷いミスを犯して落ち込んでる時に、ちょうど流れてきた旋律に感動してしまって。それに、心奪われてしまったんです。それからというもの、辛い時や苦しい時は、彼の作る楽曲にずっと癒されてきました」
彼あってこその、自分。そこまで大袈裟には語らなかったが、口調に現れていたのだろう。なんだか熱量が凄いねと、遥に若干の苦笑いをされてしまった。彰は、少しだけその反応に傷付いた。この人の事だから、てっきりいつもの様に、穏やかな微笑みをふわりと浮かべて、こんな自分も受け入れてくれるとばかり考えていたからだ。
「なんか、そんなタイプに見えない」
楊貴妃を一口飲んでから、その意外性を指摘されると、彰は無性に『タイプ』という言葉選びが気になって、胸に湧いた疑問を、そのまま口にした。何故だか、無性に口の中が乾燥していたけれど、それ以上に好奇心や、言葉に表せない緊張に、意識が囚われていた。
「貴方から見た俺は、どんなタイプですか?」
遥は暫く頬杖をついて、彰をじっと見つめた。穴が開いてしまうんじゃないか、という時間を掛けてその視線の先に晒されている内に、彰は、その瞳に吸い込まれそうになってしまう自分がいる事を自覚した。
「誰にでも合わせられるけど、自分の心に薄い殻を持ってる、少しだけ、寂しい人」
「寂しい?」
生まれて初めてそんな風に自分を表現をされ、彰は思わず鸚鵡返しをした。友達は多くはないが少なくもないし、それなりにお付き合いの経験だってある。家族仲も悪くはないから、そんな自分を捕まえて『寂しい』と表現されたのが不思議だったのだ。
「お前は、俺に似てるね」
「そう、ですか?」
とても、そうとは思えなかった。ころころとよく笑い、よく話し。掴み所がありそうで、正体すら曖昧な彼と、自分が、似ている?
けれどその表現は、彰の心の奥深くにある乾いた地面を、しっとりと湿らせるだけの効果を齎した。だから、遥の言葉選びは、強ち間違いでは無かったのだろう。俺は、自分自身知らぬ間に、自分ではどうにも出来ない寂しさを内に秘めていたのか。彰は、驚愕と共に、心地良い納得を胸にした。
「人間の寂しさや孤独って、どうやったら埋められるんだろうね」
カウンターの上に置かれた楊貴妃を眺めるとでもなく覗きながら、遥が静かに問う。彰に対して向けられた疑問というよりは、自分自身に語りかけている様なそれに、彰は暫く立ち尽くしてしまった。胸に湧いた疑問を、そのまま収めて置く事が出来ずに、彰は、その疑問を、再びにそのままの形で遥に送り届けた。この人の前に立つと、自分は何処までも素直になれる。そんな人物とこれまで出会って来なかった彰にとって、遥と過ごす時間は、とても心地の良いものだった。けれど、だからこそ、そんな自分にとって何よりも得難い人が、春を売り歩く様な真似を続けている事が、彰はどうしても許せなかった。
「貴方が男漁りをする理由って、もしかしてそれですか?」
明け透けな言い方を、敢えて選んだ。下手にオブラートに包んで告げたところで、遥の本心を抉ることは出来ないかもしれないと、これまで彼と接してきた経験から悟ったからだ。寂し気な笑みを浮かべながら、しかし何処となく達観している様な雰囲気を纏った遥は、相変わらず、彰にではなく、カクテルグラスの中にある小さな水面に視線を寄せ続けている。
「そうかも知れないし、違うかも知れない。こんなやり方したところで、運命の相手に出逢えるなんて夢見てるわけでもないし。だからこれも、俺にとって気晴らしに近いんだと思う。長い長い、人生のね」
「……身体と心の毒ですよ。そんな方法」
「あれ?心配してくれてるの」
明らかに揶揄ってくる彼に向けて何か言わんとしようとしたが、彰の口からは何も言葉が生み出されることは無かった。こんなもの、まるで自分らしくない。会話上手とも言えないけれど、もっと自分は人とのコミュニケーションに力を注げる人間のはずだ。客商売を生業としている人間として、これでは落第点だろう。しかしそれを分かっていても、どうにもならなかった。結果的にむっつりと押し黙ると、遥は顎の下で手を組み、そこに顎を乗せて、蠱惑的な笑みを浮かべた。
「バーテンダーってさ、『止まり木』って意味があるんだってね……お前は、俺の止まり木なのかな?」
話が急展開を迎えて、彰はどくり、と心臓が強く脈打った音を耳の裏側で聞いた。視線が絡まる。碌に息もつけないほどの、濃密な色香が、ぶわりと自分の周囲を取り囲んでいく。遥は婀娜っぽい仕草で、カクテルグラスの縁をつう、と指先だけで拭うと、その指先を真っ赤な舌先でペロリとひと舐めした。此方に、見せつけるように。
これは、もしかしなくとも、彼に一晩を誘われているのだろうか。けれど、分からない。この人の本心は、自分如きには掴めないから。下手に動きを取る事が出来ず、狼狽える。しかし、彰の頭の中は妙に冷静ではあった。
止まり木。鳥が疲れた羽を休める休息地。彼にとっての自分の存在が、万が一それだとしたならば。そこは、いつかは、飛び立ってしまう場所だ。彰は、無性にそれを嫌だと思った。もう、誰の所にも行かせたくない。ずっと、自分と共に生きて行って欲しい。けれど、それを口にしたら、彼が直ぐにでもその止まり木から飛び立っていってしまうのではないかと、それが怖くて。結局彰は、無言のままに、遥と視線を絡め続ける事しか出来なかった。
眼差しに熱を乗せ、カウンター越しに見つめ合う。二人はこの場で、お互いの肌の温度を確かめ合うそれを、視線を交わすという行為だけで繰り広げていた。遥の頬が、彰の情欲に濡れた眼差しに耐え切れず、次第に朱色に染まっていく。その素直な反応に、男として我慢し切れなくなった彰が、『しよう』と夜に誘う台詞を紡ごうとした瞬間、ドアベルが、からんころんと鳴って、来客を告げた。
良い時だったが、仕事は仕事。内心で鋭い舌打ちをした彰が、営業用の笑顔を作って来客を出迎える。しかし。
「いらっしゃいま……せ」
その客を目にした途端、彰は半ば呆気に取られてしまった。こんなに顔の造形が整っている人間を見た事がない。彰はその方面に聡くないので分からないが、モデルか俳優、芸能人であっても何らおかしくは無いだろうと思った。寧ろこれで一般人だと言われたら逆に詐欺だ。彰は男であるからして何の感慨も抱かないが、それでも目だけは奪われた。
「………いた」
しかし、その彫刻の様に造形の整った男は、真っ直ぐに遥だけを見つめていた。射抜く様に、漸く邂逅した、と言わんばかりに、目を見開いて。その男は、ずんずんと遥の側までやってくると、まるでドラマの中のワンシーンのように颯爽と遥の手を取り、彼の隣の席に腰を落とした。そして、再び真っ直ぐに、遥の双眸を射抜く様に見つめた。
「頼むから、突然俺の前からいなくなるのはよしてくれ。心臓が幾つあっても足りない」
その切実と誠実を絵に描いた台詞を至極真面目に紡いだその男は、そのままぎゅう、と遥の肩を抱き、首筋に額を埋めた。そして、安堵する様にして深く息を吐いてから、遥の背中をゆっくりと撫ぜた。
「ごめんね、裕也。心配かけたね」
「本当だよ。こっちの身にもなれ。でも、今回は早めに見つかって良かった……もうこんな真似しないでくれよ。頼むから」
「でも、この店のお酒美味しいから、これからも通いたい」
「ダメだ。酒が入るとお前のことだから直ぐに……俺が相手するから、我慢してくれ」
遥が唇を尖らせ、上目遣いで裕也と呼ばれた男をジッと見つめている。暫くそうして膠着状態に陥っていたが、遥が渋々、といった体で折れた気配が、カウンターの内側にいる彰にも伝わってきて。その無言のまま交わされる会話に、深い信頼関係を見た彰の胸は、ざわざわと揺らめいた。
「お前の嗅覚、ほんと鋭くて嫌になる」
「お前にだけだよ」
「ふふ……可愛い奴」
それまで不機嫌そうにしていた遥の空気が一変し、その機嫌が上向いたと思われた、次の瞬間。二人の唇が、深く、隙間なく、ぴったりと重なった。その光景から、彰は、目を逸らす事が出来なかった。その男、裕也と遥の、誰にも介入の出来ない空気を前にして、只管に呆然とした彰は、その場に悄然と立ち尽くすしか無かった。この男は、一体何者なのだろうか。遥とはどんな関係なのだろうか。そして、何故自分の胸は、こんなにも、鋭く尖った刃を突き立てられたかのように、痛むのだろうか。
「もっとここに通いたかったのにな」
「もっと遊びたかったの間違いだろ」
「遊びじゃ無いもん」
「はぁ……?」
素っ頓狂な声を上げた裕也が、逡巡する様な間を置いてから、入店してから初めて彰を視界に捉えた。カウンターから覗ける部分を繁々と上から下まで不躾に眺められ、良い気はしない。すると、次第に裕也の眉間に皺が寄っていき、最後には盛大な溜息を吐かれた。
「なんだよ、そういう事か」
いや、どういう意味だよ、と心の赴くままに切り返したかった。しかし、まだ酒は注文していないが、相手は客。彰は、それを既の所でグッと堪えた。
「お前の気持ちは分かったけど、だとしたら余計にこんな事続けていたらダメだろう」
「俺のやり方に、ケチつけないで」
「はいはい、分かったよ……すいません、支払いお願いします」
「まだ飲み終わって無いのに」
「お前周り待たせ過ぎ。皆がいくらお前に甘いからって、やりたい放題していい訳じゃないんだからな」
「分かってるよ」
彰は押し黙ったまま、自分を置いてぽんぽんと進んでいく会話のその全てに耳を傾けていた。知らない話題があれよと二人の会話に登場してくる事実に、何故だか酷く打ちのめされている自分がいることに気が付いていたが、今の自分には成す術がない。バーテンダーが客同士の会話に口を挟むなど、あってはならないのだから。
そう、彰と遥の関係性は、カウンターを挟んだ向かい側でしか成立していない。当たり前のように、ただのバーテンダー(止まり木)と客(鳥)の関係でしかないのだ。その事実を確認すると、彰の肩からは、すっと力が抜けた。遥を前にして、心地良い緊張感に包まれていた己を、彰は、静かに解き放ったのだった。
精算を頼まれている事をはたりと思い起こし、伝票を用意する為にレジへと向かう。席会計の為、二人の元にすぐに蜻蛉返りすると、彰は遥とすっかり目が合った。遥は、彰の事をジッと目で追っていたのだ。それに気が付くと、彰は自分の胸がギュッと引き絞られたかの様な感覚に陥った。
なんで、そんな目で俺を見るんだ。そんな、潤んだ瞳で見つめられたら、勘違いしそうになるじゃないか。俺が、貴方にとって、特別な存在なんじゃないかって。
熱烈なキスを交わすような男を、隣に置いている癖に。いつもいつも、俺の事を置いて、知らない男と夜の街に消える癖に。こちらの胸を掻き毟るだけ掻きむしっていくあなたなんて、知った事か。早く、その男と一緒に目の前から消えてくれ。これ以上、俺という人間を作り変えてしまうのは、止めてくれ。
いつもの様に、扉の前まで送り出す。しかし、いつもの様に、またのお越しをお待ちしております、という台詞は口にしなかった。遥が、ちらりと此方を振り返ったような気がしたけれど、彰はコンクリート敷きの地面しか視界に入れないように細心の注意を払った。
顔を上げ、二人の後ろ姿を確認する前にさっさと店に戻ると、遥の座っていた席には、彼の飲みかけの楊貴妃だけが取り残されていた。やってはならない事だと分かっていながら、彰は静かにそれに口を付けた。淡い水色のカクテルは、飲み口の爽やかな味わいをしているにも関わらず、嫋やかで、しなやかで、男達を何処までも魅力するあの人にぴったりだな、と思えたが、その心の中に自分という人間が及ぶ隙間は無かったのだという現実を直視した瞬間に、乾いた笑いが口の端から自然と漏れていた。
いつも、あの人の、誰かを見つめる横顔しか見てこなかった。その瞳で、眼差しで、見つめられたいと、ずっと思っていた。同時に恐ろしさも感じていた。その瞳に囚われてしまったら、自分がどうなってしまうのか分からなかったから。けれど、蓋を開けてみれば知れたこと。びり、と脳幹に電流を流されたかのような痺れと。胸に迫る歓喜。静かな情動に、彰は打ち震えた。
例えそれがあの人の気紛れでしかなくても、さっきの記憶だけは、忘れられない。片付けを終わらせ、そのままバックヤードに足を進めると、扉を背中にしたまま、ずるずると床に腰を下ろし、少しだけ泣いた。
確かに自分は、あの人が言った通りの、少しだけ寂しい人間だったのだろう。あの飲みかけの、あの人そのものを表す様なカクテルを美味しいと思える自分はきっと、あの人からの愛に飢えていたのだ。
誰かを想って泣いたのは、初めての経験だった。だからこれが初恋だったのかもしれない。
「この店は、本当に『KANATA』の曲が好きだよね」
すっかり常連となった遥が、楊貴妃をゆったり愉しみながら、ぽつりと呟いた。店内に流れるBGMは、今日も勿論『KANATA』のオリジナル曲だ。
「知っているんですか?」
「うん、まぁ」
まさか遥の口から彼の話題が飛び出してくるとは思わず、彰は嬉しくなって聞き返した。しかし遥の方はそれ以上話を展開していく気は特に無かったのか、気の無い返事をしたのみで、このまま話を終わらせようとしている。けれど、彰としてはこのまま引き下がるつもりは微塵も無く、日頃培ってきた観察眼や空気を読む能力の悉くを嬉しさが上回っていて、遥の様子に対して、全く頓着しなかった。
店内BGMは自分が選んでいるのだという事実を告げると、彰は一頻りこの覆面で活動している『KANATA』について語り続けた。遥は内心少しだけ呆れていた様ではあったが、話の水を向けたのは自分であると分かっているからなのか薄く笑みを湛えながら、それに丁度いい塩梅の相槌を返してくれた。その話を促す雰囲気がどこまでも心地良くて、彰は知らず知らずの内に、遥との話にのめり込んでいった。
この、人の話を聞く時の態度にこそ、彼が『楊貴妃』として謳われる所以があることを、彰はまだ知らない。
「昔からのファンなんです、俺。彼がデビューした当時からの」
「へぇ、長いね」
さも驚いたと言わんばかりに遥が驚嘆を口にするので、彰は貴方もファンなんですか?と尋ねた。すると、そういう訳じゃない、と言わんばかりにゆっくり首を横に振られた。彰は、それを見て何故だかガッカリしている自分がいることに気が付いていたけれど、その感情を敢えて無視する事にした。その心の機微を深掘りしたところで、落とし所は一つしかないと、本能的に理解しているからだ。
彰は、もう、認め始めていた。自分は既に、彼という存在に嵌りかけているのだと。一般的に言われる好意とはまた別の、好感。それが胸の内側にひっそりと芽生えている事を。
「デビュー当時なんて無名じゃない。どうやって知ったの?」
「最初は、この店で流れたラジオがきっかけでした」
番組名などの記憶は朧げだけれど、新人発掘、みたいな内容だった気がする。出会いは、所謂偶然みたいなもので、彰は、そこにも自分の人生と彼との出会いに、ある種のドラマ性を感じていた。
「酷いミスを犯して落ち込んでる時に、ちょうど流れてきた旋律に感動してしまって。それに、心奪われてしまったんです。それからというもの、辛い時や苦しい時は、彼の作る楽曲にずっと癒されてきました」
彼あってこその、自分。そこまで大袈裟には語らなかったが、口調に現れていたのだろう。なんだか熱量が凄いねと、遥に若干の苦笑いをされてしまった。彰は、少しだけその反応に傷付いた。この人の事だから、てっきりいつもの様に、穏やかな微笑みをふわりと浮かべて、こんな自分も受け入れてくれるとばかり考えていたからだ。
「なんか、そんなタイプに見えない」
楊貴妃を一口飲んでから、その意外性を指摘されると、彰は無性に『タイプ』という言葉選びが気になって、胸に湧いた疑問を、そのまま口にした。何故だか、無性に口の中が乾燥していたけれど、それ以上に好奇心や、言葉に表せない緊張に、意識が囚われていた。
「貴方から見た俺は、どんなタイプですか?」
遥は暫く頬杖をついて、彰をじっと見つめた。穴が開いてしまうんじゃないか、という時間を掛けてその視線の先に晒されている内に、彰は、その瞳に吸い込まれそうになってしまう自分がいる事を自覚した。
「誰にでも合わせられるけど、自分の心に薄い殻を持ってる、少しだけ、寂しい人」
「寂しい?」
生まれて初めてそんな風に自分を表現をされ、彰は思わず鸚鵡返しをした。友達は多くはないが少なくもないし、それなりにお付き合いの経験だってある。家族仲も悪くはないから、そんな自分を捕まえて『寂しい』と表現されたのが不思議だったのだ。
「お前は、俺に似てるね」
「そう、ですか?」
とても、そうとは思えなかった。ころころとよく笑い、よく話し。掴み所がありそうで、正体すら曖昧な彼と、自分が、似ている?
けれどその表現は、彰の心の奥深くにある乾いた地面を、しっとりと湿らせるだけの効果を齎した。だから、遥の言葉選びは、強ち間違いでは無かったのだろう。俺は、自分自身知らぬ間に、自分ではどうにも出来ない寂しさを内に秘めていたのか。彰は、驚愕と共に、心地良い納得を胸にした。
「人間の寂しさや孤独って、どうやったら埋められるんだろうね」
カウンターの上に置かれた楊貴妃を眺めるとでもなく覗きながら、遥が静かに問う。彰に対して向けられた疑問というよりは、自分自身に語りかけている様なそれに、彰は暫く立ち尽くしてしまった。胸に湧いた疑問を、そのまま収めて置く事が出来ずに、彰は、その疑問を、再びにそのままの形で遥に送り届けた。この人の前に立つと、自分は何処までも素直になれる。そんな人物とこれまで出会って来なかった彰にとって、遥と過ごす時間は、とても心地の良いものだった。けれど、だからこそ、そんな自分にとって何よりも得難い人が、春を売り歩く様な真似を続けている事が、彰はどうしても許せなかった。
「貴方が男漁りをする理由って、もしかしてそれですか?」
明け透けな言い方を、敢えて選んだ。下手にオブラートに包んで告げたところで、遥の本心を抉ることは出来ないかもしれないと、これまで彼と接してきた経験から悟ったからだ。寂し気な笑みを浮かべながら、しかし何処となく達観している様な雰囲気を纏った遥は、相変わらず、彰にではなく、カクテルグラスの中にある小さな水面に視線を寄せ続けている。
「そうかも知れないし、違うかも知れない。こんなやり方したところで、運命の相手に出逢えるなんて夢見てるわけでもないし。だからこれも、俺にとって気晴らしに近いんだと思う。長い長い、人生のね」
「……身体と心の毒ですよ。そんな方法」
「あれ?心配してくれてるの」
明らかに揶揄ってくる彼に向けて何か言わんとしようとしたが、彰の口からは何も言葉が生み出されることは無かった。こんなもの、まるで自分らしくない。会話上手とも言えないけれど、もっと自分は人とのコミュニケーションに力を注げる人間のはずだ。客商売を生業としている人間として、これでは落第点だろう。しかしそれを分かっていても、どうにもならなかった。結果的にむっつりと押し黙ると、遥は顎の下で手を組み、そこに顎を乗せて、蠱惑的な笑みを浮かべた。
「バーテンダーってさ、『止まり木』って意味があるんだってね……お前は、俺の止まり木なのかな?」
話が急展開を迎えて、彰はどくり、と心臓が強く脈打った音を耳の裏側で聞いた。視線が絡まる。碌に息もつけないほどの、濃密な色香が、ぶわりと自分の周囲を取り囲んでいく。遥は婀娜っぽい仕草で、カクテルグラスの縁をつう、と指先だけで拭うと、その指先を真っ赤な舌先でペロリとひと舐めした。此方に、見せつけるように。
これは、もしかしなくとも、彼に一晩を誘われているのだろうか。けれど、分からない。この人の本心は、自分如きには掴めないから。下手に動きを取る事が出来ず、狼狽える。しかし、彰の頭の中は妙に冷静ではあった。
止まり木。鳥が疲れた羽を休める休息地。彼にとっての自分の存在が、万が一それだとしたならば。そこは、いつかは、飛び立ってしまう場所だ。彰は、無性にそれを嫌だと思った。もう、誰の所にも行かせたくない。ずっと、自分と共に生きて行って欲しい。けれど、それを口にしたら、彼が直ぐにでもその止まり木から飛び立っていってしまうのではないかと、それが怖くて。結局彰は、無言のままに、遥と視線を絡め続ける事しか出来なかった。
眼差しに熱を乗せ、カウンター越しに見つめ合う。二人はこの場で、お互いの肌の温度を確かめ合うそれを、視線を交わすという行為だけで繰り広げていた。遥の頬が、彰の情欲に濡れた眼差しに耐え切れず、次第に朱色に染まっていく。その素直な反応に、男として我慢し切れなくなった彰が、『しよう』と夜に誘う台詞を紡ごうとした瞬間、ドアベルが、からんころんと鳴って、来客を告げた。
良い時だったが、仕事は仕事。内心で鋭い舌打ちをした彰が、営業用の笑顔を作って来客を出迎える。しかし。
「いらっしゃいま……せ」
その客を目にした途端、彰は半ば呆気に取られてしまった。こんなに顔の造形が整っている人間を見た事がない。彰はその方面に聡くないので分からないが、モデルか俳優、芸能人であっても何らおかしくは無いだろうと思った。寧ろこれで一般人だと言われたら逆に詐欺だ。彰は男であるからして何の感慨も抱かないが、それでも目だけは奪われた。
「………いた」
しかし、その彫刻の様に造形の整った男は、真っ直ぐに遥だけを見つめていた。射抜く様に、漸く邂逅した、と言わんばかりに、目を見開いて。その男は、ずんずんと遥の側までやってくると、まるでドラマの中のワンシーンのように颯爽と遥の手を取り、彼の隣の席に腰を落とした。そして、再び真っ直ぐに、遥の双眸を射抜く様に見つめた。
「頼むから、突然俺の前からいなくなるのはよしてくれ。心臓が幾つあっても足りない」
その切実と誠実を絵に描いた台詞を至極真面目に紡いだその男は、そのままぎゅう、と遥の肩を抱き、首筋に額を埋めた。そして、安堵する様にして深く息を吐いてから、遥の背中をゆっくりと撫ぜた。
「ごめんね、裕也。心配かけたね」
「本当だよ。こっちの身にもなれ。でも、今回は早めに見つかって良かった……もうこんな真似しないでくれよ。頼むから」
「でも、この店のお酒美味しいから、これからも通いたい」
「ダメだ。酒が入るとお前のことだから直ぐに……俺が相手するから、我慢してくれ」
遥が唇を尖らせ、上目遣いで裕也と呼ばれた男をジッと見つめている。暫くそうして膠着状態に陥っていたが、遥が渋々、といった体で折れた気配が、カウンターの内側にいる彰にも伝わってきて。その無言のまま交わされる会話に、深い信頼関係を見た彰の胸は、ざわざわと揺らめいた。
「お前の嗅覚、ほんと鋭くて嫌になる」
「お前にだけだよ」
「ふふ……可愛い奴」
それまで不機嫌そうにしていた遥の空気が一変し、その機嫌が上向いたと思われた、次の瞬間。二人の唇が、深く、隙間なく、ぴったりと重なった。その光景から、彰は、目を逸らす事が出来なかった。その男、裕也と遥の、誰にも介入の出来ない空気を前にして、只管に呆然とした彰は、その場に悄然と立ち尽くすしか無かった。この男は、一体何者なのだろうか。遥とはどんな関係なのだろうか。そして、何故自分の胸は、こんなにも、鋭く尖った刃を突き立てられたかのように、痛むのだろうか。
「もっとここに通いたかったのにな」
「もっと遊びたかったの間違いだろ」
「遊びじゃ無いもん」
「はぁ……?」
素っ頓狂な声を上げた裕也が、逡巡する様な間を置いてから、入店してから初めて彰を視界に捉えた。カウンターから覗ける部分を繁々と上から下まで不躾に眺められ、良い気はしない。すると、次第に裕也の眉間に皺が寄っていき、最後には盛大な溜息を吐かれた。
「なんだよ、そういう事か」
いや、どういう意味だよ、と心の赴くままに切り返したかった。しかし、まだ酒は注文していないが、相手は客。彰は、それを既の所でグッと堪えた。
「お前の気持ちは分かったけど、だとしたら余計にこんな事続けていたらダメだろう」
「俺のやり方に、ケチつけないで」
「はいはい、分かったよ……すいません、支払いお願いします」
「まだ飲み終わって無いのに」
「お前周り待たせ過ぎ。皆がいくらお前に甘いからって、やりたい放題していい訳じゃないんだからな」
「分かってるよ」
彰は押し黙ったまま、自分を置いてぽんぽんと進んでいく会話のその全てに耳を傾けていた。知らない話題があれよと二人の会話に登場してくる事実に、何故だか酷く打ちのめされている自分がいることに気が付いていたが、今の自分には成す術がない。バーテンダーが客同士の会話に口を挟むなど、あってはならないのだから。
そう、彰と遥の関係性は、カウンターを挟んだ向かい側でしか成立していない。当たり前のように、ただのバーテンダー(止まり木)と客(鳥)の関係でしかないのだ。その事実を確認すると、彰の肩からは、すっと力が抜けた。遥を前にして、心地良い緊張感に包まれていた己を、彰は、静かに解き放ったのだった。
精算を頼まれている事をはたりと思い起こし、伝票を用意する為にレジへと向かう。席会計の為、二人の元にすぐに蜻蛉返りすると、彰は遥とすっかり目が合った。遥は、彰の事をジッと目で追っていたのだ。それに気が付くと、彰は自分の胸がギュッと引き絞られたかの様な感覚に陥った。
なんで、そんな目で俺を見るんだ。そんな、潤んだ瞳で見つめられたら、勘違いしそうになるじゃないか。俺が、貴方にとって、特別な存在なんじゃないかって。
熱烈なキスを交わすような男を、隣に置いている癖に。いつもいつも、俺の事を置いて、知らない男と夜の街に消える癖に。こちらの胸を掻き毟るだけ掻きむしっていくあなたなんて、知った事か。早く、その男と一緒に目の前から消えてくれ。これ以上、俺という人間を作り変えてしまうのは、止めてくれ。
いつもの様に、扉の前まで送り出す。しかし、いつもの様に、またのお越しをお待ちしております、という台詞は口にしなかった。遥が、ちらりと此方を振り返ったような気がしたけれど、彰はコンクリート敷きの地面しか視界に入れないように細心の注意を払った。
顔を上げ、二人の後ろ姿を確認する前にさっさと店に戻ると、遥の座っていた席には、彼の飲みかけの楊貴妃だけが取り残されていた。やってはならない事だと分かっていながら、彰は静かにそれに口を付けた。淡い水色のカクテルは、飲み口の爽やかな味わいをしているにも関わらず、嫋やかで、しなやかで、男達を何処までも魅力するあの人にぴったりだな、と思えたが、その心の中に自分という人間が及ぶ隙間は無かったのだという現実を直視した瞬間に、乾いた笑いが口の端から自然と漏れていた。
いつも、あの人の、誰かを見つめる横顔しか見てこなかった。その瞳で、眼差しで、見つめられたいと、ずっと思っていた。同時に恐ろしさも感じていた。その瞳に囚われてしまったら、自分がどうなってしまうのか分からなかったから。けれど、蓋を開けてみれば知れたこと。びり、と脳幹に電流を流されたかのような痺れと。胸に迫る歓喜。静かな情動に、彰は打ち震えた。
例えそれがあの人の気紛れでしかなくても、さっきの記憶だけは、忘れられない。片付けを終わらせ、そのままバックヤードに足を進めると、扉を背中にしたまま、ずるずると床に腰を下ろし、少しだけ泣いた。
確かに自分は、あの人が言った通りの、少しだけ寂しい人間だったのだろう。あの飲みかけの、あの人そのものを表す様なカクテルを美味しいと思える自分はきっと、あの人からの愛に飢えていたのだ。
誰かを想って泣いたのは、初めての経験だった。だからこれが初恋だったのかもしれない。
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【完結】恩師の訃報に八年ぶりに帰郷した智(さとし)は幼馴染の有馬(ありま)と再会する。相変わらず寡黙て静かな有馬が智の勤める大学の学生だと知り、だんだんとその距離は縮まっていき……
ひとりぼっちの180日
あこ
BL
付き合いだしたのは高校の時。
何かと不便な場所にあった、全寮制男子高校時代だ。
篠原茜は、その学園の想像を遥かに超えた風習に驚いたものの、順調な滑り出しで学園生活を始めた。
二年目からは学園生活を楽しみ始め、その矢先、田村ツトムから猛アピールを受け始める。
いつの間にか絆されて、二年次夏休みを前に二人は付き合い始めた。
▷ よくある?王道全寮制男子校を卒業したキャラクターばっかり。
▷ 綺麗系な受けは学園時代保健室の天使なんて言われてた。
▷ 攻めはスポーツマン。
▶︎ タグがネタバレ状態かもしれません。
▶︎ 作品や章タイトルの頭に『★』があるものは、個人サイトでリクエストしていただいたものです。こちらではリクエスト内容やお礼などの後書きを省略させていただいています。
彼の理想に
いちみやりょう
BL
あの人が見つめる先はいつも、優しそうに、幸せそうに笑う人だった。
人は違ってもそれだけは変わらなかった。
だから俺は、幸せそうに笑う努力をした。
優しくする努力をした。
本当はそんな人間なんかじゃないのに。
俺はあの人の恋人になりたい。
だけど、そんなことノンケのあの人に頼めないから。
心は冗談の中に隠して、少しでもあの人に近づけるようにって笑った。ずっとずっと。そうしてきた。
クズ彼氏にサヨナラして一途な攻めに告白される話
雨宮里玖
BL
密かに好きだった一条と成り行きで恋人同士になった真下。恋人になったはいいが、一条の態度は冷ややかで、真下は耐えきれずにこのことを塔矢に相談する。真下の事を一途に想っていた塔矢は一条に腹を立て、復讐を開始する——。
塔矢(21)攻。大学生&俳優業。一途に真下が好き。
真下(21)受。大学生。一条と恋人同士になるが早くも後悔。
一条廉(21)大学生。モテる。イケメン。真下のクズ彼氏。
Rain -拗らせた恋の行く末は…-
真田晃
BL
第二章で、無理矢理な描写があります。
ご注意下さい。
また、第四章では、スピンオフ作品『これは、バームクーヘンエンドか』の内容に触れています。
※未読でも影響ありませんが、目を通して頂けると、より深みが増すかと思います。
◇◆◇
僕は、大空(ソラ)が、好きだった──
大空には彼女がいたけれど、彼の思わせ振りな態度に、僕の淡い期待はどんどん膨らんでしまい……
この気持ちを誰かに聞いて貰いたくて。
ゲイ専用の出会い系サイトで知り合った『ミキ』さんに、ネットを介して大空の事を全て話していた。
しかし、ある日──大空が、仲の良い男子を集めて、彼女とセックスした話をしているのを、聞いてしまう……
傷心から僕は、初めて『ミキ』さんとリアルで会い、自ら全てを捧げてしまった。
その翌日の放課後。
他には誰もいない教室で。
僕は、大空から……
***
こじらせ男子が、性や恋、愛に翻弄されつつも一歩前へ踏み出そうとする姿や、彼を取り巻く環境や周囲の人達と関わり合う事で、次第に見えてくる真実等、描いていけたらと思っています。
全体的に、切ないストーリーとなっております。
完結までに何度も加筆修正予定。
ご迷惑お掛けします。
※スピンオフも御座います。
→『これは、バームクーヘンエンドか』(台詞縛りコンテスト応募作品)
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