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第一章『楊貴妃』
第四話『向いていない仕事』
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二日と置かずに、彼……『楊貴妃』は店にやってきた。扉を開けるなり、猫の様にしなやかな動きでカウンターまでやって来る彼に、内心ではどきりとしながら、いらっしゃいませ、と、しかし平坦に声を掛けた。彼は微笑み、それに小さく会釈を返すと、またカウンターの一番奥の席に腰を落ち着けた。
「この間は、すみませんでした」
以前にあった非礼を詫びてくる彼に胸の中で苦笑して。彰は、問題ありませんと比較的簡素な嘘をついた。すると、嘘ばっかり、と、彼は鈴を転がすように笑った。
「顔に書いてあるよ、面倒臭い奴が来たなって」
「……そんなことは」
「それも嘘。この職業に就いてて嘘下手なんて、向いてないんじゃない?お兄さん」
明らかに、おちょくられているというのが分かった。しかし、こちらもプロ。客のそれにいちいち付き合っていたら、日が暮れてしまう。これくらい流せなくては、この業界にあってプロとは言えない。けれど、だからといって客を無視をする訳にもいかないから、彰は何パターンか用意している対応の中で、一番捻くれた対応をする道を選び取った。
「俺も、そう思いますよ」
話の展開を急激に変える、相手によっては不快指数を上げかねない一手を敢えて選んだ。しかし、この彼ならきっとこれで問題ないだろうと、彰は当たりをつけていた。事実、彼は気に障ったような反応を見せなかった。これは、彰なりの人生経験に基づく推察が功を奏した結果といえる。これ以上自分を揶揄えない流れに会話を持って行こう……つまり、会話のペースを相手に握らせないようにしようと彰は目論んだのだった。意外に感じたのかもしれない。彼は、彰の話題の転換に付いて行けず、一瞬きょとんと目を丸くした。ちゃんと成人しているのだろうかと疑いたくなるくらい、その表情や雰囲気はあどけなく。豹変した彼をこの目で見ていなければ、店を追い出してしまうレベルに、幼い印象をそこに縁取っていた。
「……お兄さん、面白い人だね」
彼はまた、鈴を転がすようにして、笑った。揶揄い混じりだった態度も鳴りを潜め、客とバーテンダーの正しい立ち位置に戻る。それを肌で感じ取った彰は、これで漸く元の調子を取り戻せそうだな、と人知れず安堵した。
この間と同じく楊貴妃を注文してきたので、それを作って音もなく渡すと、彼は一口それを口に含んでから、彰にとっては何処までも不思議に感じてしまう質問を投げ掛けてきた。
「ねぇ、向いてない職業に就いてるってさ……どんな気分?」
静かに佇みながら、そんな謎めいた問い掛けをしてくる彼を内心では訝しみながらも、彰は流れる様な動作で後片付けをしながら、逡巡した。
「そうですね……俺の場合、手応えがあるから続けられているような、そんな気がします」
「手応え?」
「はい。俺がお酒を作ると、それを美味しいって言ってくれる人が、偶に現れるんですよね」
「うん」
「じゃあ、今度はそれ以上のもの作ってみたいな、と思うんです」
「……へぇ」
「でも、逆も然りで。料理でもお酒でも、不味い時は、人って不思議と何も言ってこないものなんです。だから、黙って飲んでる人がいたら、躍起になる。このお客様は、どちらだろうと。つまり、根本的に俺は客商売が好きなんだと思います。だから、向いてない部分が多少あっても、続けていられるってところでしょうか」
「ふぅん」
「……すいません。お喋りが過ぎましたね」
「ふふ、気にしてないよ。でも意外と饒舌なんだね、お兄さん」
仕事中は、そうでもないけど、とは言わない。今まさに、絶賛仕事中だからだ。何だか、酷く調子が狂う。彼を相手にしていると、いつもの淡々とした自分でいられなくなる。理由は定かではないが、そこに、彼が『楊貴妃』と呼ばれる所以があるのかもしれない。
もっと、話したいと思ってしまう。もっと、自分を知って欲しいと思ってしまう。さっきまで、彼の存在が面倒だと感じていたのに。これって、もしかして、既に、彼という存在に飲まれているという事なのだろうか。そう内心で弱り果てつつも焦って。彰は、それを誤魔化すように、んん、と咳払いをした。
「お兄さん、名前はなんていうの?」
「金澤といいます」
「下は?」
「……彰です」
「じゃあ、今度から彰って呼ぼうかな。ねぇ、年は幾つ?」
「二十三です。貴方は?」
「二十五。二歳差かぁ、丁度いいね」
「……なにがですか」
彼は思案するかの様に視線をカウンターに滑らせてから、口元に細く長い指先をやると。
「内緒」
そう含みを持たせて、今度は深く笑った。
「……貴方の名前は?」
こちらから客に名前を尋ねるなんて、初めての経験だった。すると、手を出して欲しいと彼が首を、ことりと傾げて促してくるので、彰は何の疑いも無く、言われた通りに右手を彼の前に差し出した。そんな無防備な姿を見せた事は、この職業に就いてから只の一度も無かったのだが、彰本人はその事実にまるで気が付かなかった。すると、その手をするりと彼に取られ、掌を表に出されてしまった。突然の接触に、彰が身体を硬直させていると、彼はその掌を、細く白く、長い指先で、す、す、と踊る様に辿っていった。
「朝比奈 遥……だから、俺の事は、遥さんって呼んで」
掌に、汗がじんわりと滲んだのが分かった。それを気取られたくなくて、彰は、遥が己の掌に名前を書き終えたところで、ぱっとその手の内から自分の手を引き抜いた。
「どうしたの?」
「あ……すみません。こそばゆくて」
「あぁ、ごめんね」
「あの……あなたは、いつもこんな風なんですか?」
「……どういう意味?」
言われている意味が本当に分からない、という顔をしている遥に、思い切り脱力して。彰はその場で重い溜息を吐いた。無自覚が、一番タチが悪い。楊貴妃、か。天然でこれだとしたら、確かに、と頷くものがあって。これは、これから本当に、この店も、自分自身も大変になるかもしれないな、とげんなりするのだった。
二日と置かずに、彼……『楊貴妃』は店にやってきた。扉を開けるなり、猫の様にしなやかな動きでカウンターまでやって来る彼に、内心ではどきりとしながら、いらっしゃいませ、と、しかし平坦に声を掛けた。彼は微笑み、それに小さく会釈を返すと、またカウンターの一番奥の席に腰を落ち着けた。
「この間は、すみませんでした」
以前にあった非礼を詫びてくる彼に胸の中で苦笑して。彰は、問題ありませんと比較的簡素な嘘をついた。すると、嘘ばっかり、と、彼は鈴を転がすように笑った。
「顔に書いてあるよ、面倒臭い奴が来たなって」
「……そんなことは」
「それも嘘。この職業に就いてて嘘下手なんて、向いてないんじゃない?お兄さん」
明らかに、おちょくられているというのが分かった。しかし、こちらもプロ。客のそれにいちいち付き合っていたら、日が暮れてしまう。これくらい流せなくては、この業界にあってプロとは言えない。けれど、だからといって客を無視をする訳にもいかないから、彰は何パターンか用意している対応の中で、一番捻くれた対応をする道を選び取った。
「俺も、そう思いますよ」
話の展開を急激に変える、相手によっては不快指数を上げかねない一手を敢えて選んだ。しかし、この彼ならきっとこれで問題ないだろうと、彰は当たりをつけていた。事実、彼は気に障ったような反応を見せなかった。これは、彰なりの人生経験に基づく推察が功を奏した結果といえる。これ以上自分を揶揄えない流れに会話を持って行こう……つまり、会話のペースを相手に握らせないようにしようと彰は目論んだのだった。意外に感じたのかもしれない。彼は、彰の話題の転換に付いて行けず、一瞬きょとんと目を丸くした。ちゃんと成人しているのだろうかと疑いたくなるくらい、その表情や雰囲気はあどけなく。豹変した彼をこの目で見ていなければ、店を追い出してしまうレベルに、幼い印象をそこに縁取っていた。
「……お兄さん、面白い人だね」
彼はまた、鈴を転がすようにして、笑った。揶揄い混じりだった態度も鳴りを潜め、客とバーテンダーの正しい立ち位置に戻る。それを肌で感じ取った彰は、これで漸く元の調子を取り戻せそうだな、と人知れず安堵した。
この間と同じく楊貴妃を注文してきたので、それを作って音もなく渡すと、彼は一口それを口に含んでから、彰にとっては何処までも不思議に感じてしまう質問を投げ掛けてきた。
「ねぇ、向いてない職業に就いてるってさ……どんな気分?」
静かに佇みながら、そんな謎めいた問い掛けをしてくる彼を内心では訝しみながらも、彰は流れる様な動作で後片付けをしながら、逡巡した。
「そうですね……俺の場合、手応えがあるから続けられているような、そんな気がします」
「手応え?」
「はい。俺がお酒を作ると、それを美味しいって言ってくれる人が、偶に現れるんですよね」
「うん」
「じゃあ、今度はそれ以上のもの作ってみたいな、と思うんです」
「……へぇ」
「でも、逆も然りで。料理でもお酒でも、不味い時は、人って不思議と何も言ってこないものなんです。だから、黙って飲んでる人がいたら、躍起になる。このお客様は、どちらだろうと。つまり、根本的に俺は客商売が好きなんだと思います。だから、向いてない部分が多少あっても、続けていられるってところでしょうか」
「ふぅん」
「……すいません。お喋りが過ぎましたね」
「ふふ、気にしてないよ。でも意外と饒舌なんだね、お兄さん」
仕事中は、そうでもないけど、とは言わない。今まさに、絶賛仕事中だからだ。何だか、酷く調子が狂う。彼を相手にしていると、いつもの淡々とした自分でいられなくなる。理由は定かではないが、そこに、彼が『楊貴妃』と呼ばれる所以があるのかもしれない。
もっと、話したいと思ってしまう。もっと、自分を知って欲しいと思ってしまう。さっきまで、彼の存在が面倒だと感じていたのに。これって、もしかして、既に、彼という存在に飲まれているという事なのだろうか。そう内心で弱り果てつつも焦って。彰は、それを誤魔化すように、んん、と咳払いをした。
「お兄さん、名前はなんていうの?」
「金澤といいます」
「下は?」
「……彰です」
「じゃあ、今度から彰って呼ぼうかな。ねぇ、年は幾つ?」
「二十三です。貴方は?」
「二十五。二歳差かぁ、丁度いいね」
「……なにがですか」
彼は思案するかの様に視線をカウンターに滑らせてから、口元に細く長い指先をやると。
「内緒」
そう含みを持たせて、今度は深く笑った。
「……貴方の名前は?」
こちらから客に名前を尋ねるなんて、初めての経験だった。すると、手を出して欲しいと彼が首を、ことりと傾げて促してくるので、彰は何の疑いも無く、言われた通りに右手を彼の前に差し出した。そんな無防備な姿を見せた事は、この職業に就いてから只の一度も無かったのだが、彰本人はその事実にまるで気が付かなかった。すると、その手をするりと彼に取られ、掌を表に出されてしまった。突然の接触に、彰が身体を硬直させていると、彼はその掌を、細く白く、長い指先で、す、す、と踊る様に辿っていった。
「朝比奈 遥……だから、俺の事は、遥さんって呼んで」
掌に、汗がじんわりと滲んだのが分かった。それを気取られたくなくて、彰は、遥が己の掌に名前を書き終えたところで、ぱっとその手の内から自分の手を引き抜いた。
「どうしたの?」
「あ……すみません。こそばゆくて」
「あぁ、ごめんね」
「あの……あなたは、いつもこんな風なんですか?」
「……どういう意味?」
言われている意味が本当に分からない、という顔をしている遥に、思い切り脱力して。彰はその場で重い溜息を吐いた。無自覚が、一番タチが悪い。楊貴妃、か。天然でこれだとしたら、確かに、と頷くものがあって。これは、これから本当に、この店も、自分自身も大変になるかもしれないな、とげんなりするのだった。
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