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第一章『楊貴妃』

第三話『ジャズピアニスト KANATA』

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「あー、その男の話なら、三年くらい前に聞いたことあんな」


昨日起きたショッキングな出来事を脳内だけで処理しきれず、日頃何かと愚痴や相談に乗ってくれる店に酒を卸しに酒屋の都築 俊也に、話題のタネの一つとして、昨日こんな客が来たんですけど、と話をしたら、都築は事も無げに、ぽろりとその男の話題を口にした。思いがけない場所から話が出た事に驚きを隠せなかった彰は、店の裏口という他に誰も人の姿が見えない場所も相まって、その男がどんな人物なのか詳しく話を聞く事にした。


「『楊貴妃』……ふざけた名前で呼ばれてたけどな。でも一度気に入られれば、極楽につれてってくれるんだと。ただし神出鬼没だし、そいつに行き着くまでも、色んな制約があるから大変。しかも相手をするのは、絶対に一晩だけ。続きは無しって事で通ってるから、タチが悪い」

「タチが悪い?」

「続きを求める男達の阿鼻叫喚だよ。だいぶ、前の店のマスターも手を焼いてたな」

「あぁ、都築さんは、その店にも卸しに行ってたんですね」

「そう。噂になって客がわさんさと来ても大変だからって、マスターに口止めされてたんだよ。でも、まさか、この店に移るとはなぁ……」


なるほど、と脳内で手を打った。通りで噂話に聡い自分の耳に入ってこないわけだ。しかし、憐憫に溢れた都築の視線が気になって、他に何か問題でもあるのかと尋ねてみると……出るわ出るわ、その男の武勇伝。傾国の美女の名を冠するだけあり、その噂話はあまりに作り話じみていた。だから彰はその現実味の無さに、都築の話を半分以上聞き流しそうになってしまった。


「結構、かち合った男同士で諍いとか起こしてたみたいだぜ?お前、面倒な奴に気に入られたなぁ……ご愁傷様」


しまいには心底から同情する、という目を寄越してくるので。彰は、いい加減げんなりとした。酒の品揃えが良いと言う理由で、厄介な相手に気に入られるとは。店の拘りが裏目に出てしまったパターンだ。そんなの自分の責任ではないのに、と雇われである己の立場を呪った。


得体の知れない物を丸ごと飲み込んだような心境になり、彰は、実際に体調不良を引き起こしてしまった。熱は無いのだが、頭と身体が酷く怠い。ふらふらと店の裏手からバックヤードに戻ると、その様子を訝しんだ皆瀬に声を掛けられた。


「なんだ、お前どうした。ふらふらじゃねぇか」

「あ、いえ……すいません。少し体調が」

「マジか。今日予約もあるから、お前いないと結構しんどいな」

「いえ、風邪とかじゃないんで、大丈夫です。ドラックストア行ってドリンク剤買ってきます」

「そうか?でも、あんまり無理すんなよ」


小さくお礼を言って頭を下げると、店の開店準備を一旦皆瀬に任せて、彰は街へと繰り出した。とはいえ、店の開店まで、まだだいぶ時間がある。無駄に心配を掛けてしまった分、皆瀬の分もドリンク剤を買って行こうと思いながら、ドラックストアの手前にある大きなCDショップの前を通り過ぎようとした、その時。聞き覚えのある旋律に、彰は、ふと、足を止めた。


店内で流れる、液晶画面に。
時に、しなやかに。
時に、荒々しく。
時に、のびのびと。
まるで、唄うようにして。
一台のピアノの上で踊る小さな指先を見て。


花に誘われた蜜蜂のように、やはりそうだ、と近寄った。周りを縁取る広告文には、こうある。天才ジャズピアニスト『KANATA』凱旋・・・と。


広告には、彼の海外での目覚しい活躍ぶりと、ベスト盤を出した記念に、凱旋ライブが行われること、また、そのライブ抽選の受付の日取りが近いことを謳った文章が羅列されていた。それを苦々しい思いで眺めながら、彰は、はぁ、と重苦しい溜め息を吐いた。


彰は、彼のその全ての情報を知っていた。こうして大々的に取り沙汰される以前から、覆面で活動する彼の大ファンだったからだ。ファン歴も長い。彼がデビューをし、活動を始めた頃からになるから、今年で丁度五年になる。バーテンダーとしての下積み時代の辛い時を支えてもくれた彼の演奏は、思い出の曲としてすぐに脳内に蘇らせる事ができた。それだけ彰は、彼の演奏を頼りに生きてきたのだ。


しかし、いま正に絶賛修行中の身である彰にとって、繁忙日であるその日を蹴って、ライブには行くことは出来ない。五年目の節目としてその日のライブの円盤を出すかもしれないとの実しやかな噂を耳にして、それだけを頼りにしている。


だが、あくまでも噂は噂。生の演奏を大切にしている彼は、一度たりともそういった円盤を出した事はないから、きっと今回だって、同様だろう。彼の性質にファンとして一定の理解を示す彰は、もう既に諦めかけていた。CDショップを出ると、彰は、いつの間にか彼のベストアルバムが入った袋を小脇に抱えていた。そうして、もう一度重苦しい溜め息を漏らして、とぼとぼとそのCDショップを後にしたのだった。


ドリンク剤を購入してから店に帰ると、早速それを店内BGMとして流した。雇われではあるけれど、店に対する貢献度が高い彰には、その音楽に対する見聞も買われており、店内BGMを自由に扱える権利を有していた。


「お前、それもう持ってるじゃん」


再生機の前に立っている彰の下に近寄って来たは、この店のオーナーである藤木だった。オーナー直々にモップを持って清掃活動をしている姿は最早見慣れた光景で、最早、彰の胸の内側には何の感慨も湧かない。藤木はモップの柄の先に手を重ねて置き、その上に顎を乗せてきょとんと不思議そうに目を丸くしながら、彰の手元を覗き込んでいる。どんな表情を乗せたとしても相も変わらず、そんじょそこらの芸能人では敵わないまでに整った顔だと、彰は思った。


「色々あって、気が付いたら買ってました」

「またか?お前それ何度目だよ」

「ライブ行けないんで。これくらい、仕方ないじゃないですか」

「無駄遣いなんじゃないの?」

「ほっといて下さい」


しっしっ、と手で振り払い作業に戻ってと促すと、藤木は、はいはい、と、再びモップを持って清掃作業に移った。雇い主であるオーナーに対して少々当たりが強いようにもぞんざいに扱っているようにも見受けられるが、この店は大変上下の風通しが良く、これくらいなら日常茶飯事として片付けられる。この店に置いて一番下っ端の彰の態度を気にも止めずに清掃作業に戻っていった藤木を横目で確認してから、彰は、アルバムのカバーの表面を、再びじっと眺めた。


この人のライブには、一回しか行った事が無いが、音楽を聴いて泣いた経験は、あれが初めてだった。バラードは胸に迫るほど切なく、アップテンポな曲は、どこまでも軽やかで。その旋律と音の波に、彰はすっかりと翻弄され、虜になった。自分が泣いていると気が付いたのは、清掃作業に移ろうとした係員が声を掛けてきた時だった。それまで彰は、その場に呆然と立ち尽くしていたのだ。あの時の衝撃は、いつまでたっても色褪せず、胸の内側の、とても取り出し易い場所にある。


「……凱旋ライブ、行きたいなぁ」


仕事人間の自分が、それさえ無ければと考えてしまうほど。彼の演奏は、彰の心を捉えて離さなかった。

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